shin-1さんの日記

○久しぶりの畑仕事

 年末年始ということもあり、風邪をひいて以来外に出ることも殆どなく暮らしていたので、今日は久しぶりに外へ出ました。今日は戸外も少し暖かく感じられるようなので、運動不足を解消するため、久しぶりに草削りで裏の庭や畑の草を削りました。わが家は家庭菜園を含めると660坪と普通の家庭では考えられないほど広いので、草が年中青々と生えてきます。そのため90歳になる親父はどちらかといえば草引きについているようなもので、年中雨の日以外はほとんど毎日草を抜いているのです。

 妻が仕事に出て家にいないことをいいことに小一時間作業をしました。少し汗をかくくらいでしたが、そろそろ妻が帰る時間なので何事もなかったように作業を止めました。そして畑の中へ入り、カリフラワーと大根、カブ、チンゲンサイを引き抜いて、近所2から軒におすそ分けをしました。今日は丁度七草粥の日に当たるため皆さん喜んでくれて良かったと思います。

 わが家は今晩は七草粥の予定でしたが、刺身のいいのが手に入ったとかで急きょご飯となりました。ほうれん草の合えものやブリ大根と中々の取り合わせです。私が余り肉を食べないためわが家はもっぱら野菜と魚を中心にした食事が主流ですが、おかげ様でこの五年あまり55キロから56キロの体型を維持しているのです。

 やはり体を動かすと食事が美味しく、知らぬ妻は「お父さん今日はずいぶん食が進むのね」と褒めてくれました。知らぬが仏です。食べながら「ほうれん草も玉ねぎのスライスも二年ぶりだ。だって今年に入って初めてだから」とおどけて見せ大笑いです。朝顔を洗うとき気がついたのですが、風邪をひいて病み上がりになったせいでしょうか、体が少し痩せたような気がしますし、顔も少し青白くなったようです。それもそのはず、先日双海帳のシンボル本尊山に登った以外は外に出て太陽に当たっていないのですから・・・。

 夕方大学生が二人我が家に訪ねてきました。学生は一緒に飯でも食べようと思ったのでしょうが、あいにく妻が出かけるところだったし、引き止めることもできず帰って行きました。私が教えている法文学部の授業では今年一年の学習成果物としてレポート提出を義務付けていて、その提出日が1月10日必着なのです。学生がどんなれポトを書いているか興味がありますが、1月10日の締め切り日まで封を切らず、みんなのが届いたのを見計らっていっせいに開封して読もうと思っています。1月19日には今年度最後の授業である発表会が予定されています。「目指せグランプリ1万円」とテーマをつけているこの発表会で一番になったグループには私の財布から一万円のポケットマネーが学生たちに贈られることになっているのです。これはもう6年間もやっていることなので、学生たちも楽しみにしているようです。学生に美味しいみかんを渡して帰ってもらいましたがちょっぴり心残りな一日でした。

  「久し振り 畑に出でて 草削る 少しいい汗 少し元気に」

  「大根と チンゲンサイと カリフラワー チャイムを鳴らし おすそ分けする」

  「土の中 春の準備か 根が伸びて ミミズもひょいと 顔出し潜る」

  「夕方に 小雨ポロポロ 降りだして まるで雨乞い 私の仕事」 

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shin-1さんの日記

○「まだ生きてるご安心を」という年賀状が届く

 正月が明けても相変わらず私の元へは毎日のように年賀状が届いています。「出した人」「出さな人」を頭の中で分類しながら、「出さなかっただろうなあ」と思う人に残りの年賀状を書いて出すのですが、パソコンが主流になってしまうと、全て機械的で早いものの出した人と出さなかった人の記憶があいまいで、結局はリストアップされたデーターをもとにチェックする暇すらなく、年に一度の恒例行事として片付けられてしまうのです。

 今年私は600枚の年賀状を出しました。しかし私の元に届いたのは驚くなかれ約1000枚なのです。退職したら年賀状からも解放されたいと思って、一年目には断腸の思いで400枚に減らしたものの、いつの間にか3年半前の現職時代に戻ってしまったのです。

 でも年に一度のやり取りながら、年賀状はやはり唯一一年に一回の近況を知る上で貴重な存在になってきました。特に私のような年齢になると、先輩と称する人たちの消息は気になるのです。ある公民館時代に世話になった90歳の方から「まだ生きてるご安心を」などと、思わず笑ってしまえるような一枚が届きました。この人の昨年の年賀状は「まだ死ねぬこれから先が楽しみだ」でした。1000枚の年賀状の中からナンバーワンを選べと言われたら私は真っ先にこの年賀状を選ぶでしょう。人間は生きている限り自己主張をしなければなりません。その意味でもこの先輩のウイットはもうそろそろ私も見習いたいものだと思っています。

 今年の特徴は、私たち同年代のかつて酒も飲み遊びもやり、仕事にも一緒に燃えた仲間から「退職しました」「間もなく退職します」「後が残り少なくなりました」という年賀状が沢山届きました。「一歩前行くあなたを見習って私も夢だった晴耕雨読の暮らしを始めます」というのには公務員の方々が多いだけに少し疑問の首をかしげました。例えば来年4月からは自由人になれば自由は確保されますが給料は出ないのです。多分来年の4月以降になって初めてそのことに気づくのでしょうが、まるで決まったように何の苦労もなく頂いていた給料の有難さは計り知れないものです。世の中が不景気といいながら公務員には天下りや再就職先の打診がありますが、その第二の人生といわれる職場でも、これまでのような権力も財力も殆どないことも承知しておかないと、こんなはずではないギャップに苦しむことになるのです。

 さて晴耕雨読という言葉はとても響きのいい言葉です。でも晴れた日に耕せるか、雨の日にどんな本を読むのか、これまた心得ておかなければなりません。パチンコやゴルフや温泉三昧にうつつを抜かす同年代の人を見ながらやはり60代を楽しく生きようと思えば50代にどんな生き方をし、どんな将来像を描いているのかが問われるのです。

 幸い私はそんなモデルのような生き方をしているつもりで今を生きています。情報もあり余るくらい受信して適当に発信もしています。質素ながら暮らしの基本である経済も安定しています。若年から老年までバラエティに富んだ年齢層の人たちと交流もあります。適当に全国を旅をして適当にリフレッシュしています。交流の拠点である人間牧場も新しいアイディアが次々生まれています。基本となる家族も仲良く元気です。こう書けば「まあ幸せそうで羨ましい」といわれますが、幸せは幸せと感じる心、幸せとは与えられるものでなく努力して得るものと心して今日も「さあこれからだ私の人生」と胸を張って生きている私です。

  「千枚の ハガキの中で ダントツは 『まだ生きてる ご安心』でした」

  「そんな歳 なったかあの人 思い出し 晴耕雨読の 言葉気になる」

  「一歩先 サンデー毎日 生きる俺 文句があるか しっかり生きろ」

  「お父さん あんたも契約 社員だね 大学辞令 いつかは切られる」

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shin-1さんの日記

○夕日徒然草・水の書原稿仕上がる

  夕日徒然草地の書を出版したのは今から一年前の11月でした。地の書はこれまで書きたかったことがいっぱいあってリストアップされたテーマの中から選ぶのに一苦労したことを覚えています。ところが次号水の書出版の目標としていた11月になっても、忙しくて全く手をつけることもできずにいました。でもマニュフェストを公言する私としては公約違反のそしりを免れないように12月に入って書き始めたのです。私は序走は遅いものの書き始めたら案外早いので、この分なら30話の完成も印刷も年内にできるだろうと鷹を喰っていました。ところが風邪をひくという思わぬ障害に合い、結局完成したのは年も明けた昨日になってしまったのです。

 水の書だから水にちなんだ話をと最初は意気込んでいましたが、落伍のネタ話も載せなければならないし、地の書を元にやった落伍ライブの席上で参加者の皆さんからいただいたそれぞれのテーマも書き加え結局は雑学になってしまいました。

 主な内容は、PTAとかけて何と解く/IQ人間とEQ人間/屋台と西洋料理/次男からは産めない/水戸黄門のテーマソング/大仏と鯨の喧嘩/知らないのに知ったふり/うどんの花が見てみたい/天国へ行ったみたい/お金の井戸と知恵の井戸/時間の長さは皆同じ/小さなやかんは直ぐたぎる/根も葉もない話/孫の存在/芋の思い出/サバはいらんかな~/金の卵/自慢話と噂話/人の前で話をするコツ/結婚披露宴の司会/アイディアの泉/病院から焼き場へ直行便/もう点くぞ/ああ定年/塾/だんだん大きくなる話/リンキャベ/産めよ増やせよ/平凡な非凡/東大の卒業証書で牛は動かぬ、などなどです。

 これからこの書き上がった原稿はCDに入れて年輪塾清水塾頭に近日中に送られ、校正を経て若者たちで作っている会社に運ばれ、製本作業となるのです。

 一冊60ページほどの小さな本ながら五年間で5冊の本を出し、出来上がれば150話を落伍で話すという話芸と高座本をセットにした初めての試みは、初期投資の資金回収を自転車操業で回すというこれまた経済の回遊も目論んでいます。とりあえず地の書は珍しさも手伝ってそれなりの成果を収めることができました。さあこれからが正念場です。これから一年水の書をひっさげて落伍ライブの話芸にも磨きをかけたいものです。さて次号はいよいよ核心部分に触れる火の書へのチャレンジです。大まかな目標を来年1月と定めて頑張らないで頑張ります。移動落伍もやりますので是非ご用命ください。


  「体調が いまいち優れぬ この身にて 書いた文章 いまいち優れず」

  「商品は 売れてなんぼの 世界にて 商魂生かし 儲け話に」

  「書き終わる 早くも次の 夢語る だから楽しく 生きていられる」

  「退職を 間近に控え ハガキ来る 晴耕雨読 誰もが書くが?」

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shin-1さんの日記

○妻に叱られて

 昨晩、妻とちょっとした言い争いをしました。「夫婦喧嘩など犬も食わぬわ。どうぞ勝手にやって」といわれそうです。でも猿でもできる反省をちょっぴりしました。

 昨日は風邪気味のため一日家にいるよう妻に勧められましたが、農学部への出勤日でもあるし、官公庁の仕事始めでもあるので、「大学へ出勤簿を押しに行くだけ」と言って午前9時に家を出ました。妻も昨日から初仕事で、しかも夜まで続くことをいいことに、大学で仕事を続けたのです。大学の与えられている研究室はエアコンを28度に設定しているものの、温かい温度は頭の上を空回りして中々床あたりには降りて来ないのです。それでも昼食を食べることも忘れて、持ち込んだパソコンで4時ころまで仕事をしました。途中辞令交付や担当の小田先生の研究室にお邪魔したりして、結構充実した半日を過ごしたのです。

 帰り際車の中で携帯電話が鳴りました。発信を見ると妻からです。「お父さん今どこにいるの?」、「うん、今は帰る途中」で電話を切ったのです。家に帰っても妻は仕事からまだ帰っていませんでした。書斎のストーブを付けて持ち帰ったパソコンをつなぎかえ、メールの処理に追われていると妻が帰宅しました。

 妻は忙しい仕事の合間を縫って、長浜まで走り無くなった私の風邪薬を貰いにいってくれたようです。年末からこの方一向に直らない私の風邪を心配しての行動だったのでしょう。「あなたは入院して両手両足を動かないようにしないと動きまわる。お医者さんが言うように風邪は薬を飲んで寝ることが一番だから、もう少し寝てください。お父さんは自分では分らないかも知らないけど疲れが出ている。」「暇さえあれば書斎でパソコンに向かっているのも体に悪いから時間制限してください」「死んでもいいの」とまるで脅迫するように目に涙をためて迫ってくるのです。私は「金・飯・うるさい」くらいしか妻とは会話をしませんが、これほど真剣に叱られたのは初めてで、「私がこれほどあなたの体のことを心配しているのあなたは・・・」の殺し文句に、「分かった分かった」で幕引きしました。

 結局そんなことがあったものですから昨晩は早目に風呂に入り、妻の用意した風邪薬を飲んで早目に床につきましたが、生活のリズムなどそんなに変えられるはずがなく、今朝は早く目がさめ、布団から抜け出すと叱られるので布団の中で眠れぬ朝を迎えたという訳です。

 今朝妻は「くれぐれも外には出ず寝ているように」と言い残して仕事に出かけました。妻のいないことをいいことに、書斎でパソコンを打っているのです。世界中で一番私のことを気遣ってくれるのは妻です。昭和46年に結婚以来約40年近くも一緒の屋根の下で暮らしているのですから、お互いの長所や欠点も分かっていて、手の出しよう引きよう、心の動きなどまさに手に取るように分かるのです。勿論妻もそれは一緒で、だましたつもりが裏をかかれて大恥をかいたことも何度かありました。でも夫婦とはこんなものなんだと思いつつ、涙を流して叱られた嬉しさをかみしめながら、私の健康は妻の心の健康の第一歩であることも肝に銘じたのです。

 「今日は気分も随分良いのでそうだあれをしようか」と思ったのですが、妻の昨晩の顔が浮かんで「今日はじっとしていよう」と思っているのです。


  「目に涙 死んでもいいのと 叱られた 反省しきり 今日だけじっと」

  「嬉しいね こんなに俺の こと想い 隣町まで 薬を取りに」

  「結ばれて 早くも四十 年が来る まるでスルメだ 味ある夫婦」

  「嘘ばかり ついても嘘は ばれている レントゲンでも 写らぬものを」

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shin-1さんの日記

○私ごときが愛媛大学客員教授に選任される

 これは嬉しいことなのかどうかも分からぬまま、今日愛媛大学農学部長室で「愛媛大学客員教授の称号を授与する」という一枚の辞令をいただきました。これまでにも様々な辞令はいただきましたが、こんな学術的な辞令は後にも先にもなく、戸惑うばかりです。

 今日は新しい年も明けて、先月からの打ち合わせ通り月曜日と木曜日の週二回、農学部に出勤する予定なので今日はその月曜日とあって大学に出かけました。パソコンの調整がまだということでしたので、自分のパソコンを外して持ち込みました。すると鍵のかかっているはずの私の部屋のカギが開いていて、中で二人の職員さんがパソコンの調整をしていました。「留守中にすみません」と軽く会釈をして仕事を続けていましたが、そのうち終わって帰られました。

 

風邪気味なのでエアコンを28度に設定してスイッチを入れ、パソコンにスイッチを入れました。毎日使っているものとは随分勝手が違うのでまだ使いこなすまでには少し時間がかかるようですが、ここのパソコンではメールの発受信と文章作成ができればいいくらいにしか考えていないので、とりあえず第一関門突破です。

 持参したパソコンで打ち残した資料を片付け始めましたが、今日は弁当も持参せず、お茶も用意せず、食べるところも分からないとあって、昼飯抜きで仕事をしていると学内専用電話が鳴って事務局から学部長もいるので、これから辞令交付式をするから学部長室まで降りてきてほしいといわれました。

 学部長さんからこの話が舞い込んだのはもう1年も前のことでした。新しい仕事に力を貸してほしいとのことでした。その後音信不通が続きましたが、昨年夕日サミットで島根へ出かけている出先へ電話がかかり、早急に履歴書と業績調書を送れといわれました。履歴書も業績調書もこのところほとんど書いたことがないだけにうろたえました。だって学術的業績等調書に書くほどないのです。でも事務方とのやり取りで私の行政業績やまちづくり業績なら山ほどあることを知り一応提出をしました。しかし審査委員会の議を経て認められなければならないのです。

若松進一ブログ(泉農学部長さんから客員教授の称号辞令をいただきました)

 

結果的には12月19日付で辞令は発令されたようですが、はてさて客員教授というある意味偽物の皮をかぶった私が期待に添えるよう本物になりうるか、いよいよ正念場といったところなのです。

 妻から携帯が入りました。「すぐに帰るからと言って出かけたはずだのに心配になって」ということでした。4時過ぎ体調も優れないことから早々に大学をお暇しました。

 「今年は今までのように頑張らない。悠々自適で」と思っていた矢先の一枚の辞令に再び「頑張らないと」とエンジンがかかり始めました。はてさて頑張るという右か頑張らないという左か、どっちの道を行くべきか、迷っています。


  「聞き慣れぬ 客員教授と いう称号 与えられても 中身変わらず」

  「頑張るまい 思っていたのに 頑張れと 辞令が俺の 背中を押して」

  「これからは 人のためにぞ なりぬれろ いろはにほへと 鍛えなおして」

  「おもしろき こともな世と 思ってた 大学次第 面白なりぬ」

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shin-1さんの日記

○ふるさとのシンボル名山初登り

 年末年始にかけて吹き荒れた北西の季節風もどこかに去り、昨日は久しぶりに風のない絶好の天気になりました。毎年新春三が日のいずれかの日に双海町のシンボルである本尊山に登山するのですが、今年は年末にひいた風邪が長引き、妻の反対もあってできていませんでした。妻が所要で家を留守にしたことをいいことに、お墓参りが終わった昼前から一念発起して本尊山に登ることにしました。病み上がりなので決して無理をせず、苦しくなったら途中でやめようと思って徒歩で上灘川沿いの道を歩きました。本尊山の登山口は天一稲荷神社です。鳥居をくぐり、予讃線の鉄道をまたいでいよいよ登山開始です。道沿いの畑はどこも荒れ放題で、特にイノシシの被害が激しいため二重に囲いをしていても入ってくるので防ぎようがないのだと地元の人は嘆いているようです。

 やがて苦竹の林の中に入りました。周囲は全く視界が利かないほど昼なお暗い雰囲気です。でも登山愛好者もいるので踏みつけ道が頂上へと続いていました。やがて幾つかの武者返しとも思える郭の跡を息せき切って登り、やっと鳥居や地元の共同アンテナの立っている小高い所へ出ました。ここからの眺めは最高で、西瀬戸の海や双海町上灘の市街地が殆ど見渡せます。特にこの日はパラグライダーが牛の峰から何機も飛び立っていて、普通は見上げる空に舞うパラグライダーを見るのですが、この日は自分の目の位置が高い場所にあるため眼下に見えるのです。

若松進一ブログ (9合目付近から見える西瀬戸に胸を広げたような双海町上灘の市街地)
若松進一ブログ (美しいシーサイド公園の眺望、パラグライダーも数機上空を長閑に飛んでいました)

 ここで数枚見晴らしを写真に収め再び頂上を目指しました。9合目と思われるここからの道は険しく、周りの木々に掴まって一歩一歩慎重に登りました。足元にはクヌギやコナラの落葉が積み重なり、少し気を緩めると滑るのです。やっとの思いで頂上にたどり着きました。頂上の水仙の花のつぼみはまだ固く閉じたままでした。

 頂上には大きな石が二つあるのですが、これが頂上だとすると2~3メートルは高いのかも知れませんが、登山愛好者かけたと思われる名盤には「本尊山128m」と明記しているのです。傍に国土地理院が設置している三角点がありました。

若松進一ブログ

 頂上からは県庁所在地松山の市街地や広島・山口の島々も一望でき最高の眺望です。こんな眺めを体感しているためか、日本全国旅をしてもこれに叶う場所はないと密かに思ったりするのです。かつてはこの頂上にも中世の城郭由並本尊城というお城があって、今も自分の足元に積んでいる石垣はその当時のままなのです。

若松進一ブログ

 目を転じれば、眼下には上灘中学校やわが家の全景がまるで上空写真を見利用な姿で手に取るように見えました。

若松進一ブログ(上灘中学校の全景)
若松進一ブログ(わが家の全景)

 再び元の道を下りましたが、風邪の症状があったものの何とか目的を果たすことができました。まもなく帰った妻に「病み上がりなのにまた無茶をして」と文句を言われましたが、昨晩は登山の疲れもあって随分とゆっくり休むことができて、何故か体が軽くなったような雰囲気です。今日はこれから大学に出勤して少し仕事を始めようかと思っています。少なくともマイペースで・・・・。

 

  「また無茶を したという妻 気にもせず 登山疲れの 体休める」

  「登り来て つわものどもの 夢の跡 風の音にも 耳を傾け」

  「転じれば パラグライダー 二機三機 長閑に飛んで 散飛楽しむ」

  「あの家に わが家族住む なるほどと 見れば米粒 父の姿も」

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shin-1さんの日記

○お墓参り

私たちの地方では、1月4日に家族がそろってお墓参りに行く風習があります。この日は帰省人も帰り私たちだけのお墓参りとなりました。お墓に供える餅と干し柿を小切りして小さなお盆に半紙を敷いて用意します。あとは線香と小みかんを持って出かけるのです。まずわが家のお墓に行きました。既に何人かがお参りをしてくれていて、線香が何本か立っていました。わが家の墓地は元々出身地の下灘いわし山という所にあるのですが、親父の希望でこちらに移して既に20年近くが経っています。お墓の敷地の周りは父の兄弟の墓地があり、まだ最近できたばかりなので新仏が入っていないためお参りはせず、近所にある姉の家のお墓にお参りしました。

若松進一ブログ

 ここらあたりの墓地はどこも海の見える小高い所にあって、正月三が日中吹き荒れた海も、今日は穏やかに凪いで、山口県や広島県の島々まで遠望できるほど澄み切っていました。死ねば無に帰るのでこの風景など知る由もありませんが、死ねばこの墓地から毎日大好きなこの風景が見えるのです。

若松進一ブログ


 わが家は私で4代目、本家故親類がとてつもなく多いのです。選挙に出る訳でもないので身内の多いのは煩わしい部分もありますが、この歳になるとそれも割り切って毎年恒例でお参りするお墓を坂道を上ったり下ったりしながら役目を果たしました。

 下灘の墓地事情も少しずつ変わって、これまで主流だったいわし山は車道がないためお参りに不便なことから、次第に敬遠されて、新しい墓地が次々できているようでした。しかも一生に一度のことなので皆さん金に糸目をつけずいずれも立派なお墓は目を見はるばかりです。

 新春恒例のお墓参りは色々な懐かしい人にも出会います。今日も何十年振りかの人にも出会いました。また歴板とでもいうべきその家の過去帳を読んでみれば、何年に何歳で死んだということが一目瞭然です。子どものころ故、あのおばあさんはと思っていた人が70歳くらいで亡くなっているのを読んで、「ああ俺ももうそんな歳か」などとため息が漏れるのです。


 人は確実に歳をとります。今日お墓で出会った人たちは、私が下灘という漁村で育ったころ見慣れた人たちでした。上名田に居を移し、仕事も変わったこともあって出会う機会が極端に少なくなりましたが、30年の時の流れは人を確実に老化させていました。勿論私の姿も老化して映ったに違いないのです。いかんともし難い老化の坂道をいかに緩やかにするか、考えさせられた一日でした。

 帰り際妻がポツリ、「みんな歳をとったねえ」でした。


  「死んだなら こんな景色を いつも見て 暮らせる嬉し いい墓地ゲット」

  「お互いに 歳をとったと 慰めて 去りゆく友の 何処か寂しく」

  「歴板の 刻みし戒名 死んだ歳 読みつつはるか 昔を思う」

  「四代も 前の先祖は 顔知らず 何故かその前 覚えています」

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shin-1さんの日記

○今年も見事外れてしまいました

 「お父さん、一億円当たったらどうしよう」「一億円当たったら何でも好きな望みをかなえてあげる」などと甘い言葉で私を誘い、毎年夏と冬に2回宝くじを買い求める妻ですが、今年も残念ながらその夢ははかなくも破れてしまったようです。これまで宝くじを買ったことののない現実主義派の私から考えると「あんな無駄なことはしない方がいい」というのですが、一向に止める気配がないのです。「まあいいじゃないの、ささやかな庶民の夢だから」と夢に破れてもまtリベンジを誓って買う姿を見ると、「あれは死ぬまで治らない」と思うのです。それでも妻はささやかで1回10枚以上は買いません。でも一枚300円だとするしても年2回ですから6000円の投資です。「もし私に年6000円の投資をしてくれたら倍にしてやる」といいつつも、長年連れ添って中身の知れた私には投資をせず、宝くじに投資をする妻の気持ちも分かるような気もするのです。


 宝くじはフグに当たるより難しいといわれるように、確率は米俵の中の米粒一粒しか当たらないのだそうです。だとしたら妻などに当たる訳がなく、「もうそろそろ辞めた方がいい」というのですが、妻は「もうそろそろ当たる順番が来そうな予感がする」と今度は霊感商法のようです。

 しかし妻が言うように世の中には一瞬で億万長者になる人だっているのですから、妻もひょっとしたらと思うのは当然かも知れません。あるテレビの番組で宝くじの特集をしていましたが、当たった人の暮らしはそれまでとは一変するそうです。結果的に宝くじに当たった人は幸せになっていない人が多いのも事実のようです。

 まあ私のように「お金は額に汗して稼ぐお金が一番」を貫いていれば、稼ぎにも身が入るというものです。

 一昨晩息子3人が久しぶりに帰省して揃いました。長男は設計事務所に勤めてある意味好景気や不況に左右される仕事ゆえ、ボーナスも毎年違います。そこへ行くと看護師として病院に勤める次男も警察官として公務員生活をしている三男もある意味安定してボーナスが支給されます。3人がボーナスについて何やら話していたようですが、長男の妻の言い分が面白いと思いました。「わが家は不安定、でも暮らしを設計さえすれば大丈夫、要は入る以上に使わないことね」だそうです。金融広報アドバイザーをしている私が口を挟む余地はありませんでした。経済は考えてみれば+と-ですから簡単です。貯めてから使うと+、使ってから補給をすると-の経済が働きます。今はキャッシュレス時代ですから手元にお金がなくてもカード一つで簡単に暮らしができます。でもそれが借金であることの認識はしっかりしておくことが大切です。

 先日敵前視察とでもいうのでしょうか、公害のパチンコ店に入って驚きました。外から見えないようになっている店内には女性専用の席が設けられ、若い女性が一心にパチンコ台に熱中しているのです。この人の子どもは?、この人のパチンコ資金は?などなど考えさせられることが多くありました。

 

  「今年また ものの見事に 当たらずに リベンジ誓う 妻の悔しさ」

  「そんなもの 当たるものかと 馬鹿にする 多分当たらぬ ひょっとするかも」

  「ボーナスの 額が多いか 少ないか 要は使わぬ 気持ちがあれば」

  「あの女性 資金捻出 どうしてる パチンコ通う 女性増えたね」 


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shin-1さんの日記

○懐かしき人からのメールが届く

正月休みも無事終わって、第一陣の長男家族が夕食を食べて松山の家へ帰って行きました。孫とは不思議なもので家にくればきったでうるさいものの、帰るとどこか寂しく、まるで灯が消えたようです。今回は私の体調が思わしくなかったため孫と遊んでやることもできずちょっぴり残念でしたがが、私の顔を見ると大泣きしていたのに、今では暇さえあればローカの突き当りの私の部屋へやってきてちょっかいを出すのです。歩く足取りもしっかりして、散歩をせがまれましたが、残念かな今回だけはお相手ができなかったようです。

若松進一ブログ (すっかり逞しくなった孫希心君、1年と4カ月です)

 今年は5月に下の子どもが生まれる予定でいよいよお兄ちゃんです。私も今年の出産頃は孫の世話にも少しかからなければならないと腹をくくっているところです。

 正月から早くも仕事のメールが舞い込んで、今年もどうやらい忙しくなりそうです。私の友人に大分県大山町の緒方英雄さんがいます。私が教育委員会で駆け出しのころ、既に大山町では梅栗運動などを興し全国にその名を知らしめていました。大山町や緒方さんは遠い一億光年も彼方の星のように見えました。その後様々な付き合いを通じて日本の地域づくりの世界では一番気が合い長い付き合いの人となりました。先日伊方町で開かれた全国地域づくり団体交流の分科会できしくも同じ席に座って特産品や地域づくりについて熱っぽく語ったものです。

緒方さんは体調を崩していて松葉づえでの会場入りでしたが、年末に今春1月21日に大分県大分市で開かれる里の駅ネットワークの研修会に講師で来てほしいと招かれ、1月1日付けのメールが届いたという訳です。


 緒方さんは私たちと同年代生まれなのですが、その理論と行動は視野も広くある意味私とは格が違う人なのです。これまでにも双海町へ講演に来てもらったり、私が日田市へ講演に行った折面会に来てもらったりと、様々な交流を繰り返していますが、スケールの大きい魅力ある人なのです。

 彼は今株式会社おおやま夢工房ひびきの里の総支配人をしています。このホテルを立ち上げる時も愛媛の何人かに合ってもらったりしましたが、はてさてその後交流の広さは広がっているのでしょうか。そろそろ自分たちの幕引きの時代を感じながら、古き良き人たちにももう一度会ってみたいものだと思うこのごろです。


  「旧友の 杖が気になる 今頃は どうしているか 大山の人」

  「正月の 1日付で メール来る さすがやること 人と違うな」

  「大山の 広報トップ 載ったっけ 浮かんで消える 懐かし日々が」

  「お互いに 後ろも見ずに 突っ走り 気がつきゃ老兵 足腰弱り」  

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shin-1さんの日記

○ブログ記事のプリントアウト

 自分自身が書いた記事が電子文字という訳の分からない符号や記号になって、どのようにしてパソコンの中に記憶されているのかと思うと、「地下鉄はどうして地下に入ったのでしょうね?」のギャグで一世を風靡した三球・照代さんではありませんが、本当に眠れなくなるようです。ましてやパソコンに不安を抱えて生きている私などは「もしパソコンが壊れたら今まで書きためていたものはどうなるのだろうとこれまた悩みの種は尽きないようです。物は必ず劣化して寿命を全うするようになっているものなのですが、はてさてそんな慈しみない知恵を絞って書いた文章も手の届きうる、そして目の見えうる場所にあると安心するのが私たち世代かも知れません。

 自分が毎日1本から2本書き綴ってきた公開日記風ブログも早いもので4年目になっています。最初は書き流し情報として軽く考えて書いていたものが、バックナンバーで呼び出せるという裏ワザを知った時の驚きは相当なものでした。しかし私の友人が私のブログをプリントアウトして活用している姿を見て私も始めようと、これまで書いた全てを2回に分けてプリントアウトしたのですが、これには正直参りました。コピー用紙を買い込みプリンターのインクカートリッジを買い込み、経費も要りましたが何とか全てをプリントアウトしました。ところが思わぬ問題が発生しました。電子文字の特徴はコンパクトサイズなのにプリントアウトはそれに逆行して置き場所がないのです。幸い人間牧場の壁面をオープン書棚にしているので、そこを片付けてブログコーナー「shin-1さんの日記」としたのです。100円ダイソーに立ち寄り3冊100円のフォルダーを買い込んで一ヵ月ごとに表紙を付けました。来訪者全てが読むわけではありませんが、宿泊を伴ったゆっくりのんびりとした研修などや朝な夕なの自由時間に、沢山の人が読んでくれているのです。時間さえあればそれぞれの文章の前に○印で書いているテーマを目次として起こしておきたいとも思っています。これもそのうちで終わりそうです。

若松進一ブログ

 さて昨日は年末に文章整理をしていて気がついた、昨年5月から8か月間もプリントアウトしていないことに気がついていたことを、風邪気味の体でありながら無謀にも一日で片付けようと思い立ち、朝から晩までプリンターに首ったけです。一日2本の記事で4枚くらい、多い時には7~8枚にもなるものもあります。総体的に4枚×30日だと1ヶ月120ページにもなるのです。途中でやめようかとも思いましたが、まあ正月だし大した用事もないのでと一日中の殆どを書斎で過ごし、午後8時ころに全てのプリントアウトが終了しました。途中インクが足らなくなって買い置きを探したり、インクのカートリッジ変換に時間がかかったりしながらもまあ順調に仕上がりました。

 後は人間牧場の所定の場所に置くだけなのです。それにしても5月から昨年12月まで、何と8冊も蔵書ができてしまいました。しかも世界に一冊だけしかないオンリーワン「shin-1さんの日記」です。


  「一年に 十二冊もの 本できる 今年もこま目 日々を重ねる」

  「平凡が 非凡に変わる 積み重ね 次はどんな ドラマ生まれる」

  「昨日やる だから今日の 意味がある 明日を夢見て 今日もひたすら」

  「今はもう 過去という名の 階段を 転げ落ちゆく 定めと知りぬ」   


 

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