shin-1さんの日記

○忘れ得ぬ2月10日という日

 私の64年の半生の中で忘れ得ぬ日は幾つもありますが、特に2001年2月10日は忘れ得ぬ日となって記憶の中にとどまって、その日が来る度に鮮明に思い出されるのです。「皆さんは2001年2月10日を覚えているでしょうか」と尋ねられても、はてさて?と首をかしげるのは当然のことです。しかし人間の脳は潜在能力の中に2001年2月10日をちゃんと覚えていて、「愛媛丸がハワイ沖で米軍潜水艦グリーンビルに衝突して沈んだ日」と少しヒントを出せば、その日の出来事が思い出されるのですから凄いものです。

 2001年2月10日、私は自分の書いた本の出版記念パーティーを開くべく、近くの特別養護老人ホーム夕凪荘の近くの田んぼで改造を飾る菜の花を摘んでいました。三抱えもあるほど摘んだ菜の花を車に積んで自宅へ帰りました。そしてあらかじめ用意していた孟宗青竹の花器に差しこんでいました。そこへ近所に住む姉悦子が息せき切ってやって来ました。「今テレビの臨時ニュースであなたの母校である宇和島水産高校の実習船えひめ丸がハワイの沖で潜水艦に衝突し沈没したようよ」というのです。私は立ち上がれないほどの衝撃を受け、直ぐに家の中に飛び込んでテレビのスイッチを入れました。テレビの画面には臨時ニュースが流れていて、詳しいことは分からずも、えひめ丸が沈没したことだけが何度も何度も伝えられていました。


 私にとってえひめ丸は特別なものです。僅か18歳の青春真っただ中の時代に、宇和島水産高校の実習船えひめ丸で珊瑚海まで遠洋航海した経験を持っているからです。私が乗船したえひめ丸は初代の船でした。214.5トンという小さな船に乗って約4ヶ月も海の上の暮らしを経験し、後の自分の人生感をも変える大きな大きな旅でした。沈んだ船は初代のえひめ丸の航跡を受け継いだ4代目の船でした。しかし船の大きさは変わっても船の構造はそんなに変わらず、記憶の中にあるえひめ丸の船内に閉じ込められて海底に沈んだえひめ丸と自分の記憶をダブらせながら何度も何度も犠牲になった9人の行方を追ったものでした。

 それから一年は学校を訪問したり、卒業生と連絡を取り合ったりしていましたが、えひめ丸の記事が新聞からテレビから消えることは殆どなく、その度に胸を締め付けられるような気持になりました。しかしその事故も人々の記憶の中から次第に遠ざかり、宇和島周辺や関係者の間では語られるものの、残念ながら今では殆ど忘れ去られているのです。

 私の方「昇る夕日でまちづくり」という本の出版記念パーティにはマスコミ関係者も多く、出席通知をいただいていたものの特別な事故だけに取材対応で急遽欠席となって少しばかりむなしい風が吹いたことも2月10日のえひめ丸事故に添えられた記憶として残っているのです。あれから8年の歳月があっという間に流れました。昨日は水産高校の慰霊碑やハワイの慰霊碑の前でしめやかな追悼の式典が行われたようですが、寂しい限りです。

 余談な話ながら、あの日知人友人に披露された自著本「昇る夕日でまちづくり」は、有名書店の片隅に並べられ、6千部の田舎では小さなベストセラーとなって話題をさらいました。今も全国各地から引き合いがきて長生きしているし、その後出版した「今やれる青春」「ミレミアム2000年その日私は」や「夕やけ徒然草・地の書・水の書」も好評を博しているのですが、そのスタートとなったのは2001年2月10日でした。

私は2001年2月10日を命のある限り忘れることはないと思います。そして新しく建造されたえひめ丸が今後もより安全に航跡を受け継いで航海してくれることを心から祈っています。

 

  「早8年 記録と記憶 薄くなる されどこの日は 死して忘れず」

  「自著本を 手に取る度に 思い出す えひめ丸船 今頃どこに」

  「寂しき日 打ち消すように 仕事する それでもどこか 心ひかかり」

  「菜の花忌 司馬さんだけじゃ ありませぬ えひめ丸事故 菜の花咲いて」


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shin-1さんの日記

○コーディネーター役は中々骨の折れる仕事です

 私は仕事柄、これまで様々な集会やシンポジウムの司会、コーディネーターなどをやってきましたが、いつも思うことは講演や講義のように一人で喋るより、司会、コーディネーターという役割が中々骨の折れる仕事だということです。最近はファシリテーターなどの横文字が登場して、司会、コーディネーター、ファシリテーターを混同しているような感も否めませんが、それらの役割はテーマに沿って会を進行し、正しい方向に導かなければならないのです。と同時に自分の意見も言わなければならないため、まるで聖徳太子のように人の意見を聞き自分の意見を述べるのですから、並みの人間ではできないのです。じゃあ「あなたは並み以上ですか」といわれたら、「はい潜水艦」、「えっ、並み以下」と答えなければならないのです。

 コーディネーターは事前準備が必要です。昨日はえひめ地域政策研究センターの依頼を受けて、はからずも「教育とまちづくり」というテークサロンのコーディネーターをさせてもらいました。コーディネーターをするにあたって、出演者であるお二人の著書である星さんの「耕す教育の時代」と草野さんの団体を紹介している「日本一の学校」という二冊の本を事前に取り寄せて読みました。そして二人の考えを頭に入れパソコンで思いつくままにレポートしました。ここまでは予備知識の習得です。

若松進一ブログ(県立美術館講堂を会場に星さんと草野さんと私の楽しい会話が繰り広げられました)
若松進一ブログ(手前が星さん、向こうが草野さんです)
 

サロントーク「耕す教育の時代」という鼎談ともいえる三人のコーディネーターをするにあたって、私は2時間の時間配分をする上で、1テーマ30分として3つの分割テーマを考えました。①これまでの教育に欠けていたもの、②これからの青少年教育、③学校の持つ意味です。このテーマについて話したいことをそれぞれの分割テーマごとに3つくらい考えて欲しいと、お二人のパネラーにメールしました。星さんからは分割テーマごとに3~4項目が出てきましたが、草野さんからは分割テーマごとのテーマは届きませんでした。私の計画がここで大きく変更を余儀なくされたのです。でも草野さんにも討議に加わってもらわなければ討議ができないのです。そこで考えたのは星さんと同じ分量の自分のおしゃべりを分割テーマごとに3項目用意し、星さんと私のサンドウィッチに草野さんのスパイスをはめ込むという、アドリブ作戦に転じることにしました。

 問題は参加者の存在です。参加者に「教育」という難しいテーマをどう理解させるか、私は前日高松へ行く列車の中から、閃いたホワイトボード利用の図式説明のために、ホワイトボードを用意して欲しいと担当の清水研究員にメールを打ちました。早速メール返信が届きOKとのことでした。

 星さんの1時間講演、草野さんの30分話題提供の話が終わり、休憩時間で会場セットされていよいよスタートです。教育とまちづくりの関係について少し経緯を述べ、ホワイトボードに書いた縦軸ポイント(星さん1935、若松1944、草野さん1951の生まれ)、横軸ポイント(星さんは山形県、草野さんは徳島県、若松は愛媛県)、円軸ポイント(星さんは内陸部、草野さんは太平洋沿岸、若松は瀬戸内海沿岸)の図表に沿ってパネラーの考えの違いを話しました。そして討議の進め方や時間配分の了解を求めてスタートしたのです。

 時には参加者を巻き込み、歌のない歌謡曲に歌をつけて歌わさなければならないのですから大変です。でもさすが星さんも草野さんも一流で、それぞれの立場の違いを鮮明にしながら話をかみ合わせてくれました。終わりの時間が気になり始めましたが、私のまとめ的発言はあえてせず、不燃人、可燃人、自燃人と残り火という話や6つのゆとり(①時間的ゆとり、②人間的ゆとり、③空間的ゆとり、④経済的ゆとり、⑤文化的ゆとり、⑥安心安全的ゆとり)を求めて人は動くことを話し、1分超過の17時01分で役目を終えまました。1分超過は許容範囲です。

 参加した人からの拍手の勢いにまずまず成功の手応えを感じ役目を終えました。昨日も長くてしんどい一日でしたが、さわやかな気持ちの幕引きでした。


若松進一ブログ(共済会館で行われた交流会も楽しい一夜でした)
若松進一ブログ(請われるままにハーモニカを熱演しました。もうすっかり地域づくりの世界ではお馴染となりました)
若松進一ブログ(いつの間にやら私のカメラに竹森さんと鹿島校長と原田校長が写っていました。三人とも私の大好きな人です。また会いましょう)

  「進め役 簡単いうけど 難しい 事前準備に 心血注ぐ」

  「話す人 客席の人 俺加え 二時間ドラマ プロデュースする」

  「二時間が あっという間に 過ぎ去りて カーテンコール 拍手も強く」

  「もう嫌だ こんなにきつい 役割は 終わってみれば 快感あって」


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