shin-1さんの日記

○使われなくなった盆栽鉢

 私の趣味は盆栽でした。30歳の時建国二百年のアメリカへ青年の船で渡った時、隣のおじさんに「盆栽を枯らさないよう隣の奥さん(私の妻)に宜しく」とハガキを出した程ですから、いかに盆栽のことが気になっていたかがよく分るのです。役場に入った頃、同僚に盆栽の好きな方がいて、感化を受けたのだと思うのですが、それ以来20年余りも盆栽に凝り、多い時は500鉢もの盆栽を育てていました。近所でもそのことは有名になっていて、何かの式典があれば必ずといって良いほど松の盆栽などを貸してくれと来たものだし、時には地元の盆栽展示会に出品して賞を貰らったりもしていました。

 ところが20年前にまちづくりの担当になってからは、水やりはおろか植え替えも剪定も出来なくなり、ついには沢山の盆栽を枯らしてしまい、惨めな結果に終わってしまったのです。

 その名残りですが、家の隅には親父が枯れた盆栽を引き抜いて片付けてくれた盆栽鉢が整理をされ、忘れ去られたようにうず高く積まれているのです。その鉢を見る度に昔を懐かしみ心が痛むのですが、暇が出来たら必ずもう一度とリベンジを誓ったものの、その思いはいまだに解決していないのです。

(無残に積まれた植木鉢)

 今日は昨日の雨もあがり、10時からの来客に備え家にいたので、朝飯後久しぶりに庭の草取りをしました。草削りの鍬で草を削って行くと、草の向こうの隅に植木鉢が出て来ました。懐かしくなってその中から幾つか取り出してみましたが、「この植木鉢にはけや木が植わっていたなあ」とか、「この植木鉢は高かったなあ」とか思い出し、少しだけの余裕ながら、また始めてみようかと思いました。

(東京から取材に来た愛媛県出身のライーター中矢さん)

 折りしも今日は東京から、「50歳未満お断り・エンターテイメント情報『STAGEステージ』というシニア向けのコミュニティサイトの取材があって、旧三間町出身の中矢真奈美さんというライターが取材に見えられましたが、その見本原稿をいただいた中に、盆栽家加藤文子さんの紹介文がありました。加藤さんは「針金をかけた盆栽は美しくない」という信念を貫いている方で、とても興味をそそりました。

 加藤さんの話は、趣味ながら盆栽で一度は挫折した私ゆえによく理解が出来ました。時が作り出す自然の「盆栽」に、美しさを確信して長い時間をかけて「待つ」という見出しにも深い共感を覚えたのです。

 「松」はひょっとしたら「待つ」かも知れないとひょっと思ったりしました。世の中がスピード化され速いことが一番の世の中のような錯覚が私たちには定着しています。でも年輪を見ても一年に一つしか年輪は刻めないのです。もう一度スロ-ライフを考えてみることも大切だと思うのです。

 「そうだ盆栽にもう一度挑戦しよう」と思いました。昔のような大型な、しかも高級な盆栽を求めるのではなく、さりげなく書斎や玄関に飾るような小型のものをとりあえず36鉢(思いつきながら10日間に1鉢を年中鑑賞できるための概数)くらいをメドにしようと心に決めました。早い方がいいと幾つかの小型の鉢を取り出して洗ってみました。「はて、この鉢に何を植えるか」と想像しながら夢を膨らませています。時はあたかも春真っ盛りです。植え替えは少々遅いようですが、まだ間に合うかもしれないと、急いで書棚の奥に眠っているままの盆栽の本を取り出して乱読し始めました。また悪い虫が体の中で動き出しました。

  「待つは松 のんびりゆるり ご隠居さん 盆栽手入れ 昔に帰る」

  「針金を 掛けて矯正 するでなく 個性生かして 自然とともに」

  「庭の隅 高く積まれた 鉢数個 取り出し洗い 盆栽始む」

  「なるほどと うなずき読んで 感化され 始めるあたり 俺いい加減」


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shin-1さんの日記

○身の回りの道具考

 人間牧場を開設したお陰で、私の周りには様々な道具類がお目見えしました。これまで鍬やスコップの類から日曜大工道具類に至まで、その殆どは親父が必要に駆られて買い、それを私も自分の家の道具と勘違いして借り受け無造作に使っていたのです。ですから親父が大事に使っている道具類という意識もなく無断で使い、そこここに置き忘れても余り罪の意識もなかったし、「使った物は元あった場所に置くように」と注意されても、「口うるさい親父だ」くらいにしか思っていませんでした。それがどうでしょう。人間牧場での作業が増えてくると、やれ鍬や鎌だと買い揃えなくてはならず、その出費の多さに目を丸くして、少しでも安く、使い易く、そして長持ちする事を考えて買うようになったのです。また置き場所も一箇所に決めて置かねば次に使うとき「探す」という作業から始めなければならないのです。

 この間、畑の作業をしていて、鍬の使い具合が変な感じになりました。鍬をよく見てみると鍬と柄の部分にあったクサビがいつの間にか取れているのです。使えないものだからそこら辺を探しましたが、クサビはいつどこで取れたのかまったく分らず、ついにはその鍬を使った作業を断念せざるを得なくなりました。昨日買い物に出たついでにホームセンターへ立ち寄って農作業道具を陳列しているコーナーに行くと、そこにはクサビが一個から売っていて、3個ばかり買い求めて帰りました。クサビなんて10円もあればなんて甘い考えだったのに、3個で占めて1050円ですから驚きです。ついでに草刈機の替え刃も買いましたが、チップソーの替え刃も3500円と、思わぬ出費だったものの春の農作業や道具の修理が俄然楽しみになってきました。

 この日私は道具類のコーナーで「目立用ヤスリ柄付、刃長100mm」というのが目につき、買い求めました。多分親父の道具箱にはこんなものは沢山あるだろうと思うのですが、自分自身で剪定鋸の目立てを試みたかったのです。これまで鋸が切れなくなったら「はい親父」でした。もし親父と反目していれば新しいのを買えばすんでいたのです。

 さて、この平ヤスリで実際に日常使っている剪定鋸を目立てをしてみました。親父の使っているバイトで挟み、手押しで目を立ててゆくのですが、これが意外と簡単そうで中々上手くゆかないものなのです。側で見ていた親父が「お前はどんくさい」と言われましたが、それでも目立てを終わって試し切りを試みましたが、目立ての終わった鋸は切れ味抜群で、新品のような切れ味でした。生まれて初めての鋸目立て体験に少し抗不運を覚えました。

 これも先日の話ですが、役場の裏の危険物置き場に、錆びた鍬類が無造作に置かれていました。見れば確かに赤錆びてもう廃品というのに相応しい感じです。多分誰も使わなくなったものだろうと思い、許しを得て持ち帰りました。直感として「人間牧場の体験農場の子どもたち用に再生して使いたい」と思ったのです。草削り4丁、三つ鍬3丁、計7丁です。貰って帰って錆を落とし、柄を抜いて水洗いをしました。しかしそこからは私の力ではどうすることも出来ず、「甘い」といわれそうですが、結局は90歳の親父に「別に急がんので、暇があったらこの鍬に柄をつけといてくれんか」と頼んで外出しました。外出先から帰ったのは12時頃だったのですが、妻が「お父さんが鍬が出来ていると言っていた」と伝言です。明くる朝早速倉庫に行って見ると、何と何とあのみすぼらしい7丁の鍬が、クサビを入れられ、見事に素敵な鍬に変身しているではありませんか。嬉しい限りです。これで人間牧場の体験農業も随分と大助かりです。

 今は使い捨ての時代ですが、大事に使えばもっと役に立つものがいっぱいあるのです。その労力を惜しまないような生き方をしたいものです。せっかく再び命を貰った鋸や鍬ですから、少々オーバーになりますが、死ぬまで使いたいと思っています。

  「危険物 書かれた場所に 捨てられし 鍬を七丁 貰って再生」

  「六八二 円をつけ買う 平ヤスリ 鋸の目立てで 新品同様」

  「使い捨て 勿体ないと 拾い来て 子どもの道具 親父手助け」

  「買えないと 思えば惨め 買わないと 心に決めて 生活ガード」


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shin-1さんの日記

○今年度最後の講演会

 昨日松山市雄郡公民館の講演会に招かれ出かけました。年度で仕事をする官公庁ですから多分平成19年度最後の講演会でした。数日前雄郡公民館の青木館長さんが何の前触れもなくわざわざわが家へやって来られました。自分では分っているつもりでも、他所からわが家を訪ねて来るのは田舎ゆえに中々分らず勇気のいることなのです。普通は「伊予市から来られる場合は海に出て4キロくらい走ると双海町の中心部に着きます。信号を左に曲がると300mくらいで旧双海町役場です。そこから500mくらいですので、着いたら電話してください。迎えに出ます。」てな調子が多いのですが、多分近所のどこかで聞いたのでしょうが、わが家を見つけての訪問です。運良く私が在宅だったので、むさ苦しいながらもわが書斎に案内しました。館長さんは長らく松山市の議会事務局にご勤務していたそで、請われて館長に就任したと自己紹介をした後、「高齢者スロープ竣工記念講演会」の講師依頼状を手渡し、海の資料館「海舟館」や「煙会所」を見学し帰って行きました。おっつけ佐伯主事さんから打ち合わせのメールが入り、また昨日は丁寧な予告の電話までいただきました。

 公民館の場所はいつも県立中央病院へ検診で行く道沿いなので知っていましたが、少し早めに行こうと出たものの日曜日とあって車の混雑もなく少しどころか大幅早めに着きそうだったので、近くのメディコ21に立ち寄り買い物を済ませて時間調節しました。

 会場に着くなり「若松さんの元気。私を覚えている?。私の顔を忘れたら駄目よ。」と高齢女性がにこやかに声を掛けてくれました。毎日毎日不特定多数の人に会うため、いちいち全ての人を覚えるほど頭がよくないのですが、このおばちゃんの名前は確か「網江さんでしょう」と答えると、「あんたはさすが凄いねえ」と褒めてくれました。このおばちゃんは双海町出身の方で、愛媛県青色申告会女性部のメンバーでもあって、色々な場所であっているのです。若しあの時「あなたは誰でしたっけ」などと答えると興ざめもいいとこで、ホッと胸を撫で下ろしました。事務所でお茶をいただきましたが、まあ入れ替わり立ち替わり見覚えのありそうな顔々がわが者顔に入ってきて、親しく話すのです。「足の怪我はどうですか」。そういえば「教育長時代にチェンソーで足を切って、退院の日に青少年健全育成の県大会があって片足で講演しましたなあ」などと古い話が持ち出され大笑いです。また「あなたの話しを楽しみに友人を誘って来ました」と嬉しい人も沢山いて、講演前から賑やかな交流となりました。

 会場は3階です。スロープは出来たものの、エレベーターがなく歩いて上がりました。会場は座布団形式で足の悪い人が後ろに椅子を出して座っての拝聴です。

 私に与えられたテーマは「公民館の活性化と地域づくり」だったのですが、顔ぶれを見て講演直前、用意したり考えていた内容では満足いくまいととっさに感じて大幅な内容変更で1時間半を話しました。途中で立ち寄ったメディコ21での買い物で見つけたサプリメントや、お年寄りがよく見るテレビ時代劇水戸黄門とセットで流れるヒアルロンサンやコラーゲン、それにハルンケアなどの宣伝を話題に織り交ぜながら、まるで落語ならぬ落伍のような楽しい話しをしました。

 せっかく家まで訪ねて来られた館長さん意思にそぐわなかったかもしれない、自責の念に駆られながら、今年度最後の講演を締めくくりました。

  「又来てね 立ち去る私に 声をかけ 別れを惜しむ 嬉しい握手」

  「覚えとる? 藪から棒の 問いかけに 一瞬戸惑い 記憶をたどる」

  「馴染み顔 手を振り顔で 会釈する 私の顔も 広いと実感」

  「お土産に あれやこれやを いただいた 講演姿 プリントしてまで」


 

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shin-1さんの日記

○ああ定年退職

 私の最も親しい友人が今年の春三月で4人定年退職します。大分県佐賀関町の渡部さん、三崎町の塩崎さん、明浜町の原田さん、宇和町の薬師寺さんです。四人はそれぞれの町の役場職員として採用されましたが、渡部さんは大分市に、塩崎さんは伊方町に、原田さんと薬師寺さんは出身役場こそ違え、西予市という合併した役所にそれぞれ移籍して、課長職を最後にしての退職です。

 佐賀関の渡部さんとは海を挟んだ遠隔の土地柄もあって、会った回数は数階程度ですが、講演依頼やデジタルでのメールのやり取りなどを含めると、最近では最も心を許した友人と言うべき人なのです。ダンディボーイの彼は全てに一流で、カメラはアマチュアの域を超えていますし、私のブログをデータ処理化するなど熱烈な愛読者の一人なのです。関サバですっかり有名になった佐賀関ですが、半島ゆえの閉塞感もあって大分市という県庁所在地との合併は九州ならぬ吸収合併で、合併協議の事務局長として奔走しました。

 三崎の塩崎さんは青年団時代からですから多分私の最も古い友人です。私が愛媛県の青年団連合会の会長をしていた時、彼は西宇和郡の連合青年団長でした。その後交遊が途絶えた時もありましたが、今は夢工房やお互いが地域づくり研究会議の代表運営委員としてまちづくりに深く関わっています。彼の凄さは地元井ノ浦の人たちと青石文化を守る地道な活動を続けたり、ツーリズムの仕事を通して、半島の地域活性化に心血を注いだことです。多分今までも今も、これからも佐田岬を最も愛している人だと思います。

 明浜の原田さんは、小説や絵を描く等飄々とした性格ですが、役場人生の殆どが企画の仕事と長く、そのご縁で知り合いました。夢工房のメンバーとして酒を愛しながらともに語らいました。明浜は革新的な風土が強く、県内のどこにもない独特の文化と新しい発想は随分参考にさせてもらいました。最後は丘に上がった河童の如く、最も遠い高知県境の野村町に異動して福祉の仕事をこなしましたが、辞める直前まで若い職員と限界集落の勉強会を主宰するなどして、自分の想いを人々に伝えようと努力した人なのです。

 宇和の薬師寺さんは、公民館主事だった頃からの知り合いで、当時は宇和といえば公民館活動のメッカで、酒を飲み何度か自宅にも泊めていただきましたが、仕事をしながら通信教育で大学を卒業した頑張り屋の変わり者です。お母さんが自宅で焼く栗饅頭は絶品で何度かいただき賞味させてもらいましたし、観音水の佐藤さんなどと出会うきっかけとなった人です。晩年は福祉の仕事が多く、出会いの数は少なくなっていましたが、それでも南予へ行く途中には三好誠子女史と同じようにに必ず彼を訪ねたものです。

 この四人に共通するのは①ふるさとを愛したこと、②自分の独特の生き方を持っていること、③情熱家で実践家だったこと、④世渡りが不器用なこと、⑤家族思いなことなどです。④の世渡りが不器用なこと以外は私と殆ど同じですが、この④については私を見習って欲しかった思いです。世渡りとは上や周りにおへつをかくことと勘違いされそうですが、決してそうではなく、自分の存在と時代の流れをしっかりと見つめて生きることです。多分私以上に広い知識を持っている四人なのですが、知識を知恵に変えて生きる術は私の方がしたたかなのではないかと思うのです。ただし世渡りが不器用なのも裏を返せば四人の共通した魅力であり、見習わなければならないと思います。

 私は常々彼ら四人に「定年退職してから退職後を考えるな、退職前に何をしたいか、何ができるか考えて生きて欲しい」とゲキを飛ばしていました。残念ながら世渡りが不器用なため、大した近い将来への豊富も未だ聞こえて来ないようです。でもこれからは不自由な自由の中で交友を温めながら、ともに短くも長い人生を楽しみながら生きて欲しいと願っています。

  「相次いで 四人リタイア 自由人 仲間が増えて 俺は楽しい」

  「不器用な 四人リタイア 何するの 答えは未だ 解読不能」

  「リタイアを しても首輪が 残る人 給料権限 潜水艦だ(並以下)」

  「羨まし 誰もが俺の 生き方を 言うてくれるが 真似る人なし」

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shin-1さんの日記

○私にもできるエコ

 「エコなんて難しいし面倒臭い」と思っている人は案外多いのではないでしょうか。私自身も便利な暮しに慣れているものですから、ついつい後戻りが出来ないような錯覚にとらわれて、頭では分っていても実際行動に移すとなると「まあいいか」「私一人ぐらい」とついつい思ってしまい、エコ実践は案外出来にくいものなのです。

 私は頼まれて学識もないのに生協の学識理事に就任して早1年9ヶ月が経ちました。月に一度の理事会に出席する程度の、そんな状態ですからまだ生協のほんの入り口一部しか見えていないのに、確実に私のエコに関する意識は洗脳されたように大きく変革していることに気付くのです。それは生協運動が安心や安全、自然と共生などといった人間が本来やらねばならない事をさりげなくやっていること、経済第一主義や、便利第一主義に走ってやらなかった事による自然や社会への負荷がどんどん蓄積していること、このままだと人間も地球も危ないという危機感が感じられること等などからの自分自身への危機感シグナルでもあるのです。

 もし私が生まれ変われば、理事会に出席して生き生きと輝いて生きている理事さんたちと恋をし結ばれたいと思うほどの女性群が私にさりげなくエコに対する考えと行動をいざなってくれるのです。

 私は男ゆえ、女性の理事さんのように日々の生活を暮しという視点で捉えるには少々難点があり、ズレていることは確かですが、「いいことは即する」「悪いことは即止める」という、ただこれだけの行動でもエコに関して随分違った生き方が出来るようになりました。

 一昨日の理事会に私は「マイ箸」を忘れて行きました。最初は格好いいと思う程度で始めた「マイ箸」運動でしたが、仕事で訪れた群馬県上野村で斧折れという木で作った軽い箸と箸箱をプレゼントという形で手に入れ、木になるカバンに忍ばせて持ち歩き、どこここかまわず使いまくっています。ところがまだまだ「マイ箸」は巷に普及していないことから、私の「マイ箸」は話題になってあちらこちらへ普及し始めたのです。嬉しくなって「お前遅れているぞ」といわんばかりに得意になって話したお陰で、私の仲間も随分持ってくれるようになりました。生協運動の基本は自分が変化することとそれを広めることです。私は多分指折り数えただけでも20指に余る人に影響を与えた事になるのです。そんな私がこともあろうか「マイ箸」を忘れたのですから洒落にもならず、自責の念に駆られ、こっそり割り箸をいただいて昼食を食べました。

 またナイロンのレジ袋も出来るだけ買い物袋を提げて買い物に行き、レジ袋を断るようにしています。買い物機会の少ない私ですから、まだそんなに数沢山のノーレジ袋にはなっていないと思いますが、長男から譲り受けた買い物袋を常時車に積んでいるため、手軽でいい雰囲気です。私の周りの男どもは、これも「エー、女性みたい」と多少差別発言ともとれる拒否反応な言葉を発しているものの、確実に2人の友人を洗脳してしまいました。

 私は毎朝、風呂の残り湯に入って髭を剃る習慣があります。最近妻は窓から蛇腹のホースをこの中に突っ込んで、風呂の残り湯で洗濯をしています。以前と今とどう水道代が違うのか、そこまでは追跡調査していないところに妻の甘さがあるのですが、これも妻にとってはエコなのです。

 大家族だったりお客様が多かった昔の経験から、わが家の妻の料理はいつも多目に作ります。したがって残飯が二人の家族にしては少しい多いのではないかと思っていて、残り湯を使うことを実践し始めたのを機会に、暮しの在り方を縮小すべく妻と話すようになりました。

 身近な所で始まったささやかなエコ運動、それでも集めれば大きな数字になると、これからも努力して行きたいと思っています。

  「マイ箸を 忘れて心 動揺す まだまだ修行 足りぬ反省」

  「買い物の 袋を提げて スーパーへ レジの姉ちゃん 変なお目々で」

  「妻だって 風呂の残り湯 洗濯に さすが俺妻 感心しきり」

  「まず自分 次に周りへ 波及する それが出来たら 活動家かも」


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shin-1さんの日記

○玄米食のわが家

 「真っ白いご飯に味噌汁、それに焼き魚が一番」と思っていた私が、妻の勧めもあって玄米食になってもう10年近くが経ちました。最初は熱々の白米ご飯に長年馴れ親しんでいる舌を玄米に合わせるには、不味いと思う食感ゆえに相当苦労しました。それもそのはず100パーセント玄米ですからプリプリして、戦後の物のない時代に味わった麦飯やとうきび飯と殆ど変わりがないと思ったのは当然かも知れません。しかし玄米に白米を少し混ぜて食べ始めると、別に気にもならず食べれるようになるのですから馴れとは恐ろしいものです。

 「真っ白いご飯」の正体、実はお米の貴重な栄養部分を捨ているのだと聞きました。それというのも白米にする過程で最も栄養価の高い胚芽を取り、米糠とともに捨てているのです。胚芽と米糠には健康維持に欠かせない成分がたくさん含まれていると聞いてもなお、玄米と白米の味の違いを考えると白米に手や舌が伸びるのは当然かもしれません。

 玄米食を取り入れるにあたって色々な本を読んだ記憶があります。「玄米には炭水化物や良質なタンパク質のほか、ビタミンB群やE、ミネラル、食物繊維などが豊富に含まれている」という説明を聞けば食べない訳にはいきません。特に「玄米は一汁一菜程度の食物繊維がある」〈食物繊維ビタミンEは白米の6倍」だそうです。

 最近新聞で読んだのですが、玄米に含まれている微量栄養素にも注目が集まっているそうです。特に今話題のギャバは玄米に多く含まれ、血圧を正常値にする働きなど、様々な健康効果あるといわれています。またHP6という成分は、ガン抑制に有効ということが立証され、動脈硬化や肥満の予防に効果的なイノシトール、強い抗酸化力発揮するフェルラ酸、更年期障害や自律神経失調症を緩和するオリザノールといった成分も含まれているそうです。みのもんたでもない私は、これを全て鵜呑みには出来ませんが、書いている効能が本当なら、現代人の成人病予防になること請け合いなのです。

 しかし、わが家のように孫の家族や知人友人がしょっちゅう出入りする家庭では、全てを玄米にすることも出来ず、お客様のある日は白米ご飯を食べるのです。玄米食になって白米を食べると何故かその日はおご馳走を食べたような錯覚に陥ります。先日も孫が急にやって来て、カレーを作ったまでは良かったのですが、玄米のご飯だったため、玄米カレーとなりました。孫の舌に玄米はまだ不味いと感じるのでしょうか、「おばあちゃん、このカレー美味くない」といって残してしまいました。私はすかさず玄米の効能を「このご飯を食べたら大きくなる」とか、「このご飯を食べた人は頭がよくなる」と誇大に説明して何とか食べさせました。

 昨晩妻と二人でバラエティ番組をテレビで見ました。森三中の村上さんが恋人ができ結婚する過程で肥満な体を何とか痩せたいと孤軍奮闘する姿が紹介されていました。村上さんは手料理も上手だし、別の料理番組に出てくる何にも出来ないアホな人と違ってしっかりしています。でも何故か肥満なのです。その原因を突き止めるため、自分の食べた物を毎食欠かさずメモする今流行の食べながら痩せるダイエットに挑戦して気がついたのは、食べる物のカロリーの高さ、食べる物の量の多さ、食べる時期の不規則さ、間食の多さに気付いていたようです。確かに肥満は偏食やカロリーオーバーが原因というのは一般的な常識です。でも肥満が急激に増え、それが元で成人病にかかるのは、栄養素が摂れていない現代版栄養失調であることも見逃せません。「この飽食の時代に栄養失調」なんて思われるかも知れませんが、不足している栄養素がビタミンやミネラルなどの微量栄養素だとしたら、玄米を食べることも少しは役に立つのかも知れません。

 雑穀も近頃はブームのようです。要は痩せたいと思う一心から全てを排除するのではなく、体にいいものを食べて痩せることが大切なのです。食べる量を減らせば痩せるし、運動すれば確実に痩せます。

  「玄米を 食べて毎日 元気です 微量だけれど 何かが効いて」

  「食って痩せ 恋して痩せる ダイエット それが出来たら みんなそうする」

  「玄米の カレー不味いと いう孫に 誇大説明 何とか食わせ」

  「外国に 行けば必ず 白米と 味噌汁沢庵 恋しくなって」 

 

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shin-1さんの日記

○石油は安くなればいいのか

 道路特定財源が問題にならなかった頃は、油が高いのは原油産油国が増産しないからだとまるで他岸の火事くらいしか思っていなかった政治家や国民が、何故か国を二分するような大騒ぎを始めています。ごり押し自民党と何でも反対の民主党が国民の暮らしの安定という同じ土俵に立つこともなく反感反目している姿は、政権維持の自民党と政権奪取の民主党が自分のことだけしか考えない何物でもないのです。自民党も国民のため、民主党も国民のためと、何かと国民を引き合いに出して格好いい事をいうのならもっと妥協点を見つけるべきです。議論を尽くしたという自民党と議論が足りないという民主党はこの四ヵ月余り、一体何をしていたのか、それこそ政治家は月給泥棒になり下がっているのです。昨日の総理の記者会見も一定の評価は出来るものの遅きに失した感じは拭えないのです。数の理論でいけば衆議院は自民党、参議院は民主党とねじれならぬいびつな関係に胃の痛むような総理の姿は内閣支持率の低下よりも更に哀れささえ感じ、やがて福田総理も阿部総理のように途中で投げ出してしまうのではないかと思うのです。日本の将来もいよいよ危なくなってきたと思うのは当然かも知れません。

 さて当の私たち国民はどうでしょう。石油は安くなればいいに越したことはありません。今の油の根上がりは異常ですから、暮しは決して楽ではないのです。しかし道路特定財源という油に上乗せした税金を廃止すればそれで片がつくほどこの問題は軽くはないのです。ただ油の値が下がればいいとだけしか思わない国民が多いのも事実で、既に4月1日からの値下がりを見越して買い控えが全国各地で起こっているのです。私も昨日松山へ行ったついでに、友人が経営する門田石油でガソリンを入れました。確かにあと3日もすれば安くなるのですから、車に乗らないようにすれば済むことなのですが、へそ曲がりと言われても私は敢えて油を入れたのです。

 この際道路特定財源の問題を環境に軸足を置いて考えてみては如何でしょう。環境といえばいつも問題になるのが二酸化炭素です。二酸化炭素排出量問題の解決には大きく分けて二つの考えがあります。その一つは石油の消費量を節約すること、もう一つは緑を増やすことなのですが、いずれも国の経済や政治が絡むことから中々前に向いて進みません。特に先進国や発展途上の国々では石油が重要な役割を占めていて、節約どころか使用量は増加の一途を辿っています。産油国もいずれはなくなるであろう化石燃料を一日でも長く持たせて高く売り、その資金で国づくりをしようとする意図もよく分るのです。

 一方森林資源は未開発地の森林が次々と伐採され、今は現地で製材され木材に加工して先進地へ運ばれているのです。特に今まで輸出国だった国も経済発展の恩恵で木材の輸入に転じた国もあるのです。日本の場合は外材に押された長引く国産材の不況によって、皮肉にも森林が残っていますが、手入れをしない山や無秩序な林道整備、相次ぐ台風などの天災によって、山は荒れて風倒木は災害の原因にすらなっているのです。今に石油に代わる燃料として木が重要になってくるのでしょうが、それまでに環境の視点からもエネルギーの視点からも森林保全をしっかりと考えなければならないと思うのです。

 さて石油は安くなるのでしょうか。参議院も衆議院も議長が仲裁さえ出来ない異常事態に国民は政治を見放し、次の選挙には馬鹿らしくて行かないかもしれません。何故投票率が下がるのか、国民も悪いが政治への不信が不参加という方法を取っている事を、当事者たる議員はもっと考えて欲しいものです。

  「安くなる 嬉しいけれど 別立てで 増税される 油を売るな」

  「油売る 暇があったら 議論しろ 国民のため 容易く使うな」

  「俺達は 油枯渇の 時代にも 生きてゆけるが あんたらどうか」

  「政治家は 嘘つきばかりで 信じれぬ 選挙終われば とんとご無沙汰」

  

 

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shin-1さんの日記

○雷が一番怖いパソコン

 昨晩9時ごろ、春雷ともいえる雷が怖いくらいゴロゴロ鳴って、一瞬近くに落ちたのではないかと思うほど大きな「ドスーン」という音がしました。テレビや小説などではよく紹介される秋や春の季節の変わり目によく見られる現象で、雷とともに暗闇に閃光が走り、これも一瞬ですがまるでカメラのフラッシュでも焚いて、辺りが昼になったような明るさになりました。昔は雷におへそを取られると雷が鳴るとへそを隠したりしたものですが、科学万能な現代社会にあってもなお、私たち凡人には分らない部分が数多くあって、理論上分ってはいても人間の踏み込めない自然の持つ偉大な力に、今更ながら驚くのです。

 群馬県に出かけた折、「雷は上州では常習」と聞きましたが、瀬戸内は気象の変化の比較的少ない温暖な地域だけに、時ならぬ雷の音が大嫌いという人が案外多いようです。私などは子どもの頃から大好きではないにしても大嫌いでもなく、女の子が目をつぶり耳を塞ぐ姿を見て、格好よく強がって見せたりしたものですが、目も耳も塞いだ女の子には強がった姿など見えるはずもなく、今頃になってその事に気付く愚か者なのです。

 雷といえば、デジタル万能な電子機器にとっては致命傷で、わが家のように共同協調のアンテナからテレビの電波をいただいている難視聴地域では、親となるアンテナに雷が落ちれば、そのアンテナを伝わって子のテレビが故障することが時々あるのです。今は避雷針技術が進んでいて、落ちた雷は地中に逃げる仕組みになっていて、直接テレビが壊れる心配はありませんが、それでも何年かに一度は「雷が落ちてテレビの写りが悪いので修理してます」と有線放送があるようです。

 私の町でもテレビやパソコンが雷の被害にあった家は結構あるようで、電源を抜いたり電話を切ったりして対応している人もいるようですが、今頃は直ぐにスイッチが入るよう常に通電されているタイプが多いので、いちいちその都度電源を元から切ることも面倒で故障になることが多いようです。でも雷が入ったテレビやパソコンは役に立たず、買い換えねばならず、どこにその不満をぶちまければいいのかも分らず、多額の出費に幻滅するよりは、転ばぬ先の杖の方がまだましのようです。

 昨晩もパソコンを操作中の出来事だったので、どうしようか迷いましたが、面倒臭くてそのままの状態で難を免れました。孫に「雷が一番怖いのはと尋ねたら「ドラえもん」というかも知れませんが、私自身は雷はそんなに怖いとは思いませんが、やはりパソコンにとって雷は一番怖い相手なのです。

 いつものように朝起きると書斎に入ってまずパソコンのスイッチを入れて立ち上げます。それから身支度を整えるとパソコンは起動から操作モードになって打ち始めるのです。何でもないこんな日課の繰り返しが今の自分の日々の暮しです。いつの間にかあれほど嫌いだったパソコンが暮しの一部になり、パソコンなしでは生きてゆけても仕事は出来なくなりました。

 私の近所に役場を退職した先輩が何人かいます。Kさんは体を悪くして辞めました。Hさんも精神的ストレスからうつ病になり早期退職をしました。別のHさんは定年退職して家庭菜園で農作業をしています。また少し年配の

別のKさんやHさんは少し歳がいって悠々自適の暮らしをしています。Kさんも、Hさんも、別のHさんやKさんもまったくパソコンをやりません。多分彼らの時代は事務用品といえばガリ版かソロバンか電卓で充分だったのだろうと思われます。でもそんな時代の人でもパソコンを習ってインターネットをしている人は沢山います。

 「若し、パソコンが私の暮しからなくなったら」と思うとゾッとします。そのくらいパソコンは私に情報というかけがえのない文明をもたらしました。先輩諸氏の生き方を否定するつもりは毛頭ありませんが、いい道具を勝ち得たと手前味噌に喜んでいます。

  「雷が 嫌いなパソコン 前にして ゴロゴロ近く 右往左往す」

  「先輩は 日頃何して いるのやら パソコンやらず 年齢重ね」

  「ガリ版も ソロバンも死語 なりにけり ワープロさえも 知らない世代」

  「春雷が ボロでねじつつ 去ってゆく 明日は桜の 蕾開くか」


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shin-1さんの日記

○来るは嬉しく、されど帰るは寂し

 4日前の夕方、孫から電話がかかってきました。「春休みになったので泊まりに行きたい」というのです。私に春休みはないのですが、何件か人に会う約束をしていて、孫同伴でも困らない程度なので引き受ける事にしました。そしてこのところ3日間わが家に長逗留となりました。その間昼間、妻は仕事なので私が面倒を見なけらばならないのです。妻が私と孫の関係を今人気のテレビドラマにあやかって「相棒」というほど、孫と私の息はぴったりで、楽しく遊んでやりました。

 一日目は夕方来たので、部屋の中でダンボールを使った工作遊び程度でしたが、2日目は人間牧場へ妻の作った弁当を持って出かけました。「おじいちゃん、まるでピクニックじゃねえ」と孫が言う通り、私は農作業をしながら途中休憩のお茶や昼食を水平線の家のウッドデッキで楽しみました。

(妻の作ってくれた弁当です)
(中身は海苔巻きと梅干しのおにぎり、それにデザートです)
(野趣味豊に大好きな梅干しの入ったおにぎりをほお張ります)

 二日目は登山です。この日はあいにく風が強く肌寒かったのですが、双海町のシンボルである本尊山に二人で登りました。戸損どうの入口にある天一稲荷神社にお参りしていざ出発です。鉄道をまたぎ、本尊山の頂上までは細いウサギ道しかなく、夜来の雨で少し濡れていましたが、一歩一歩踏みしめるように上って行きました。孫は濡れ落ち葉や笹の根に足を取られて何度か転げましたが、意外と元気に9合目の鳥居付近まで20分ほどで登りました。

(鳥居の中にシーサイドを入れて記念写真を撮りました)
(九合目から真下に見えるわが家の全景です。庭に止めている田舎のオープンカーもくっきり、畑仕事をしている親父の姿も確認できました)
(中学校の全景です)
(双海町の中心市街地です)
(これが噂の私が計画したシーサイド公園です)

 ここから頂上までは急峻な山道が続き、難所中の難所で、朋樹の手を引っ張って何とか頂上まで登りました。山頂はまだ寒く、私が昔種芋を持って上がってばら撒いた水仙が今が身頃と咲き誇ってとても綺麗でした。

(満開の水仙の花)


 頂上には国土地理院の三角点が設置されています。側に多分天一稲荷神社改築の時に屋根から下したものと思われる屋根瓦が置かれていました。


(三角点)
(天一稲荷神社の屋根瓦)

(山頂の大きな岩)

(山頂を示す標識、187m)

(頂上でご満悦の孫朋樹)
(孫が撮影してくれた私のスナップ写真)

(山頂から見える坂の集落小網地区)


 下山は登よりことの他難しく、難所は孫を背負っての下山となりましたが、孫は背中でキャーキャーと嬉しそうにスリルを味わって騒いでいました。僅か一時間の登山は孫にとってもいい経験だったようです。麓の散髪屋さんにジュースとお茶を貰い、喉を潤しました。

(無事下山し稲荷神社にお礼のお参りをしました)

(向こうにトイレが写っているのも気付かずシャッターを押すあたり、私のカメラアングルはまだまだ未熟ですが、椿の木の下に印象的に散っていた椿の花です)


  「よく見れば 花の向こうに 小便器 これでは作品 悪評が落ち」

  「弟が 早く歩ける ようにして 祈りし姿 何とも優し」

  「孫を背に 急な坂道 下り降り 孫はキャーキャー スリル楽しむ」

  「おじいちゃん ハイチーズして ハイパチリ 出来た写真は 痩せこけ自分」


 追伸

 孫が3泊4日の逗留を終えて今朝帰って行きました。来る時は楽しく迎え、居れば居たで煩わしい感じもしましたが、帰ればどこか寂しいものです。孫は明日から家族で大阪のおばあちゃんの所へ帰省するそうです。こちらへ帰ればまた来ることでしょう。


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shin-1さんの日記

○用がなくなったストーブ

 随分春らしくなって、日本列島の各地から桜の便りが聞こえるようになってきました。愛媛県宇和島市はどういう訳か日本で一番桜の開花が早い地域として毎年紹介されてきましたが、気象台の統廃合によって桜の目視をする役目もなくなり、ちょっと寂しい思いをしていましたが、元気象台職員を中心に標本木の監視を続けているそうで、その円山公園の桜の開花が先日発表され、いよいよ愛媛県に桜前線が上陸しました。今年はあの桜を見に行こうと、いつも思うのですが何故かその時期が忙しく、またすっかり忘れてしまって見逃しています。旅先の国道で、「天然記念物○○桜」などの標識をよく見ることがあり、またご当地の桜自慢を聞く度に、メモをしたりしていますが、一向にはかどっていないのです。特に合併して高知県仁淀川町になった旧吾川村のしだれ桜は、教育長さんから熱心に誘われていたので、今年は何としても妻を連れて行って、二人で見たいと思っています。人間の人生は短いもので、もし私が自分の生活設計どおり85歳まで生きても、もう21回しか春は来ないのですから、しっかりと季節の移ろいを見届けたいと思っています。

 私の書斎のストーブが今年も春の訪れによっていよいよお払い箱になりそうです。ストーブの利用期間は私の場合、11月1日から3月15日までと決めています。居間は10月23日の秋祭りから3月31日までのようですが、私は少しCO2の削減や京都議定書に協力して我慢をするようにしています。それでも今朝のように南国四国といえども少し冷え込む時は少々寒く感じますが、スリッパを履いて厚めに着込んで朝の時間を過ごすのです。

 今年は私の部屋専用のステンレス製のやかんを3千500円を出して買いました。少し小さめですが優れものでデザインも気に入って、湯気が書斎の乾燥を和らげてくれたり、時にはそのお湯でお茶を入れたりして楽しんでいます。しかし少し小さいため、購入してから何度も空焚きして、大失敗をしてしまいました。毎朝ストーブをつける度に中の容量を確認しているのですが、今年の冬は寒かったため、何度か一日中ストーブをつけて頼まれた原稿書きに夢中になって、ついつい湯気が出ないことに気がつくのです。アルミだと解けているかも知れませんが、幸いステンレス製なので一難は免れましたが、歳を取るとそろそろ冷暖房への転換を考えなければなるまいと思ったりしています。でもストーブの温かさは冷暖房などと違いどこか温かさを感じて好きなのです。

 私が子どもの頃は火鉢でした。居間に大きな火鉢があって、寒い日は火鉢の側にみんなが集まり、火勢が弱まると新しい炭が加えられ、クヌギの炭火がパチパチとまるで花火のようにはじけたものです。ストーブが入るまでのほんの少しの間練炭火鉢という優れものが一日中お湯を沸かしてくれたのも、もう遠い思い出としてか記憶には残っていません。

 昨日残った油を空焚きしました。いよいよ倉庫へ片付けます。約4ヵ月半世話になったストーブも、これから7ヶ月間は深い眠りにつくのです。また来年も私の体を温めてくれる事を信じています。

  「四ヵ月余 温め続けた ストーブに お礼言いつつ 空焚き済ませ」

  「少しだけ 化石燃料 勘弁し 環境貢献 今年の冬も」

  「雪国の 友から便り 雪景色 ジャガイモ 植えるまだ先と」

  「今年こそ 枝垂れ桜を 見に行くと 妻に約束 カーナビ故障」 

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