shin-1さんの日記

○木になるハガキが届く

 最近は自己PRの方法も色々と工夫を凝らしたしたものが多く、先日地域づくりの全国大会で交換した名刺もかなりカラフルで、取っておきたいようなものが何点かありましたが、行政に携わる人たちの中には相変わらずオーソドックスな名刺が多く、官民の格差を強く感じました。

 数日前一枚のハガキがわが家に舞い込みました。木でできたハガキです。私は地域づくりに深くかかわって生きているためこ別にこの手に類は驚きもしませんが、妻は「お父さん珍しいハガキが来ている」と驚いた様子でした。高知県馬路村の木下さんから木のウチワハガキが届いた時も、今回のハガキの主である長野県木曽福島開田の大目さんから木をくり抜いた輪切りのハガキも、妻は目を丸くして驚くのです。

 今回の木の板でできたハガキの差出人大目さんとは、一昨年高知県馬路村で開かれた全国大会で知り合いました。その時彼の差し出した名刺は何と免許証の偽物と間違われそうな名刺だったのです。この名刺は参加者の間で話題になり、基調講演をした私と彼とは手紙やメールのやり取りを続け、昨年は木曽福島の地域づくり塾に講演で招かれたり、そのことがご縁で上松町の池田木材さんとも知り合い、様々な交流へと発展していったのです。そして一年後の今年は11月9日に開かれた木曽郡公民館大会の講師として再び招かれ、日本一の紅葉を再度見る機会を得たのです。

(左が今回届いた木になるハガキ、右は一昨年届いた丸太の輪切りハガキです。右のは私のお宝として大切に保管しています)

 彼の書いたハガキの文章をご紹介しておきます。

 御岳山が白く雪化粧し、いよいよ朝晩の冷え込みも厳しくなってきました。さて、先日は郡公民館大会の講師として、ご多忙の中、遠路お越しいただき誠にありがとうございました。講演は二時間を長いと感じさせないほど、素晴らしいもので、帰り際に「半日くらいは聴いていたかった」と言うおばちゃんがいましたが、それほど皆さんの心に響いた内容であったのだと思います。何よりも実践に裏づけされているのがすごいと思います。一昨年の馬路村でのまちづくり交流会の出会いが、本当に素晴らしいご縁につながりました。どうぞ今後ともご指導の程、よろしくお願い申し上げます。

 彼の故郷木曽福島開田ではもう雪が舞っていることでしょうが、嬉しい友人からのハガキに思わずジーンときました。彼は行動派の人間で、毎日10キロ以上もの早朝ランニングを欠かしません。私と泊まった民宿でも朝早く起きて20キロもの山道を向くも九と走っている姿を見ました。朝の早い私も脱帽してしまいましたが、エネルギーを蓄え、そのエネルギーを地域のために御役に立てることは素晴らしいことです。彼はランニングの途中幹線道路の路側帯に雑草があるのを見て毎日その草を取り除く作業をボランティアでしているそうです。その輪は徐々に地域にも広がっているようだと漏れ聞きました。私の早朝掃除に感化されたとも謙遜して私を立ててくれましたが、いい人はいい行いをすると思い心の中で大きな拍手を送ってあげました。

 寒くなります。お風邪をひかぬようご自愛ください。

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shin-1さん日記

○日本一目立った男

 先日11月13日から15日までの3日間、愛媛県で地域づくり団体交流研修大会が開催されたことは、このブログでも度々紹介してきましたが、私はこの大会である実験を試みました。携帯用の電光掲示板をネクタイに仕込み目いっぱい目立とうというのです。最初はJA宇和島リジェールで開かれた前夜祭でした。会場には200人もの人が集まり、会場横ではそれぞれの分科会によるポスターセッションも開かれ、皆さんは名刺交換やおらが町の宣伝に余念がありませんでした。会場は交流会と言いながら飲み会や食事会、演芸発表会のようなお祭り騒ぎですから、呑むほどに酔うほどに南予特有の盛り上がりを見せていました。私は実行委員長をしていることもあって電光掲示板を胸につけ、似顔絵の名刺を配りながら会場内を右往左往し続けました。

 200枚も売れた似顔絵の名刺もさることながら、電光掲示板の威力は大したもので、まるで釘づけのように人が私の周りに集まってくるのです。「これは珍し」「何処で売っているのか」「仕掛けはどうなっているのか」「あなたは何者」などと、食事も出来ぬほどの質問攻めにしてやったりの心境でした。

 私が胸につけていた電光掲示板を手に入れたのは一年前にさかのぼります。国土交通省が人間牧場で開いた私が塾長を務めた観光カリスマ塾の会場を、人型パネルで飾る提案が受け入れられて製作しました。案の定この等身大の人型パネルは会場で大きな反響を呼んだのですが、その折卓上ミニパネルに携帯用電光掲示板を設置したところ、これもかなりインパクトがありました。文字は「夕日亭大根心落伍本『夕やけ徒然草』好評発売中・定価500円」というものでした。電光掲示板はその後新居浜の加藤さんと十亀さんからPRするからとお願いして無償で譲り受けました。私はこの電光掲示板と卓上人型パネルを木になるカバンに忍ばせ、この一年間全国各地で盛んに紹介し続けたのです。

 今回の実験をするにあたって電光掲示板の文字を変えねばならないので、忙しい合間を縫って先週私のパソコンを地域政策研究センターへ持ち込み、加藤さんと十亀さんにご足労願って清水さんの協力を得て入力し変えました。私のパソコンがビスタなので入力をまだ自力でできるところまで進化していませんが、ソフトを入力したのでそのうち自由自在にやれるようにしたいと思っています。

 さて今回私がセンター内の机の上で即興で書いた文章は一行20字程度という制限もあって以下の6行となりました。

  1、「しずむ夕日が立ちどまるまち」の若松進一です。

  2、4つの顔を持つ男!夕日亭大根心という芸名での落伍活動。

  3、私設公民館「煙会所」・海の資料館「海舟館」での活動。

  4、21世紀えひめニューフロンティアGでのボランティア活動。

  5、人間牧場での地域づくり!私塾「年輪塾」での人づくり。

  6、大学での教鞭や全国での講演活動。

 これらの文字が電光掲示板の上をオートローディング方式でとどめもなく流れるものですから、これは凄いインパクトです。私はこれを前夜祭、明くる日の全体会、第15分科会の夕日寄席、交流会、最終日の第6分科会と実験しましたが、かくして実験は大成功裏に終わりました。

 目立つことばかりが地域づくりではありませんが、目立たなければまた目的を達成することはできません。これからもこれを使って情報を発信し続けたいと思っています。


  「ネクタイに 光る文字つけ 歩く度 話題騒然 してやったりか」

  「驚いた 電光掲示が 持ち運べ 手軽に使え 宣伝できるは」

  「またひとつ 武器を手に入れ ピーアール 偉いもんだと 人が感心」

  「明日はどこ まるで寅さん 旅に出る 電光掲示が 眩しく光る」

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shin-1さんの日記

○人が集まることの意味

 強風波浪注意報が出て、昨晩から吹き始めた北西の季節風が今日は一段と冷たく吹きつけ、海沿いに面したわが町もいよいよ冬の深い眠りにつくように、港には出漁できない漁船が固く舫い綱で繋がれているようです。こんな日は道行く人の姿もまばらで、たまに出会う人も首をすぼめて歩いていて、その姿を見るとどこか侘しい田舎の風情を感じるのです。

 こんな寒い日に集会をすると、主催者が口火を切る開会の挨拶は「今日は寒いので人の集まりが少ないようです」と、まず集まらない理由を天気のせいにしてしまうのはよくある話です。そんな所に限って晴れた穏やかな日に行って挨拶を聞いても多分「今日は天気が良過ぎて人が集まりません」と、これまた天気のせいにしてしまうのです。集まらない利用うを天気のせいにしている話を聞く度に「おいおい、じゃあいつ集まるのか」と言ってやりたい気持ちになるのです。

 今日は伊予市商店街にある「いっぷく亭」という空き店舗を利用した立ち寄り所に招かれて行きました。前回のお話し会が10月24日でしたから、27日ぶりの同じ顔ぶれに対するお話です。普通であれば前述のようにこんな寒い日は人が集まらないのが普通ですが、何と何と蓋を開けてみると前回の倍程度の人が集まって、外の寒さをよそに熱気が感じられました。それは多分前の私の話が良かったのか、それとも主催者が努力して動員をかけたのか、参加した人が約束通り一人が一人連れてきたのか、はたまた今日はたまたま暇だったのか分かりませんが、まあ全てが上手くいって人が集まったと理解しつつワクワクするような気持で四方山話をさせてもらいました。私の場合はインスピレーション、つまりその場で感じたことを話すので、前回とダブっていることを話したかも知れませんが、まあ人間は忘れることが上手いので、前回のことなど覚えている人も少ないので、一気に感じるまま話をさせてもらいました。

 人が集まるのには①楽しみづくり、②しくみづくり、③値打ちづくりが必要です。この日は寒いので「いっぷく亭」の名前にふさわしく、温かい抹茶がふるまわれました。私の話にうなずいたりメモをとったりしながら返ってくるみなさんの笑顔も素敵でした。



 さて3回目の次回は12月9日に集まることが決定しました。鬼の顔も二度三度といわれるように、私の話ももう秋ならぬ冬が来るかも知れませんが、それでも次回は最終回なのでひとつ心に残る面白い話をしたいものだと考えていますが、そんな話が果たしてできるでしょうか。帰り際、あなたのブログにリンクさせて欲しいという参加者もいて、嬉しい人間のネットワークができつつあるようです。

 先日第一回目の集会が終わって、私は参加者に名刺を配りました。すると3通もお便りが届いたのです。忙しくて少し返事が遅れましたが、それでも私はお礼のハガキを出しました。はてさて今回は来るか来ないか分かりませんが、同じ市民として同じ市内に住んでいる人たちとこうして交流できることは、合併の大きなメリットなのです。「合併はつまらなかった」という声をよく聞き、役所などを批判しますが、それは何もせず、してもらうことだけを待っている人の話かも知れないと思いました。

 市民どうしが交流してこの町をどうすればよくして行けるか、知恵を出し合ってこそこの町の未来はあるのです。これからもいい町を作って行きましょう。お寒い中今日集まった皆さんに感謝します。またお会いしましょう。


  「寒くても いっぷく亭に 集まれば 心ほのぼの 笑顔あふれる」

  「化粧品 つけても綺麗 なるものか 笑うとタダで お顔ピチピチ」

  「お菓子食べ 抹茶いただき 一服す 心落ち着き 幸せ感じ」

  「倍の人 集い嬉しや 俺のため 思えば馬力 以前に増して」 


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shin-1さんの日記

○リズムが合わない妻と私

 長年夫婦をやっていると、どちらかの色に染まるものだといわれていますが、どういう訳か私と妻の暮らしのリズムはまるで合わないようで、そのことに最近気がつきました。特に私は早起きタイプなのに妻はいつまででも布団を温めるタイプなのです。今朝も私はいつものように午前四時に起床して、妻と同じ布団に寝ている布団をそっと抜け出して起床しました。強風注意報が出て今年一番の冷え込みになったものの、着替えをして書斎に入りましたが、ストーブを付けるほどの寒さではないようでした。パソコンに向かってブログを書いていたら、早朝散歩から帰った親父が窓の外から、「今日は不燃物回収の日なので」と窓の外から伝えに来てくれました。急いで外に出て親父と一緒に不燃物の整理をしてトラックに積み込み、役場裏まで持って行きました。不燃物置き場には区長さんと副区長さん3人が寒そうにしながら、次々運び込まれる不燃物に監視の目を光らせていました。このところ不燃物の搬出マナーの悪い人がいて困っているとのことでした。私が区長をしていた頃もまったく同じで、町内有線放送で周知しても中々守れなかったし、月に一度の回収日には監視と搬出後の清掃をに汗を流したものでした。誰が区長や役員になってもゴミの問題は厄介なものだとしみじみ思いました。

 家に帰り手を洗っていると、6時半になるのに妻はまだ布団の中です。先ほど声がしていたのにまだ布団を温めているのです。私の呼びかけでやわら起き上がりましたが、妻も仕事や家事で疲れているのでしょうが、既に私とは朝だけで2時間半もの差ができている計算になるのです。つまり私が毎日書いている2本のブログのうち朝のうちに書く1本は全て妻の寝ている時間に書いた計算になるのです。私は朝のブログ1本に約1時間をかけますが年間早朝365時間もの時間的成果は妻の夢の中なのです。

 私は外出先から帰るが遅く、時には11時近くになります。基本的に外食が嫌いなタイプなので食事は家に帰ってするようにしていますが、今でこそ4人の子どもも家を出て独立しているため、妻の苦労はそれほどでもなくなりましたが、それでも親父の夕食を隠居へ午後6時までに運び、それから一人で食事をし、私が帰ると私の食事の準備や後片付けが待っているのです。

 私は食事が終われば書斎に入って仕事を片付け、一緒に風呂に入った後、11時ころから1本のブログを約1時間かけて書きあげます。その間妻はテレビを見て床に就くのですが、ここでも妻は心地よい布団の中なのです。

 妻の血液型はO型、私はB型、子供4人は全員B型です。OとBとでは性格も違うのでしょうが、それでも性格やリズムの違いを克服して40年近くも一緒に暮らしていると、違いを認め合って生きていることに気づくのです。多分後20数年間生きる予定の私たち夫婦は、こうしてお互いそれぞれの生き方で生きて行くのでしょうが、この年齢になるとむしろその方がいいと思うようになりました。

 夫婦はもともと他人です。しかし何かの縁でひとつ屋根の下で暮らすようになると、それぞれの違いに気づき、その違いを同化することが夫婦だと思うようになって色々努力してみましたが、結果的には上手くゆきませんでした。最近性格の不一致という理由で離婚する人たちが沢山いるようですが、もし性格の不一致を原因にするなら私たちはとっくに離婚しているはずなのです。でも賢明な私たち夫婦は性格の不一致をむしろ当たり前のことと気づいて認めいあいながら生きた結果、人もうらやむほどではないにしてもそれなりに幸せに生きているのです。私たちは見合い結婚で二人とも持ち点ゼロから出発し、持ち点100を目指して加点しながら生きています。恋愛だったら持ち点100から減点しながら生きていたかも知れないと思うと、見合い結婚もまんざらではないようです。残り少ない人生を未だにリズムの合わない妻と仲良く生きてゆきたいと思っています。

  

  「早起きる? 言う妻布団に まだ寝てる リズム違うが 別れもせずに」

  「夫婦とは 互いに加点 するものぞ 減点すれば 届捺印」

  「お父さん 足腰揉んで すり寄るが 興奮もせず やはり歳だな」

  「寒くなり 互い体温 湯たんぽに 安眠楽し 今宵幸せ」  

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shin-1さんの日記

○喪中のハガキが舞い込んで

 数日前からわが家へも「喪中につき年末年始のご挨拶をご遠慮申し上げます」という喪中のハガキが届きはじめました。そのハガキを手にする度に心が痛みます。多分そのハガキを書いた人はこの一年間、自分につながる人の仏事に心を痛めたことでしょう。

 わが家でも今年は叔父が急逝し悲しい出来事がありましたがこの叔父が存命中、「わしが死んでも喪中などといわず、祭りも年賀状もOKだ」と言っていたので、私もその遺志を継いで喪中のハガキなど出さないつもりで早々と年賀状を購入しているのです。

 このところの忙しさで郵便物の整理が全くできず、山のようにたまっていましたが、今日は久しぶりに机に座ってそこら辺の郵便物を片付けました。すると中から友人からの喪中のハガキを見つけました。「6月に長男が永眠いたしました」と書いているのです。私の場合友人や知人の訃報は人んどは知人が知らせてくれるのですが、今回は友人も知らなくて、半年も私の耳に入っていなかったのです。アメリカの大統領がオバマさんになったという海の向こうの話は逐一自分の耳に入るのに、僅か25キロ離れた松山に住んでいる友人の家族のことはまるで入らないのですから、情報化時代もいい加減なものだと思いました。

 早速友人たちにそのことを連絡しましたが、友人たちも一応に知らなかったようで驚いていました。友人たちと相談し半年遅れたとはいえ不義理を詫びねばと思い、喪中ハガキをくれた友人に電話をかけ、仏壇へ線香を上げさせて欲しいと頼みこみ、早速出かけて行きました。友人の家には一度きりしか行ったことがないので、カーナビに相手の電話番号で入力して出かけましたが、この電話番号が指し示す場所はとんでもない所が出て、結局は記憶を頼りに出かけて行きました。

 私の記憶も相当なもので一発で松山の住宅地で友人の家を探し当てました。家の中に入ると奥さんも居合わせていましたが、話す度に半年も経っているのに夫婦とも涙がこみ上げるようで、こちらも思わず貰い泣きをしてしまいました。聞けば息子さんは学校の先生をしていたようですが長の患いでもなく、気がついた時は既に遅しで、一日の患いくらいで急逝したそうです。悲しみの中なので詳しいことも聞けなかったのですが、自慢の子どもだったので余計悲しさが募るようでした。今は毎日奥さんが息子の嫁さんと孫2人のために夜は泊まりに行っているそうで、友人も家の中に閉じこもっているような状態でした。

 幸い友人宅にはまだ子どもが2人いて気はまぎらうようですが、親がしっかりしないといけないと精をつけ、お暇しました。


 友人は私の退職と相前後して務めていた電力会社を少し早く退職し、第二の人生を再就職して頑張っていましたが、その仕事も辞めて悠々自適の穏やかな暮らしを楽しんでいました。しかし降って湧いた今回の長男の急死という悲しみで友人の人生は狼狽し一変しているようでした。多分私でも同じ境遇に会うと同じような気持ちになるだろうと同情しながら、彼の元気回復に私も手助けできないものかと考えました。

 まだ60歳そこそこですから再就職をするよう勧めました。多分この年齢になるといい仕事は見つかりにくいかも知れませんが、働いているうちは気分もまぎらうかも知れないのです。また私のようにボランティア活動に参加することも一考です。とにかく家の中に閉じこもってあれやこれやと考えていると、うつ病になりそうだという友人の気持ちを考え、何とかしたいと思いました。

 人は一寸先のことは分かりません。今幸せでも先は全くよめないのです。はてさてわが身にもそんな悲しみが来ないことを願っています。


  「一枚の 喪中ハガキに 込められた 悲しき日々を 乗り越え歩む」

  「残された 幼子親の 死も知らず にこやか笑顔 余計不憫で」

  「アメリカの ニュースその日に 聞こえるが 近き訃報は 何故か届かず」

  「半年も 遅れて香典 持って行く 何ともバツの 悪い役柄」


  

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shin-1さんの日記

○やっと肩の荷が降りました

 あれほどみんなが熱中して、あれほどみんなが心血を注いだ全国大会が全て終わり、どこか心にぽっかり穴がいたような一両日でした。私にとっては10月18日と19日、松山市で開いた青年の船の班長会も、11月13日と14日、15日、宇和島を主会場に開かれた地域づくり団体交流研修大会も、これまでにない全国の人を相手の大会で、しかも多くの人を全国から迎え入れたものですから想像以上心配して、想像以上に力を注ぎました。多分そのためでしょうが、想像以上に大きな感動を得たようです。

 私はこれまで役所に35年間勤めていたこともあって、全国大会と名のつく集会や会議には数えきれないほど参加してきました。しかしその殆どは司会や助言、基調講演、パネラーなどの出番はあっても、自らが主催するような大事業はありませんでした。勿論今回の青年の船班長会や地域づくり団体研修大会もそれなりの団体や事務局があってしっかりと下支えをしてくれたので、私は飾りのようなものでしたが、それでも責任の重さはあるのですから、周りはどう思っているか分かりませんが自分なりに一生懸命やったつもりでいるのです。多分自分の置かれている立場を考えるとこれから先に、このような責任ある仕事はもうないだろうと思うのです。

 昨日旧友から相次いでメールが入りました。青年の船の班長会で31年ぶりに再会した仲間と、地域づくり団体交流研修大会で25年ぶりに出会った仲間からです。31年ぶりに出会った仲間からは、人生の岐路とでも言うべき60歳の坂を越えた今、31年前に青年の船に乗って太平洋を渡りアメリカやメキシコを旅したことの意味が連綿と綴られていました。彼がそうであるように私にとっても青年の船で建国200年のアメリカへ行ったことは、自分のそれまでの価値観を根本から変えるような大きな旅でした。自分のこれまでの人生を振り返っても、もしあの経験がなかったらこうまでも楽しく生きれなかっただろうと思うのです。人間はそれぞれの人生に見合った大きさの世界に生きています。杯ほどの小さな世界もあれば丼鉢のような世界もあるでしょう。また風呂桶や琵琶湖のような大きな世界があるかも知れません。私の場合はそれほど大きくはないものの、それまで杯だった世界がいきなり風呂桶のような世界になったのですから大変な変わりようでした。お陰で自分の世界が今でも風呂桶のような大きさになっているのですから有難いことなのです。


 地域づくり団体交流研修で25年ぶりに出会った人は、まだ私がまちづくりという世界に入門した頃でした。その人はすでに私とそんなに年齢は違わないのに、まちづくりの世界では有名になっていて、何かと目をかけご指導をいただきました。まちづくりに対する彼の姿勢への憧れもあって、何度となく出会いましたが、その後音信も途切れがちとなり、お互いの記憶の中でのみの知り合いが長く続いていました。

 「全国大会にいくから」といきなり1ヶ月前にメールが入り私をあわてさせましたが、彼は元気な姿で愛媛入りし再会を喜びました。「上は来ず、中は日帰り、三日泊まりの下下の下の客」といわれるとおり、再三の誘いにも応じず去って行きましたが、別れ際に引き時の話をしました。そろそろ引き時かなとも思いつつ、彼の顔を思い出しているところです。

 相次いで入ったメールに近況をしたため返信しました。この二人には遠方ゆえもう会えないかも知れません。でも今年一番のビッグな出会いが降って湧いたように31年目、25年目に実現したのですから、密かに再会を楽しみにして生きてゆきたいと思っています。


  「この二人 俺の人生 語る時 なくてはならぬ 思い出の人」

  「忘れてた 記憶の彼方 呼び戻す 二人相次ぎ 便り届きぬ」

  「忙しく 過ごしただけに どことなく ぽっかり穴が 空いたようです」

  「盃の ように小さな 俺だった 今は風呂桶 なったようだが」 

 

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shin-1さんの日記

○前夜祭と全体会を振り返る

 この4日ほど朝早くから夜遅くまで家を留守にしていたものですから、新聞を見る間もありませんでした。昨日行きずりのような形で従兄に会ったら、「全国大会で大変だったようだな。新聞に載っていた」というのです。私が家を留守にしている間妻は新聞をちゃんとまとめて取っておいてくれるのです。今朝土曜日の新聞を見たら、愛媛新聞の三面に「地域力向上へ議論」「全国自治体・団体関係者」「南予軸に13市町で研修会」という見出しの記事が載っていました。その中で-前略-「14日は宇和島市中央2丁目の南予文化会館で全体会が開かれ、青森から沖縄まで37都道府県の約190の自治体や団体関係者ら320人が参加、元双海町教育長の若松進一さん、今治市在住のフリーライター土井中照さんらがコメンターを務めるトークセッションがあり、会場とやり取りしながら課題や地域づくりの在り方を考えた。若松さんは「これからの地域づくりは人やモノなどを含めた『地域力』を高めることが必要と訴えた」-後略-と書いてありました。

 今回の全国大会は愛媛県の南予振興策の一つとして取り上げられたため、加戸愛媛県知事さんも出席していただくなど、物心両面のご支援をいただきました。知事さんはあいさつの中で私のことにも触れられ、「私は若松さんのお誘いでたった5分の挨拶のために2時間かけてやって来ました。若松さんは何もない双海町でどこにでもある夕日を地域資源にして地域づくりを行った」と持ち上げていただき、穴があった入りたいような心境でした。挨拶の中で自分の立っている場所の足元を掘れば泉は必ず出る」ともいわれ、地域づくりの必要性を話されました。第一線から退いた私のような一介の老兵を持ち上げていただく知事さんのセンスにただただ脱帽するばかりです。これらの話は行く先々の分科会や遠くからやって来た参加者の間でもかなり話題になったようです。


 開会式の後は、大洲市長浜町豊茂の郷土芸能である豊年踊りがユーモラスに披露され、会場の雰囲気がとても和みましたました。フリーアナウンサーの宇都宮民さんと土井中照さんを相手に私が進行役を務めてトークセッションを行いましたが、台本や筋書きのないアドリブな話で心配していましたが、心配をよそにいい雰囲気の、それでいて予想以上の盛り上がりが壇上まで伝わってきました。

 開会式に先立って前日の夜リジェール宇和島で前夜祭が行われました。

 開会式に先立ってリジェール宇和島で行われた前夜祭は200人ほどの参加で大いに盛り上がりました。最初にわつぃが実行委員長の私があいさつし、石橋宇和島市長さんが乾杯の音頭をとってスタート、郷土料理も、鬼城太鼓、愛治ちんどんなどの催しも、お酒の量も、そして交流会も満足のいく成果を収めました。

(豪快な舟盛り活け造り)
(ド迫力の太鼓集団鬼城太鼓の演奏9
(ユーモラスな愛治ちんどん)
(次回開催県佐賀のPR風景)

 一年かけて準備をしてきた全国大会も終わりました。いい研修会だったと自画自賛し、自己満足しながら写真やメールやブログで振り返っていますが、これから報告書の作成や実行委員会の解散まで残務処理をこなして行きたいものです。


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shin-1さんの日記

○メールやブログが続々

 全国大会が終わりホッと一息ついたところですが、昨日夜遅く外出先の島根県益田市道川から帰ってパソコンを開けると、凄い数のメールが届いていて、ブログを書くどころではなく返信するのに四苦八苦しました。一つ一つのメールに返信をするのですが、残念ながら全ての人の顔を思い出すことができず、この3日間で300枚近くの名刺を配った人から貰った名刺を繰りながら、思い出そうと努力しているところです。

 今回の大会事務局から「若松さんは全国行脚するのだから名刺の裏に全国大会のPRを刷り込むので使って欲しい」と依頼があり、作ってもらいましたが、私の行動範囲は全国に及び作ってもらった1000枚の名刺はあっという間になくなりそうになりました。これはやばいと思って最後の300枚を大会当日用に残して置いたのですが、おかげ様で1000枚全て完売となりました。

 私の名刺がいかほどの効果を上げたかは定かではありませんが、「若松さんに会いたいのでやって来ました」と、涙の出るような言葉を言ってくれた人も沢山いて、それなりの効果があったものと自画自賛しているのですが、その方々からのメールを見るたびに人のつながりのありがたさを思うのです。

 そんな中に宮崎県南郷町の野川喜美子さんがいました。野川さんは福祉作業所ひなたぼっこの代表を務めていますが、もう昔のことなのではっきりと記憶していないものの南郷町に講演で招かれた折に出会い、南郷町の人たちが双海町へ視察に来た折出会ったような気がするのです。ですから彼女の顔は今回で都合3回目ということなのですが、私が不特定多数の人と会うために深く話し込んだことなど一度もないのです。でも今回の大勢の参加者の中で顔だけはお互いしっかりと覚えていたのですからまちづくりは大したものです。

 野川さんは自分の持つ「ひなたぼっこのブログ」(http://ameblo.jp/15yaotuki3/)に、今回の様子を写真を交えてかなり詳細に報告してくれています。私は今回の大会の実行委員長をしていて県内各地を飛び回り残念ながら自分の町の分科会は恋人岬での落伍ライブと研修会、それに夜なべ談義の途中までしかいませんでしたが、彼女が参加してくれたわが町の分科会の様子も手に取るようにまとめてくれているのです。

 彼女の顔を思い出しながら、人間は100回会っても覚えていないような人もいますが、たった3回の出会いながら覚えている人もいるのですから不思議な話です。

 野川さん以外にも講演先で出会った私との細い糸を頼りに愛媛までやって来てくれた人は沢山いました。全ての人を紹介することはできませんが、私にとってはこれまでの20年間の地域づくり活動で培った人脈とでも言うべき人たちこそ大切な財産だと思うのです。

 これから自分の行動の範囲も加齢とともに狭くなり、出会う人も少なくなって行くものと思われますが、人を大切にする地域づくりの理念だけは忘れないようにしたいものだと思いました。大会が終わったのが週末だったため、また大会後の週末を移動日にしていたため、行政がらみの人とは週の明けた今日頃からメールのやり取りが動くものと思われますが、それぞれの地域に帰られた皆さんのご活躍を祈りながら、ブログ画面をお借りしてお礼のご挨拶にさせていただきます。お世話になりました。また会いましょう。シーユーアゲイン。


  「世の中は 便利になった ものですね 居ながら見える 自分の写真」

  「汗だくの ようですメール 返信も 反響大きく 嬉し恥ずかし」

  「忘れ得ぬ 思い出持って 全国へ 散らばり帰る どうかご無事で」

  「もう二度と 逢えない人も いるのだと 思えば出会い どこかしんみり」


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shin-1さんの日記

○島根県益田を訪ねる

 地域づくり全国大会の快い余韻と少しの疲れが残っているものの、そんな余韻にひたり疲れを癒す暇もなく、今朝は早起きし島根県益田市を目指して旅に出ました。早朝5時に起き、身支度を整えて小雨そぼ降る暗い道を松山観光港目指して走りましたが、今朝は日曜日とあって交通量も少なく1時間ほどで港に到着しました。

 始発の高速船は7時発とパソコンで調べていたので、少し余裕をもった到着に安堵しながら大画面のニュースをテレビで見ながらひと時を過ごしました。このところのテレビの話題は、何といっても2兆円の景気対策と称するお金の分配方法です。子どもと65歳以上の人には一律2万円、それ以外は1万2千円が支給されるそうですが、早くもそれが多いとか少ないとか、お金を個人に払うことがおかしいとか、外野では面白おかしく話されているようで、早くも選挙の道具に使われそうな雲行きです。


 観光港で面白い展示物を発見しました。まるでキノコのような貝殻でできたスタンドがイルミネーションの代役を務めているのです。この貝殻は緋扇貝という貝殻を○でステンドグラスのように何枚も組み合わせて作った新しいタイプのオブジェなのです。このような作品を旧内海村で作っていることは知っていましたが、これほど綺麗な作品だとは知らなかったものですから驚きました。近くで見ていた子どもに「綺麗でしょう」と話しかけると、「綺麗」という返事が返ってきました。緋扇貝の貝柱を食べるのはもちろん美味しいのですが、その貝殻を生かすとは面白い発想で、この技法で教会やホテルのガラスを飾ればオンリーワンだとしみじみ思いました。

 高速船もこのところの原油高で船賃が高く、広島~松山を往復すると1万5千円弱となり、まるで飛行機代並みの高さに驚いてしまいます。

 

 船は1時間8分で宇品の港に到着しました。港には益田市道川公民館の三好館長さんから前もって連絡があったとおり、高田さんご夫妻が優しく迎えてくれました。高田さん夫婦は脱サラして道川に移り住み花づくりを中心とした農業をやっているそうですが、道川までの道中は眠る暇もないほどお互い心打ち解けて話し合いました。

 峠を越え匹見峡谷の見事な紅葉を眺めながら少し早く着いたので、旧割元庄屋美濃地屋敷を見学させてもらいました。国道191号線は益田へ行く時何度も通っているのですが、その都度この大きなお屋敷を横目で見ながらのバスの旅が多いため、これまで見る機会に恵まれていませんでした。「いやあ立派」の一言に尽きるほど凄い庄屋屋敷が綺麗に保存され、そして活用されている姿に、他事ながら嬉しくなりました。

(庄屋屋敷)
(庄屋屋敷の門)
(庭の見事な紅葉)
(庭に散り初めし紅葉の落ち葉)

 道川公民館で開かれた住民交流大会の講演会には人口18人というのに120人もの参加があり、会場は沢山の人の熱気に包まれ、改めて道川の凄さを思い知らされました。豚汁や弁当など手作りの昼食をいただき、大満足の1日でした。地元での夜の集会への出席が予定されているため、先を急いで再び高田さんご夫妻に宇品の港まで送ってもらいました。間一髪出港し始めていた高速船に取るものもとりあえず乗り込み、予定どおり夕方わが家についてホットしています。今日もいいご縁をいただきました。真砂地区の一郎君も来てくれ、月末には人間牧場へ40人もの人が来る打ち合わせをさせてもらいました。

(私の講演会)
(昼食交流会)


  「色々な 余韻に浸る 暇もなく 次の旅立ち 朝も早くに」

  「中国の 山地分け入り 集会に 足腰立つ人 全て集まる」

  「わが話 耳を傾け 寝もせずに メモを取りつつ 相槌打ちて」

  「凄いなあ 昔庄屋の 夢の跡 煙でいぶし 次の世代へ」

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shin-1さんの日記

○玉ねぎの植え付け

昨日の夕方、地域づくり団体交流全国大会に参加して外出先から帰ってみると、菜園畑で親父が何やら作業をしていました。みるともうかなり陽も暮れかけた5時前でしたが、耕運機をかけて綺麗に整地した畑に畝を作って玉ねぎを植えていました。親父の弱音は腰なので、腰を伸ばし伸ばしやっている姿を見て直ぐに手伝うことにしました。早速長靴に履き変えて親父の切った畝に玉ねぎの苗を一本一本等間隔で置いて行くのです。私も腰が丈夫ではないので、この作業は相当腰に来るようでした。途中近所のおばあさんも手伝いに加わって秋の釣瓶落としといわれる暮れなずむ作業を終えました。鍬を片づけそこら辺に置いた道具をしまったころに雨がぽつぽつと降りだし間一髪で雨に当たることもなく、加えて植え付けた玉ねぎに水をやることもないラッキーさでした。今年は一畝を3列から4列に変えたため、植える畑に余分が出たようなので、近所の苗屋を覗いてもう一束増やそうと思っています。

 わが家では毎年100で一束となっている玉ねぎ苗を5束買い求めます。友人に言わせれば玉ねぎは自分で種をまいて育てれば安くて済むそうですが、私にはそんな時間的余裕もないので、毎年自動車で売りに来る苗屋さんのしっかりと育った苗を買うのです。苗屋さんも自家用で5束も買ってくれるお客さんはそんなに多くないため、上客と思うのか玄関先まで売りに来るのです。

 玉ねぎには早生系と晩生系、普通の品種と紫系があり、これまでにも試しに植えてみましたが、早生系は確かに早く収穫できるのですが、その時期は購入して食べてもそんなにお金もかからないので晩生だけにしました。また紫系はサラダ等に使えば彩りもいいのですが、そんなに日常食べないためこれも止めてしまい、今は晩成一種にこだわって作っているのです。昨日植えた玉ねぎはこれから来年の5月まで、何と半年間も寒い畑の中で長い間、じっと耐え忍んで大きくなるのですからこれほど世話のやける作物は他にないのです。


 今年の春収穫した玉ねぎは親類や子どもたちが来るたびに取って帰るので、もう随分すくなくなっているようです。昨年から網の袋に入れて軒先に吊り下げる方法を止めたお陰でこれまで一個も腐ることもなく冬を迎えそうです。察するに網袋に入れる従来の方法は、網袋に付着した腐敗する雑菌が付着するから腐るのではないかと思うのです。今年のように5から8個ぐらいを縛って吊り下げる方法だとその心配もないようです。親父の縛り方が上手なため茎が痩せて落下する心配も殆どクリアーすることができました。

 わが家では家庭料理に年間相当の玉ねぎを消化します。特にオニオンというスライスした玉ねぎは青魚の刺身のつまに最適で、臭みがあって相手に不快感を与えない外出しない日は思いきり食べるのです。今年も玉ねぎを植える季節がやって来たと感じながら植えました。多分毎年玉ねぎを植える時期は大相撲九州場所がある頃です。今年は暖かくてカメムシも死なないと農家の人は嘆いているようでした。


  「冬立ちぬ 玉ねぎの苗 菜園に 親父腰曲げ 私腰曲げ」

  「この冬の 眠りにつくか 玉ねぎの 苗に被せる 土の布団を」

  「今宵雨 降るかも知れぬ 思いつつ 暮れ行く畑 せわしく動く」

  「あれ穂に あった玉ねぎ いつの間に 残り少なく 寂しく軒に」

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