shin-1さんの日記

○万華鏡と手づくりおもちゃ

 子どもの頃学校の工作で万華鏡を作った経験があります。当時はそんなもの売っている店もなく、キットなどなかったものですから、ガラスを売っている金物店へ行って、おじさんにガラスの端切れを寸法を計って切ってもらいました。定規を置いて先端にダイヤモンドのついたガラス切りで切る姿にまるで魔法のようなものを感じたものです。このガラスを3枚合わせて三角形の筒を作り、底と上蓋を貼り合わせ中に色紙の切ったのを入れると不思議や不思議、様々な幾何学模様が筒を回す度に出てきて何ともいいようのない世界が広がるのです。友だちのと変る変る見せ合うのですが、一つとして同じものはなくうっとりして見とれたものでした。

 今は土産物屋へ行けば千代紙を張った民芸調の万華鏡がお手ごろ価格で売られているものの、そんな時代遅れな遊び道具より、子どもたちの目は原色に近い色調のお土産に行って見向きもされないようです。

 先日私の書斎の書棚の奥にある古ぼけた万華鏡を目敏い孫が見つけました。私もすっかり忘れてしまっていた万華鏡なのですが、これは友人の快気祝に貰ったものだと思い出し、孫と一緒に穴から中を覗いてみました。

この万華鏡は木製の中にレンズが組み込まれている特殊なもので、市販されている民芸調のものとは少し違って見えるのです。万華鏡の穴から手の指を見たり人間の顔を見たりすると、これまた手の指や顔が幾つも幾何学的に写って飽きないように出来ているのです。

(まるでドングリのような万華鏡)
(蓋を取ると中にはレンズが入っています)

 孫は「おじいちゃんの顔が沢山ある」とか、穴からテレビを見てキャーキャー言って遊んでいました。その内万華鏡にも飽きて菓子箱で何やら工作を始めました。私も負けじと箱をハサミで切り取り遊び道具を作ってやりました。私の作った空飛ぶ円盤はメンコのような丸い画用紙の隅に切り目を入れ、そこへ輪ゴムを引っ掛けると面白いように飛ぶのです。円盤には孫が絵を書き、私が孫の名前をもじり「朋樹号」と書いてやりました。何個も作って外へ出て孫と飛ばせ競争をしましたが、孫は既製品のおもちゃに慣れているせいかこのおもちゃがとても新鮮に感じたのでしょう、汗をいっぱいかいてくたくたになるまで遊んでいました。

 私たちはいつの間にか子どもに物を与える場合、裕福になったせいもあるでしょうが、作られた物を与えるようになってしまいました。私たちが子どもの頃のような貧しいが故に万華鏡さえ自分の力で作った頃の事を思い出し、子どもたちと一緒になって何かを作りあげる方がよっぽど子どもたちは喜ぶことを思い出すべきだと思いました。恐竜の模型や飛行機の模型よりおじいちゃんと一緒になって作った空飛ぶ円盤の方が生き生きと輝いて遊ぶ孫の顔を見たのです。

 さて今度は孫とどんな遊びをしようか楽しみがまた増えてきました。

  「書棚から 目敏く見つけた 万華鏡 孫はキャーキャー 言いつつ眺め」

  「じいちゃんの 空飛ぶ円盤 気に入って 汗をかきつつ 孫は追いかけ」

  「何もない だから何でも 工夫して 作った昔 懐かし遊び」

  「買ったもの 与えて喜ぶ 顔よりも 一緒に作る 孫は生き生き」


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shin-1さんの日記

○友遠方より来るありまた楽しからずや

 これまで62年間生きてきて、その内約半分の35年間を役場に勤めた私ですが、人生においても役場生活においてもこれまで様々な出会いがありました。しかし人生はさて置き役場という所は何故か辞めると緊張の糸が切れるのと同じように人間関係の縁の糸まで切れてしまうようで、肝胆愛照らした仲間でさえ交流がはかばかしくないのは私だけなのでしょうか。そんな寂しさを紛らわせるように、町内市役所に勤めている人ではない遠隔の友人4人(私を含めると5人)が昨晩人間牧場に集まりました。私を除けば全て現役で数日前に夏のボーナスをがっちり貰った人たちですが、松野町の教育長をしている芝さんを除けば伊方町の塩崎さん、西予市の原田さん、大分市の渡邊さんら3人は奇しくも同級生で来年の春に退職を迎える窓際族なのです。既に覚悟を決めているのか、あるいは合併という社会の流れに翻弄されながらも、不完全燃焼気味のわが身を振り返りながら人生の機微を多いに語り合いました。私にとってこの4人は多分役場同類とでもいうべき世界では、最後の友人と呼ぶに相応しい人たちなのです。

(芝さんが仕事の都合で深夜に奥さんの運転で帰りましたので、4人での記念写真となりました。これらの写真は渡邊さんがEメールで送ってくれたものです)

 塩崎さんは旧三崎町役場職員(現伊方町)ですが私の最も古い旧友です。私が愛媛県青年団連合会の会長をしていた頃、西宇和郡連合青年団長をしていて、議論や舌戦をやりました。その後少しの空白はありましたがえひめ地域づくり研究会議の代表として今も一緒に活動をしています。渡邊さんは関アジ関サバで有名な旧佐賀関町役場職員(現大分市)で、塩崎さんを通じて知り合いました。そんなに長い付き合いではないのですが馬が合い、心を許す友人となりました。原田さんは旧明浜町役場職員(現西予市)ですが、まちづくりの仕事で知り合いました。塩崎さんと同じく夢工房のメンバーとして今も活動をしています。芝さんは合併問題で話題の松野町の教育長さんをしていますが、若い頃から企画や観光の仕事で松野町をハイレベルな町に変身させた方です。やはり夢工房のメンバーとしていっしょにかつどうしています。私は同属同行が傷をなめあうような仲間は余り好きではありませんが、これらの友人はそれぞれが確固たる信念を持って生きている人たちなので、お互いの生き方に刺激を受けながらこれからも進化を続けて行くことでしょう。

(魚梁瀬杉のテーブルを外に持ち出し、持ち寄った食材や妻の作ったささやかな料理に舌鼓を打ちながら、ウッドデッキで洒落た食談となりました)

 塩崎さんと私は体調を崩したのを機会に酒を止めましたが芝さんも原田さんも渡邊さんもかつての私と同じ酒豪で、呑むほどに酔うほどにボルテージを高くして議論しあいその話は深夜にまで及びました。ほろ酔い雑魚寝で快いいびきの大合唱を経て早朝にロケ風呂を楽しんだのは原田さんと渡邊さんです。私が沸かしたお湯に浸かって多趣な原田さんや渡邊さんは一体何を思ったのでしょう)

(原田さんの入浴シーンです。あいにく霧が出て遠望は利きませんでしたが梅雨の晴れ間のひと時を楽しみました)

(綺麗に掃除した後の水平線の家で記念写真を撮りました。芝さんがいないのが残念です)


 教育長の芝さんは別として、塩崎、渡邊、原田さんは後9ヶ月の現役生活です。気を抜くことなくしっかりと最後のご奉公をするよう堅い契りを交わして山を下りました。早速渡邊さんからはその日のうちにメールに写真が添付されて送られてきました。原田さんからは人間牧場の草刈りに仲間を連れて行くという有り難い申し出の電話をいただきました。忙しい日々の中で束の間の時間を割いた仲間との交流は自由人若松進一にとってまた新しい活力になりました。「友遠方より来るありまた楽しからずや」でした。

  「それぞれに 生きた社会は違うけど 何処か似ている 影引くうしろ」

  「これからだ 一足早く 退職を した俺先輩 ゲキを飛ばして」

  「遠心を 外れた感の 友四人 在野身を置き 清く生きてる」

  「味噌汁を 作りてすする 朝飯に 関アジ入り 何と贅沢」



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○鯉のいなくなった池

 わが家の池で鯉を飼い始めたのは私がまだ中学生の頃でした。何にでも興味を示す親父は骨董品収集、船の模型製作、庭木の手入れなど様々な趣味の分野に手を広げて90歳の今日まで人生を楽しんで生きてきました。お陰で骨董品収集も船の模型製作もその道のセミプロのようで、「好きこそものの上手なれ」という言葉そのままに、目利きと腕のよさは私も感心するほどの上達ぶりでした。鯉の飼育も同様で一匹何十万円もするような鯉を10匹余り飼っていたのです。ところがつい最近になって自慢の鯉が一匹二匹と死んで、その落胆ぶりはペットに死なれた人のようで、傍から見ても気の毒な感じさえするほどでした。「こんな辛い目をするのだったら自分が死んだほうがましだ」ともいうのです。死んだ鯉を畑の隅に埋めて懇ろに弔ったりしましたが、思い切って鯉を飼うのを止める事にしました。出入りの鯉養殖業者さんに無料で差し上げたり、高い金を出して設置していた自動浄化施設も全て処分してしまったのです。親父の人生にとって最後の決断だったかも知れないと、息子ながらその決断を見守ったのです。

 鯉のいなくなった池は哀れなもので、水を抜いて干し上げた池はまるで親父の心のようにポッカリと空間が出来て、毎日の日課だった餌やりや観察する姿が見えなくなりました。今日の昼に親父の隠居へ行くと「あの池を土で埋めたい」というのです。私は「好きにしたら」といいながら、この池に土を入れるとなると狭くてダンプカーも入らないし、業者に頼まなければならず困ったことだと思いました。

 私の考えでは折角掘った池だから高さも十分あるので地下室にでもしたらどうかと提案したのですが、親子の意見が真っ向から対立してしまいました。

 わが家には私設公民館煙会所と海の資料館海舟館、夕日を見る夕観所に加えて池の鯉が自慢でしたので、残念ながらその自慢が一つ消えた事になってしまいました。幸い親父の手づくりによる小さな池が昨年庭の隅に作られたので、親父の気慰みにはなるようです。

 老いや死が確実にやって来る人間にとって、生きてる証のようなものを求めるのは当然のことかも知れません。30年後には私も確実に今の親父と同じような境遇になる事を思うと、自分の人生の将来に不安も見え隠れし始めました。今は忙しくてそれどころではないのですがそろそろ身辺の整理もしなければなりません。同じような年代の人が新聞のお目出度やお悔やみ欄に名を連ねるのを見る度に、人生を考えるようにもなりました。

 まあ色々いいながら結局は今をどう生きるか、何をしたいのか考えながら今に生きたいと思います。

 鯉の死は親父と私にそれなりのショックを与えたようです。

  「鯉が死に 落胆親父 おろおろと 後なき人生 重ね合わせて」

  「あれ程に 好きな鯉飼い 止めるとは 余程の決意 俺には出来ぬわ」

  「母の死後 心和ませ くれた鯉 今は空しく 空池残る」

  「何処となく 元気の失せた 親父には 忘れかけてた 母が幻」

 

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shin-1さんの日記

○再訪馬路村

 人の思いとはこうも人と人とを結びつけるものかと思うほど、馬路村との交流は更に深くなっています。一ヶ月ほど前一件のメールが私のインターネットに送られてきました。送り主は東京の電源地域振興センター振興支援部人材育成課からでした。正直このような団体があることすら知らない私へのメールには、7月5日馬路村で四国電源地域市町村研修会(ニーズ研修会)をやるから講演をして欲しいというのです。残念ながらこの日は佐賀県に出張中と返信しましたが、馬路村農協組合長の東谷さんと日時を入れ替えることで合意し、出かけることで日程を組みました。

(切符の関係で新幹線のぞみには小倉から広島まで乗車しました)

 佐賀行きの前日は大学の講義日、馬路村の明くる日は双海町の少年少女おもしろ教室などで手がいっぱいだったのですが、時刻表と首っ丈で新幹線のぞみのスピードに助けられ、広島経由で四国に帰り寝る間を割いて馬路村入り、馬路村では午前の講義の後ワンコイン講演会が組まれたため、帰りは午前1時過ぎというまさに超ハードなスケジュールをこなしてきました。佐賀では梅雨の晴れ間で助かりましたが、昨日は一日中雨の中での研修会となりました。

(鮎釣りのメッカ安田川の清流)

(安田川に沿ってまるで路地のような狭い道を走ると馬路村へ到着します)
 電源地域の研修会には徳島県の旧友小坂さんも偶然にも見えられていていましたが、DVDの音声が出ないハプニングもありましたが、それなりの話は出来たように思ういます。

 それにしても1ヵ月も経たないうちに2回もこの遠隔地へ来るとはただただ驚きです。その間愛媛県で東谷組合長さんと研修会や酒宴で一緒になっているのですから、凄いご縁だと思わざるを得ないのです。

 この日は馬路村温泉センターや木下課長の配慮で昼食後ひと風呂浴びて1時間ばかり転寝の時間をいただきました。2時半からはアクロスに出かけ商品開発の秘策を考えたり、山中さんという方の奥まった一軒家へ予告なしで訪問したり、また村内のあちこちを散策して歩きました。特に山中さんは器用な人で、「器用貧乏村宝隣のアホに使われる」ということばそのままな、木下課長の敬愛するおじさんに出会いに行きました、丁度夕食時と重なりましたが、中山さんが手掛けた竹篭や木工手作り品は玄人はだしで素晴らしいの一言に尽きる仙人(そまびと)でした。木下課長さんとも話したのですが中山さんの作品を一堂に集めて個展でもしたらどうだろうと提案をさせていただきました。是非実現して村民を主役にする行政をやって欲しいと思いました。

(森林鉄道時代の客車は道沿いで倉庫として第二の役割を果たしていました。まるで猫バスのようなロマンチックでミステリアスな雰囲気でした)

(村長室を訪ねたのは今回が2度目ですが、気さくな人柄は何ともいえない味のある庶民派村長さんです。それでいてモナカバックを持って歩く姿はロマンスグレーも手伝って中々ダンディな人です)
(研修会に参加した若手を中心にした参加者、数はそんなに多くはありませんが、これでも全職員の3分の1くらいは集まった計算になります。つまり300人の市役所だと100人という計算になります。前の女性は県庁から派遣されてまちづくりのサポートをしている方です。夜間だというのに熱心に付き合ってくれました)

 夜はきっかり午後6時から馬路村温泉の集会室をお借りして始めました。この研修会はワンコイン講演会と称して500円のコインが入場料です。役場職員を対象にしての自主的な研修課員は沢山の人が来ていました。特に役場の将来を背負う若手が沢山来て出向して来ている県職員も2名参加され、何よりも驚いたのは村長自らが自主的に参加して、私や参加者からの質問と受け答えに熱心に耳を傾けておられたことです。嬉しい出来事です。今日は午前中村長室に村長さんを表敬訪問していましたので余計恐縮してしまいました。私が1時間話し質問に答える形で1時間話を繋ぎました。まさに村でないと、あるいは村でしか出来ないほのぼのとしたワンコイン研修会は、皿鉢料理を囲んでの懇親会にまで受け継がれ、後ろ髪を引かれる思いで、どしゃ降り雨の狭い一本道をハラハラドキドキしながら通って高速道路に乗り家路へと急ぎました。帰宅は午前一時30分でした。

(ズラリ並んだ皿鉢料理、味は抜群でした)

(安田川の天然鮎、美味しかったです)

 押しし伊料に後ろ髪引かれる思いで馬路村温泉を後にしました。

  「石一個 動かす度に 酒を飲む 高知の人は 酒で仕事を」

??? 「太平洋 アバウト気質 育てます 龍馬の思い 自分ダブらせ」

  「酒が好き 仕事も人も 全て好き 高知賢人 俺も見習う」

  「ふと思う 去年この頃 西土佐訪ね あの人元気 おわしますやら」


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shin-1さんの日記

○久しぶりの佐賀県

 1ヶ月余り前の5月31日、佐賀県嬉野温泉に行って間もない7月5日、再び佐賀県を訪ねました。佐賀県といえば熱気球や吉野ヶ里遺跡、有田焼など小さな県ながらはなわさんやがばいばあちゃんでそれなりの情報発信をしている県です。同じ九州でも東国原知事が暴れている宮崎県に比べると地味な感じもしますが、それでも一度は訪ねたい県なのです。観光はどちらかといえば吉野ヶ里や有田などに足が向くもので、県庁所在地の佐賀市には残念ながらいい情報が入らないのも事実で、今までは素通りの中心地だったように思います。

 博多からだと特急で僅かな時間で来れるので、時間的な余裕があったので私は思いきって次の肥前山口まで足を伸ばしました。何年か前関口智広さんが北海道から旅した「列島1万2千キロの旅」の終着駅が肥前山口だったのです。その時はサンポート高松駅、大豊駅とともに日本一海に近いわが町の下灘駅も登場し、私と関口さんのコラボレーションをやりました。佐賀駅と肥前鹿島駅の間にある駅ですが、とりたてて特徴があるような駅ではありませんでしたが、縁とは不思議なもので肥前山口の存在が頭から離れなかった、ただそれだけのことなのですが、わざわざ切符を買って佐賀ー肥前山口を往復してしまいました。


 佐賀駅に降り立ちましたが、佐賀は高校生のスポーツの祭典高校総体を間近に控え歓迎ののぼりがはためき、歩道の花々も綺麗に咲きそろい、美しく着飾っているようにも見えました。

 講演は午後からなので駅構内の観光案内所で市内観光マップをもらい、会場となる佐賀神社までゆっくりと散策しながら歩きました。シンボルロードを歩くこと20分余りで面白い堀川沿いに出ました。松原川というのだそうですが、佐賀神社の裏手まで通じる堀川は綺麗に整備されて興味をそそる仕掛けが随所にありました。

 河童がテーマなのでしょうか川のあちこちには河童の置物が幾つもあってその表情がとてもユーモラスで思わず笑ってしまいました

(石組みの見事さや小さな橋ながら沢山の橋はそれぞれ特長があって中々凝った造りでした。

(この河童は触ると水が出るような仕掛けになっていてアッと驚きました)

(河童は子どもや父や母などの像で、河童伝説風らしくお皿に説明が書いているのお洒落ですね)

 この通りにかかった小さな太鼓橋を渡ると佐賀神社の裏手に出ましたが、この神社は格式が高そうで幾つもの神社が同じ境内にある珍しいものでした。この季節は夏越しのための輪くぐりが茅を使って作られており、私も輪をくぐってお参りしました。

 境内には大隈重信はじめ佐賀県出身の歴史上の人物の顕彰碑や幕末鍋島藩が鋳造した大砲砲台が展示してあり、幕末から明治維新にかけた動乱の様子を垣間見ることが出来ました。

(小説で読んだことや聞いたことはありましたが、司馬遼太郎の小説「峠」に出てくるアームストロング砲ははじめて実物を見ました)

(佐賀県庁

(佐賀県庁前周辺の堀)
 佐賀県庁付近の堀や旧跡など佐賀城公園を散策ししましたが時間がなくなり佐賀城跡までは行くことが出来ず残念ながら引き返しました。

 佐賀神社の境内にある会館が会場なので早々と会場入りし、県観光連盟主催のマナーアップ研修会に望みました。参加者は約100人弱でしたが、参加者の皆さんは熱心に聞いていただきました。

 今回の旅で見つけたものに葉隠れの教えがありました。私にとっては葉隠れの思想は私設公民館煙会所の名前の由来ですので特に興味を持ちました。(煙会所は次郎物語を書いた下村湖人の煙仲間という本に由来しています。葉隠れの当時煙は最高の情報伝達手段、つまり狼煙として利用されていました。煙を見て来るもよし去る人追わずはまさに煙会所の塾是なのです。会館のロビーには大きな年輪を刻んだ輪切りの大木に文字が掘り込んでありました。

   葉隠四誓願

 一、武士道ニ於イテオクレオ取リ申スマジキ事

 二、主君ノ御用ニ立ツベキ事

 三、親ニ孝行仕サルベキ事

 四、大慈悲ヲ起シ人ノ為ニナルベキ事


  「何気なく 通る堀川 河童住み 思わず触れて 驚きの水」

  「飛道具 これで外国 打ち負かす 真剣議論 鎖国の幼稚」 

  「葉隠れの 四誓願は 今もなお 使えるものと 思えば使え」

  「佐賀有田 思う私は 古いかも 今はがばいの ばーちゃんですよ」


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shin-1さんの日記

○政局やいかに(旅先の街で拾った話題)

 佐賀県のとあるうどん屋に入り軽い昼食を取りました。昼時でしたが人もまばらで、「おっちゃん儲かりますか」と軽く投げかけると、関西弁で「あきまへんな」とこれまた軽く返事が返って来ました。おっちゃんのいうのには、「世の中景気が回復したとよくいわれているが、佐賀県まで景気回復が回ってくるのは俺が死んでからじゃあ」と冗談交じりででした。私が「おっちゃんそれまで生きてて下さいや」というと、「大丈夫あの世もうどん屋やっとるから」と軽くいなされました。

 その話を聞いていたなじみの客が、「お兄さんうまいこといいいますな。何処から来たの」と訪ねるので、「はいこの顔は宇宙人ですから宇宙から」。「面白い」てな調子で笑い転げました。

 そのうち私が出された冷し麺を食べ始めると店のご主人であるおっやんとなじみの客が何やらぼそぼそです。聞き耳を立てた訳でもありませんが、なじみの客は今度の参議院議員選挙に出馬する地元の人を応援しているらしく、封筒から後援会名簿を出しておっちゃんに書いてもらうよう頼んでいました。「おらとこはわしら夫婦と寝たきりのおばあちゃん、それに嫁に行ってない娘が二人いる」というのです。なじみの客は「それ全部書いといて下さい。もし電話が架かってきたら私の名前をいって下さい」といい、書き終わった名簿を持ってそそくさと出て行きました。

 聞いた訳でもないのにこのおっちゃんは私に向かって、「こんな名簿を今頃書くようじゃあの候補者もお終いじゃな」というのです。

 おっつけ別のなじみの客がまた入ってきました。「おっちゃん、あそこの電柱に立てかけていた○○党の党首の看板が昨晩の風で路上に飛んでいたが、その上を次から次と車が踏みつけて通っていた。あの政党は今度の選挙で地に落ちてしまうかも知れんな」と笑いながら話を切り出しました。「馬鹿たれが、それはひょっとしたら大当たりで当選するかも知れんと思わんかい」というのです。450円のうどんいっぱいでこれほどワサビの利いた話を聞いたのは久しぶりで、すがすがしい気持ちになりました。

 お店を出た所でコンクリートの地面に何やら光るもの有り、よく見ると百円硬貨のようでした。お店の前の拾得物ですからドアを開けて「おじさん百円拾いました。お店のものなのでどうぞ」といったら、「お店を一歩出ると店のものではない」と断られました。それでも百円くらいポケットに入れるのも悪いと思いカウンターに「ここに置いときます」といったら、店のおばちゃんが追いかけてきて、「あんたは正直もですね。百円は貰いますから、あなたにゆで卵を一個差し上げます」といって否応なしに手渡され、卵をポケットに何やらほのぼの佐賀の街を歩きました。

 佐賀はほのぼのいい街だ 人情厚いし うどんも上手い おまけに卵がポケットで マジックピヨピヨ孵るかも

 佐賀はほのぼのいい街だ 風も爽やか ふわふわ気球 街中花が咲いている 青春総体必ず成功

 佐賀はほのぼのいい街だ 笑顔おっちゃん ウイット富んで 客とやりとり肥前弁 今度来るとき誰を誘うか

  「よくもまあ これだけあると 不祥事を お互いつつき 国民不在」

  「昨日まで人のことかと 油断する 俺のことかも これはたまらん」

  「あの人も 政治の道具に 借り出され 落ちればいずれ 見向きもされず」

  「選挙さえ 終われば俺の 天下だと 腹の底では 政治家いつも」  

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shin-1さんの日記

○今日は久しぶりに朝から雨

 水不足が心配されている愛媛県地方では、一昨日の雨と今日の雨は少しホッとした心境のようで、朝のあいさつも「ええおおるいで」(雨が降ること)と弾んだ言葉が交わされています。私たちの町は農山漁村地域なので、この「ええおおるい」という言葉には二つの意味が込められているようです。まず一つは飲料水や生活水としての水への感謝です。?上水道のないわが町では集落ごとに水を確保する簡易水道が普及しています。山あいや谷あいに水源を求め、それぞれが水道タンクを作って水を引いているのです。最近はその簡易水道施設もすっかり衛生的になりましたが、最近までは雨が降ると出る水も風呂の水も濁るような水でした。それぞれの地域では水道を守るために月当番などを決めて管理をしていたし、年に一度はタンクの清掃などを地区総出でやったものです。それでも祖母の時代には水道がなく水瓶に水場から汲んだ水で生活していたのですからえらい進歩だとなくなった祖母はいつも言っていました。こんな有り難い水に感謝するため家々では水神様と称する神様を祭っていました。子どもの頃祖母が水神様に何やら分らぬ呪文のような言葉をいいながら祈っていた姿が目に焼きついているのです。

 もう一つの意味は農業水としての水への感謝です。雨水は時々降って適当に田畑を潤し食物を育てるのですが、その降る量が多いと災害になり、少ないと干害になるのです。四国の中でも山を背にして瀬戸内海に面している私たちの地域は台風銀座といわれる九州や四国の太平洋に面している地域とは違って台風災害を免れてきましたが、逆に瀬戸内海気候という少雨地帯なのです。年間降雨量が1200ミリから1500ミリ程度なので、夏の渇水期は飲料水を最優先するため農業水にも事欠く有り様です。少雨の年は田んぼやみかんが干害で大きな被害を受けても仕方のない出来事として片付けられてきました。篤農家といわれる財力のある農家は自家用の貯水タンクや灌漑用池を持っていますが、零細農民はそれ程の余裕はなくいつもお天道様頼みで、雨乞い踊りや雨乞い念仏もその名残として残っているのです。「金が降る」なんて言葉を農家の古老から聞く度に、雨が降ることはお金が降ると同じだと思う農民の切ない思いが感じられ胸を打つのです。

 今日は久しぶりに朝から雨の一日となりました。書斎の窓越しに見える庭木や畑の作物も、雑草までもが雨を喜んでいるように生き生き青々としているように感じられのです。私は久しぶりの休日で夕方には遠出をするためのんびり過ごそうと決め込みブログを書いたり一か月分のプリントをして閉じこんだり、また読書をして過ごしましたが、親父からお墓のシキビが古くなったので畑から取ってくるよう頼まれたため、雨の中を人間牧場へ向かいました。普通農家や漁家はまるでハメハメ大王のの歌のように雨が降ったらお休みなのですが、最近は雨模様の日が続くので偉いものです。漁船は出漁し、農家の方は合羽を着て草刈り作業をしていました。ハメハメ大王のようなズボラな私は恥かしい感じがしましたが、親父の頼み事なので雨に濡れたシキビの枝を10本ばかり切り取り束ねて持ち帰りました。ついでに水平線の家の掃除をして早々に雨の人間牧場を退散しました。

 雨が少し大降りになってきました。足らずで恋しい雨、余りて憎い雨、いつの時代も人間は自分本位で雨のことなど余り考えませんが、雨の日などは雨に感謝の一日でありたいものです。

  「足らずんば 雨が恋しい 夏雨も 長く続くと 空が恨めし」

  「雨さえも 不足になると ニュースです 昨日今日など 雨でもちきり」

  「雑草が 親父の仕事 増やしてる ブツブツ言いつつ これも生きがい」

  「水不足 僅か二日で 解決す 自然はやはり 偉いものです」

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shin-1さんの日記

○夕日のメッカ嫁ヶ島辺り・そしてたたら

 前夜は島根の仲間と落ち合い旧交を温めましたが、朝早く起きて身支度を整え迎えに来てくれた松嶋さんの車で昨日は講演会場となる雲南市吉田町の生涯学習交流館へ向かいました。宿舎を出てから途中で宍道湖南東岸にある嫁ヶ島付近を通ってもらいました。というのも嫁ヶ島辺りは私の町と同じように全国に名だたる夕日の名所なのです。松江警察署の前辺りに位置する嫁ヶ島周辺は地下通路や夕日スポットが立派に整備されていていました。

(宍道湖夕日スポット「とるぱ」の存在を示す道路標識)

(道路も夕日カラーに舗装していました。向こうに見えるのが地下道の入口で、地下道を通ると宍道湖湖畔に出ます)

(地下道内の壁展示)

(小雨に煙る嫁ヶ島、小泉八雲もこの島あたりに沈む夕日を見たことでしょう)

(階段式護岸が整備されていました。若いカップルが身も心も夕日に染めて愛や恋を語ることでしょう)

(夕日スポットを示す看板表示、私の町は定点から夕日の沈む位置を書いていますが、こちらは夕日と嫁ヶ島を中心に定点を移動させています。つまり嫁ヶ島と夕日が主役なのです)

(春夏秋冬の夕日の写真が焼き付けてありました)

(国道9号線沿いは黒松の並木が見事でした)

 いつもの癖でしょうか、私の町の夕日スポットであるシーサイド公園と比較をしてみましたが、小さな町のことゆえ歴史と風光明媚に彩られた宍道湖湖畔とでは比較にはならないと思いますが、どうしてどうしてわが町の夕日スポットもオンリーワンが貫かれ負けず劣らずといったところのようでした。

 駐車スポットは10時からとかで開いていなかったので車を路側帯に止め松嶋さんに待機してもらっての急ぎ足だったため詳しく観察することが出来ませんでしたが、何時の日かまた嫁ヶ島に落ちる夕日を見たいものです。

 私たちの車は9時半到着の予定で一路吉田町を目指しました。旧吉田村は鉄の歴史村と言われるようにかつては日本独特のたたら製鉄で栄えた町だし、そのテーマで村づくりが行われてきました。合併して村という名前が消えて雲南市吉田町になりましたが、村を歩くとそこここに鉄の歴史が息づいています。途中山道を走り菅谷たたらの里を通りました。何度も吉田村には来ているのに何故か立ち寄っていないスポットなのです。この場所は宮崎駿監督の映画もののけ姫に出てくるたたら場のモデルになったことでも広く知られています。

(たたら場とは今でいう製鉄所です。歴史の重み感じさせてくれる重厚な作りで威風堂々と立っていました)

(象徴的に立つ神木桂の木です。人間が小さく見えるほどの巨木で、桜が咲く頃に3日間だけ真赤に芽吹き、夕日に映える姿は絵になる光景だと教えてくれました。私の心に残る忘れられない巨木の一本となりそうです)

(どこか懐かしい菅谷の家並み)

(まるで時代劇にでも出てきそうな風景です)

 私たちは時間通り10時の30分前に到着しました。控え室ではテーブル上に活けた野の花が美しく季節感を演出してくれていました。その花を愛でながら美味しい抹茶を2杯もいただき準備万全です。あいさつが長引き15分ほど押し気味の時間に私の講演はスタートしました。

(気配りの行き届いた野の花は美しいです)

 「女性が輝けばまちが輝く」というタイトルでしたが、参加者の反応は上々で15分延長してお約束の2時間たっぷり話させてもらいました。丸く囲んだテーブル形式の会場は雰囲気も申し分なく、私のいい加減な話にもかかわらず笑いの渦がいくつもできました。

  「魂を 揺さぶられつつ あれこれと 思うことあり 更に進化を」

  「野の花を 愛でつつ抹茶 いただきぬ 心ほのぼの 余韻残して」

  「山道を 越えていきなり 桂の木 木霊われに 何か問いかけ」

  「ああ今日も 生きているなと 実感す 山奥深い 里を訪ねし」



(講演が終わった瞬間の写真を壇上から撮影させてもらいました)
 一泊二日の長い旅でしたが、久しぶりに魂や感性を揺り動かされるようないい旅でした。私を呼んでいただいた商工会や私を紹介し案内してくれた旧友松嶋さんにお礼を言わなければなりません。有難うございました。

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shin-1さんの日記

○出雲路への遠い旅

昨日から2日間、島根県雲南市吉田町で開かれた商工会女性部のブロック研修会に招かれて出かけました。講演の時間が10時からなのでどんなルートを通っても日帰りは無理なので、思い切って前日から出かけることにしました。今回のルートは松山観光港から広島宇品港まで船で渡り、電車とバスを乗り継いで島根県入りするというルートです。講演が明くる日なので本を読みながらのゆったりとしたひとり旅でしたが、あいにく雨にたたられてしまいました。それでも旧吉田村の松嶋さんのご好意で出雲大社の近くにある島根県立古代出雲歴史博物館を見学することが出来ました。出雲は日本最古の歴史に彩られた地域です。中でも最近話題となった出雲大社境内遺跡から出土した宇豆柱(うずばしら)と加茂岩倉遺跡から出土した銅鐸39個(重文)と荒神谷遺跡出土の銅剣358本(国宝)は見応えのある展示でした。一度はこのミュージアムを訪ねこれらの出土品を見てみたいと思っていただけに、夕闇迫る気忙しい時間でしたが時の経つのも忘れて見とれてしまうほど堪能させてもらいました。

(博物館へ通じる道の横は緑のじゅうたんのようで、梅雨の柔らかな雨が緑を余計引き立てていました)

(玄関ロビーで古代服に身をまとったスタッフが優しく迎えてくれました)
(ガラス窓が続く通路を行くと奥まった場所に受付がありました。松嶋さんは両足を手術して2本のステッキ風杖をついての歩行なのですが、それを見ていたスタッフから「身障者と介助者は無料だと告げられました。松嶋さんだけならいざ知らず私まで無料とは。ご辞退しましたが熱心に簾勧められて甘んじてご好意を受けました。スタッフの皆さん有難うございました。
(入場して最初に度肝を抜かれたのは3本の杉の大木です。ここだけ撮影が許されていたので写真を撮りました)

 平安時代の出雲大社本殿の姿は色々な学説があるそうですが、この出土した宇豆柱によってさらに確かか証明がされたようです。中に入ると巨大神殿出雲大社の姿が10分の1の模型で復元されていました。しかも学者それぞれの学説により何種類もの模型が並列的に展示され、その違いが興味深く見て取れました。残念ながらその全ては撮影禁止でご紹介できないのが残念です。銅鐸と銅剣の展示も見事で、これだけ多い数が一挙に出土した訳ですから、世紀の大発見と騒がれるのも無理からぬことです。この見学で銅鐸が何の目的で造られたか長年の疑問が解けました。普通の人は出雲大社にお参りに行って、歴史博物館は素通りするのですが、私は歴史博物館を見て出雲大社へはお参りをしませんでした。そのくらい大きな価値だったと思いました。

 出雲路は信仰文化・青銅文化・鉄文化など日本の歴史を解明する上で貴重な資料の残る地域です。この資料を見た後、それぞれの発掘現場へ足を伸ばすのもまたミステリアスで興味をそそられます。この日は雨の夕暮れだったこともあってその先へは進めませんでしたが、何時の日かそんなひとり旅もしてみたいものです。

 歴史博物館の見学を終えた私は松嶋さんの運転する車で国道9号を通らず宍道湖の北岸431号の旧道を通って松江入りしました。夕闇迫る雨の宍道湖もおつなもので、海の風景には慣れている私ですが、湖の穏やかさはまた格別な趣きがありました。

  「介助者と いう名で入場 無料とは 粋な計らい 島根は優し」

  「博物館 だけ見て大社 参らずに 帰る愚かさ 今に天罰」

  「銅鐸や 銅剣ずらり 特別展 はるか古代の 人に思馳せ」

  「喧騒の 社会がまるで 嘘のよう タイムスリップ 古代モードで」 


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shin-1さんの日記

○車じゃ近いが歩けば遠い

 私は現職の若い頃、よく酒を飲みました。多い時は仲間4人で飲み始め、家の横に造っている私設公民館煙会所という4畳半の部屋の周りに飲み干したビール瓶を並べて行き、最後はついにビール瓶に囲まれて終えたという武勇伝も残っているほど無茶飲みしたものです。そのつけか後遺症か分りませんが健康上の理由で酒を止めなければならない羽目になってしまいました。深く反省しつつも後悔先に立たずといった諺を思い出すこの頃なのです。

 酒をよく飲んでいた頃は松山からわが家のある双海町まで25キロもあるのに、年に4~5回呑んだ勢いで歩いて帰ったりしていました。背広に革靴、しかも寄った勢いの無茶は、歩くほどに酔いがさめ「何てバカの事をしたんだろう」と歩きながらよく反省をしたものです。特に伊予市と双海町の間には三秋峠という追いはぎも出そうな急峻な峠があって、勾配もきつくヘトヘトになりながら歩いて帰ったものでした。双海町の高野川という海沿いから伊予市の出会いの橋までは車で走れば5分そこそこなのですが、歩いてみると結構長くてきついのです。

 昨晩9時半ごろわが家に電話がかかってきました。私はパソコンに向かってブログを書いていましたが、電話に出ると家にいるはずの妻の声です。「お父さん向けに来て」と悲壮な声なのです。妻は夕方「今晩帰る」と電話で言ってきた三男のために急遽思いついて伊予市のスーパーへ「ちょっとそこまで」てな感じで、私にも告げず自分の車で買い物に出かけたようです。買い物を終えて帰る途中の三秋峠の頂上付近で車が突然エンストしてしまい、動くに動けぬ状態となりました。妻はあいにく携帯を持たず出かけたものですから結局暗い夜道を公衆電話のある伊予市向原まで引き返し、自宅への電話と相成ったのです。私は早速取るものもとりあえず車で「救出「に向かいました。三秋峠を少し下りた国道に妻の車は乗り捨てていました。その車をそのままにして妻の元へ走ったのです。不安な気持ちと疲労困憊で私を持っていた妻は助け舟に乗り込んで元の道を引き返し、エンストした車を手で押し邪魔にならないよう路側帯に止めてロックし放置しました。日曜日の夜のことゆえ加入のJAFに連絡することも出来ず、結局は今朝の処理となるようです。

 昇り始めた満月の月を見ながら歩いたと述懐する妻の言葉は「来るまで何気なく走る道も歩けば遠いのね」でした。「ごめんなさい」と謝る妻は「今度からは出かける時携帯を必ず忘れない」「サンダルで出かけたけど今度からは靴を履いて外出する」などと反省の弁しきりでした。

 10時過ぎ警察官の息子が帰ってきました。わざわざ買出しに出かけハプニングの中で買った食材で妻は久しぶりに帰ってきた息子に心からなる手料理を作り食べさせていました。駐在所勤務の息子は「やっぱりおふくろの味は美味しい」と盛んに持ち上げていましたが、独身自炊のためか少々痩せた感じのする息子も反面逞しくなったような気もしました。

 降って湧いた妻が起こしたちょっとした騒動に、「まあこれくらいの出来事でよかった」と胸を撫でながら、風呂に入り妻と同床の人となりました。さすがに余程疲れたのか妻は軽い寝息のようです。

  「車では たった五分の 短さも 歩く夜道は さすがに遠く」

  「月を愛で 夜の散歩と しゃれ込むが 公衆電話 行けど何処にも」

  「夜道にて 歩く人有り 徘徊と 間違われそう 初老妻見て」

  「置き去りに したあの車 今頃は 寂しく一人 一夜過ごしぬ」

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