shin-1さんの日記

○中学校の卒業式

 私はこれまでどれ程の数の卒業式に参加したのだろう。自分の小・中・高等学校、子どもの小・中・高等学校、PTA会長としての高等学校、教育長としての小・中学校、三男の警察学校と、まあ両手では数え切れないほどの卒業式に出席しました。その度に時には涙し、時には凛とした新たな旅立ちを感じたものでした。子どもが巣立ち、自分も第一線を退いた今は、卒業式などテレビのニュースで見る程度となっていました。ところが最近になって学校評議員なるお役をいただいて、学校に意見を述べる機会があるようになって、学校から卒業式や入学式の案内が届くようになりました。でも忙しい日々の暮しでどうしても日程が合わず、ついつい欠席していました。

 今年も案内があったものの、日程が合わず欠席を決め込んでいましたが、偶然にも会議の予定が変更となり思い切って出席する事にしたのです。合併前は町会議員さんたちも大勢参加していたため来賓の数も多かったのですが、合併後はやたら寂しくなったと参加した人から聞いていたのですが、子どもの数が年々減少している現状では、卒業式の在り方も随分変わっているようでした。

 今日卒業式に出席した上灘中学校は自宅の目と鼻の先なので、少し早いと思いつつ歩いて出かけました。卒業式には花がよく似合うと思いながら一歩外に出ると、道端に綺麗なさくらんぼの花が満開を迎えていました。

 やがて運動場を通って正面玄関から校舎内校長室に入りましたが、来賓の方々はもう殆どお見えで、私は遅い方で、近い人ほど遅いというジンクスは当っていると思い、校長室を通り越して応接室でお茶の接待を受けました。応接室には歴代の校長さんやPTA会長さんの写真が壁の両面掛けてあり、一種独特な雰囲気です。

 やがて校長先生の案内で式場となる体育館に案内されましたが、入口には入場を待つ卒業するであろう生徒さんがにこやかに出迎えてくれ、顔見知りの子どもたちも沢山いて、「おめでとう」と声を掛けさせてもらいました。

 やがて式典は始まりました。今年の卒業生は26人だそうで、今更ながら生徒数の少なさを実感しました。それでも卒業式は工夫を凝らしていて、卒業証書授与、式辞、祝辞、来賓紹介、記念品贈呈、送辞、答辞、合唱など、どれをとっても何の文句もつけようが無いほど無駄が無くシンプルで、それでいて主役の子どもたちの動作がきびきびとした、100点満点の卒業式でした。子どもは訓練によって変わるものなのですが、訓練を繰り返すとそれが習慣になります。普通だと先生が起立、礼などと号令を掛けるのですが、それもなく身についた習慣が一際目立った式典でした。

 卒業式にはシンプルなピアノの音色がよく似合います。三年生の合唱「旅立ちの日に」、在校生の「そのままの君で」、全員の「校歌」斉唱を歌い、聞きながら涙を流す生徒の爽やかな姿に遠い昔日の思い出をダブらせながら私も涙を流してしまいました。今日卒業した子どもの中には、何人かハガキのやり取りをした子どももいて、まるでわが子のように感動が伝わってきたのです。

 校門を入った職員室の直ぐ横に早咲きの桜が、卒業生の旅立ちを祝福するよう印象的に咲いていました。満開です。この桜もやがては散り行く運命にあり、遅咲きの桜にその座を奪われるのでしょうが、卒業する生徒も人それぞれです。早咲きもあれば遅咲きもある、長い人生ですから、しっかりと自分を見据えて生きて欲しいと願っています。今日卒業した子どもと同じように3年前赴任して来られ、子どもとともに3年間を過ごされた校長先生のはなむけの言葉も印象的でしたが、子どもとともに熱い涙を流して顔をくしゃくしゃにしていた校長先生の姿はもっと印象的で素敵でした。

  「早咲きの 花に送られ 旅立つ子 明日は合格 通知願って」

  「三年間 ともに過ごした 校長の 顔がくしゃくしゃ 素敵でしたね」

  「式場に どこか寂しい ピアノの音 心に響き 涙止らず」

  「私宛 ハガキをくれた 顔見つけ 祝福会釈 思わずにこり」



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shin-1さんの日記

○タイムカードの思い出

 先週の金曜日、所用で市役所支所へ行きました。普通の住民は玄関から入るのですが、途中新しい庁舎に変わったといいながら、35年間もこの役場で働いてきた私は、どういう訳か脇にある通用門の裏口から入る癖がついていて、いつの間にやら足が自然とそちらへ向くのです。ふとその事に気がつき、「そうだ、次回からは内間の人間ではでないのだから正面玄関から堂々と入ろう」と、決意を新たにしたのです。それにしても長年の習慣は恐ろしいもので、役場=裏入口だったのです。

 通用門の入った所にタイムカードが置かれています。このタイムカードも今となっては笑い話のようですが随分物議を醸したものです。タイムカードが導入される前の役場は「出勤簿」と称する台帳がありました。例えば今日だと3月17日の欄に印鑑を押すのです。それはアバウトなもので、遅れて来ても早く帰っても押せますから、ハンコ一つでその日の出勤を証明する唯一の手がかりとなるのです。ずるい人は前日休んでもそこに休みのハンコを押さず、何日かしてそっとハンコを押せば出勤もどきになったりしていました。ところが逆に私のように社会教育などで夜遅くまで働いてもそんなものは自己申告ですから、超勤簿という別冊を見ない限り出勤簿には何ら証拠として残らなかったのです。また役場に立ち寄らずに直接現場に向う場合も、どこか後ろめたいような気持ちで出勤した時押していました。この出勤簿は何故か普通はいかにも重々しく助役室の机の上にあって、助役の顔色を伺うようになっていたのです。役場職員の中には出勤簿にハンコを10日間も押さず助役からきついお叱りを受ける自堕落な職員もいたのです。

 新しい役場庁舎がが出来た少し以前ですが、役場の人事管理がうるさくなって、出勤状況や勤務評定のためにタイムカードが導入されることが検討されました。民間企業では既に導入されていたのに役所では職員組合などの会合で、やれ賛成やれ反対と思い思いの意見をいいあった長閑な時代でした。タイムカードを出勤時毎朝挿入すると、出勤時間が正確に記入されます。私にとってこれは随分不都合なものでした。というのも私は毎朝12年間朝5時から8時まで、まるでフレックスタイムのようにシーサイド公園の海岸清掃や水槽掃除をしていたものですから、時には長引いて8時半に間に合わないことがあるのです。仕方がないので人事管理の担当者と相談し、ペン書きでそのことを記入させてもらいました。

 そんな長閑な経験からふと思ったのは、タイムカードを導入した時、職員の行動がタイムカードに合わせるようになったことでした。ハンコを押すアバウトな役場の暮しがタームカードという機械に支配されたのです。それまで遅れ気味に来ていた人は飛び込みにも似た行動で遅れなくなったことは立派というより当たり前になりましたが、早く来て掃除などをしていた人がタイムカードに合わせるよう遅く来るようになりました。また、タイムカードさえ押せば何をしたかなどはカードに記入されないので、登庁・退庁さえ記入すれば、後はキセルのような仕事ぶりになった人もいました。

 タイムカードという機械の導入によって確かに便利になり一見人を支配したように見えますが、その陰には機械で見えない部分の÷知恵も働くようになるのです。要は自分の生き方をどう戒めて生きるかにかかっているのだと思うのです。出勤簿が懐かしくなりました。

  「出勤簿 なんて帳簿が あったっけ タイムカードに 懐かし日々が」

  「通用門 未だに利用 こりゃいかん 次から堂々 正面玄関」

  「役場から 見ていた外も この頃は 外から役場 見える身分に」

  「出勤簿 押したハンコが 今もある これで仕事の 全て決栽」

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