shin-1さんの日記

○夕日夕焼け物語

 今年も双海町内小学校3年生の児童全員が今日から3日間、潮風ふれあい公園で合宿をしています。今日は牛の峰という町のシンボルとでもいうべき山に登山したそうです。山頂までは10キロ近くの道程で、この暑さの中をテクテク歩いて登ったため、子どもも引率した先生もみんなヘトヘトのようでした。この道の途中にはメダカの学校があって、校長を務めていた川口さんが存命中は、何度となくこの道を通って環境問題を考える集会に出かけたりまちづくり人を案内したものです。また同じような所に若宮さんの立派な廃屋があって、その家を利用したフロンティア塾は10年で40回続き、その度に多くのまちづくり人とこの道を行ったりり来たりしたものです。初めて子どもたちの登山に同行した和田翠小学校長さんの話しだと、車道を歩いて登山したためかなりの時間を費やしたそうです。何年か前福本夏芽さんと魚見真理さんと私の三人でふるさとの名山登山を企画して、海抜ゼロメートルから歩く登山を企画して同じような道を辿って登ったことが懐かしく思い出されました。かつては山や谷の稜線を歩く一直線のような生活道や登山道がありましたが今はその道は荒れるに任せて歩けないということでした。ここにも過疎は廃村の憂き目が見え隠れしているようです。

 今日は合宿研修に参加している子どもたちに夕日の話をして欲しいと学校の先生から頼まれていました。ところがどういう訳か私の予定表には明日の夕方になっていたのです。前日の夕方担当の宮岡先生からお電話があった時も私はてっきりそう信じて予定を立てていました。

 今日は忙しい日で、午前中は生協の理事会に出席して午後1時から県庁で打ち合わせ会があり、午後3時からはホテル大和屋本店で肥料屋さん組合の総会で記念講演を頼まれていました。その後の夜のレセプションにも出席を予定していたのですが、妙に気になって翠小学校の山田教頭先生に電話で問い合わせたところ、私のミスと分り、急遽レセプション出席をキャンセルして急いで帰り事なきを得たのです。

 子どもたちを戸外に連れ出し、私が在任中に作った電柱を利用した長い長いベンチに座らせて美しい夕日を見ながらの夕日の話を話しました。登山で疲れている子どもたちに気を配り出来るだけ早く終わろうと約30分間お話をしました。今日の夕日はとても素晴らしいもので、もやがかかって残念ながらダルマの夕日とまではいきませんでしたが、ドラマチックに沈んで行きました。

 宮岡先生の配慮で子どもの質問に答える形での対話もありました。「なぜ夕日を使ってまちづくりをしようと思ったのですか?」屋、「双海の夕日は何処の朝日ですか?」などなど活発な意見が出されましたが、この夕日をオンリーワンに仕組んだ話を全て話すにはかなりの時間が必要なため、「昇る夕日でまちづくり」という自著本を読むよう勧めました。

 私はこれまで「夕日夕焼け物語」をどれ程の人に話したことでしょう。でもやっぱりふるさとの子どもたちに話すのが一番の楽しみです。この子どもたちの全てがこの町に残るとは思いませんが、ふるさとを離れてもきっと双海の夕日のことは忘れない思い出として心に残して欲しいと思うのです。

 ハーモニカで「赤トンボ」と「夕焼けこやけ」の2曲を吹きました。心に染みる音色でした。

  「この子らに 伝え遺せし 物語 夕日見ながら 郷学教え」

  「夕日など 何処にでもある 資源だと いわれ続けて 二十年経つ」

  「この夕日 どこか国では 朝日だと 思って見てる 不思議なるかな」

  「ハーモニカ 心に染みる 音がする 目で追う夕日 耳追う音色」

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○セミの一生

 夏休みになると町中が何処かしら賑やかになったような錯覚にとらわれます。子どもたちの声が聞こえるし、町外の知らない顔が海水浴などにやって来て町をわが者顔で闊歩するのです。もちろん人間ばかりでなくあちこちからはセミの鳴き声も賑やかに聞こえています。

 車でラジオを聴いていると、「子ども何でも電話相談」で面白い相談が寄せられているのも夏休みの特長です。「妖怪とお化けは何処が違うのでしょう」とか、「蛇は全部尻尾のようですが何処から何処までが尻尾ですか」とか、私たち大人でも答えられないような質問がどんどん出てきて、それに専門化がアドバイスを込めて答える話に思わず聞き入ってしまうほどです。

 今日松山の会議に出かけるため車に乗ってカーラジオをつけると、この番組でした。「○○君、今日の相談は何ですか?」。「セミは土の中で6年も暮らしているのに成虫になると僅か一週間の命だそうですがどうしてそんなに短いのですか」。普通だと「?・・・・・・・・?」で終わるのですが、「○○君はどうしてだと思う?」何て返されると子どもは「分りません」と即答するのです。

 回答した専門の先生の話しによるとクマゼミは卵1年、幼虫5年の計6年を土の中で過ごすのだそうです。外国には「13年セミ」と呼ばれるような13年間も土中過ごすセミもいるようで、一斉に羽化して木に止るとセミだらけになって木を枯らすことだってあるというのです。こんなに土の中で長く過ごすのに地上で羽化すると僅か一週間とは誰が考えても長すぎるのです。しかしこれはセミの一生という自然が決めたメカニズムなのでどうすることもできないのです。むしろその事を疑問に思うのは受精してから10月10日体内で過ごし、生まれてから80年も生きる人間の一生というメカニズムとの比較で短いとか長いとか言うのであって、セミの世界から考えると人間の一生も不思議といえば不思議なものなのです。多分セミの世界ででも夏休みになると電話相談があって、セミの子どもが「どうして人間は体内に10月10日いるだけなのに生まれてから80年も生きるのですか」何て質問をしているのかも知れません。

 セミを追いかけて遊んだ子ども時代が懐かしく思い出されますが、セミの命ははかないものだと知ってからはむやみにセミを取らなくなったような気がするのです。

 今日もセミたちは「夏が来たよ」と精一杯の力を振り絞って鳴いています。せめてその鳴き声をうるさいなんて思わずに夏の風物詩だと思って聞いてやろうではありませんか。

 週末には虫に請ってる孫がわが家に遊びにやって来ます。セミ取りもカブトムシ取りもねだらればやらなければなりませんが、せめてセミの話をしてやりたいものだと思いました。

  「セミが鳴く 僅か七日の 命にて せめて上手いと 褒めて聞きたし」

  「六年も 土の中にて 暮らすそう セミに生まれず 良かった胸を」

  「抜け殻の 一つにセミの 物語 木の葉止まって 何を語るや」

  「午後三時 暑さ倍増 セミの声 クーラーもなし ウチワ片手に」


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shin-1さんの日記

○徳島県上勝町を訪ねて

 東京から遠く離れた四国の地は、瀬戸内海を挟んでいるためか関東地方の人々にはかなり遠い地域といわれています。故に愛媛・香川・徳島・高知それぞれに地域を売り出そうと懸命なのですが、一向にその知名度は上がらず、東国原知事のパフォーマンスで一躍スターダムにのし上がった九州宮崎のことを考えると、四国は一つといいながらそれぞれバラバラな五十歩百歩を繰り返している四国四県を知恵のないやり方だと批判せざるを得ないのです。そんな実態なのにやれ道州制などと提案し、「わが県が一番」や「わが県に道州制の道州府を」と早くも駆け引きをしているのです。

 昨日徳島県上勝町を訪ねました。多分高速道路を利用しても私たちの町からは四国で最も遠い場所に位置する地域ではないかと思うのです。徳島市から高知県室戸岬に至る地域は高速道路もまだ未開通で列車も少なく公共交通がかなり遅れているのです。

 徳島県上勝町といえば今をときめく葉っぱでまちづくりの地域です。私の話にも度々登場する横石さんがリードする中山間地域なのです。私のと横石さんとの出会いは昨年2月24日に愛媛県松山市で開かれた「地域の自立とは何か」というテーマで開かれたシンポジウムでした。彩という第三セクターを興し、葉っぱを2億円も売っている会社の副社長さんなのです。飾らないがしっかりとした理論に裏打ちされた話は同じ舞台に立った馬路村の東谷さん、内子町の森本さん、私とともに会場の話題をさらったものです。同じ四国にいて四国をリードする横石さんの存在はお互いいい刺激を受けながら日々進化しているのです。

 横石さんから上勝町での講演依頼の電話があってから、その窓口は横石さんが指名した上野あやさんという女性とのやり取りになりました。微に入り細に入りかゆいところに手が届くような気配りを受けての上勝町行きとなりましたが、彼女は只者ではないと直感し、会場となる月ヶ谷温泉で始めて出合ってより一層その感を強くしました。彩という会社は役場の地下からこの点きの宿という温浴宿泊施設の4階に移転をしていましたが、この会社の事務所はバルコニーを活用して中々お洒落な造りとなっていていい雰囲気でした。

 横石さんのご配慮で閉庁間際の役場に町長さんを表敬で訪ねました。環境などに造詣の深い町長さんとは聞いていましたが、初めてお目にかかり短い時間ながら行政の考えを色々聞かせてもらいました。先日内子で開かれた環境会議にも来られていましたが、ミスマッチで案内を受けながら出会うことが出来ませんでしたので、いい機会を作っていただいたと感謝しています。

 町長さんがいきなり夕礼で役場の人に話して欲しいと言われました。どの町も朝礼は聞いたことがありますが、夕礼をここまできちんとしている町村は珍しいと思い請われるままに乗ってしまいました。僅か数分でしたが「役場の常識と非常識」の話をしました。役場で上常識と思っていることが住民からすると非常識なことが多いのです。多分「このよそ者が何を言うか」と怒り心頭に達した方も多いと思いますが、町長さんの急なご指名に応えれたかどうか心配をしています。

(この方が笠松和市町長さんです。凄い人です)

(町長さんと横石さんが町をリードしています)



(会場の雰囲気も最高でした)

 さて夜の集会は会場がいっぱいになりました。えひめ地域政策研究センターが製作した私のプロモーションビデを出囃子に入場するという粋な計らいも横石さんと上野さんのアイディアだと思いますが、少々赤面ながらの90分を面白おかしく話しました。私の町のじゃこ天のおばちゃんに匹敵するほどの楽しいおばちゃんやおじさんが沢山詰めかけ、打てば響く大反響で、講演会に続いての立食パーティでも多いに盛り上がりました。それにしても月ヶ谷温泉の料理長の料理のバリエーションの多さにも目を見張りました。地元の食材の特長を余すところなく生かした料理に、ついつい食べ過ぎてしまいました。満員・満足・満腹・満願・満笑でした。

 明くる日の予定が入っているため9時ごろ、横石さんに見送られ会場を後に一路帰路につきましたが、月の灯りに照らされた月ヶ谷温泉のほのぼのとした印象は私の心に大きな思い出として残りました。シーユーアゲインです。

  「訪ね来し これが噂の 上勝町 葉っぱを売って 二億円とは」

  「葉っぱなら おらの町にも あるはずだ だけどあるだけ それがどうした」

  「葉っぱ売る 狐の世界と 冷やかせば 夕日なんぞは もっと馬鹿げて」

  「イメージを 膨らませたる 人に会う 予想以上の 才媛びっくり」


 

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○戻ってきた忘れ傘

 えひめ地域政策研究センターの松本さんから徳島県上勝町へ行く途中に携帯電話がかかってきました。運転中に携帯電話を使って違反切符を切られた経験があるので一旦電話を切り、つるぎ町の道の駅まで走り、そこから再び電話をかけました。松本さんは舞たうんの取材で馬路村へ行っていて、何故か電話の向こうで馬路村の木下課長さんの声が聞こえるのです。先日傘の忘れ物についてブログで書いていた文章を読んでいたものですから傘の話題となり、結局は私の傘を松本さんの便で届けるということでした。

 今日は娘の子どもが昨晩から足が痛いというので、テレビ局の取材の時間を変更してもらい、孫を病院まで診察に連れてゆかなければならないことになりました。足が痛いだけで身体はいたって元気な孫の病気見舞いにカブトムシを一匹求めて持参しましたら、孫は大喜びで足の痛さなど何処吹く風のようでした。それでも近所の整形病院に診察に連れて行って看てもらいました。詳しいことは説明を受けても医学用語なのでよく分りませんが、4歳から7歳くらいの子どもがよくかかる病気のようで、少し様子を見ましょうということで飲み薬と湿布薬をいただいて分る範囲で娘に病状を説明、今週の土曜日に再び病院に診察に行くよう促しました。私の子どもも子どもの頃よく足が痛いという症状を聞いたものです。子どもの体の成長と骨の成長バランスが崩れたための痛みくらいな軽い気持ちでいましたが、将来のある孫ですからお医者さんの指示にしたがって早く元気になる事を祈りました。

 帰りにえひめ地域政策研究センターへ立ち寄り松本さんと面談しました。木下さんから預かった忘れ物の傘を松本さんから受け取りましたが、色々な旅の遍歴を経てわが手元に帰ってき忘れ物の傘に出会うのは約一ヶ月ぶりのことなのですが、とてもいとおしい感じがしました。

 使い捨ての時代にあって「傘一本くらいで何でそんなに騒ぐのか」といわれそうですが、物を大切にする私にとっては大きな収穫なのです。帰宅して妻にその傘を見せると「お父さんよかったね」とまるで子どもを褒めるような感じでした。付け加えた言葉も「これを大木流しの木っ端拾いというのでしょう」と冷やかされました。傘のような小さな物を大事にする余りに大きなお金の不始末のある人のことなのですが、「私は違う」と不機嫌そうに言い返してやりました。

 皮肉なもので、愛用の傘が手元に戻るのを見透かしたように四国地方は梅雨明けで、傘を使うのは当分向こうになりそうな雲行きで、今日は最高気温が35度にもなると朝の天気予報で言っていました。

  「忘れてた 傘が手元に 戻るとは 指名手配も してみるものだ」

  「世の中は 使い捨てたる 物多く 勿体ないの 言葉聞かれず」

  「傘一本 旅に出たのは いいけれど 主人忘れて 俺は一人身」

  「雨多い 魚梁瀬の里の 水吸いて 四国山脈 行ったり来たり」

 

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shin-1さんの日記

○今年の雨三題

 ・梅雨明け

 気象庁から昨日やっと四国地方に梅雨明け宣言が出ました。最近は毎日の天気予報で訓練が出来ているのか、私たち凡人でも梅雨明け宣言できそうな雰囲気で、昨日などは「今朝の気圧配置だと今日ぐらいに梅雨明けかもしれない」とか、「梅雨前線が日本海に北上したし、雷も鳴ったのでいよいよ梅雨明け」なんて言葉を随分聞きました。今年の梅雨は水不足という一点に絞って考えれば、「恵みの雨」でした。私たちの町は全てが簡易水道で水不足を表現するデーターはありませんが、松山の石手川ダムや今治の玉川ダムなどは水位が低く、近年にない水不足で梅雨前から取水制限が出されていました。しかし何度かの大雨や台風4号のお陰でダムは、100%の満水状態となって梅雨明けを迎えたのです。人間とは勝手なもので水不足の時は水のありがたさを痛感し節水に努めるのに、一旦水を確保すると強気な態度に変ります。我慢していた洗車も小まめとなり、庭に散水までして涼を求めるのです。今年は水不足でプールの閉店かと思われましたが、夏の話題は海よりも気軽で気楽なプールを利用する人が増えているようです。それでも今年の梅雨明けは水不足の心配がない梅雨明けですからいい気持ちで迎えられました。

 ・アジサイの花

 ふたみ潮風ふれあい公園には千本を越えるアジサイが植えられています。私が役場に勤めていた頃この公園の建設計画を担当しました。公園のメインの花を何にするか随分悩みましたが、ツツジとアジサイに決めました。ツツジはある大手業者が花産業から撤退するとの情報を得て、殆どタダ同然で分けてもらい、宿泊施設の周辺に沢山植栽しました。またアジサイは花期が約1ヶ月と長いことから千人塚という池の周辺や草スキー場周辺に千本ものアジサイを植栽し、花の会の人たちのお世話を得て今日を迎えています、今ではそれらが大きくなって、先日ある女性から「双海町のアジサイを見に行きました。とても綺麗でした」と絵手紙に添えたお便りを頂きました。このアジサイは現職中に構想した「花の小路運動」の一貫で、双海町には「すいせんの小路」「菜の花の小路」「芙蓉の小路」「アジサイの小路」「ツツジの小路」「ツワブキの小路」が出来上がり、愛媛の花の風物詩としてすっかり有名になり、多くの観光客を呼び寄せているのです。「花作り10年」(私の勝手なネーミング)といわれるように花作りは息の長い仕事です。美しいまちづくりは美しい心がなければ育ちません。まちづくり20年の成果はまちが綺麗になったことでしょう。今年初めてアジサイを一市民として見学に行きました。とても美しいアジサイが雨に濡れて優しく咲いていました。

 ・傘の忘れ物

 数日前のブログに旅のお供の傘や馬路村に忘れた傘の話を書きましたら、早速何人かの方からメールをいただきました。日本の忘れ物でダントツに多いのは雨傘だそうです。番傘の時代に育った私たちにとって傘は貴重品だし、雨の降るとき傘を持たず濡れた記憶は多いものです。私の家の隣は傘の製造工場ですが、夫婦の病気と寄る年波で製造を大幅に縮小しているようで寂しい限りです。私の叔母の家なので時々その作業風景を見る機会がありますが、傘にもピンからキリまであって、高級品は何万円もするのだそうで、その幾つかを見せてもらいましたが、傘を広げた姿は何とも絵になる光景だし、高級品を造る技術は技や匠と呼ぶに相応しいもののようでした。

 傘はなくして初めてそのありがたさが分ります。馬路村に忘れた傘の行方が気になります。馬路村役場の木下課長さんからは「傘を忘れたそうですが、傘を捜しに馬路村へ来るというのは如何ですか」と挑戦的なメールです。さて私の忘れた雨傘は今頃どんな場所で、どんな運命を辿ろうとしているのでしょう。

 今日は徳島県上勝町の横石さんに頼まれて講演に行きます。くれぐれも傘を忘れないように、今日は梅雨明けの上天気なので傘は持って行きませんので忘れるはずがありません。

  「俺の傘 今頃どうして いるのやら 恋しい思い 忘れた故に」

  「傘を差し アジサイ花を 愛でながら 公園計画 作りし日々を」

  「雨のつく 言葉数々 梅雨や慈雨 五月雨小雨 氷雨霧雨」

  「水不足 解消なりて 梅雨が明け 夏の野菜も 元気もりもり」 

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shin-1さんの日記

○家の周りの草刈り

 先日広島へ講演に出かけました。船着場から講演先までは行くのには、安上がりな路面電車で旅路をつないで行くのです。僅か150円なのに紙屋町のバスセンターや新幹線口まで連れて行ってくれる路面電車は金額といいCO2といい最高の乗り物です。でもたまに乗るタクシーも世間の話が聞けて何となく広島通になったような錯覚にもなるのです。私「運転手さん景気はどう」。運転手「あきませんねえ。1ヵ月このように一生懸命働いても15万円を越えることは余りありませんねえ」。私「ほう、大変ですねえ」。運転手「今は規制緩和とかでタクシーの数が増えて、自家用車が増えて、ええことありません」。私「月15万円では家族を養うのは大変でしょうねえ」。運転手「だからかどうかは分りませんが、広島の運転手さんは意外と一人身の人が多いんですよ」。私「ほう、それはまたどうしてですか」。「だってこのくらいのお金では家族は養えませんからねえ」。私「フーン」と、会話は続くのです。

 私「ところで広島では選挙はどうなっていますか」。運転手「政治家も悪いですね。選挙の時だけお国に帰ってペコペコされても誰が信じますか。政治家は嘘つきでないと大成しないようになっているのです」。私「年金問題や格差問題はいかがですか」。運転手「年金も格差も所詮政治家が自分たちの政党を躍進させていく道具にしか過ぎません。私たち国民なんかのことは選挙が終わるまでの美辞麗句ですよ」。私「・・・・・・・」。

 私「ところで宇品の港周辺は来る度に風景が変るほど発展していますね」。運転手「そりゃあそうですよ。このあたりはマンションブームでマンションが完成すると2~3千人もの人が住むそうです。2~3千人といえば小さな村がそっくり出来る事になるのです」。私「こんなに造って売れるのでしょうか」。運転手「売れないマンションを造る様な馬鹿はいませんから売れるのではないですか」。私「そうでしょうなあ」。

 「最近は広島も随分様変わりし始めました。何年か前までは郊外の山を切り崩して造成したニュータウンのような所へ一戸建ての家を求める人が多かったのですが、今はそんな田舎を売り払って便利なマンションへ移り住む人が次第に増えているそうです。私の近所でも町内会の付き合いや庭木の手入れが嫌で住み慣れた場所を離れてゆくケースが目立っています。歳をとっての異動は寂しい気もしますが、車に乗れなくなったり連れ添いがなくなった老後の事を考えるとやはり買い物や医者に行くのに便利なところが必要になって来るのです」と、意味深い話をしてくれました。

 車の中で聞いた話はとても参考になる話しでした。さすが相手持ちながら高い金を払って乗っただけのことはあるものだと感心しきりでした。

 今日は午後から家の周りの草刈りをしました。660坪もある広い家を今は親父が主で私がたまにお手伝い程度の管理をしています。さすがに90歳の坂を下る親父にとって草の手入れは毎年私の方に軸足がかわりつつあるようです。さてこれから25年のわが人生、この家の管理をどうするのか、息子の作業能力を勘案しながら考える時代が来たような気がする今日この頃です。

  「親父から 間もなく引き継ぐ 家管理 こうも広いと 気持ち重たく」

  「タクシーの 運ちゃんさすが 評論家 知識あっても 知恵は回らず」

  「意外だね 運ちゃんひとり身 多いそう 収入合わせて 生き方決める」

  「マンションを 好む理由が 見えてきた 楽な生活 したいからかも」 

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shin-1さんの日記

○グリーンツーリズムのようなおもしろ教室

 双海の町にも暑い夏がやって来ました。学校が夏休みになって最初の日曜日だった昨日は、曇り空にもかかわらず涼を求めた沢山の人がシーサイド公園で海水浴を楽しんでいました。私は海の町に住み、シーサイド公園の海水浴場を造った張本人ながら、この10年間で一回も海水浴をしたことがないのですから不思議な話です。それでもシーサイド公園へ行くとそこここに夏を感じるのです。

(シーサイドの納涼席をお借りして開講の説明が行われました)

 今日はシーサイド公園を会場としたおもしろ教室に出かけました。今日のメニューはじゃこ天づくり、たこ焼きづくり、クッキーづくり、太刀魚のみりん干しづくりで、子どもたちが4班に分かれてローテーションで全てを体験するようにしました。

(講師は漁協女性部のおばさんたちです)

 みりん干しコーナーは加工場で行われましたが、その名の通り刀に似た薄っぺらい肉厚の太刀魚を秋刀魚に下ろす作業に子どもたちは悪戦苦闘しましたが、おばさん先生の巧みな包丁さばきに感心しながら果敢に挑戦していました。心配された包丁での怪我もなくホッとしました。

(おばさん先生の見事な包丁さばきに感心しながら見とれ、いざ自分がやってみると中々上手くいかないギャップも学習の一つです。

(クッキーづくりは子どもにとってパテシエやスイーツなどの横文字に慣れている子どもたちにとって最も関心のある作業で、色々な型で練った小麦粉をくり抜いていました)

(本物のたこ焼きも初めての体験で、出来たてのたこ焼きを美味しそうに試食していました)

 私がこのシーサイド公園の加工場を建設した時の構想では、この場所をシーツーリズムかグリーンツーリズムのような利用の仕方を考えていましたが、今日のメニューはまさに理想の形となりました。こうしたメニューを沢山用意して都市と漁村の交流を目論んで行けば多くの体験活動が出来て、地域も活性化するのです。

(木陰で昼食を楽しむ外国人と伊方町の面々、抹茶のサービスまでして日本の文化に触れていただきました)

 作業の途中、顔見知りの伊方町の方が国際交流で訪れている外国人を連れてシーサイド公園へ立ち寄りました。漁協女性部の方々のご配慮でたこ焼きの体験をしたり、鯛めしとよもくれ団子汁でもてなされ、時ならぬ体験や接待に何事が起こったのか分らず眼をパチクリして驚いていました。「お接待」という言葉の意味についても英語と日本語の微妙な違いから説明に悪戦苦闘しましたが、普段着のいい国際交流が出来たように思います。

 昼食は漁協女性部の皆さんの心のこもった鯛めしとよもくれ団子汁を賑やかに食べました。また女性部の親分である富岡喜久子さんのお話や、次回の漁船で底引き網を体験する準備や、8月のキャンプのプログラム立案に向けての打ち合わせを行い散会しましたが、子どもたちは楽しそうに学んでいました。

 実行委員会もメンバーが少しずつ積極的にかかわるようになって、今までにない方向へ進んでいます。更なる自主的な成果を期待したいものです。

  「ふるさとを 丸ごと体験 楽しいな 心と体 満腹満足」

  「太刀魚を まるでノコギリ 三枚に 思わず笑顔 出来たじゃないか」

  「外人が 突然乱入 臆せずに 自然対応 さすがおばさん」

  「じゃこ天を ハートの形 したつもり 出来た形は まるで草履だ」

 

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shin-1さんの日記

○人の一生

 最近は「揺り篭から墓場まで」という言葉がぴったりの、幼児の子育てから高齢者の生きがい論まで様々な講演の場と機会が与えられ、戸惑いながらも真剣に、それでいて楽しくお話をさせてもらっています。子育ては来た道の経験だといいつつ妻の専門だったし、老後の生きがいとなると行く道ゆえ、同じ敷地内に住む父親の姿を見ながらや世情一般の話題を拾い集めて話さなければなりません。大雑把にいえば子育て論は親の生き方であり、生きがい論は人間としていかに生きるかだと理解して話すようにしています。

 先日PTAの集会に招かれお話をしましたが、最近は青少年にとって好ましくない様々な社会現象の中で子どもを育てなければならず難しい時代になったと、親が異口同音に話します。確かに私たちが子育てした頃の社会はそんなに昔ではないのにコンビにも殆どなく、携帯電話やカードの心配も殆どありませんでした。故にPTAの子育て学級も子どもとお金にまつわる非行問題よりも、校内暴力など人間関係の葛藤のような話が随分話されたように記憶しています。

 親は子どもが体内に宿ると五体満足な子どもとして生まれてくるよう祈りながら出産準備をして誕生の日を心待ちにします。やがて「お腹を痛めた」という言葉がピッタリの出産作業を経て赤ちゃんの誕生となるのです。幼子の透き通った目でたじろきもせず一心に見つめられると、自分の心を見透かされているようでたじろくほどです。そんな純真無垢な子どもが家族や友人、社会の中でもまれながら成長して成人となるのですが、「あれ程純真で素直な子どもが何故成長するにしたがって悪い人間になるのか」が不思議だとどの親も口をそろえていうのです。確かに昔の子どもに比べて今の子どもは難しいとしみじみ思いますが、これは何も自分の子どもだけが特別ではなく、個々の差こそあれ誰しも通過しなければならない人生のトンネルであり橋なのです。このトンネルの抜け方や橋の渡り方が狂うとトンネルは人生の闇夜となったり橋は転覆の危険さえ生まれるのです。親だってあれほどお腹を痛めた可愛いはずの子どもなのに児童虐待だってするのですから、悲しいものなのです。

 年齢を重ね様々な経験を積んでいく中で利害や損得にさどくなり駆け引きや時には人をだます術を覚えたりします。世知に長け要領がよくなり世間を渡る知恵を身に付けもします。歳を重ねるにつれて身にまとった虚栄の衣の重さに耐えきれぬことだってあることでしょう。

 高齢者の方々にお話しするのはそんな時代を経てきたのだから、もうそろそろ少年の頃の瑞々しい瞳の頃に帰りこれからの人生をニコニコ・ピンピン・コロリンシャンとなるような人生の仕上げをして欲しいと訴えます。

 偶然にも今年わが家には長女と長男に子どもが誕生します。父親も90歳の卒寿を迎え、キセルの入り口と出口の人生を同時に味わっています。生まれてくる子どもにも老いてゆく親父にもそれぞれ愛情を持って一緒に生きてゆきたいと思っています。

  「孫親父 何処か似ている 仕草する ゼロに始まり ゼロに戻るか」

  「子育ても 加齢もまた 悩むもの トンネル鉄橋 幾つもあって」

  「今年また 親父作りし 長ナスが 沢山生って 近所すそ分け」

  「孫の目が 俺の瞳を じっと見る 百年木の 育ち始まり」


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shin-1さんの日記

○久しぶりのおご馳走

 昨晩松山に住む息子から家内に電話があって、「明日のお父さんとお母さんのの予定は?」と聞いてきました。私は妻に「明日の昼は空いている」といったところ、「久しぶりに昼飯でも食おうか」と誘われました。私は「雨でも降らなきゃあいいが」とついつい無駄口をたたいてしまいました。息子が「美味しいウナギ屋を見つけたので、ボーナスも出たことだしご馳走する」というのです。

 息子は今朝わが家へ帰り私を誘って人間牧場へ行きました。私は昨日人間牧場の草刈りをしたばかりなのですが、息子は先日水平線の家で開いた都市デザイン会議以来なので気にかかっているようで、先日買った新車の軽四トラックに乗って出かけました。今日の人間牧場は「雨でも降らなきゃあよいが」といった私の言葉そのままに、時折小雨のぱらつくあいにくの曇り空でした。

 二人で水平線の家の海側の戸を全部開け掃除機で掃除を始めました。水平線の家に行く度にこまごまと掃除をしているし、ゴミを出したら持ち帰りの習慣を作っているので大した汚れもなく20分ほどで掃除を終り、屋根にかかった戸井の掃除をする事にしました。先日の大雨で戸井が溢れていたので脚立を立て、息子が上に上がって戸井を綺麗に掃除をしました。戸井の集水マスには風で飛んできた木の葉がいっぱい詰まっていて、かなりの量でしたが、最後はバケツで水を流して確認しすっきりしました。親父から頼まれたお墓用のシキビを一束切り、神棚用のヒサカキも採取して人間牧場を後にしました。

 昼も近づいたので次男も誘い松山のウナギ専門店へ行きました。物のない時代に育った悲しさでしょうか、あるいは生まれながらの貧乏人根性でしょうか、こんな場所に来てメニューを見ると専門店らしく「高いなあ」が第一印象でした。若い者はいとも簡単に「うな重特上」と頼むのですが、値段を見ると何と一人前2500円もするのです。その上この店自慢の肝の付け焼きとウナギの入った玉子焼きを注文しました。少し時間はかかりましたが、出てきたうな重は蓋を開けてみてびっくり、先日馬路村の木下さんんからいただいた天然のウナギには適わないものの、今まで食べたことの無いような大きくてふっくらしたウナギの蒲焼が乗っていました。その味は息子がご馳走するだけあった中々のもので、久しぶりに「ご馳走を食べた」と満足のいく味でした。

 息子夫婦も後一ヵ月後には親になるため、息子嫁のお腹は随分目立つようになって、まるで横綱といった感じで、出産を控えて何かと準備を進めていて、息子などは名前の本などを買い求めて思案に余念が無いようです。親馬鹿ですねえ。

 息子の所に車を置いての外出だったので、帰りに息子のマンションに立ち寄りお茶をご馳走になりました。長男に生まれながら結婚しても親と別居し、多少家賃が高くついてもこんな夢のような暮しが出来るのですから今時の若い者はいいなあと、親である私たち親の理解に一応感謝の態度を見せる二人ですが、子どもが出来てさてこれからここで住み続けるか、わが家へ帰るか、息子たち夫婦も選択の帰路に立たされているようです。妻の意見ではもう少し二人+赤ちゃんの暮しをして、子どもが大きくなったら選択すればいいといいますが、はてさてどんな最大公約数が出ることやら・・・・・・。

 今日のウナギは親孝行のつもりだったのでしょうが、素直におご馳走様でしたと感謝します。「子どもを育ててよかったね」とはポツリ妻の言葉でした。

  「値打ちある うな重馳走 こりゃ美味い 子ども育てて よかった一言」

  「感動も しない日ごろの 飯だけど 今日のうな重 久々美味い」

  「何となく 元気が出たぞ ウナギ効き この夏乗り切る サプリの代わり」

  「このウナギ 高くつくねと 妻の弁 素直に喜べ 諭す言葉を」 



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shin-1さんの日記

○北方領土は?

 オーストリア・ウィーンの日本人学校に赴任している友人のN先生から2回目のメールが届きました。その内容を紹介します。

 「今回メールしたのは先日お送りした地図の中のショッキングな事実です。ウィーンの日本人学校で同僚の社会科教諭の先生が発見したのですが、日本の北海道の東、いわゆる『北方領土』のことです。見ていただければ分ると思いますが、北方領土でははっきりと『ロシア』の領土になっています。日本でよく見る択捉島の先に国境ラインがあるのではなく、知床岬の先、歯舞諸島、国後島の間に国境ラインがあります。色がはっきり日本と違うということでもお分かりいただけると思います。

(N先生から送られて来たヨーロッパ製作の世界地図の日本周辺をアップ撮影して見ました。N先生のご指摘どおりこの地図だと北方四島も南樺太も残念ながら全てロシア領のピンク色で塗られています)

 ヨーロッパでは、北方領土はロシア領であるという認識が当然のようにされているということです。と考えれば日本政府がいくらロシアとの議題にあげようとしても、応じない現状が何となく理解できます。さらにロシアと日本の領土問題は、世界の他の国の関心が薄いということも分ります。国際世論が日本に味方しない理由も分るような

気がします。

 追記すると、南樺太の半分についても、日本の地図は白く表示されていますが、ヨーロッパの地図ではロシア領になっています。

 世界から見える日本の現状の一旦ですが、領土問題は実効支配が長引けば既成事実となるという国際社会の常識を見た気がします。今さら日本政府や国民の今までの対応や現在の情報発信に一国民として残念な思いがします。」

 手紙の本文はここで結ばれていますが、N先生は私に先日送ってきた世界地図に触れ、「人間牧場の教材として、一人でも多くの日本人にこのことを知らせていただきたいとメールしました。私もこちらで機会を見て話題にしたいと考えています」と追伸しています。

 私は早速N先生から送られて来た世界地図を広げて見ました。確かにこの地図では日本が主張している北方領土がロシアの一部としてピンクに色塗りされている樺太もピンク一色なのです。

 私がアメリカで32年前見た世界地図の真ん中に日本がない世界地図や、双海町の青年が海外派遣先のオーストラリアで南北逆さまの世界地図を見た時の驚きが、N先生からの手紙で伝わってきました。

 島国日本の中で鎖国されたように暮らしていると中々分らない出来事が、外の目で見るとよく分ります。私は早速この話をN先生の追伸通り人間牧場の教材として一人でも多くの人に伝えたいし、「北方領土が日本固有の領土である」と声を強くして訴えて行きたいと思っています。

 それにしても嬉しかったのは、N先生が遠い異郷の地にありながら日本人として北方領土のことを真剣にとらえているということでした。忘れまじ祖国魂、忘れまじ日本人魂に大きな拍手を送ります。

  「ウィーンから メール届いて 驚いた 所変れば 見方も変る」

  「遅いねえ 戦後早くも 六十路越え 未だ解決 出来ぬ苛立ち」

  「離れても 彼はやっぱり 日本人 地図見て感じ メールで伝える」

  「鎖国人 多いわが町 町民に 目と耳開け 言えど応えず」

  

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