shin-1さんの日記

○年度替りの狭間は毎日忙しいです

 間もなく平成20年度が終わり、新しい21年度が始まるのでしょうが、年度替りは何かと騒々しく、私のようなリタイア組でもそれなりの片付けと準備があって、何かと忙しいこのごろです。まず愛媛大学法文学部の非常勤講師をしているため、一年間のとりまとめとして学生たちの成績を評点して大学に送らなければなりません。今年度からその作業もコンピューター処理となったため、慣れない手つきで挑みましたが、最後は大学の先生の手助けを求めました。評点が終わりやっと一年間の仕事が終わったのもつかの間、一昨日大学から通知が来て、来年度も引続いて授業を担当する承諾書の提出を求められているのです。非常勤講師としてこの6年間授業をしてきましたので、農学部での仕事も入って、もうそろそろ潮どきだと思っていましたが、行きがかり上もう一年お付き合いをしなければならなくなりそうです。そうなるとこの時期は二つの学部のシラバスを作らなければならず、これまた忙しい日々が続きそうです。

 テレビのニュースで、昨日から税金の確定申告が始まったというニュースが流れて、俳優の高橋英樹さんが電子確定申告している姿が紹介されていました。私たちのような税に詳しくない人間にとって、年に一度のこの作業は煩わしく悩みの種です。私の場合リタイアしているので給料は入りませんが、何がしかの講演料をいただいています。講演料の殆どはその都度源泉徴収と称して10%の税金が差し引かれていて、税金を上乗せして支払うことはなく、むしろ還付金が返ってくるのです。いつも不思議に思うのですが講演料は普通講演料と旅費をまとめていただきます。講演料は10%の税金がかかるのは納得ですが、旅費にも税金がかかるのです。旅費は要った分だけ実費でいただくのですから、旅費から税金を差し引くと旅費に赤字が生じるのです。例えば松山観光港から広島宇品まで高速船で行くと往復13400円かかります。ところが支給される旅費はフェリー代の往復7000円の所もあって、税金が引かれると実態と赤字になるのです。まあリタイアすると、そんなこまごましたことにも気がつくような懐になるのです。

 私の場合、確定申告は税に詳しい友人がいてすべからく教えてくれますので大助かりです。お陰さまで手続き後は毎年還付され、嬉しいのですが残念なことに国保税がその収入に合わせて請求されるのです。まあ、税金を支払うことは市民、国民として当然の義務ですから、これも一年に一度のイベントのように考えやっています。

 古い年度が終わるにあたって私は自分の幾つかの役職から退く決断をしています。地域づくりに関する役職がかなりあるので、その幾つかから身を引くことを、既に早めに皆さんに伝えていて、それなりに後任人事が進んでいるようです。少し遅過ぎた感じもあり多少悔やんでいますが、後進に道を譲る歳になったとしみじみ思っています。組織を活性化するため自分では一生懸命やっているように思っていても、傍からみれば「早く辞めたらいいのに」とか、「あの人がいる間は・・・」なんて陰口を叩かれないうちに身を引くのが肝要だと思っています。どんな小さな組織でも長いは禁物でしょうが、私はあまりにも長く居過ぎたと反省しているのです。

 悠々自適、意の向くままに暮らすことはもっと先のことかも知れませんが、とりあえず少しばかり重い荷物の一部が肩から降りそうなのでホッとしています。

 でも人間牧場を拠点にした新しい運動体が芽吹いて、これまた新しい荷物が増えつつある姿を見ると、どうやら私は死ぬまで重い荷物を持ち続ける運命にあるのかも知れませんね。


  「年度など 関係ないと 思ってた リタイアしても 何故か年度に」

  「確定の 申告時期が やってきた 驚き落胆 交互に感じて」

  「もう一年 大学教壇 立てという 契約社員 なったみたいだ」

  「目標に していた歳に 近づいて そろそろ矛を 収める時が」

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shin-1さんの日記

○バックヤードを見ればその店が分かる

 人はそれぞれいろいろな仕事をしています。その仕事先にはバックヤードと呼ばれる場所が多かれ少なかれあるのです。35年間役場に勤めデスクワークを仕事にしていていた私にでさえも、小さいながら机やロッカーといったバックヤードがあったのです。私は元来整理整頓の下手な方です。ゆえに公民館主事をしながら町の広報を担当し月に2回発行していたころは目の回るような半端ではない忙しさでした。机の上にうずたかく積まれた書類の中から取材のメモや電話連絡のメモ、写真などを探すのは容易ではなく、次第に探す時間が長くなって、時々パニックになることさえありました。その都度要らないものを捨てて処分し、整理整頓ができたように思うのですが、またいつの間にか元の姿になってしまっていました。私は自分のの上の上の整理ができないのはてっきり仕事のせいだと思っていました。ある日のことNHKの有名なアナウンサーが自分の事務所の机の前でいる姿がテレビの画面に映し出されました。そのアナウンサーの机の上は私の机など比ではないほどにうず高く積まれていました。小さな田舎の小さなジャーナリストを自認していた私は、そのアナウンサーの机の上と自分の机の上をだぶらせながら、仕事を多くやっているからこうなるのだと、安堵をしてものでした。

 私は10年余り、自分がかかわって造ったふたみシーサイド公園という道の駅で商売をしました。その研修会で「バックヤードを見ればその店が分かる」というショッキングな話を聞きました。その方が言うのには、いくらお店をきれいにしても、裏口がちゃんと整っていないといい商売はできるはずがないというのです。思い当った私は社員にそのことを話し、自らも清掃活動をするなど色々と実践したのです。不思議なことにバックヤードをきれいにするとお客が増え売り上げも伸びるのです。そんな目でよそのお店を見てみると、流行っているお店は必ずと言ってよいほどバックヤードの整理整頓ができていました。

 自分の家でもそうだと思います。家には倉庫や車庫などがありますが、きちんと片付きている時は家族の人間関係も良いし、いい仕事ができているように思うのです。幸いわが家には片付けを専門にしているような91歳の親父がいて、息子の私が叱られるほど整理整頓や掃除をしてバックヤードを守ってくれているのです。数日前春一番が吹いて山の近くにあるわが家へも沢山の落ち葉が舞い込みました。掃除をしなければと思いつつ、出張したたのですが、昨日帰ってみると、すっかりきれいに掃除されて大助かりでした。

 私のバックヤードは書斎です。これは親父も手をつけられない部分なので、自分以外に整理整頓をすることはできません。このところの忙しさでと、また言い訳じみた話になるのですが、少し乱雑になって先日も欲しい資料を探すのに骨が折れました。

 私が若いころは見合い結婚が主流でした。そこここに若いカップルの世話をする仲人さんなどがいて、時々見知らぬ人が役場に入ってきて、用事もないのにキョロキョロして帰ってゆく風景をよく見かけました。その人は紛れもなくお目当ての人の様子を探っていたのです。ほとんど結婚が決まっていた女性の様子を探りに来て、机の上の整理整頓ができなかったことと、靴の踵を踏んで歩いている姿を見て破談になったという話を聞きました。多分その人は付けの上と靴の踵をその人のバックヤードと思ったに違いないのです。

 いつの間にか親父を頼って生きてきた自分に気づきました。こんなことを思いつつ、近々書斎の整理整頓をしたいと思う今日このごろです。




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shin-1さんの日記

○歌は世につれ世は歌につれ

 学校の音楽の授業で習った歌を除けば、私が一番先に覚えたと思われる歌は「リンゴの唄」でした。私の生まれ育った時期が戦後の混乱期で、そんなに口ずさむ歌がなかったこともあって、この歌を覚えているのかも知れません。作詞家サトウ八ローさんがこの詞を作ったのは戦時中でした。戦時下には軟弱過ぎるという理由で検閲ふかとされ、戦後になって日の目を見ました。可憐な少女の思いを赤いリンゴに託して歌う歌詞が、戦後の焼け跡の風景や戦時の重圧からの開放感とうまくマッチしたのと、敗戦によって焦燥しきった憔捽しきった国民の心を癒す楽曲と評価され、空前の大ヒットとなりました。レコードは昭和21年1月に日本コロムビアから発売され、3ヶ月で7万枚を売り尽くし、17円50銭のレコードに100円の闇値がつくほどでした。

 この当時まだリンゴは貴重品で、昭和20年12月に行われた公開ラジオ番組(NHK希望音楽会)において並木路子がこの歌を歌いながら客席に降り、籠からリンゴを配ったところ、会場がリンゴの奪い合いで大騒ぎになったというエピソードもありました。またテレビ番組などの資料映像として終戦直後の焼け跡や空爆、闇市、買い出し列車などのモノクロ映像が流れる度に、必ずと言っていいほどBGMにこの曲が流れていました。

いつだったか、川中美幸さんとそば焼酎雲海酒造提供のラジオ番組「人・歌・こころ」に出演したとき、私はこの歌をリクエストしたことがあるのです。

(歌詞掲載不可のため割愛)

私の心に残る歌はこればかりではありません。集団就職列車に乗って都会へ向かう同級生を送ったとき流れていた井沢八郎の「ああ上野駅」、18歳の時、日本を目指して北上中の愛媛県立宇和島水産高校の練習船えひめ丸の船中で聞いた吉永小百合・橋幸夫の「いつでも夢を」、高校を卒業するころに聞いた舟木一夫の「高校三年生」などなど、歌手と歌詞、それに曲が一致しないものの、自分の人生の端々に様々な歌や歌詞が蘇えり、そしてその歌を聞くと何故か自分の過ぎ越し人生が見えてくるのです。

 この歌を口ずさんだり、時には最近凝っているはーモニカで吹いたりして一人楽しんでいますが、もうそれらの歌も私の加齢そのままにナツメロとなってしまいました。先日91歳になる親父にはーモニカで軍歌を吹いて聞かせたところ、とても喜んでくれました。人それぞれ、「歌は世につれ世は歌につれ」思い出の歌はたくさんあるのです。これからも人に何と言われようと大いに記憶の中にある歌を歌いたいと思っています。

 

  「あの歌や この歌歌い 思い出す 過ぎ越し日々が 鮮やかにして」

  「若い人 俺の歌聞き キョトンする それもそのはず 歌は世につれ」

  「今朝リンゴ 食卓並び 食べながら 歌って聞かせる 妻もしみじみ」

  「幸田未来 知ってはいるが 歌えない 古くなったな 賞味期限か」 

 

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shin-1さんの日記

○第4回人づくり・地域づくりフォーラムin山口

 山口県セミナーパークは、四辻駅からほんの2キロ余りの清閑な場所にありました。はじめて訪れた施設ですがその立派なことといったら比べようがないほどです。昨晩はこの施設の宿泊棟、しかもリップ待遇で一人部屋の講師室に泊めていただきました。昨晩は交流会があ終わって部屋に帰り、ひと風呂浴びてから今日が締切の原稿を執筆していて、気がつけば午前様を回っていました。急いで寝支度をしてベットにもぐりこみましたが、5時ころに目がさめ、再びエアコンをつけて最後の仕上げを6時ころまでかかりやっと仕上げることができました。

 テレビを見ながらくつろぎ、さて今日は何を話そうか考えましたが、いインタビューダイアローグということなので、コーディネーターを担当する生涯学習・システム研究者三浦清一郎先生とはこれまでにもタッグを組んだことがあるので、下手な考え休みに似たりで、あっさり出たとこ勝負の賭けに出ることにしました。

 7時半になり朝食会場へ出かけましたが、昨晩の酒の勢いなある人、昨晩の酒にのまれた人など様々な顔をして兆勝を食べていました。今朝も夜の余韻そのままに楽しいおしゃべりをしながら島根県益田の人たちの交換は続きました。

 「地域ぐるみで、子どもの健全な育成のための環境づくりを具体的にどう進めるか」について、坂本登常磐大学教授、長尾彰防府市佐波中学校前校長、西山香代子やまぐちネットワークエコー代表、それに私を加えた4人の話を、三浦先生が軽妙に引き出し1時間30分間、楽しいおしゃべりをしました。私の話はさて置き、皆さんの話はとても楽しく深いものでした。

若松進一ブログ

 会場は満席でさすがに私も顔見知りが多く、あちかちから盛んに手を振ったり拍手をしてくれたりの応援ぶりに応えて話をしました。特に昨晩すっかりお友達になった真砂公民館の中村真理子さんと豊川公民館の石田和美さんは特別なシグナルを出してくれていたようです。それもそのはず中村さんは双海帳に昨秋来られて時・・・・・おっとつと、これは中村さんと私だけの内緒の話でした(笑い)。

 インタビューダイアローグの話の内容は、事務局の記録と生後しなかったら困りますので、ここではメモや感想を差し控えておきます。

若松進一ブログ

 前回は参加していないので知る由もありませんが、前回参加した人の話だと、今年の大会は前3回より格段に進化していたとのことです。

 私は夜の会議の予定もあって時間に遅れるといけないので早々にお暇し、タクシーを呼んでもらい四辻駅へ向かいました。この二日間お世話になった、そしてお世話していただいた赤いジャンパーのスタッフの方々が見えなくなるまで手を振って見送ってくれた姿には深い感動を覚えました。その余韻に浸り過ぎてタクシー券を紛失してしまい使うことができませんでした。(多分どこか書類の中に入れたのだろうと探しましたが、結局使うことなく家に帰り、木になるカバンを開けたら、いただいた旅費の封筒に挟んでいました。私はドジです)。

 帰りの列車もフェリーも順調で、同行していた松山市桑原まちづくりの朝山さんと船の中で色々な話をしながら帰りました。

 家に帰ってすぐに夜の会議に出かけ、快い疲れの中夜10時過ぎ帰宅となりました。


  「インタビュー 形式議論 白熱す 会場からは 拍手喝采」

  「筋書きの ない討論は面白い やる方大変 いきなり直球」

  「会場の あちらこちらで 手を振って 俺も答えて 手を振り合図」

  「引出しの 中から話題 取り出して 少し喧嘩を するよう仕組む」 

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shin-1さんの日記

○長い旅路

 昨日は伊予市双海町~今治市~山口県山口市を、車~フェリー~山陽本線と乗り継いで移動するという忙しい一日でした。幸い前日吹き荒れた春一番の風と雨も止んで、4月下旬並みの温かさで、むしろ暑過ぎるくらいの温度で、用意していたコートも車の中で留守番するというほどの大助かりでした。

 今治へは最短コースの山周りのコースを走り、10時過ぎには今治市役所の隣になる公会堂に到着して、老人クラブ連合会の研修会に出かけました。会場入り口で参加者全員に配るパンと牛乳をいただき、かなりの参加者で会場は熱気ムンムンの会場にはいり、裏手の講師控室でお茶をいただきながら開会行事の終わるのを待ちました。この日は表彰式も行われていて、予想どおり最初から10分ほど時間をして進行していました。出番の前に元県会議長の先田通夫さんが面会に来ていただき、開会式の前にもかつて一緒に仕事をしたことのある鳥生福祉部長さんの来訪挨拶に恐縮してしまいました。

 10分遅れて私の「心豊かに生きる」と題した記念講演が始まりました。さすが大勢の参加者なので、笑いのボルテージも半端ではなく、まるでお笑いびっくり箱のような雰囲気が会場を包み込みました。この日は高齢者が相手なので最初はゆっくりとした口調で話をしましたが、1時間20分の予定で仕組んだ話だけに、押した分だけの10分間延長を許してもらい、いい語り口の満足のいく話をさせてもらいました。

若松進一ブログ (今治老人会の研修会)

 講演が終わるとすぐに会場を後にして、今度は海沿いの道を松山に向かって走りました。三津浜から出るフェリーに乗るためです。この日は土曜日ということもあって道は予想したよりスムースに走れました。フェリーの出発時刻はこの時期、船がドック入りするため臨時ダイヤが組まれることが多く、これまでにも痛い目に逢っているので、前もってインターネットで調べていて、先方にはその旨伝えていますが、間に合えば一便早く乗れるかも知れないと淡い期待を抱きながら走りました。松山西警察署前の道路に差しかかった頃、沖合いにこちらに向かって走るオレンジフェリーを見つけました。ラッキーと思いながら岸壁近くの駐車場に車を止め、急いで船着場まで行きましたが、どんぴしゃりで間に合いました。

 春一番一過の瀬戸内海はまさに春の海という表現がぴったりでした。芸予諸島の島々や周防大島を横目に見ながら渦潮の流れる海峡を長閑に走り、塩の香りを存分に味わいました。この日は大広間に横になって仮眠をしたり明日予定されている討論会の調べ物をしたりしながらのんびり過ごしました。やがて周防大橋の下をくぐり、柳井港に到着しました。柳井港駅発が16時12分、②分しか乗り継ぎ時間はないのですが、走れば間に合うとばかりに走って駅に着くと、間一髪滑り込みセーフで列車に乗れたのです。

若松進一ブログ
若松進一ブログ (山陽路の穏やかな春の海を照らす夕日)

 柳井港から四辻駅まで1時間余りでしたが、車内で切符を買い求め、西に傾いた夕日を眺めながら冨海の穏やかな海をカメラに収める余裕の各駅停車鈍行列車の度を楽しみました。快速だけあって途中駅での待ち時間もなく17時26分に到着し、送ってもらったタクシーチケットを使って会場入りしました。

 既に17時30分からレストランで大交流会が始まっていて、乾杯の音頭を取る場所にこれまた段取り良く入って行きました。

 どこのあ誰がどの程度来ているのか、聞きもせず知りもせずで輪の中に入って行くと、何と島根県益田市からバス一台に乗って来られた方々が大歓迎をしてくれました。この方々の殆どは11月末に私の町や人間牧場へ研修にやってきた人たちでした。顔見知りとはいいもので、それからしばらくの間は益田の陣取った席で名刺攻めやお話し攻めにあいたじたじでした。

若松進一ブログ (楽しい交流会風景)
若松進一ブログ (どうしてこうなったのか?、いつの間にか益田市真砂の公民館長が壇上で丸で主催者のような顔をして挨拶をしていました)

 この夜はラウンジで二次会が行われ、9時ころまで楽しいおしゃべりをしました。その中心はやはりバス一台でこの大会に乗り込んだ島根県益田市のメンバーでした。私もこれらの方々が結成した活性化協議会の顧問に就任しているので懐かしい顔々と積もる話を山ほどしました。

 この大会に先立って岩国市美川町の親友岡さんから電話が入りました。岡さんは岩国市と合併をしたのを機に役場を退職して悠々自適の生活をされているようですが、腰の具合が悪いようで気分がすぐれないとのことでした。私が書いているブログを毎日見ていて、「山口県へ旅に出ます」と書いた記事を読んで電話をくれたのです。岩国市美川町から会場までは遠い道のりなので会いたいけれども会えないかも知れないとのことでした。今週も山口を再訪する予定ですが、次回はさらに遠い美祢市です。気になりながら通り過ぎるご無礼をお許しください。また暖かくなったら会いたいものです。


  「中四国 くくっているが 広いです 瀬戸内またぎ 旅を続けて」

  「親友の 気分すぐれぬ 近況を 聞きつも会えぬ 心苦しさ」

  「男時なる 幸運続き 間に合って 懇親輪中 すんなり入る」

  「覚えてる 落語の席で 眠る人 前の晩から 寝ない訳聞く」

 

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shin-1さんの日記

○春一番が吹きました

 昨日は朝から立って歩けないほどの強風が吹き、海も山も大荒れでした。前の晩テレビの画面に映し出された天気図を見て、全てが春一番の吹く条件を満たしているようだったので、強風は嫌だけど子どもがはしかをするように、春一番が吹かないと季節が変わらないものですから、ある意味期待をしていたのです。

 私は元漁師をしていて、水産高校で詳しい気象の勉強をしているのでまるで気象予報士のように天気についてはそれなりの知識を持っているつもりです。特に地元の漁師さんは「板子一枚下地獄」といわれる危険な海の上での労働を強いられるため、気象衛星のなかった昔から言い伝えで天気予知能力を磨いていたのです。「お日さまが高入りすると雨になる」「秋の夕焼け鎌を研げ」「夏の夕焼け川向う渡るな」「沖の島に雲がかかるとやまぜが強くなる」などなど、子どもの頃から古老の頃から言い伝えを沢山聞いてきました。しかし気象衛星の普及による天気予知能力が高まるにつれて、そんな昔からの言い伝えも忘れられる運命にあるのは、返す返すも残念です。私も漁師をしていた頃は十指に余る言い伝えを覚えていましたが、海の暮らしから陸の暮らしになってから、全天候の室内に仕事が変わってしまい、その殆どを忘れてしまったのです。

 春一番とは立春から春分の日の間に吹く風です。日本海で発達した低気圧から延びる寒冷前線と温暖前線の間で吹く、東南東から西南西の8m/S以上の風で、南から低気圧に向かって強い南寄りの風が吹いて温度が急に上昇するのです。その後は天気が悪くなって雨が降ったり雪に変わって、上がった気温が急激に下がったりするのです。春一番が吹くと春遠からじで、これからは三寒四温の巡りが早くなって、天気~雨を繰り返しながら次第に温度が上がって、日本列島は南から冬域を脱出するのです。

 それにしても昨日の南風は強くて、近所でも小屋が倒れたりする被害が出たようでした。幸いわが家では背後にある小山が衝立のように風を防いでくれているので、他の場所に比べれば幾分か弱いようで、何の被害も出ませんでした。こんな強い風の日は外に出るのもおっくうで、これも幸いにして昨日は久しぶりの在宅で、不安そうに強風の止むのを待つ親父とともに、積もる話をしながら過ごしました。講演原稿の校正を済ませて町内の小学校へ出かけましたが、海は山から吹き下ろす強風が海面の塩水を巻き上げていました。その風は夕方になっても一向に収まらず、川向うの山は不気味なほど唸りを上げていましたが、今朝になるとすっかり収まっているようです。

若松進一ブログ(潮煙りの立つ昨日の瀬戸内海、でも写真に写った姿はどことなく春の色のようです)

 わが家の庭の木々や野菜にはまだ春の兆しは余り見えませんが、菜園では早くもハコベがはびこり始め、草刈りの予感を思わせました。そんな中で昨年友人にいただいたブルーベリーの大きな鉢植えだけは春真っただ中で、既に芽吹いて花芽を無数につけているのです。昨秋これでもかというほど油粕をやって世話らしき世話をしていた効果が出たのか、今年も結実が期待できそうです。

 昨日近所でブルーベリー園を営む友人の所へ強風の中お邪魔しましたが、頼んでいた鉢植えも準備ができているようで、近々届けると言ってもらい今年は力を入れてブルーベリーの世話をしたいと思っています。最近は健康ブームもあってブルーベリーが偉い人気で、あちらこちらでブルーベリー園を見かけるようになりました。またブルーベリーを加工したサプリメントが目にいいと宣伝するものですから、私も妻もその気になって昨年は沢山食べました。結果や効果は知る由もありませんが、今から初夏の実成りの季節が楽しみです。春一番が吹き春はもうそこまで来ているようです。

  「春一番 大荒れ吹いて 去って行く 春はそこまで 来ているようだ」

  「木も草も 冬の眠りを 楽しんで ブルベリだけは 早いお目覚め」

  「何処となく ウキウキするよ 春一番 ♭どこかで春が♯ 思わず歌う」

  「瀬戸内も 春一番の 潮煙り 向こうに見える 島影かすみ」 

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shin-1さんの日記

○能ある鷹は爪を隠す

 私のような学歴もない生まれつきの凡人は、自分の能力の低さをいつも認識していて、高学歴な時代ですから、出会う人全てが吉川栄治の「人みなわが師」の言葉通りに人の存在を絶えず上に見て生きてきました。その結果学歴はなくても学習歴を積んで、どうにか相手をしてくれる方々と会話が通じるまでになったのです。しかし最近は横文字が多くて、昨日の会議で主催者が話す言葉の中にも横文字が限りなく使われて、能ある鷹の爪を垣間見てしまいました。私は常々人間には4つのタイプがあると思ってその人の話を聞きながら観察して見るのです。①難しい話を難しくする人、②分かり易い話を難しくする人、③難しい話を分かり易く話す人、④分かり易い話を分かり易く話す人です。私にとって苦手なタイプは①型と②型の人です。「お前たちのような低能な人間に俺の話が分かってたまるか」と言わんばかりに、相手の見境もなく相手がだれであれ話すのです。鼻もちならないその話を拒否した人たちは聞いているふりをして居眠りという対抗手段で行動に出るのですが、その事さえも無視して自己満足している人を時々見かけたりするのです。それでも難しい話を難しくするのであれば世界が違うと納得もします。でも一番困るのは分かり易い話を難しく言うタイプです。これはカモフラージュ人間と呼ぶにふさわしい人で、なり上がりものに多いようです。「能なき雀爪を出す」という言葉を作ってみました。

 私が尊敬するのは③の難しい話を分かり易く話する人です。このタイプで思い出すのは数学者秋山仁さんです。秋山先生は頭にバンダナを巻いた風変りな格好でテレビなどに登場していますが、一昨年国立大洲青少年交流の家で開いた「大人を考えるフォーラム」の講演に招きました。私が実行委員長を務めた役得をいただき随分身近な場所で出会わせてもらいました。数学者と聞いただけでアレルギーを起こしそうですが、先生は偉ぶる所が全くなく、むしろそこら辺にいるおじさんのように若者や私たちに接していただき、難しい数学を分かり易く話されました。先生はこれまで出会ったどの人よりも難しい話を分かり易く話してくれたのです。「大人を考えるフォーラム」は大成功でした。先生は最後にアコーディオンを弾いてくれました。子どもの頃から苦手だった音楽を大人になって練習し、ものの見事に克服した話は「やればできる魔法の言葉」のように若者の心に染みたのです。


 さて④の分かり易い話を分かりやすく話す人とは一体誰か、はい「それは私です」と、かくありたい願いを込めて話すようにしています。私のような人間は残念ながら難しい話は分かりません。私の風貌からして難しい話をするようなタイプだとは百人中百人が思うのです。ですから話したり司会をする度に「どうしたら参加者に理化してもらえるか」一生懸命考えられるのです。多分能ある人から見るとまどろこしくも幼稚にも感じられるのです。「能のない雀は爪の出しようがない」という格言を作ってみました。私はぬある鷹ではないから隠す爪もないのです。

 等身大でありのままに生きることを常に自分に教えてくれているのが、人間牧場にある人型パネルです。一昨年人間牧場で国土交通省主催で開いた観光カリスマ塾の折、事務局の小野さんに無理を言って作ってもらいました。写真は村上太さん、製作は加藤徹さんが担当して作ってもらいましたが、これが私の等身大への戒めとなっているのです。背伸びをしてもこの程度、化粧をしてもこの程度、あれから二年が経ちましたがこの程度なのです。でも持ったカバンと心の中に謙虚に生きながらも少しずつ知的コンテンツを蓄えてきましたが、「能ある鷹は爪を隠す」ではなく、「能なき雀ながら爪を隠す」ような人間になりたいと思うのです。


  「能もなき 子雀ゆえに 出す爪も ないかも知れぬ 爪切り切った」

  「難しい 話分からぬ 身分にて 分かり易くを 常に心得」

  「欠点を 長所に変える 芸がある これも一芸 笑い飛ばして」

  「等身大 自分のパネル 戒めの つもり時々 対話している」

 

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shin-1さんの日記

○嬉しい友人の合格発表

 昨日は春らしく黄砂による視界不良が二日間続き、洗濯ものや車のボンネットにも黄砂の痕跡が確認できました。自然とは偉いもので、遥か遠い中国黄河流域で舞い上がった砂塵が海を渡り、ジェット気流に乗って日本に降り注いでいるのです。昨日の天気予報によると穏やかな春も長続きせず、低気圧や前線が日本を通過しそうで、ひょっとしたらこれが春一番になるかも知れないそうです。その予感を感じさせるような南風が吹いて、春遠からじの印象を強く持ちました。

 祝日だった前の日、孫の発表会を松山市民会館まで見に行った妻は孫と二人で映画鑑賞に出かけ、明くる日の昨日が振り替え休日だったため孫はそのままわが家に一人で泊まりに来ていました。昨日は木曜日のため大学への出勤日です。仕事で妻が孫の面倒を見れないため私が送り届けることになり、朝ご飯を食べて出かけました。来年小学校に入学する予定の孫は、飛行機から恐竜へと変化していた趣味もすっかり様変わりし、今は虫に凝っていて、わが家に来るなり虫籠と網を持ってそこら辺を動き回っているのです。

 孫のお父さん、つまり娘婿は愛媛大学に勤めているので大学に用事があったため、孫を連れて大学へ立ち寄りました。孫はカードで裏門駐車場の入口バーが上がるのが不思議な様子でしたが、駐車場に車を止め大学本部まで二人で歩いて行きました。体震工事をしていた法文学部本館の工事もほとんど終わり、足場が外されつつありましたが、すっかりリニュアールされた外壁工事でまるで新築みたいに美しくなっていました。

 孫を玄関先のケヤキ並木の下で待たせ、本部内で用事を済ませて出てみると、孫は虫博士のような顔をして、見つけた木の根元で動く虫を追いかけていました。二人で娘婿の研究室がある棟に入り、3階までエレベーターに乗りました。研究室のドアをノックすると娘婿が二人揃っての来訪に驚いた様子で迎えてくれました。私の用事を済ませ、昨晩寝ながら孫と話したデジカメのことを話しました。孫は自分の好きな虫をカメラに収めて図鑑を作りたいので、デジカメが欲しいのです。私がデジカメを使いこなせるようになったのはつい最近の話なのに、偉そうにも未就学児の孫はもうデジカメの要求ですから、「何をたわけたことを」と思いましたが、娘婿もそのことを知っているらしく、「今度○○の時に買おう」と約束したようで、嬉しそうに大学を後にしました。再び自動的に上がる裏門ゲートバーの不思議を感じる孫を道後の家まで送り届けました。

 道後からだと愛大農学部のキャンバスまでは車で10分程で到着です。昨日は桑原公民館の方々が講演の打ち合わせでやって来たり、パソコンに接続するプリンターが運び込まれたり、突然森賀客員教授訪ねてきたり、また前日の人間牧場での公開セミナーへのお礼の電話のやり取りなど、とても忙しい一日でした。

 昨日は私がこれから関わるであろう社会人学び直しニーズ教育に応募した方々の合格発表の日でした。本館前の掲示板に合格者の番号が張り出されました。受験していた宇和島市役所の森田君と兵頭君の二人も目出度く合格したようです。番号なので掲示板で森田君と兵頭君の合格は分かりませんでしたが、先生が教えてくれました。嬉しい知らせなので早速森田君の携帯番号を地域政策センターの松本君に聞いてお祝いの言葉を言いました。二人の合格はまるで自分が合格したような嬉しさです。というのも二人はかつてえひめ地域政策研究センターへ出向して、私と一緒に活動した間柄なのです。奇しくもまた私の学生になるようですが、ともに学んで行きたいと思っています。

若松進一ブログ (愛媛大学農学部正面玄関に張り出された合格発表)
若松進一ブログ (さて森田君と兵頭君の番号は?)

 帰り際、実年の男性に出会いました。合格発表を見にきたのだそうです。聞けばこの方も合格したそうで、色々な立ち話をして再開を誓いあいました。

  「デジカメで 虫の図鑑を 作りたい 子供だいうに 何と馬鹿げて」

  「親父とは あんなものかと 傍で見る 孫は緊張 嬉し風景」

  「合格の 知らせ携帯 弾む声 仲間今度は 生徒になるか」

  「合格の 発表見入る おじさんと 言葉交わして 再開約す」


 追伸

 私が高校受験をした頃の合格発表は名前が貼り出されました。また新聞にも載りました。今は個人情報とかで受験番号のようです。私が宇和島水産高校を受験したとき、合格発表は校長先生の友人に見に行ってもらい、「若松進一さん合格」おめでとう」の祝電が届きました。今日宇和島の森田君と兵頭君の合格発表は奇しくも私が見に行き、森田君にお祝いのメールを送りました。世の中も変わったものです。

 

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shin-1さんの日記

○ミツバチの分家

 何日か前私のメールボックスに一本のメールが届きました。西予市野村町山奥組の井上登さんからでした。井上さんとは地域づくり人養成講座で知り合い、その後昨年開かれた全国大会などで親密の度合いが増し、何かにつけて積極的に参加することもあって、顔を見る機会が多いのです。ある日のことミツバチの買い方が話題となり、高知県馬路村でいただいたミツバチの巣箱の話をしたところ、「いい時期になったら分家をしてあげる」ととんとん拍子に話が進み、このところの陽気に誘われてミツバチの活動がすkし始まったので分家作業をいつにするとのメールでした。早速日程調整しましたが、井上さんの住んでいる野村町からここまでは有に2時間近くかかるため、昨日の年輪塾に井上さんも申し込んでいたので、「じゃあ午前中に作業をしましょう」と相談がまとまりました。

若松進一ブログ(蜜蝋を塗る作業をする井上登さん)
若松進一ブログ(亀本さんも手伝ってくれました)
若松進一ブログ(一個はツリーハウスの傍に設置しました)

 昨日は私が年輪塾の準備で早めに人間牧場へ上がっていましたが、井上さんから待ち合わせ場所である下灘コミュニティセンターに到着した旨の連絡を受け、迎えに下山しました。近道である隧道ルートを私の車の後についてやってきました。そして場所を一巡した後早速私のミツバチの巣を二つ取り出して、バーナーで温めながら蜜蝋を塗り始めたのです。私も下板の窮屈さを是正するためノコで小挽きして不具合を調整しました。井上さんから指示のあったコンクリートブロックは既に大洲メッセで購入していたので、地堀鍬で整地して並べました。早めに来ていた大洲の亀本さんも手伝ってくれ、巣箱の設置作業は意外と早く終わりました。井上さんは自分の持ってきたミツバチノ入った巣箱をそっと降ろして設置しました。はてさてこのミツバチの分家は上手くいくのでしょうか。

若松進一ブログ(これが井上家から分家して嫁いできたミツバチの箱入り娘です。角を隠すように覆いを被せていますが、ここからミツバチが分かれてくれることを期待しています)

 人間牧場では昨年、サツマイモで命のリレープロジェクトをやりましたが、今年はハチミツで命のリレープロジェクトをやろうとしています。井上さんは「サンデー毎日」という雑誌を持参して、宮崎県椎葉村の那須さんという日本一の養蜂家を紹介した記事を見せてくれました。ミツバチは心の優しい人でないと寄りつかないそうです。またミツバチが手にいっぱい止まっている写真を見て、「てがわぬ蜂は刺さない」とも教えてくれました。

 しばらくの間ミツバチ談義に花を咲かせましたが、下の梅林ではもう梅が満開で、ミツバチが行動範囲としている周囲2キロには蜜源があるものと思われます。雑誌で紹介された那須さんの言うとおり、せいぜい心の優しい人になりたいものです。

 昨日届いた北国からの便りだと、北国は暖冬といいながら氷点下15度だと聞きましたが、昨日は15度近く上がって春の風物詩である黄砂が観測され、人間牧場自慢の島影織りなす眺望は霞んで見えませんでした。でもミツバチが飛び交う春はもうそこまで来ているのです。

若松進一ブログ(人間牧場の梅林の花も満開となりました)

  「ミツバチの まるで輿入れ 白無垢で 眠っているか 姿も見えず」

  「その道に 秀でた人が いるものよ 手際の良さに ついつい見とれ」

  「楽しみが 一つ増えたか 牧場に 春は巡りて 蜜蜂の飛ぶ」

  「ミツバチは 心の綺麗 人好む 俺はどうなの? もうすぐ結果」

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