shin-1さんの日記

○ツーリズム

 何年か前私は下関市の合併記念イベントで、講演やシンポジストを頼まれて訪れたことがあります。下関といえば関門海峡に架かる大橋や関門トンネルをはじめ日本海と瀬戸内海の二つの海を有し、日本に完たる風光明媚な場所として知られています。しかし近年は後追いだった博多の繁栄に押され、加えて対岸の門司のレトロに押されて何となく影が薄くなっているような感じを持っていました。バナナの叩き売りの口上もふぐの取り扱い日本一を誇るグルメの町も、博多ラーメンの庶民性にお株を奪われたように思うほどです。

 しかし下関は私が海大好き人間だからかも知れませんが、歴史の中に生きてきたレトロな感じや海に向かって建つ佇まいは、どことなしか懐かしい香りがするのです。

 そんな下関のシンポジウム会場で大分県安心院の中山ミヤ子さんに会ったのも懐かしい思い出です。安心院はご存知のようにグリーンツーリズムの先鋒として急速に脚光を浴びている町ですが、中山さんの話はとても魅力あるものでしたし、その話を確認すべく仲間を集めて農家民宿を営む中山さんの家へわざわざ出かけたりもしました。

 中山さんの話はとても面白いものでした。大学の先生の話と違って理路整然とはしていないものの、朴訥と語る方言丸出しの話は時には可笑しく、時には悲しく、それでいて真髄を突くようなものだったと記憶しています。田舎の時代遅れの代名詞と言われた五右衛門風呂や溜め置きの便所さえ非日常ゆえに、都会の人には魅力として映るのだそうです。別に風光明媚な土地でなくても、別に美味しい牛肉や魚がなくても、自信を持った生き方さえすれば日々の暮しが観光資源になるということを話してくれました。

 今私たちの住んでいる田舎はどんどん人が減って過疎となり、子どもを生まなくなったことと医学が進んで長生きするようになる少子高齢化という社会現象の波が押し寄せ、限界集落といわれる集落を幾つも抱えているのです。多分そこに住む人たちの殆どは何をやっても上手くいかない負け組み意識に苛まれながら自然消滅の時をじっと待っているような感じさえするのですが、中山ミヤ子さんの話はその田舎への応援歌ともとらえられる頼もしいものでした。

 最近旅のかたちが少しずつ変りつつあることを感じるようになりました。先日学生を連れて訪ねた今治でもグリーンツーリズムが少しずつ芽を吹いていると報告されていましたし、昨年20回もお邪魔した高知県四万十市西土佐村でもツーリズムに目覚めつつある人たちを沢山見てきました。昔は「いい景色のところにみんなで行って、温泉に入って美味しいものを食べて」が旅の主流でした。勿論今でもそんな旅を好む人は多いけれど、ただ「見る」だけでなく「体験する」ひtが増えているところに現代の人のモヤモヤ感のようなストレスを感じるのです。

 グリーンツーリズムは農業体験、ブルーツーリズムは漁業体験ですが、「旅に行ってまで働くの?」と感じる人もいるようですが、ビルの中でデスクワークしている人たちにとっては自然の中で大地や海やそこに生きる人々と接しながら身体を動かすことは意味のあることのようで、手ごたえや体感を求める人が修学旅行までも変えようとしているのです。

 ある意味では田舎が都会を求める20世紀に比べ、都会が田舎を求めるいい時代になったし、知恵さえ出して行動すれば田舎という負の遺産も大きな商品価値になるかも知れない期待感を持つのです。既に密造酒の代名詞のように言われたドブロクだって「ドブロク特区」などという用語まで飛び出しているのですから面白いものです。

 諦めかけていた田舎の人に少し自信を持たせるツーリズムの動きも、儲け主義を追求し過ぎるとリピーターは増えず、折角資金をつぎ込んで整備した水周りへの投資も回収できずに廃業なんてことになるのかも知れません。ツーリズムの命はやはり心と心の温かいふれあいの上に存在する事を肝に銘ずるべきだと思うのです。

  「ツーリズム 俺もやろうと 皮算用 客足伸びず 元の木阿弥」

  「こんな場所 人がよく来る 不思議がる もてなし心 ネット情報」

  「火吹き竹 穴かな息を 吹き込んで 真赤な顔は まるで赤鬼」

  「五右衛門の 風呂に浮かんだ 下簾板を 取ってアイタタ 底抜け騒ぎ」

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shin-1さんの日記

○無人島探検記・ルポ④

 無人島には人間が住んで使ったであろう道具類がやたらと散乱しています。家が打ち果てて潰れたため五右衛門風呂の風呂釜や水瓶など押し潰された屋根の重みで殆どが粉々になっていました。多分何年が後にどこかの物好きな考古学者や郷土史家がこれら人間の生きた証を調査しまことしやかに語るのでしょうが、今を記録することも大切ではないかと思いました。

 雑多なごみの中で水瓶を見つけました。取り出してみると多少傷んではいましたがまあ使えないことはないと思い近くにあったボロ布で粗方の掃除をして蜘蛛の巣やゴミを取り除きました。そしてそこら辺に落ちていた紐で荷造りをして海岸まで運びました。多分このままだと朽ち果てて役には立つまいと思い、豊田さんと相談して取って帰る事にしました。由利島の見える人間牧場にでも置いてこの水瓶にメダカでも飼って由利島の話を長く語りついで行きたいと思っています。

(口が割れてかけているものの、何とか水が溜りそうなので、船に積んで取って帰る事にした小さな水瓶です。私が梱包し、埼玉の工藤さんに手伝ってもらいました。

 
(海岸で集めたニナをにわか釜戸で茹でました。柳町さんもボーイスカウトの出で立ちで加勢しました)
(タコも上手に茹で上がりました。早速タコのぶつ切りパーティです)
(タコもビールも会話も飛びきり美味いです)

探検が終わると私たちは海岸に出て石をはぐってニナを取りました。10人なのであっという間に手鍋にいっぱい取りました。潮池に戻って石でにわか釜戸を造り、手鍋で茹でました。中々の味です。ついで私たちを送迎してくれた船の船長さんがくれたタコを一匹ずつ茹で、豊田さんが包丁で調理して野趣豊かなタコのぶつ切りを賞味しました。埼玉の連中もこれには大喜びで、塩水で冷したビールを飲みながら楽しい昼食弁当を食べました。炎天下でしかも今年一番と思われる暑さの中でのパーティでしたが、大満足です。

(潮池の向こうには緑色片岩の大きな石山があり、そこからは四国のぢ方や、双海町がよく見えます。大野さんの案内で小林さんと二人が散策しました)
(ゴロ石の浜で全員が記念写真を撮りました)
(へっぴり腰の無人島常連峯尾さんと小林さん)

 やがて迎えの船が来る約束の13時30分になったので荷物をまとめ干潮時の乗り場となる砂浜へ移動し記念写真を撮りました。迎えの船は約束の時間きっかりに姿を見せ、慣れた手つきで錨を打って小船を下し、私たちは次々に乗船しましたが、船足の軽いプラスチックの小船ゆえ、柳町さんが思わず海面に尻餅をつくハプニングもあって思い出多い無人島に彩りを添えてくれました。やがて渡し舟は全員を乗せ思い出多いつかの間の無人島由利島を全速力で走り後にしました。

(さようなら雌由利の遠望)

(さようなら雄由利の麓に広がるゴロ石の浜の遠望)

 約1時間弱で三津浜に到着しましたが、岸壁には河野さんも出迎えに来てくれていました。河野さんはこの春リタイアし、桟橋の目と鼻の先の渡し船の船長として第二の人生を始めています。その後みんなで由緒ある道後温泉本館の湯船に浸かって疲れを癒しました。この温泉は私たち地元の人でも中々体験できない珍しいお風呂で、通された2階の風呂や休憩所はお茶やお菓子のサービスもあって中々のものでした。

(道後温泉本館風景、間もなく10年間の大改修が行われるため全てが工事用のベールに包まれるそうです。間に合ってよかったです)

(2階の休憩室でくつろぐメンバー)

(坊ちゃん列車に乗って町を散策しました。丁度土曜夜市の初日とあって沢山のお客が大街道通りに集まっていました)

 小料理屋千昌の2階で開かれた交流会には無人島キャンプで知り合ったフロンティアグループの仲間11人が加わり、賑やかな小宴が持たれました。哲ちゃんの頭が示すとおり、北本市と交流が始まった平成2年からだともう17年も経って、仲間の体調や職業にも大きな変化が見られています。次の出会いは確約できないものの、久しぶりに旧交を温めたことで、新たな活力が湧いてきたような感じがしました。

 同じ目標に向かって楽しくボランティア活動に熱中した時代が懐かしく感じられる分私たちも歳を取ったのでしょうが、やはりあの頃のパワーの源を考えれば、メンバー個々が新たな目標を持って進化しなければならないと、私はみんなに開会のあいさつで訴えました。

 私は仕事の都合で最終日は止む無くご一緒できませんでしたが、大野さんと藤本さんの案内で午前中松山市内を見学して帰郷、今日の午後8時過ぎ、松本さんから「北本へ無事着いた」旨の電話をいただきました。

 またお会いしましょう。「グッバイ、シーユーアゲイン」

  「若き頃 ふとした縁で 無人島 夏は毎年 子どもと一緒に」

  「おいお前 薄くなったな 笑う顔 お前の頭も 五十歩百歩」

  「無事着いた いまだに届く 締め電話 これでホッとの 仕事終りぬ」

  「また少し パワーを加え 元気だし 老いの坂道 ブレーキかけつつ」 

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shin-1さんの日記

○無人島探検記・ルポ③

 さあ久しぶりに無人島探検をして見ましょう。

 手に手に草刈り鎌を持ち豊田さんの案内で無人島キャンプ当時の足跡を追ってみました。まず潮池から北側の海へ出ました。この道は踏みつけ道があって子どもたちが自由に往来していましたが、既に野ばらが生い茂り少し窮屈な道になっていましたが、先陣を切った豊田さんが鎌と剪定ハサミで道を確保してくれお陰で大助かりです。その後雌由利と雄由利を結ぶ突堤に出てその上を歩きました。

 雄由利は以前より海岸線も美しくなったような雰囲気でゴロゴロ丸石の海岸が灯台岬の方まで綺麗に伸びていました。写真に撮ると美しいのですが砂浜にはゴミがかなり打ちあがり美観を損ねていました。

 子どもたちがドラム缶の風呂や炊事に使っていた場所には広葉サボテンが群生していて、黄色いサボテンの花が綺麗に咲いていました。訪れて見る人もないオニユリやサボテンの花ゆえにいとおしく感じ、みんな写真に収めていました。

(このサボテンには多くの刺があり、触ると目に見えないような刺が手袋を通して無数に突き刺さり、中々抜けない厄介者なのです。綺麗な花には刺があるのでしょうか。無人島キャンプではこのサボテンをステーキにして焼肉のタレで食べましたが中々美味でした)

 昔は無人島になんでこんな物があるの?と想ったものが二つありました。一つは由利神社です。かつて由利千軒といわれるほどにイワシ漁や潮待ち港として栄えた名残でしょうか、石垣で囲った立派な神社がありました。しかし長年の風浪に耐え切れず、傷みがひどく今度来るときには完全に潰れるのではないかと危惧するほどの傷みでした。豊田さんと私は雲の巣を払いながら奥へ進み、敬虔な祈りを捧げました。

(一番奥が本殿で、本殿は瓦葺の社殿でスッポリ覆われていました。鳥居や石碑もかなり痛んで今にも倒れそうな雰囲気でした。

 もう一つは公衆電話のボックスです。由利島は昭和40年代に無人島になりましたが、無人島になった跡も何故か公衆電話があったのです。携帯電話のなかった私たちが無人島キャンプを始めた頃は唯一暖簾連絡手段として大活躍でしたし、その頃は無人島に公衆電話が何故あるのかという疑問がクイズ番組などで度々紹介されていました。そんな話題性もあって無人となった民家に置いてあった公衆電話専用のモダンな電話ボックスが出来ましたが、それも今は傾きかけ、海底ケーブルの故障によって今は取り外されて久しいのです。

(かつての公衆電話ボックス)

 私たち一行は電話ボックスの前から壊れた民家の前の道を通って井戸まで進みました。この道では嫌な思い出があります。井戸からドラム缶の風呂までかなりの距離をポリタンクに水を入れて運ぶのですが、これがかなりしんどい仕事でした。子どもたちは蚊の大群に悩まされながら背負子を背負い何度も何度もこの道を歩いたものです。私はこの道を下見で訪れた時仲間たちと草刈機で道刈りをやりましたが、その時スズメバチの巣に知らずに草刈機を突っ込んでしまい、蜂の大群に追いかけられ頭と顔を数ヶ所刺され、顔が倍くらい腫れあがったことがありました。明くる日県民文化会館で環境のシンポジウムがありパネラーとして登壇しましたが、参加者の笑いのネタにされてしまいました。しかし私はひるむことなく「私の顔が今の地球の環境と同じです」と一蹴し大きなインパクトを与えた感心させたことを思い出しました。



(井戸に通じる道、この道を何度通ったことでしょう)

 思ったよりスムーズに井戸まで到着しました。井戸は今も底に水をためていましたが、井戸の中の石垣には草が茂って神秘的でした。ここでも無人島ゆえリーダーとして参加した女性陣がこっそり深夜に水浴するのですが、水汲みに来た折月明かりで彼女たちの全裸姿を見てドキドキしたのも昔の過ぎし思い出です。この井戸を何年か前エンジンとポンプを持ち込み井戸替えした子とがります。「井戸は井戸主というのがいるからバチが当って井戸が壊れて生き埋めになるかもしれない」というデマを真に受けて誰もい井戸底に入らず、結局は私が入りました。水をくみ上げた井戸底から覗く丸い夏の青い空の美しかった思い出は忘れることは出来ませ。

(井戸の様子を感慨深げに見る探検隊のメンバーたち)

(探検の目的地にて記念写真を撮りました)


 スカートをはいた女子先生のことも話題の一つに上りました。本人の名誉のため名前は伏せますが、私の忠告も聞かずスカートをはいてさっそうと無人島に乗り込んできた若い女子先生の股間に蚊の大群が押し寄せ、それはもう大変なことになりりました。結局大統領の私がスカートをまくりパンツを見ながらムヒを塗ってやりましたが、今は結婚して母親になっていると北本の仲間から近況を聞かされ、ほろ苦い思い出に思わず苦笑してしまいました。

  「梅雨晴れて 鎌を片手に 島探検 あれこれ話す 思い出話」

  「道渕に 潰れし小屋の 寂しさよ 住む人絶えて 久しからずや」 

  「俺たちの 命の水と なりし井戸 今は夏草 底さえ見えず」

  「俺だって 踏みつけ道の 一翼を 担いこの道 今にあるのだ」 

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