shin-1さんの日記

○娘のマンションでの留守番と子守り

 今日は松山市道後にある娘のマンションで、留守番と孫の子守りを頼まれ一人出かけて行きました。来春小学校に入学する孫朋樹の学校での健康診断があるらしく、1歳5か月の孫尚樹の子守りをして欲しいというのです。私の予定表をチェックした妻が娘と相談して有無を言わせず私の予定表に「留守番と子守り」と勝手に書き込んでしまったのです。仕方がないので少し早く出かけました。今日は比較的天気もよくて気温も温かく、「まだ時間があるので温泉にでも入って来たら」と勧めてくれるので、車をマンションに置いて歩いて出かけて行きました。

 ものの5分程度の所に椿の湯という松山市営の温泉があります。温泉と言っても大浴場があるだけの公衆浴場のようなものですが湯質はきわめてよく、私は娘の家に来たついでに時々利用しているのです。真昼間の温泉はかなり空いていて、やはり地元の高齢者が圧倒的に多いようでした。ゆっくり温泉につかり久しぶりにのんびりしました。こんな時間だし、知らない人ばかりだろうと鷹を喰っていたら、いきなり「若松さんじゃあないですか」とお声がかかりました。はてさて誰だったかな?と記憶の糸を手繰るのですが中々思い出せません。それもそのはずで、「私はあなたの話を県民文化会館で聞きました」というのです。温泉につかりながらその時の話をしてくれましたが、はてさて正直な話覚えていないのです。体を流そうと風呂桶を持って洗い場に行くと、隣で洗っていた人がまた声をかけてくれました。その方は市役所の職員だった人で広域行政を担当していた頃出会った方でした。あれやこれや積もる話をしましたが、落々風呂にも入れない心境でした。

 湯からあがって外に出て商店街を歩いて道後温泉本館前まで行きました。昨日までの連休が終わったもののお昼時なのでそれなりの観光客が集まって盛んに記念写真を撮っていました。この界隈は区画整理によって随分立派になり、人力車なども停まっていてどこか懐かしい観光地の風情を感じさせてくれました。再び元来た道を引き返し、娘のマンションまで帰りました。私が出かけるときお昼ご飯を食べていた孫尚樹はすでに寝室で午睡の時間らしく、娘の差し出すお茶をいただきながら孫の昼寝に付き合ってソファーにゴロリ横になってウトウトしました。そのうち娘は学校へ出かけて行きました。寝室を覗きましたが孫はスヤスヤなので、私は娘のパソコンを開けブログを打ちはじまました。しかし勝手が分からず、マウスのないパソコンで打ったブログの内容を登録することができず、ついに幻の原稿となってしまったのです。

 孫尚樹は3時半までぐっすり寝込んで、私の子守りの仕事は手持無沙汰でしたが、そのうち起きてきた孫のオムツを替えたり、おやつを食べさせたり、本を読んでやったり、時には腹の上に乗せてアクロバットのような遊びまでして、楽しいひと時を過ごしました。そのうちコートを着せ靴を履かせて戸外へ連れ出し散歩をしました。言葉がまだはっきりと喋れないのですが「ワンワン」だけは言えるようで、あちらこちらから聞こえる犬の鳴き声を頼りに細い路地道を好き勝手に歩かせました。そのうち大きなお屋敷の塀の下でドングリがいっぱい落ちているのを見つけました。孫は喜んでそのドングリを拾い家に持ち帰りました。まもなく娘と一緒に帰った孫朋樹も一緒になって再び薄暗くなり始めた道をドングリ拾いに出かけました。

 今日は孫のお陰ですっかりのんびりすることができました。しかし都会のマンションは音もなく声もなく、隣に人の気配もなく、ましてや暑さ寒さの季節感もなく、田舎に住む私には少々息の詰まるような空間でした。

  「音もなく 人の気配も ない社会 田舎育ちの 俺には不向き」

  「お元気か? 声をかけられ 振り返る 思い出せない 知らないのだから」

  「孫の手を 引いて路地裏 のんびりと 映る人影 長く尾を引き」

  「パソコンで ブログ書くけど 記憶せず 結局消えて 元の黙阿弥」

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shin-1さんの日記

○身近な晩秋の景色

 楽しみにしていた11月の連休も、最後の日が雨にたたられながら昨日で終わりました。私のようなサンデー毎日な日々を過ごしている人間にとって昨日のような一日中の雨は、いい骨休めになるのですが、みかん農家やイベントを企画している当事者にとっては残念としかいいようのない恨めしい雨になったようです。

 私は久しぶりに会議や出張のスケジュールもなく、今月初めて家でブラブラできる休暇となりました。今月はまだ一週間を残しているというのに島根県松江市、長野県木曽福島町、大分県大分市、島根県益田市、高知県芸西村など、県外にも度々出て結構忙しい日々を過ごしました。今週末には東京へ行きますので、自分の行動範囲がかなり広いことを実感しているのです。

 昨日雨に濡れた家の周りの風景を見て少し驚きました。気がつかない間に家のすぐ前に見えるわが町のシンボル本尊山辺りはハゼやクヌギの紅葉が進んで見事な景色になって季節が動いていると実感できるのです。最近の里山は何処へ行っても杉やヒノキの植林が進んで常緑樹ばかりなので、季節感を感じられないと思っていましたが、こんな身近な場所にこんな素敵な風景があったのです。昔は植林もできない価値のない山だと思われ、車の入る林道や農道もなく放置されている山ですが、それがかえって一周遅れのトップランナーとなって自然林を残しているのですから、世の中は分らないものです。

 今朝裏山に登ってみました。雨上がりのしっとり濡れた草を踏みしめながら小道を歩くと、急斜面に昔からある柿の木の実もかなり熟していました。私が収穫しないものですからヒヨドリなどの恰好の餌場となっているのです。遠くで鳴く野鳥の声が長閑に聞こえてきました。柿の実が葉を落とした木に残っている姿は晩秋を表現するにふさわしく、絵になる光景です。折角だからと柿の実を4~5個枝につけたまま折って持ち帰り、玄関先の大きな花瓶に活けてみました。部屋の中へ秋の風情を持ち込んでみたのです。しかし残念がら華道など知らない無趣味な私には上手く表現できませんでしたが、妻は「まあ綺麗」と褒めてくれました。

 私のブログ「shin-1さんの日記」にも度々登場するわが書斎の前に置かれている庭石に張り付いて生きるシノブもすっかり紅葉し今は秋の色を見事に表現してくれています。朝な夕な書斎の窓越しに見えるシノブは、私に季節の移ろいを感じさせてくれる道具立てかも知れないと思いました。葉を落とした丸裸の冬、燃えるような芽吹きの春、緑濃く生い茂る夏など、たったひとつの庭石と植物が織りなす詫寂の世界なのです。この庭石に昨冬は孫朋樹と割りばしに輪切りのみかんを置き、野鳥の餌付に挑戦し、メジロやヒヨドリを呼び寄せ、野鳥観察までしましたが、今年もそんな冬の楽しみも味わいたいと思っています。

 季節は確実に寒い冬へと向かっています。今朝の裏山から遠望する瀬戸内海は漁船が出漁するエンジンの音も賑やかでした。

  「晩秋を 庭に見つけて 写真撮る 間近な冬を 感じさせつつ」

  「時流れ 職辞してから 早四年 仲間はすでに あの世旅立つ」

  「ヒヨドリの 声も長閑けき 裏山に 登りでハゼの 赤き下行く」

  「雨あがる 濡れ草踏んで 路歩く 長靴の中 少しひんやり」  

賑やかでした。

 

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shin-1さんの日記

○大根の調理

 私は外では男女同権だのと格好いいことを言っていますが、こと家に入ると家事一切を何もしないし何もできない男なのです。ですからこれまで家でご飯を炊いたこともないし、一度だけ妻が入院した時子どもに牛丼を作って食べさせたことがあるだけで、後にも先にも調理などしないのです。私のことを妻は二重人格だと思っているようですが、私には私の仕事があると、これまでは何とかそれで済んでいました。

 私が子どもの頃の教育はまさに「男子厨房に入るべからず」の教育でしたし、わが家は漁家なので特に封建的で船の神様は男が仕切るものと決められていました。ですから正月の元旦だけはもう中学生の頃から雑煮だけは長男である私が親父の指導を受けてやっていました。家庭での料理といえばただそれだけで、何もせずに男風を吹かせているのですから、二重人格といわれても仕方がないのです。

 昨日と今日は孫たちがやって来て賑やかに楽しく過ごしましたが、妻にとっては子どもたちの2家族が三食を食べるのですから、まるで目の回るような忙しさだったに違いありません。子どもたちもそのことが分かっているのか近頃は連休の最終日は昼ご飯を食べると早々に色々な食材を土産に帰ってゆくのです。今日も午後3時ころに帰って行きました。妻は土曜日が一日仕事のためこれで今週も家でのんびり休むこともできず、来週につないで行くのでしょうが、年齢的にもう60の坂を越えているのでかなり疲れた様子なのです。

 子どもたちが帰ったので妻は「温泉へでも行きたい」と私を誘いましたが、私はあいにく原稿の締め切りに追われているため、妻は一人で出かけました。出かける折私に「大根を畑から取ってきて輪切りにして湯がいておいてくれない」というのです。私はそんなことしたこともないので、「そんなことできない」と突っぱねて書斎で原稿を書いていました。

 やがて原稿の一つが書きあがったので、気分転換に外に出ました。ふと妻の言葉を思い出して、畑に行き大根を引き抜いて水洗いしました。そしてテレビなどのおでんを作る番組で見た大根の輪切りを見よう見まねでやってみました。まず大根を適当な厚さの輪切りに切り、桂剥きのようにして皮を取りました。そして上下の面を取って太鼓のようにしました。鍋に大根が浸るくらい水を張り、ガスコンロにかけて火をつけました。それから約30分コトコト茹でました。本当はこれまでは下ごしらえでここからが調理なのでしょうが、妻からの依頼はここまでなので、妻が帰ってから味付けして食べるようにする予定です。今日は外も朝から一日中雨なので親父の夕食も6時ころには持って行かねばならないため、午後5時過ぎにはわが家へ帰ってくるでしょう。よく出来たと褒められると嬉しいのですが、また次回もお願いといわれそうなのでとりあえずこれ以上のことはしませんが、親父と同じようにもうそろそろ我を張って何もしないことを誇りのようにするのはやめて、少しでも妻の仕事をカバーできるようになりたいものだと思った次第です。


  「大根を ただ洗うだけ 湯がくだけ それでも進歩 一歩進んだ」

  「もし何か あったら俺は 生きられぬ 何にも出来ぬ 駄目な亭主だ」  

  「休みなく 働く妻に 感謝して ここまでならば 誰でもできる」

  「大根が コトコト音を たて踊る 今夜はこれが 胃袋中へ」

 

  

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shin-1さんの日記

○孫朋樹6歳の誕生日

 今では私の相棒といわれる孫朋樹が昨日6歳の誕生日を迎えました。早いもので来年は小学校へ入学するのです。孫朋樹は私たちにとって初孫だっただけに、その成長は私たちにとっても生きがいになってきました。その後尚樹、希心と男の孫ばかりが誕生して3人となりましたが、私の定年後の良き相棒となって、特に人間牧場をフィールドにしてよく遊び、よく育ってくれました。自分の子どもの子育ては仕事の多忙さゆえに殆ど妻に任せっきりでしたが、孫は目に入れても痛くないほど可愛くて、木心も合って随分行動を共にしてきました。それでも最近は私の仕事が忙しかったために約2ヶ月近くも出会いがなく、この週末も私が出かけていて、昨晩やっと出会ったのです。

 誕生日が来て6歳になったから余計思うのかも知れませんが、孫朋樹も随分成長して大きくなりました。わが家のダイニングにある大きな柱には、わが子や親父、母、妻の成長が一目で分かるようマジックインクで印をしているのですが、孫朋樹の成長はこのところ著しいようです。自分もそのことを自覚しているようで、最近では弟尚樹の面倒をよく見て、今日も弟に御飯を食べさせる手助けをしてくれていました。

 私がブアメーバブログにブログを書き始めて3年余りが過ぎましたが、私のブログには朋樹のことが常連的に度々登場するので、ブロガーたちにはもうなじみの顔で、時々朋樹の近況を聞かれることがあるのです。またいつも私の金魚のフンのようについて歩いているため、シーサイド公園やまちづくりグループではすっかり顔なじみの人ができているのです。

 昨日は私が帰るのを待って夕方朋樹の誕生会を開きました。あいにく娘婿は勤め先である大学の入学試験のプレゼンテーションがあるとかで、誕生会には間に合いませんでしたが。長男の家族も駆けつけ賑やかな誕生パーティーとなりました。妻の用意したバーズデーケーキに6本のローソクが灯され、みんなでハッピバーズデーの歌を歌いました。そしてローソクの灯が朋樹の息で一気に勢いよく消されましたが、得意満面な成長した朋樹の姿にみんな目を細めました。やがてケーキか切られ、切り分けたケーキを食べながらみんなで楽しいお話をしました。そのうち娘婿も帰ってきて楽しいひと時を過ごしました。

 ふと私はこんな可愛く素直な孫たちのような子どもが、大きくなったら何で親の言うことも聞かない人間になるのだろうと、不思議に思いました。確かに子どもは年齢を重ねる度に反抗期を繰り返しながら成長していくのですが、そのプロセスの中で周りの人の育て方が誤ると、とんでもない方向へ向かう危険性をはらんでいるのです。

多分孫朋樹もそんな反抗期の階段を駆け上がっていくのでしょうが、せめて私の子どものように人間的に温かい普通の人間になってほしいと願っています。

 昨晩は久しぶりに孫朋樹と一緒に風呂に入りました。そして頭や体を洗ったりしてやりましたが、孫は何を思ったのか、「おじいちゃんも洗ってあげる」と私の背中をタオルでゴシゴシ洗ってくれました。人生最高の幸せだと思いました。来年からは長女の次男尚樹と長男の長男希心が少しばかり大きくなってまたおじいちゃんの役目が必要になるでしょうが、朋樹同様私にできることをしながら孫育てに一役果たしたいものです。

 わが家も何だかんだと言いながら、90歳になる親父も私たち夫婦もどうにか元気だし、息子二人はまだ未婚で気がかりですが、長女夫婦、長男夫婦の家族もそれぞれ幸せそうにに暮らしていて、ひょっとしたら今が一番幸せなのかも知れません。幸せとは幸せと感じる心なのです。

  「孫六歳 ケーキに差したる ローソクを 一気に消して 頼もしきかな」

  「金もなく 地位も名誉も ないけれど アットホームで どこか幸せ」

  「おじいちゃん 背中を洗って あげようか 孫のいきなり お目々ウルウル」

  「俺などは 六歳頃は 字も書けぬ 今時子ども 何でもござれ」

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shin-1さんの日記

○白滝の紅葉を訪ねる

 地域教育実践交流集会が終わり、午後1時ころ国立大洲青少年交流の家を解散お暇したので、連れの松本宏さんの車に便乗して帰りました。昨日行く時は長浜町今坊にある慈光寺という久保さんが住職のお寺さんに立ち寄りました。ここはハゼとイチョウの紅葉が見事なはずだから、少し早く出て寄り道しようということになったのです。昨年のこのころ、三崎町へ行く折訪れた時の印象が余りにも目に焼き付いていたためです。しかし今年は季節が少し遅れているようで、残念ながらイチョウもハゼもまだ紅葉には少し早かったようでした。それでもお寺の庭からは青島が一望でき秋の眺望を満喫することが出来たのです。また沿線には野菊やツワブキの可憐な花が今を盛りと咲いていて、目を楽しませてくれました。

 そんなこともあって、昨日行く時に帰りには瑠璃姫祭をしている白滝に立ち寄ろうと話していたのです。昨日は白滝の入口にある玉井石材にも立ち寄り、上島町に移住してこの度「島カフェ」や「会社を立ち上げる、年輪塾塾生である兼頭さんに何か祝いの品をと考え玉井石材で、フクロウの置物を3個買い求めました。フクロウをおふくろ「恩への感謝)、月給袋(経済的繁栄)、胃袋(健康)に見立てた物語を即興で考え付いたのです。都合よく玉井石材の社長もいて送ってくれることになったのです。

 白滝にさしかかったので石材店前の肱川堤に車を止め、玉井さんとあいさつを交わして川沿いの道をゆったりとした歩調で登って行きました。この日は3連休とあって、かなりの人が上り下りをしていました。中には顔見知りもいて暑くもなく寒くもない午後のひと時を松本さんと二人登りましたが、松本さんは100キロ超級なのでかなりきついようで、60歳を超えた私の方がペースが速いようにも見えました。松本さんは一昨日、高知県馬路村魚梁瀬の千本山へ登山したばかりなので、それが響いているのではないかと思われましたが、逆に私は自分の体調に自信が持てるほど快調な歩きっぷりでした。滝の頂上付近から見える白滝の家並みもどこか懐かしさが感じられました。

 最近の雨のせいでしょうか、滝の水は予想以上に流れていて、幾筋も滝の流れが見え、紅葉した紅葉と見事にマッチしていました。昔は臨時列車も止まるほど近郷に名の知れた名所でしたが、今は滝祭りや瑠璃姫祭りしか人手がないと地元の人もこぼしていますが、今日ばかりは地元の人が車の交通整理に出て駐車場に誘導するほどの人出だったようです。

 何日か前、信州木曽福島で日本一の紅葉の姿を見ているため、左程の驚きではありませんでしたが、それでも滝と紅葉のコラボレーションは実に見事で、いい目の正月をさせてもらいました。水車小屋では鉄製の水車が勢いよく回り水車小屋の中ではうどんやソバが作られていましたが、自然エネルギーを使った水車の音がどこか懐かしい田舎の郷愁を醸していました。

  「滝麓 何処か懐かし 水車小屋 暗き明かりで ソバうつ親子」

  「よく見れば 中国人の 声がする 国際的に なった白滝?」

  「風流を 楽しむ余裕 ないけれど せめて身近な 紅葉で一句」

  「元気かい すれ違いざま 声をかけ 通り過ぎたる はてさて誰か?」

 

 

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shin-1さんの日記

○地域教育実践交流集会

 昨日と今日の二日間、大洲青少年交流の家で地域教育実践交流集会が行われ参加しました。この交流会は讃岐先生の呼びかけで、村上伸二さん、塩崎千枝子さん、白方雅博さん、それに私がお世話人になって実行委員会を組織して半年をかけて準備を進めてきた集会です。これまでにも青少年をめぐる集会は沢山行われてきましたが、その殆どは行政がらみの集会で民間の有志が集まってこの手の集会を開くのは珍しいことなのです。

 170人を超える人が申し込み、昨日の午後は沢山の分科会が持たれました。参加した人たちはそれぞれ所属する団体のフェイスシートを提出し、分科会に臨みましたが、私の所属する21世紀えひめニューフロンティアグループからも、大野事務局長が参加し事例発表を行いました。準備の都合で分科会には参加できませんでしたが、事例発表に基づいて活発な議論が行われたようです。


 

 この日は私と桑原小学校の校長である堺雅子先生とお二人で卓話をすることになっていたのです。そのシナリオによると、ステージにしつらえた畳敷きにやぐらコタツをを置き、作務衣を着た二人が対談をするようなのです。既に白方さんが東南アジアのHIV関係者が作り国内で販売している作務衣を二人分用意してくれていて、私たち二人は似て似つかぬ服装で登場することになったのです。分科会が終わり参加者は全員大ホールに集まりました。私と境先生は殆ど打ち合わせもなくアドリブで話し始めました。主に①自己紹介、②これまでどんなことをしてきたか、③この頃感じること、④これから何をなすべきか、⑤まとめというストーリーで話し始めました。堺先生とは旧知の間柄なのでまあ息もぴったりで話し込みました。

 私は青年団活動8年で得た仲間、ふるさと、主張、感動する心という4つの道具の話、21世紀えひめニューフロンティアグループの20年に及ぶ活動を話しました、またこのごろ気になる家族の人間関係、失敗経験をさせない今の教育の在り方、子ども社会と大人ys会の関係についても話しました。

 私が目指す人間牧場での青少年教育は地域力を育てる教育であり、人間力を高める教育を目指していて、そのことを熱を込めて訴えました。堺先生の話はコメントを避けますが、楽しい二人の話は参加者に好印象を与えたようでした。

 その夜は楽しい交流会が延々と続けられ、名刺を交換しながら、またお酒を飲みながら団体や個人の紹介をしながら楽しい交流ができました。中には高知県や香川県など県外組の参加もあって、これまで顔は知っているものの殆ど知られていなかった活動の全容が随分明らかになり、ネットワークの広がりを予感させてくれました。

 今日は元文部省生涯教育局長で現(財)日本生涯学習総合研究所理事の伊藤俊夫先生の「子どもたちは社会のかすがい」と題した講演を聞きました。先生には私が若いころ、社会教育行政は①指導者養成、②指導助言、③条件整備の3つがあることを教わった先生です。久しぶりにお元気な姿やお声を聞いて安心しました。昨晩は飲みながら楽しい話を聞きました。

 昨日・今日の集会には久しぶりに知人友人、旧友などなど、沢山の懐かしい顔々が集まりました。思うに昨日集まった方々は本当に社会教育を愛している穂人たちではないでしょうか。私もお世話人の末席を汚しているので、何人かの人たちに参加しないかと声をかけました。しかし残念ながら手合いの良い理由をつけて参加を断られました。社会教育を仕事にしていた頃の情熱は何処へ行ったのかと思うように、社会教育を去ると目覗きもしないのです。多分あれは仕事だからやっていたのだろうと勘繰りたくもなるのです。

 まあそんな人たちは所詮本物の社会教育人ではないのだから、とやかくいう必要もないのです。問題は自分がどういう思いを持続できるかだけです。私はこれからもしっかりとそのことをわきまえて、社会教育で育ててもらった恩返しをしたいと心に誓いました。


  「来ないかい 誘ってみたが 理由つけ 断る人の 何と多いか」

  「懐かしき 顔々揃い 握手する 血潮未だに 衰えもせず」

  「一度だけ 会っただけだが 鮮明に 覚えています あの日あの時」

  「作務衣着て 壇上炬燵 座り込む 卓話楽しや 美女と野獣が」 

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shin-1さんの日記

○何を求める 風の中ゆく

 一昨日の夕方、西条からの帰り道、わが家への帰り道信号を通り越して、シーサイド公園へ足を伸ばし、暮れなずむ海岸辺りを散策しました。このところの急激な寒波で、海は荒れて寒さを一層感じさせましたが、それでも夕日や夕焼けを楽しもうと、何組かのカップルが体を寄せ合って西の空を見つめていました。

 これまで幾度となく夕日にまつわることを仕掛けてきた私にとって、夕暮れ時ともなると何となく気になって、暇さえあればこんな訳のわからない動作を繰り返している自分にハッと気づくことがあるのです。はてさて私は何を求めて動いているのだろうと・・・・。まさに山頭火の句の中にある「何を求める 風の中ゆく」といった心境でしょうか。それでも夕日や夕焼けに向かうと何故か、日々の忙しさに悩殺され自分を見失っているゆえに、自分というちっぽけな人間の存在にハッと気づくのです。


 

 人間はどこから来てどこへ去って行くのか、こんな哲学めいた気持を呼び起こしてくれるのも夕日なのです。私はこれまで様々なことを起こしてきました。多分同年代の人の中でも田舎の人間にしては波乱に富んだ半生であったと思うのですが、何かをしようとうする度にこうして夕日と向かい合い、自分の心の中の扉を開けて、自分というもう一人の自分と向かい合って話しをしてきたのです。やるべきかやらざるべきか、前へ進むべきか後退すべきか、常に心の中で自問自答してきました。すると不思議なことに何か分からないパワーのようなものを感じ、そして色々な発想が浮かんでくるのです。夕焼けコンサートを思いついた時も、反対と怒号の中でシーサイド公園を整備する時も、常に生き生きと冷静に対峙することができたのです。多分それは太陽のエネルギーをいただいたのだと思うのです。


 もう私にはそんなに大きな夢がある訳でもなく、日々を着実に生きるだけですから、太陽のパワーなど必要はないのですが、それでも残された余生をどう進化しながら生きるか、人生の仕上げの年代に入っているだけにささやかながらどう生きるかは私にとって大きなテーマでもあるのです。

 一昨日思いもかけぬ光景を見ました。シーサイド公園の砂浜で若いカップルが結婚衣装でオリジナルな記念写真を撮っていました。この寒空に何て物好きなと思うかも知れませんが、彼や彼女にとってここは人生のスタートであり思い出のアルバムでもあるのです。新しい発想がにわかに浮かびました。

 もうひとつ、恋人岬の突堤にあるモニュメントの穴の中に夕日を入れて写真を撮ってみました。夕日はもう西の端辺りに沈むため、穴は三日月のような位置でしか見えませんが、三日月と太陽もこれまた新しい発想でした。また夕日に双海町のシンボルである本尊山がまるで赤富士のように映えて見えました。これら全ての目に映ったものはシーサイド公園ができてからこれまで、見たこともない光景でした。既成概念にとらわれることなく新しい位置と目の角度で見るとまた新しい発見があるのです。このひらめきを家に帰って早速文字と絵に書いてみました。また新しい夢が泉のごとく浮かび上がってき始めました。

  「いつも見る 見慣れた姿 時として 違って見える 心一つで」

  「山頭火 何を求める 風の中 ゆくと詠んだが 俺にはとても」

  「赤々と 燃えて黄金の 本尊山 神々しくも 照り映え見える」

  「秋過ぎて 冬来たりなば 海荒れて 春待ち遠い 心沈みぬ」 

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shin-1さんの日記

○おらんちの夕日もまっこと綺麗ぜよ

 日本全国を旅していると、夕日を売り物にしている私に喧嘩を吹っ掛けるような雰囲気で、「あんたの夕日には負けず劣らずわが町の夕日も綺麗です」という人が沢山いて、その度に私は「それがどしたん」と反返してやるのです。昨日も高知県芸西村のイキイキ会に招かれて講演に出かけ、その席で随分何人もの人から芸西村琴が浜海岸の夕日は日本一だと聞かされました。特に会場となった芸西村民会館という文化ホールの緞帳はことが浜の松林にと太平洋に沈む夕日を美しくあしらっていたし、就任2週間目の村長さんの話でも出てきたのですから、いよいよ本物の夕日なのでしょう。また会長さんの挨拶やエコをテーマにした寸劇にもアドリブで双海の夕日と比較した琴が浜の夕日が紹介されて、いよいよその美しさを見てみたくなりました。

 実は最近ラジオのニュースで芸西村から室戸岬に至る海岸でダルマの夕日が見えるスポットを紹介するパンフレットが広域で作成されているという情報を聞いていました。高知県の西の端に位置する宿毛のダルマ夕日は既に夕陽百選にノミネートされていますが、芸西界隈の夕日はまだ見たことがないのです。

 幸いこの日の集会は午後6時からということだったので、少し早目の明るいうちに高知県入りし、芸西の海岸に立って夕日を見ようと思い出かけました。途中馬路村で行われた観光カリスマ塾に参加して帰途についていた地域政策センターの谷本さん、清水さん、松本さんから電話が入りましたが、車を止めて電話を聞く余裕がなく出そびれてしまい、多分南国か香南でニアミスしたようでした。それでも何とか芸西に入って西のsらの明るさに気づき、やばいと思いつつローソンに車を止めて小走りに海岸に出ました。

 高知県の海岸は台風の高波や、予想される南海地震の大津波から背後に暮らす人々の生命と土地を守るためまるで見上げるような大きな防波堤が延々と築かれているため、国道沿いから夕日は見えないのです。わが町のように国道のガードレールさえ景観に配慮してパイプ製にしているのとは大違いなのです。点滅信号のボタンを押しても中々信号が変わらずイライラしながら海岸に小走りで出てクジラの背のような防波堤を一気に駆け上がりました。まさに間一髪美しい夕日を拝むことができました。

 この日の夕日は雲があって必ずしも100パーセントではありませんでしたが、それでも弓なりになって太平洋に広がる大海原の向こう沈もうとする夕景は絵になる光景でした。多分芸西の位置からして夕日が沈むあたりには坂本竜馬が立っている桂浜辺りではないかと、寒風の中夕日に向かって立つ若松進一自身を坂本竜馬の姿にダブらせ、何とも言えない気分に一人浸りました。



 昨夜の集会は大そうたまげました。人口4千人ほどの村なのに300人もの女性が集まってホールは割れんばかりの盛り上がりです。プログラムはあいさつと寸劇などの催し、手づくり皿鉢料理の試食夕食交流会、講演会の三本立てでしたが、高知新聞が全面的にバックアップしているため、その日の新聞をパソコンで作成して配るなど、まるでどこかのフェアーのような雰囲気でした。会場の三方を埋め尽くした料理にも度肝を抜かれましたが、いやはや皆さんの食欲をまるで蜂の巣をつついたような雰囲気で、気の小さい?私などは圧倒されてしまいました。それにしても芸西は施設園芸発祥の土地だけあって、ナスのタタキは絶品ででした。

 私の講演は19時40分から約1時間でしたが、いやあ大いに盛り上がり、結果的には21時まで話してしまいました。マイクの調子も話も絶好調で楽しい集会でした。


  「おらが町 夕日が綺麗と 自慢する それがどしたん 金にもならぬ」

  「久し振り いい集会に招かれて ワンマンショーに 酔い知れ話す」

  「瀬戸内と どこか違うな 高知県 やる事全て 大海如し」

  「この村の 底の力を 知りました 三百人もの 女性集まる」

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shin-1さんの日記

○吊るし柿を作る

 昨日は西条市庄内公民館から講演の依頼があって桜三里の峠を越えて出かけて行きました。峠を越えて間もなく西条市の看板が見えました。そういえば東温市の次はもう西条市なのです。平成の大合併でこんな錯覚をよくしますが、私のお目当ての庄内公民館は旧東予市なのでカーナビに沿って進みました。この2~3日の冷え込みで石鎚山系は頂上に雪をいただき雄大な姿を見せていました。

 晩秋の旧丹原町は柿の産地だけあって、道沿いの畑は一面柿畑で、オレンジ色に色づいた柿の実が寒そうに震えて見えました。家を出る時妻が「丹原辺りをを通るのであれば、吊るし柿にするので渋柿を少し買ってきてね」と頼まれていたので、目敏く見るのですがそれらしき店は見当たらないのです。魚所のわが町で魚屋さんが少ないのと同じだと納得しながら、少し余裕の時間を見て出発したため回り道をしてみました。すると一軒のかなり大きな市場を見つけました。伊予市でいうと仙波青果のような店です。この店は何でも売っていて私のお目当ての柿も一箱売りで売っていました。少し小ぶりなためか一箱が500円という安値です。妻の顔を思い出しながら買い求め車のトランクに入れました。



 庄内公民館は庄内小学校に隣接していて何度か来たことがあるので直ぐに分かりました。館長さんが玄関までで迎えに出ていただきました。聞けば私の友人近藤誠さんと近い親類、つまり従弟だだそうで二度三度予の中の狭さを実感しました。近藤さんとはまちづくりを通じて知り合い、彼ら夫婦の仲人までやっているし、今はえひめ地域づくり研究会議の代表運営委員を一緒にやっているのです。これまでにも多分結婚式や葬儀で出会っているのでしょうが、この日は初対面の対面をしました。冬の寒さゆえ人の集まりは今一でしたが、参加した人たちは終始熱心に私の話に耳を傾けていただきました。

 講演が終わって一直線わが家に帰ると妻は夕食の準備をしていました。購入した柿を見せると「まあ安かったのね」と褒めてくれましたが、食事が終わったら皮をむいて吊るし柿を作ろうと誘われました。面倒臭いたちなのですが自分が買ってきた手前断るわけにもゆかず、テレビを見ながら皮をむき、ビニールの紐で縛って10個余りの連を8つばかり作りました。残念ながら10個くらいはヘタの上のT字型枝が取れていたので、菜箸を使って2連は面白い恰好のものを作りました。洗濯物干し場はもう真っ暗なので、風呂場の電気をつけ薄明かりの中で物干しざおに吊るして行きました。二人の連係プレーも良かったのか小一時間で全て終了です。このところの冷え込みや季節風で20日間もすれば美味しい干し柿ができるものと思われます。私は星が気が大好きなので、今年の冬も美味しい干し柿を賞味できると喜んでいます。それにしてもあんな渋柿が甘い干し柿になるなんて誰が考えたのでしょう。

  「秋夜長 妻と二人で 皮をむく 干し柿八連 干し場に吊るす」

  「渋柿が どうして甘い 干し柿に なるのか未だ 分からぬままに」

  「干し柿を 見れば必ず 思い出す 盗んで食べた 幼き頃を」

  「この柿が 五百円とは 安過ぎる 農家の手取り 幾らになるか」

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shin-1さんの日記

○私は若松の親戚です

 私が住んでいるのは平成の大合併で再編されたと言いながら、松山市内の一校区にも満たない伊予市という4万人足らずの街です。しかもその中の人口5千人足らずの双海町という所です。私はこれまで物心ついてからずっと「愛媛県伊予郡双海町の若松といいます」と自己紹介していました。ところが3年半前に合併したため自己紹介では「私は愛媛県伊予市双海町の・・・・」と言わなければならなくなりました。伊予郡という呼称はもう小林旭の「昔の名前で出ています」という歌の文句と同じようになってしまい、双海町という自治体は地図上から消えてしまったのです。でも合併の折旧町名を残したためかろうじて、双海町という名前は使えるのです。

 そんな小さな田舎町に住んでいますが、「若松さんは若松○○さんと親戚ですか?」と言われることが時々あります。その都度記憶を蘇らせて、あの人はと親類の糸を手繰りながら「私の父方の従兄でして」と説明をするのです。実は田舎というのは同じような姓に家が沢山あるのです。私の親父も12人兄弟の長男ですし、その親父の親父、つまり祖父の代を含めると数えきれないほど「若松」という姓の家が町内にあるのです。でも同じ若松という姓でもまったく関係のない家もあるのですから、余程日頃からルーツを知っておかないと、間違いも起こるようなのです。その例は、私の町内に「わかまつしんいち」というひらがなで書くと同姓同名の人間までいるのです。その人は若松新一と書いて「わかまつしんかず」と呼ぶのですが、若松新一は「わかまつしんいち」とも読めるため、手紙や宅配便の誤配がこれまでにも何度かありました。まあ若松新一さんは私の従兄なので笑ってすまされますが、時々とんでもないハプニングが起こるのです。

 田舎に行くと3つ~5つくらいな姓しかなく、「○○さん」と言って姓だけいっても言葉が通じないことがよくあるので、特に島に行くとそんな混乱がよくあるようです。

 私は全国や県内をくまなく歩いているので、それなりに名前が知れ渡っているため、親類の若松さんや他人の若松さんは時々前述のように「若松進一さんと親戚ですか?」聞かれるそうです。その都度「あの人は親戚の~」とか、「あの人とは親戚ではないんです」と説明するのですが、面倒くさい時は「親戚です」いってしまうことだってあるようです。特に「あの人が親戚だと言っていた」という話を聞くと、むげに「他人です」ともいえず適当にお茶を濁してしまわなければ相手に失礼なことだってあるのです。


 何年か前親父と話していると、「親戚から親戚と言ってもらえるような人になれ」と言われました。もし私が何か過ちを犯し新聞やテレビ沙汰になったら多分親類の人は「昔は親類でもあの人とは付き合っていないので」と、私との関係を否定するでしょう。ところが私が何かいいことをすればたとえ親類の縁が遠くても「私は登園にあたります」と言うに違いないのです。親父の諭しの言葉は後者の人間になるようにとの言葉と受取今日まで一生懸命生きてきましたが、はてさて親父の言うような人間になり得たかどうかは未だに疑問の残るところです。これからも「若松進一さんと親戚です」と胸を張って言ってもらえるような人間を目指したいと思っています。

  「親戚と 言われるような 人になれ 親父諭され 今日まで生きた」

  「若松の 姓を名乗って 六十年 双海冠 少し小声に」

  「市民だが 未だに旧町 名乗ってる そろそろ改名 昔の名前」

  「若松と 言っても姓が あり過ぎて しんいちさえも 同姓同名」

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