shin-1さんの日記

○国立大洲青少年交流の家の運営委員会がありました

 私は若いころ青年団活動に熱中しました。8年間の活動の締めくくりは、愛媛県青年団連合会長と四国四県青年団連絡協議会の会長をしましたが、その折国立大洲青年の家の誘致運動に深くかかわりました。その結果同じ四国ながら室戸とその候補地を争い、結果的には大洲に青年の家が建設されたのです。当時は骨肉の争いで、当時の文部大臣坂田道太さんの来県を促し、県知事白石春樹さんも大洲市長村上清吉さんも大層熱を入れてくれたお陰で成果を得ましたが、早いもので昭和49年に建設されてから30数年が過ぎたのです。以来私は千年の家の運営に深くかかわり、また自らも青年の家の講師になって青年の指導をしていました。

 時の流れとでもいうのでしょうか、青年の家の対象にすべき青年の力はその後急速に衰え、主たる利用者が青年から少年になったのです。数年前青年の家が独立行政法人になったのを機に名称も青年の家から青少年交流の家に改称されました。それでもこの施設を存続しなければならず、私もその片棒を担がされて運営員の末席に名を連ね、委員長まで引き受け今日に至っているのです。

 昨日はその運営委員会があり、様々な問題について短い時間ながら話し合いました。青少年交流の家の説明だと他県の青少年交流の家よりも高い利用率を誇り、屋さんや人員を削減される中で孤軍奮闘大きな成果を上げているのです。その話を聞くたびにわがことのように喜べるのです。

 大洲青少年交流の家は30年も通い続けていると、もう家族のような人たちばかりで、まるで自分の家のような雰囲気で過ごせるのです。この一年だけでも何度通ったことでしょう。所長さんは替わられましたが、新しい所長さんもアットホームな方で、次長さんともども職員の皆さんにはご厚誼をいただいているところです。

若松進一ブログ(昨日の運営委員会、委員長席に座って司会進行をさせてもらいました)

 時代の流れとでもいうのでしょうか、交流の家の運営も随分様変わりして、夜はお酒が飲めるようになりました。若いころ隠れて飲んだヒヤヒヤドキドキの思い出は忘れることができません。また食事もバイキング方式でかなりのバリエーションとボリュームです。私などは毎回食べ過ぎるのです。昨日もお昼だというのにラーメンとカレーを食べてしまいました。

 昨日は大洲市の人権教育の大会があって300人近くが利用されていて、多くの知人友人に会いました。これもこの施設ならではの大きな恩恵です。年齢的に少し青少年交流の家とは縁遠くなるような一歩下がった気持になっていますが、この施設に行くと何故か自分の体内に今やれる青春というべき不思議なパワーをいただいて帰れるのです。もう少し頑張ろうと昨日も思い、施設を後にしました。

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shin-1さんの日記

○早起きはしたものの旅先の飛行機便が心配です

 毎日夜寝る時間は12時ころ床につき、いつの間にか眠気を催し深い眠りを楽しんでいます。寝る前に今日は何時に起きようかなど考えずに寝るのですが、長年の癖とでもいうのでしょうか、あるいは加齢のせいでしょうか、朝4時という早い目覚めとなってしまうのです。「じゃああなたは差し引き4時間しか寝ていないじゃない」といわれますが、その通り私は毎日4時間しか寝ない暮らしがもう40年くらい続いているのです。「へえー、よくそんな短い睡眠で体がもちますね」と聞き返されても、これが自分の暮らしのリズムなので、別に何ともないのです。私より1時間早い11時に寝て、私より2時間遅く起きる妻は7時間睡眠タイプで、その差は3時間もあるのに、結婚以来ずっと同じ布団に並んで寝ているのです。妻がいうのには「あなたは今寝てないと将来寝不足になって、老後は必ず寝たきりになる」といわれていますが、そんなことはないと豪語して今日まで生きてきました。毎朝妻に対するモーニングコールの役目は私なのです。

 今日から4日間北海道美幌町の招きで講演に出かける予定なので、妻の強制的就寝時間厳守に遭い11時に床につきました。妻にしてみれば旅立つ夫のために少し早く起きて朝食を食べさせ、4日間も飛行場へ車を置くことは無駄だと、飛行場へ送迎すると言い張るのです。妻は同じ時間に寝ましたが私は1時間早く寝ました。早く寝ると少しリズムが狂うだろうと思いきや今朝も午前4時に目が覚めました。しかし妻が言うように昨晩は普通より1時間も長寝ができたのです。目覚まし時計の力も借りず、私の体内時計は確実に朝4時に起きるようセットされているようです。

 今日の一番の心配ごとは羽田を経由して北海道女満別へ飛行機が飛ぶかどうかが心配の種です。昨日はこちらでも春のあらしが吹き荒れました。春の嵐といっても春一番のような南風ではなく、北西の季節風なのです。昼ごろから強くなった北西の季節風は、国立大洲青少年交流の家での運営委員会が終わって帰る頃には瀬戸内の海も大荒れでした。北西の季節風が海岸国道に容赦なく吹きあげ、車のフロントガラスは真っ白に塩水がへばりつきました。夕方7時のNHK天気予報によると明日も低気圧が発達して目的地である北海道は大荒れの天気のようです。こちら四国では「春のひして(一日)西」といわれるように、春の北西の風は一日で収まるようなのです。その通り今朝は大風も止んで静かな朝を迎えました。


 はてさて、羽田までは何とかいけるのですが、そこから先は先が全く読めません、今日はあらかじめ主催者から送ってくれたいる女満別までのチケットで飛行機に搭乗する予定ですが、飛行場で足止めされることも予想され、ひょっとしたら東京泊まりになるかも知れないのです。さて今日は移動日ながら土日なので満席の場合はどうしようかと、様々な想いが頭をよぎっています。主催者からはそのことが心配で昨日も電話がかかっていて、携帯電話の番号も聞いているので、何とかなるかも知れないのです。

 ここからだと北海道は遠いです。ましてや東京から代替の交通機関も目途が立ちません。心配の種は尽きませんが、とにかく妻の力を借りてさあ出発です。

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shin-1さんの日記

○忘れていた人と覚えてくれていた人

 人間はどうやら忘れるように出来ている動物らしく、この歳になると昔のことなどといわず、昨日のことまでも忘れてしまっているのですから始末に負えません。おっと失礼、これは人間全てではなく私個人のことでした。例えば昨日の夜何を食べたかと妻に聞かれると、はてな?と首をかしげ、食べた物の全てを思い出すことができないのです。そこで妻に一言「人間は忘れるということで頭の中の掃除をして空っぽにするから、新しいことが吸収できるのだ」と、説得力のない言葉を発して威張って見せますが、まるで効き目がないのです。

 昨日講演のためにお邪魔した新居浜市大生院公民館で、講演の前に講師紹介という形で、角田さんが私との出会いについて話されました。角田さんが私と出会ったのは平成10年9月4日・5日、双海町で開かれた全国レクリェーション大会ネイチャーレクレーション分科会だそうです。偶然出くわして飛び入り参加して私から竹トンボを強引に貰って帰ったそうです。そしてそのあくる年の11年9月4日に下灘駅での夕焼けプラットホームコンサートに参加し、その日に山の上の廃屋で開かれた開かれたフロンティア塾・朱夏塾にも参加したそうです。そこで知り合った木・林・森会(大洲市柳沢」の皆さんの指導で大生院にホタル保護活動が始まり、今のほたる祭りが定着したようで、芋づるの元をただせば私との巡り合いに行きつくのだそうですが、残念ながら私は角田さんの存在を失礼ながら全く記憶していないのです。

若松進一ブログ(角田さんが作った素敵な講演会場のステージ)

 昨年11月、国立大洲青少年交流の家で開かれた青少年社会教育ボランティアの研修会で角田さんと会っているのですが、副実行委員長を務めて運営に携わり忙しくしていたためここでも角田さんの存在を認識するには至りませんでした。

 大会が終わりアッシー君をしてくれたえひめ地域政策研究センターの松本研究員と二人で帰路、長浜町白滝のもみじ祭りを見学に立ち寄りました。その折同じように別行動で紅葉見学をしていた角田さんが、私に「今回の大会は楽しかったですね。近いうちに新居浜へ講演に来ていただきませんか。お金がないので些少しかお礼ができませんが何とかならないでしょうか」と声をかけてくれたのです。私は「はいはい、私で良かったら喜んでと、別れました。

 今年に入った1月8日角田さんは私の自宅までわざわざ来られて、講演の打ち合わせを行い、昨日の感動講演会と相成ったのです。私が忘れている出来事を克明に覚えている角田さんの真摯な態度に頭が下がりましたが、私はこれからも角田さんのことを一生忘れてはいけないと心に誓った次第です。

 角田さんは青少年が大好きで、これまでにも様々な活動を展開し、これからもあんなことがしたい、こんなことがしたいと夢を語っていました。そのためには身軽く動くことをモットーにしていて、私に最初に講演依頼した足で長浜町豊茂のイルミネーションを見に行き、それがご縁でイルミネーションの電球を寄付し、交流が深まって、今晩は長浜町の川新という料理屋でフグ料理を食べながら交流するのだといっておられました。多分今頃は豊茂の皆さんとフグのひれ酒でも飲みながら楽しい交流に発展していることでしょう。

 人を覚えることは容易なことではありません。人に覚えてもらえるような人間になるのもこれまたこれまた容易なことではないのです。私の目の前に現れ、私の目の前から去り、私の記憶から消え去った人の数はどれほどあるか分かりません。もう少しスローな生き方をして、もう少しいい出会いをして、もう少し記憶に残る人間関係を築きたいと改めて自覚した一日でした。


  「覚えても ないのにあなた 覚えてる 嘘などつかず 覚えにゃならぬ」

  「十年も 前にあなたと 出会ってる 記憶辿るが 思い出せずに」

  「ああ俺も ぼけたもんだと 歳のせい してみたものの 何の効き目も」

  「記憶力 俺はいい方 自慢して これまで生きた これからは駄目」

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shin-1さんの日記

○昨日は昼食を食べるのを忘れていました

 昨日は昼過ぎから久しぶりの雨が降りました。午前中愛媛大学農学部に出勤し、シラバスを作成する作業に追われていましたが、熱中し過ぎて昼食を食べるのを忘れてしまいました。私の場合昼食を食べるのを忘れることはよくある話なので、妻はそのことが気になっているらしく、急遽勤めている歯科医院が院長さんの都合で午後急に休診になったらしく、一緒に食事でもしようと電話がかかってきましたが、あいにく舞たうんという雑誌の100号記念誌の巻頭言原稿の訂正が入り、妻からの申し出をけって昼食時間に手直しをしました。手直しといっても少し多めに書いた原稿を短くとの指示をえひめ地域政策研究センターの清水さんから受けたのです。私は原稿はどちらかというと早書きの方で、依頼を受けたら直ぐに書くよう心がけているのです。でないと仕事に追いかけられて結果的にあたふたしたことが過去何度もあったため、極力そう心がけているのです。


 私は長い文章を書くときは何点か項目を起こしてから書き始めるのですが、巻頭言などのような短文はそんなことはせず一気に書き上げるのですが、長い文章もさることながら短い文章も、舌足らずになるようで難しいものです。今回の原稿はA42枚程度ですが、それをA41枚半程度に圧縮しなければなりません。巻頭言なので写真の挿入を押さえて少しでも長い原稿にしようと、清水さんに最後まで抵抗して手直しを試みました。スリムになった原稿を見て、読者が読んだら何を言いたいのか分かりづらいと思いつつ、とりあえず手直し原稿を大学から送ってみました。はてさて清水さんの、また読者のお眼鏡に叶うかどうか少し不安ですが、何とか一件落着です。

 昨日は大学生協の若い店員さんと連絡がついて、荷物だけが届いていたプリンターの接続作業にやってきてくれました。パソコンに接続しソフトの入力作業が完了し、試し印刷をして帰って行きました。これでパソコンで文章作成ができ、Eメールも取得して送受信可能となり、しかも作成した文章がプリントアウトできて、一通りの作業が研究室でできるようになりひと安心です。

 原稿を送り、シラバスの作業が一応終わったので研究室の電源を落とし出ようとすると、内子の森本さんにローカでばったり出会いました。彼も客員準教授という称号をいただいていて、私が前回の教授会で紹介を受けたように、昨日は教授会であいさつをするため来たのだといっていました。しばらくの間再び室内に入り雑談をしましたが、彼は道の駅からりを退職してから自営の農業をしているようで、これから夏野菜の作付が始まるようで、忙しそうでした。私のように儲けない農業(農業といえるかどうか)は楽しいのですが、彼のように儲けなければならない農業は大変だとしみじみ思いました。大学も私や森本さんのような実践肌の人を活用して色々としかけているようです。その期待にこたえなければならないと森本さんと話し合いました。

若松進一ブログ

 大学を出る頃は雨もかなり強くなりました。それでも夕方は新居浜の大生院という地区公民館で開かれる感動講座に招かれているので、一般国道11号線を走って新居浜へ向かいました。西条インターの近くだと聞いてはいましたがカーナビに公民館の電話番号で入力し車が込むこともなくスイスイ走りました。

 公民館では角田さんとみゆきさんという女性の二人が出迎えてくれました。そしてみゆきさん手作りの美味しい料理をいただきました。ブロッコリーのスープも、グラタンも、焼きたてのパンもデザートもビーフも全て最高の味でした。次々と訪れる参加者と言葉を交わし、やがて講演が午後7時きっかりにスタートしました。直野さん、武田さん、関さん、加藤さん、藤田さんなどなど数えれば切りがないほど沢山の人が続々やってきて、最初は雨の影響で少なめだった会場は満席になっていました。

 角田さんの計らいで素敵な舞台設営もできて楽しく話すことができたことを感謝しています。

  「手作りと 思えぬ馳走 並べられ 昼飯食うの 忘れた分も」

  「壇上の 飾りに思う 思い入れ 熱入れ話し 恩を返した」

  「友人が 続々参加 面映ゆい 私の話 熱心聴きて」

  「文章を 縮める作業 難しい どこを削ろか 思案六歩で」

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shin-1さんの日記

○久しぶりの小野田

 昨日は小野田に行くのに、柳井港駅から乗った山陽本線の列車を徳山駅でいったん降り、山陽路の拠点の一つである徳山から新幹線に乗りました。普通は長閑な各駅停車の旅を楽しむのですが、小野田はかなり西にあって会議に間に合わないため新幹線を利用したのです。20分ほどの待ち合わせ時間でしたが、西に東に駅構内を猛スピードで通過するのぞみやひかりの早さは尋常ではなく、瞬きする間に轟音を立てて通り過ぎて行くのです。新幹線もモデルチェンジが進んでいるようで、まるでカバが走るようなユーモラスな姿の機種は姿を消し、

007の映画に出てくるような流線型の格好いいモデルに思わず持っていたカメラを向けたりするのも、旅の楽しみでしょうか。

若松進一ブログ (徳山駅を猛スピードで通過する新幹線)

 列車の待ち時間は様々な人間模様を見たり空想にふけったりするものです。私はこんな僅かな時間でもベンチに座り木になるカバンの上でハガキを書いたりしますが、この日は絵心もないのにインターネットで送られてきた担当者からのメール文の裏側に絵を描きました。ふぐの絵とフグ刺しの絵です。山口県=ふぐというイメージがそうするのでしょうか。荒書きしたところで場内アナウンスの向こうに列車が見えたので止めてしまい列車に乗り込みました。

若松進一ブログ (お粗末ながら私が書いたフグとフグ刺しの絵です)

 こだま各駅停車に乗ると新山口の次が目的地厚狭駅です。コートを脱ぎコートを着る時間もないほどの速さなので、コートを着たまま空いている列車の3号車に乗りました。正直な話厚狭駅の存在は担当者から最寄りの駅の指示があるまで余り知りませんでした。降りてみてびっくりです。新幹線駅のホームは屋根もなく、田んぼの真ん中にポツリって感じです。一便早く乗れたため添付していた地図を頼りに歩こうかと思っていましたが、運よく迎えの課長さんが早く来ていて、目と鼻の先ながら会場まで車での移動です。

 会場となる文化センターには既に沢山の人が集まっていました。用意していただいた弁当を食べながら雑談にふけり、時折訪ねて来る市長さんや関係者と名刺交換しながら控室で出番を待ちました。この日の集会は農山漁村女性の集いなので、気心の知れた会議のような気がして、「女性が輝くときまちが輝く」という演題で100分程度話しましたが、時間切れにもかかわらず質問が飛び交ったりハーモニカのリクエストがあったり、それは賑やかでしかも満席の参加者を前に、いい雰囲気で仕事をさせてもらいました。

若松進一ブログ (会場いっぱいの参加者)

 控室に漁協女性部の県の会長さんが見えられました。ここだけの話だと前置きして、「農山漁村というけれど漁村関係の話はいつも少なく、今日は楽しみにしてきました」と私にプレッシャーをかけました。「私は漁村出身なので」と話すと、「うれしい」といって会場へ去って行きました。私の話は漁村に特化したものではありませんでしたが、漁村の方々の耳にどう響いたことだろうと、少し反省しながらの帰郷となりました。

 3日前にも山口へ来ているだけに、見える町並み、出会う人々、頬を撫でる詰めてい風さえもまるで親戚のような親しみを覚えました。山口県といえば隣の県なのに海を挟んでいるためどこか遠い街のような気がしますが、私は朝な夕な沖合いに浮かぶ周防大島や平郡島、八島、大水無瀬、小水無瀬など山口県の島々を見ながら暮らしているのです。まるでルーツは一緒だと思うように・・・・・。今月末にも三度山口県を訪ねます。その時もよろしくお願いします。


  「農漁村 おばちゃんたちの 声高く 笑い転げて ホールこだます」

  「瞬きの 間に通過 新幹線 今更ながら 速い驚き」

  「ホームにて ふぐの絵を書く にわか画家 やはり凡人 俺は駄目だな」

  「俺話す 聞く人呼吸 ぴったりで 安堵しながら 再び列車」

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shin-1さんの日記

○日本は今に松の国から竹の国になるのでは?

 昨日は山口県へ行くため防予汽船のフェリーに乗って瀬戸内海を往復5時間もクルージングしました。もっとも帰りは夜だったので視界は利きませんでしたが、それでもあちらこちらに港や街の明かり見えて寒いながらロマンチックでした。特に私の町の遥か沖合いを通るとき、潮風ふれあい公園の夜間照明の明りが、ひと際明るく存在感を示していたのには驚き、少しだけ望郷の念に駆られました。

 瀬戸内海は海の銀座といわれるように、一日中大小様々な船が西に東に行き交うのですが、夜には暗い闇夜を白熱灯と青と赤の鈍い光が近付いては遠ざかって行くのです。船の運航をする人たちはこの三色の明りだけで、船の方向が分かるように訓練されていて、相手が徐けるのか自分が徐けるのか瞬時に判断し前もってその責任行動を明確にするのです。迷走にっぽん丸(日本の政治家)の航海士たちには、こんな操縦方法が分からないようなので教えてやりたいような心境です。

 夜の楽しみは灯台の灯りです。灯台の灯かりは一見同じように見えますが、色と灯りの質がちゃんと決められ、海図にはちゃんとそのことが記載されているのです。勿論昼間識別が必要な時間帯に航行する場合も、形と色が一定の法則で決められているのです。昨日通った航路で一番遠くで光っていたのは佐田岬半島の突端にある灯台でした。灯台の灯りにも一等星、二等星と同じように光の強い灯台と弱い灯台があります。概して難所と呼ばれたり航海上重要な場所の灯台は光源の光が強くなっていて、遠くまで届くのです。近くでは釣島の灯台も釣島水道といわれる難所だけに強い光を放っていました。灯台の光を見ながら何秒間暗闇があって何秒間明りがあるのか数えるだけでも、灯台を楽しむことができるのです。勿論私が水産高校の出身だからこんな楽しみ方ができるので、普通の人には知る由もない話なのです。

若松進一ブログ(周防大島の入口であり出口である周防大島大橋の近くにも、松に代わって竹藪が目立つようになりました。)

 日本の海、特に瀬戸内海は白砂青松といわれるほど白い砂浜と松の緑、そして海の青さが象徴的な場所はないと、多くの文人墨客が述べています。確かに私たちが子どもの頃はそうでした。しかし高度成長期が終わった頃から海は汚れ、砂浜は埋め立てられ、松は松くい虫の被害に遭って無残な姿となりました。かろうじて瀬戸内海汚染防止の様々な策が講じられるようになって少しは回復したものの、海は昔の姿いまいずこの感がします。

 埋め立てられた砂浜はもう元に戻りようがなく、無造作にコンクリートで固められた海岸が瀬戸内海の美観を

損ねていて、行政に深くかかわりコンクリート工事の片棒を担いできたわが身ゆえ、四笹か心がいたもうのです。それでも失った砂浜や自然を回復させて人々が海に親しめるよう最後はシーサイド公園を造ってつじつまを合わせることができ、多少安堵といったところです。

 ところで、松の緑は相変わらず枯れる運命にあって、まるで松が紅葉しているのではないかと錯覚するような姿になっているのです。子どものころ金毘羅詣りや宮島詣りの時に見た、水もないであろう海に囲まれた小さな島に、松の生えている姿に驚きを覚えた記憶と今を対比させていました。

 周防大島は沖合から見ると竹藪がやたらと目につくような気がしました。里山にはびこる竹の勢力は旺盛で、松の衰退とこれまた対比しながら、今に日本は松に代わって竹が日本全土を覆い尽くす日が来るのではないかと思ったりしたのです。それにしても「白砂青松」というけれど信号の色と同じで、砂は白ではなく黄色味も帯びていますし、松も青ではなく緑なのです。最初にい出した人は色盲ではなかったかと思うのです。黄砂緑松が正しいのでしょうが、これも例えの一つのようです。

  「松が枯れ 代わって竹が はびこって 今に日本は 竹の国なる」

  「白い砂 青い松とは これいかに 黄色い砂と 緑松正解」

  「灯台の 光見ながら 海の旅 遥か彼方に 佐田の岬が」

  「釣島の 灯台灯り 寒々の 心にほのか 温もり感じ」

  

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shin-1さんの日記

○今日は山口県へ旅に出ます

 今日は早立ちで、ブログを書いているパソコンの右下に表示された時刻を見ると今6時07分です。まるで和尚さんが毎朝のお勤めでお経を唱えるのと同じように既に一本、ブログを書き終わっているため、出発までの寸暇を惜しんで、妻の用意した軽食をつまみながらこの記事を書いています。

 今日は山口県美祢農林事務所から講演依頼があって7時前には出発しなければならないため、どこか慌ただしい雰囲気です。今日は自家用車で松山市三津浜まで行き、柳井航路のフェリーで中国路へ入ります。山陽本線と新幹線を乗り継いで厚狭まで行くと迎えの車が待っている算段です。

 妻が時々不思議がるのですが、最近は同じ県に相次いで行くことが多いようです。三日前にも山口県へ行って帰ったばかりですから当然かも知れません。旅先にいい人がいるのでは?、と詮索して欲しいのですが、「女房焼くほど旦那もてもせず」とばかりに安心して送り出してくれるのです。

 私の場合誰かの漫談師が言っているように、「呼ばれないと行けないのです」から、行き先はまさに相手次第で、悪ければ二度と呼ばれない怖い側面を持っていますが、逆にいい舞台を務めると座布団が運ばれて再訪問や近所の町村に呼ばれるのです。たったひとりの気楽な旅も、やはり呼んでくれた人の顔もあるので気を抜くことはできません。今日もその人に恥をかかさないよう一生懸命励みたいと、「気をつけて行ってらっしゃい。早く帰ってね」と妻に見送られて出発するのです。今日の帰りは同じ道を辿って帰るため多分家へ着くのは11時ころになるような気がするのです。

 「お父さんそろそろ出かける時間よ~」と居間から妻の声、行ってきます。尻切れのブログは帰ってからのお楽しみです。じゃあ。

 こう書き残して旅に出ました。新幹線と在来線、それにフェリーと自家用車を乗り継いで自宅へ帰ったのは10時半頃でした。船が港に着いた頃妻から携帯電話が入り、家に着くといつもながら温かくて美味しい家庭料理を作って待っていてくれました。最近は9時をお腹の門限と定めているのですが、今日ばかりは腹が減って寝れそうにもないし、加えてメールの処理も時間がかかりそうなので、アジの刺身、湯豆腐、焼き魚などなど、美味しそうな料理を前にして、大胆にも門限を破って大食いしてしまいました。いやあいつもながら妻の料理は美味しいです。

時々テレビの料理番組でことさら美味しそうに食べる姿を見て、「私の家ではあんなもの毎日食べてる」とないしい誇らしげに思っているのです。

 今日の出来事をブログに書き込むのはとりあえず明日に伸ばすとして、今日は長旅で幾分疲れましたのでこの程度で終わりにします。お休みなさに。

  「移動距離 宮本常一 匹敵す そんな錯覚 旅のつれづれ」

  「門限を 破ってまでも 食べたいと 妻の手料理 舌鼓打つ」

  「老い間近か 妻の心の 温かさ 湯豆腐湯気を フウフウ言いて」

  「昨日今日 寒波戻りて 寒いねね 挨拶交わし 人は集いて」 

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shin-1さんの日記

○一芸のできる人は身を助ける

 私は「無芸大食」といわれるように、何の芸当も出来ぬまま若い頃を過ごしてきました。私が若い頃にカラオケなんてものが流行し、凝った人は自分の家にカラオケのスタジオまで作り、仲間を呼び集めて主に演歌を歌って楽しんでいました。その流れは松山の飲み屋でも同じで、せっかく飲みに行ってもお互いの話が聞き取れないほどボリュームを上げたスピーカーから音が流れ、マイクを片手に得意になって歌っていました。そしておついしょ拍手とでもいうのでしょうか、時には下手くそだと思っても「上手い上手」とこれもおついしょで、拍手や言葉を送ったものでした。「今度はあんたの番だ」とせかされるのですが、残念がら18番の歌もなく、歌詞本をめくりながら、「望郷酒場」「味噌汁の唄」「昔の名前で出ています」を適当に歌ってお茶を濁していました。

 今もその流れは続いていますが、夏まつりともなるとカラオケ大会がつきもので、歌の分からない人たちが仕方なく審査員に名を連ねて座り、ビールのジョッキを片手に審査して、これまたカラオケが上手いと自負する人たちが町外からやってきて、自慢ののどを披露しトロフィーをかっさらって行くのです。私はその草創期に司会が上手いいということで司会を担当して、一度だけ役目がら出なければならなくなってみんなの前で歌ったことがありますが、司会ではあがらないのに歌で上がったことを記憶しています。

 あれから何年がたったでしょう。最近の飲み屋や飲み会もすっかり様変わりして、今はカラオケを歌う店はだんだん少なくなって、隣の席に座った仲間とお喋りをするまでに飲み屋の環境は回復して、いい酒が飲めるようになりましたが、皮肉なことに私は酒が飲めない体になったのです。

 さて私はこのまま歌を忘れたカナリヤになる運命でした。ところが息子が無造作に捨てた一本の、僅か15の穴のハーモニカのお陰で一芸を見つけ、見事に自分らしさを表現できるようになったのです。私はまるでフーテンの寅さんのように、そして旅芸人のように木になるカバンを持って相変わらず日本全国を飛び回っていますが、そのかばんの中にハーモニカを忍ばせ、講演の途中で下手くそながハーモニカを披露しているのです。私のハーモニカはカラオケと違って何の準備も要りません。アカペラと呼ぶべきかも知れませんが日本のハーモニカを使い分けて、人の迷惑など顧みず日本人の心の中に染み込むような、「赤トンボ」や「ふるさと」などを吹くのです。相手の顔触れを見て時には「ああ上野駅」や「南国土佐を後にして」なども吹きますが、みんな惜しみない拍手をしてくれるのです。時にはその拍手の多さを「アンコール」と勘違いをして悦に入って吹くのです。

 ハーモニカが吹けるようになって私も俄然集会が楽しくなりました。私がハーモニカを吹いていることを知っている仲間からは、時々リクエストがかかりますが、臆することなく挑戦しています。先日私の親友の高知県馬路村の山猿こと木下君が、マジックを披露してくれました。彼はなんにでも挑戦する積極人間で、目下のところ私の知る範囲では最も積極的な人間だと思うのです。マジックを始めてまだ一年だというのにもう村中をマジックで埋め尽くすほどの勢いです。マジックで村おこし?なんて聞いたこともないだけに、過疎で高齢化で少子化だと嘆く前に、こんな特産品?もあるのだと、他所も真似をしてほしいと思うのです。

 一芸は随分身を助けます。私もハーモニカのお陰でどれほど講演の幅ができたことか計り知れないのです。これからは人が真似のできないような一芸をしっかりとマスターする人を育成したいと、年輪塾で密かにたくらんでいます。一芸も出来ぬ人は最早不必要とばかりに迫ってみたいものです。私の友人には大酒飲みが沢山いますが、タダ酒だけを飲むと今に体を壊します。一階を披露している時間だけでも酒が休めるのも酒量を減らす妙案かも知れません。

  「ハーモニカ 吹いて一芸 披露する 疲労はするが 拍手喝采」

  「マジックを 最近始めた 友人が 友のブラジャー 脱がせ喝采」

  「マジックで 村を起こすか 面白い 特産品より よっぽど楽し」

  「ハーモニカ 新たな人が 出ぬ限り 俺の独断 ざまあ見やがれ」

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shin-1さんの日記

○ポンカンの植えかえ

 わが家の家庭菜園の隅には甘夏みかん園があり、冬だというのに沢山の実をつけて樹上完熟の日を待っています。しかしこのところの春一番の大嵐が木々を揺らせて随分落果させて、管理をしている親父をがっかりさせています。甘夏みかんは春から夏にかけてみかん類が端境期でなくなる頃なので毎年重宝して食べています。他のかんきつ類に比べて酸味が多いのが特徴ですが、これを好む人もいて毎年友人や親類に送って喜ばれているのです。わが家のように無消毒を貫くと病害虫がついて中には木が枯れるものもあり、その都度園芸店で苗木を買い求めて捕植をするのですが、先日同じ町内に住む妹から、家のそばの園地を菜園にするため購入したが、そこにはポンカンの苗木が植わっているので、欲しければ取りに来るよう連絡を受けました。連絡を受けたのが親父だったので、親父は私の休日を待って取りに行くようせがむのです。

 今日は春のような昨日の陽気と打って変って冷え込み、外は寒々として冬に逆戻りのような感じの朝でした。親父が手伝ってやるというので、親父を軽四トラックに載せ車で10分くらいの妹の家に出かけました。妹の案内で持参した鍬を持って畑に入り、5本ばかりいただくことにして早速掘り始めました。ポンカンの幼木は4~5年生で昔田んぼだった所に植えていましたが、幼木とはいいながら土の中から堀起こす作業はかなりの重労働です。ましてや普通こんな作業に馴れていない私は、フーフーいいながら作業をしました。ところがどうでしょう。91歳になる親父は毎日家庭菜園で農作業をしているだけあって、呼吸の乱れもなくせっせと周りの草を削る、堀あげて行くのです。いやあ驚きました。64歳の親父から見えれば若者のような私よりはるかに作業がはかどるのです。しみじみ思いました。人間は鍛えれば年齢なんて関係ないと・・・・。

 ポンカンの幼木を5本堀あげトラックに積み込み、畑に空いた穴を埋め戻し家に帰りました。さあこれを植えなければなりません。親父が芽吹きつつある草を削り、そこに鍬を打ち込んで穴を掘るのです。5つの穴を掘るのもむしろ親父の方が元気なようでした。私は少し遠い距離のトラックから一本ずつ運び穴の中へ差し込み、穴の調整をして埋め戻して植えて行くのです。

 すべての作業が終わったのは12時近くでした。昼食に帰ってきた妻は、早い作業に驚いた様子でした。汚れ車を洗い一王の作業を終えましたが、さ魚に夢中になっていたためお茶も飲まず一服もせずだったので、急に空腹を覚えましたが、やはり働いた後の食事は格別で、妻と二人で美味しい昼食を食べました。

 親父は昼食が済むと軽い午睡をします。私も昼食後テレビを見ているとついついウトウトして、親父と同じように約30分午睡をしてしまいましたが、炬燵に入っての午睡は気持ちいいものでした。

 さあれから忘れていた水やりです。植え替えた幼木は葉っぱが沢山あって蒸散作用が激しいため、葉っぱを枝ごと落とす作業をしなければ活着しないので、剪定ばさみで元の姿がないほど思い切って選定作業をやりました。はてさて首尾よくこの地に根付いてくれるでしょうか。将来が楽しみなポンカンに「頑張って」と言葉をかけました。


  「ポンカンの 苗木親子で 堀あげて 菜園横に 命再び」

  「驚いた 俺より凄い 働きを 九十一歳 親父軽々」

  「昼飯を 食って午睡の 掘りごたつ 毛布をそっと 妻の気配り」

  「根付いてと 穴に丁寧 植えて行く 親子二人で ただ黙々と」

  

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