shin-1さんの日記

○私の経歴

 この歳になって履歴書を書くなんて思ってもみませんでした。昨晩大分県から帰って妻と二人で食事をとった後、パソコンに向かって所定の様式の空欄に自分の過ぎ越し半生を思い出しながら打ち込んで行くのですが、中々思い出せずに前に進むこともできず四苦八苦してしまいました。

 私の履歴書の職歴は、昭和38年家業である漁業に従事から始まります。当時私は宇和島水産高校の専攻科へ進む予定でした。ところが親父がガンに倒れやむなく帰郷し、親父に代わって若吉丸の船長になったのです。以来7年間も漁師をしました。しかし夜の遅い青年団と朝の早い海の仕事で疲労が蓄積したのかある日突然意識不明となり病魔に襲われて入院生活を余儀なくされました。この病気が元で公務員になったのですから世の中は分からないものです。いつだったか青年の主張の県代表になったとき朝日新聞が、「酒を飲み過ぎ夜更かしし過ぎて公務員になった男」と新聞で紹介したことを今も覚えています。

 その後役場に入り、教育委員会で社会教育、特に公民館活動をし始めてから、35年間の間に教育委員会13年、産業課4年、企画調整室10年、地域振興課10年、教育長2年しか異動していないのでそんなに書くことはないようですが、これ以外の副産物ともいえる役歴がたくさんあるのです。

 県社会教育委員、県青少年保護審議会委員、県青年団連合会会長、四国四県青年団連絡協議会長、県青少年団体連絡協議会会長、松山工業高校PTA会長、県高P連副会長、えひめ地域づくり研究会議代表運営委員、21世紀えひめニューフロンティアグループ代表、国土交通省観光カリスマ百選などなど書いてゆけば欄がなくなるほどの多さですが、人生の時々にこんな仕事をしたのかと改めて実感しました。


 さてその履歴書に添付する研究業績目録なるものも作らなければならず、適当に項目を書き抜いてみましたが、これもかなりの項目に上りました。その中でも夕日によるまちづくりはトップ項目で、かなりの故事来歴を書かなければなりませんが紙面の都合で3行にとどめました。ふたみシーサイド公園他2つの公園整備事業は75億年のビッグプロジェクトでした。花咲くまちづくり事業、人づくり20年計画の実施も忘れられない多くの成果を産みました。ホタル保護活動、県下最古の現役木造校舎保存運動、双海町誌編さん事業、予讃線海岸周り存続運動、無人島に挑む少年の集いも忘れられない思い出です。

 これが業績かどうかは他の人が決めることでしょうが、私も色々な仕事に携わってきたものだと改めて思いました。履歴者も職務業績ももう自分にとっては過去のことなので、大切なことはこれからどんな生き方をするのかが大事なような気もします。とりあえず私は人間牧場の活動に少し軸足を置いて活動してみたいと書きながら思いました。


  「この歳に なって履歴書 書くとはなあ 思い出しつつ 1行1行」

  「過去などは 何の意味など あるものか これから何が できるか勝負」

  「始まりは 漁師の二文字 活き活きと 生きた昔が 懐かしきかな」

  「夢持って 生きた昔が 懐かしい そんなお歳に なったのですね」

   


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shin-1さんの日記

○大分県日帰りの旅

 私が小学6年生の時の修学旅行は大分県別府でした。子どもの目線で見ていたからでしょうか、別府はとてつもなく遠い国のように思えたし、湯けむり立ち上る別府の町並みや楽天地、温泉地獄めぐり、高崎山の猿公園などはまさに夢の町での出来事でした。僅か2~300円の小遣い銭を握りしめて土産物屋の店先で買ったお土産も懐かしい思い出です。今も記憶の底に残って焼き付いているのですから、これほどインパクトの強い旅はなかったのでしょう。

 あれから半世紀50年余りの時が過ぎてしまいましたが、世の中は便利になったもので、昨日は大分県大分市に渡り講演の仕事をして夕方帰れるのですから驚きです。朝9時前に家を出て夕やけこやけライン(国道378号)、潮風メロディーラインを走りフェリー乗り場の三崎まで走りましたが、少し早目について着いて、予定していた11時30分より一便早い10時30分の船に乗ることにしました。運よくとでもいおうか佐賀関の渡辺又計さんから電話が入り、フェリー乗り場で待ち合わせる予定だった時間を早めてもらうことにしました。


 昨日は久しぶりの晴天に恵まれたものの海は秋徳友の北寄りの風が少し強く吹いて船は適当に揺れましたが、バスの団体が2団体も船室を陣取って賑やかな酒盛りが始まっていました。私は前日までの旅の疲れが残っているので横になりうつらうつらの居眠りでした。やがて70分で長くて高い佐賀関のシンボルともいえる煙突の見える港に接岸しました。車で乗船した人が殆どで、徒歩で乗った乗客は私一人でした。乗船は人間が先、下船は車が先のルールがあるらしく、船倉の中は排気ガスがもうもうと立ち込めて息苦しいほどでした。下船すると港には懐かしい渡辺さんの顔が見えました。夏に大洲市肱川の温泉宿で交流会をして以来の再開でした。


 渡辺さんの案内で関あじ関さば館を久しぶりに訪ねました。昼時だったので予約で殆どの席が埋まっていましたが、渡辺さんの顔で注文した関さば定食はすぐに用意され、顔なじみの店長さんも私の顔を覚えていてくれて少しの間店の状況について説明を受けました。まあ繁盛しているようで何よりでしたが、渡辺さんの指摘のようにこれからはインターネットを使った戦略も立てなければならないし、テラスを活用したレストランの拡張も急務だと思われました。渡辺さんにすっかり御馳走になってしまいましたが、やはり関さばの味は絶品で久しぶりに美味しいお刺身をいただきました。

 その後渡辺さんと別れ、迎えに来てくれたわさだ公民館の魚住さんの運転する公用車で約1時間走って、講演会の会場となる大分市わさだ公民館へ入りました。この日は市公連の研修会で約70人ばかりの人が集まっていました。「新しい発想で生きる」という演題で約90分ばかりお話をしました。公民館の発想を変えなければマンネリになること、そのためには職員や関係者が新しい発想をどう取り入れるかについてお話しさせてもらいましたが、あっという間の90分でした。でも午後の時間ながら誰一人として眠る人もなく熱心に聞いていただきました。木になるカバンについて女性から最後に質問があったのも記憶に残る場面でした。

 再び元来た道を魚住さんと談笑しながら引き返しましたが、私がフェリーの時間を間違えていて船は出た後でした。それでも30分遅れで次の便に乗ることができました。

 フェリー乗り場で知り合った宇和島から来たというライダーの若いお兄さんと知り合い、後になりつつ先になりつつ保内町の枝分かれまで夜道を走り、クラクションの合図で左折し妻の待つわが家へ9時に到着しました。


  「便利だね 大分日帰り できるとは 今日も充実 昨日と同じ」

  「関さばと いわれるだけの ことはある 昼から馳走 いただきました」

  「あちこちに 心許せる 仲間あり まるで兄弟 出会い嬉しく」

  「退職後 そこそこ生きる 友ありて 互いに安堵 再開誓う」 

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