shin-1さんの日記

○小学校の卒業式

 先日地元の中学校の卒業式に招かれ感激した涙もまだ乾かないのに、今度はやはり地元の小学校の卒業式に列席しました。中学校の卒業式に比べると、小さな子どもゆえ、感涙咽ぶような涙はありませんでしたが、それでも純真さが漂って、とてもいい雰囲気でした。

 卒業式は体育館で行われましたが、式典は全てステージを使わずワンフロアーとして使われたことが中学校と小学校の大きな違いでした。更に中学校のように送辞・答辞を特定の個人が行わず、みんなが主役というのも大きな違いでした。

 先日の中学校の卒業式もそうでしたが、この卒業式も「気をつけ・礼」などという、私たちが経験した軍隊式の規律はなく、実にてきぱきとこなしていました。今日の卒業式で感心したことが二つありました。6年生担任の大山先生が卒業生の名前を読み上げる時、何の台本も持たずに宙で言ったのです。普通は台本か台帳のようなものを見ながら読み上げるのですが、大山先生は見事に卒業生全員の名前を呼び上げました。僅か13人の卒業生だからそんなの当たり前だと言えばそれまでですが、あんな緊張した式典の席上で、中々言えるものではありません。大きい学校が持て囃され、小さな学校が肩身の狭いような雰囲気の昨今ですが、担任の先生が子どもの名前を丸暗記する何でもないことが出来ない先生が多い中で、とても立派な出来事だと思いました。

(卒業証書授与)

 卒業生と在校生が向き合い、片方に先生と両親、そしてもう片方に来賓と、見慣れた光景ではありますが、全てが見える配置は素敵でした。

(在校生)
(PTAやご両親)
(13人の卒業生)

 もう一つ嬉しかったのは、卒業生が最後に自分の夢を発表する姿でした。「私は学校の先生になりたい」「私は看護師になりたい」「私は動物園のキーパーさんになりたい」「サッカー選手になりたい」「人を助けるような仕事がしたい」「医者になって人を助けたい」などなど、とても立派な決意でした。私が小学校を卒業した頃とは随分違っているなあと思いつつ、耳を傾けました。今日発表した夢が中学生になると学力や体力の程度が分り、砕けて行くのですが、せめてこれらの夢を追い求め続けて欲しいものだと思いました。

 私は小学校5年生の時、図書室で読んだ「ジョン・万次郎の生涯」という伝記に感化され、アメリカへ行きたいという大きな望みを持っていました。「アメリカへ行って何をするの、何になるの」といわれればそれまでなのですが、そんなささやかな夢を持ち続けた結果、30歳の時本当に建国200年のアメリカへ行くことが出来、自分の人生観が大きく変わったのです。「まだ小学生だから夢なんて」と思うかも知れませんが、どうして、今日の夢は自分の人生を決めてしまうような夢になるかもしれないのです。

 卒業は新たな旅立ちです。後2週間もすれば今日の半ズボンであどけない姿が一変し、詰襟の学生服に変わって、大人のような格好をするのですから不思議です。

 中学校でも純真な今日の気持ちを忘れないで欲しいと願っています。

 来賓照会で「学校評議員の若松さん」と紹介され、ふと我に返った私でした。

  「将来の 夢を大声 堂々と このまま強く 生きて欲しいね」

  「四年間 この学び舎で 校長も 人事異動で 隣の街へ」

  「半ズボン 明日から長く なりにけり 子どもと大人 丁度境目」

  「手を振って 馴染みの子ども 合図する 人偏牧場 出会い度々」



 

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shin-1さんの日記

○懐かしい二本の電話

 昨夜懐かしい人から相次いで二本の電話がかかってきました。一本は私が携帯を書斎の机の上に置いて別室居間で大相撲観戦中らしく、留守電メールが入っていました。その電話の主は現在横浜に住むHさんという女性です。Hさんといっても、別に変なHではなくなめの頭文字がHさんだけなのです。Hさんと私は第十回総理府派遣青年の船に乗って建国二百年のアメリカへ行った旧友女性です。彼女は八幡浜出身で既婚ながら旧姓を名乗っているところを見ると養子さんなのでしょう。昨年の秋に里帰りした折出会い、その後何度か電話をいただきましたが、今回は春の彼岸のお墓参りらしく、今日会えないかという相談でした。私の今日の予定は朝から地元小学校の評議員をしているため、卒業式に出かけるが、午後は夕方の会議まで空いていると、これまた出ない相手の携帯に留守電で連絡しました。

 夜10時頃だったでしょうか、彼女から電話があって「明日午後2時28分伊予市着の八幡浜発特急宇和海で来るから、夕方の飛行機で帰る予定なので空港まで送ってね」の以来に、市もにもなく約束しました。彼女と何でこんなに頻繁に電話するかというと、今年の秋10月、私と彼女が所属している第十回青年の船班長会を松山ですることになっているようなのです。彼女が受けた計画なのですが、班長会には最初の頃東京であった一度きりしか参加していない私にとっては、縁の遠い集会なのです。というのも青年の船を下りてからこれまでの33年間は私にとって、命がけの仕事だったため、年に一度といいながらハワイでもやるような班長会へ出席する余裕は正直なところなかったのです。毎年届く班長会の案内に行きたい気持ちを押さえながら悶々した時期もありましたが、「あいつは来ない班長」と烙印を押され悪口三昧を言われている班長会が、いつの間にか遠い存在になっていました。その間何人かの班長と出会う機会もあったっり、昨年は奈良のT班長と仕事で出会うこととなり、ついに「若松が来ないのなら愛媛でやろう」と欠席裁判に掛けられ、Hさんも手伝うからという条件をつけた愛媛での集会が計画されているのです。今日のHさんとの出会いで更にその計画は進むような雲行きです。

 もう一本の電話は、高知県四万十市に住むWさんです。昔は「おいこら」の間柄で頻繁に交流していましたし、最近も妻にアロエクリームを送ってくれるなど、今も良好な関係が続いている、合併して村役場職員から大出世して市役所の職員になった方です。彼は高知の人全てがそうだと思うほど酒が大好きです。私も昔は彼たちと夢を語りながら深夜まで酒を酌み交わしていました。体調を崩してからきっぱり酒を止めた私が物足らないのか、酒を飲むと嬉しい事に私がよく知っている周りの人を巻き込んで、嬉しい事によく電話をかけてきます。酒に酔っても私の事を思い出してくれるのですからこんなに嬉しいことはありません。一昨年は彼の肝入りで20回も四万十市へ講演に出かけました。

 昨日はどこで飲んだのか、どこの酒の席なのか分りませんが余り酔ってはいませんでした。友人の人事異動の話、自分の仕事の話、最近の話など何故か懐かしさが込み上げてきました。彼も課長になって孤独な仕事をして誰にも相談できないで悩んでいるのでしょうが、そこら辺が垣間見えるような相談ごともあるようで、一度出会わなければなるまいと思った次第です。

 相次いでかかってきた二本の電話で私は目が冴えてしばらくの間寝れませんでした。Hさんとは今日会えるのですが、青年の船の思い出は私の青春時代の大切な宝物なのです。また四万十市のWさんも私の人生にとってかけがえのない思い出の数々なのです。こうして古い時代の思い出に引き戻させてくれる仲間がいるという幸せは、年齢を重ねると余計身に染みるものなのです。私はこの二人をこれからも大切な友人としてつき会いたいと思っています。

  「酒呑んで 電話かけくる 友ありて 懐かし日々が 昨日のように」

  「えっ何で 毎日俺の ブログ読む 故に知ってる 巷の噂」

  「寝食を ともに過ごした 船の上 あの頃互い 若さ溢れて」

  「彼らより 一歩先行く 使命感 なくば嫌われ 電話もないぞ」

 

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