○エッ、「刺身」は魚の名前なの?
今朝は仕事の都合で昨晩わが家へ来れなくなった娘婿の代わりに孫朋樹のアッシー君として、松山の幼稚園へ送ってゆく事になりました。両親が勤めていることもあって近頃は親離れがいいというべきなのか、「一番大好きなのはおじいちゃん」などと、私の心情をくすぐるような甘い言葉で私の関心を引き付けるのです。4歳にもなると人の顔色が分るのかなあと思いいつつ、送迎に甘んじる甘い8時20分型眉毛の私がいるのです。
今朝はあいにくの雨模様の中でしたが、双海町の海岸には合羽を着て釣りをする物好きな人が何人かいて、孫はそれを見るなり「おじいちゃん、友だちの○○君は今度お父さんと釣りに行くんじゃと」というのです。「朋樹君も行きたいの?」と私が尋ねると、「うん行きたい」と返事が帰ってきました。孫はこの頃少しずつ刺身が食べられるようになって肴の名前が食卓の話題に上るのです。「朋樹君はどんな魚の名前知っているかなあ」と尋ねると、「うん、ハマチに鯛にアジ、それにお刺身も知ってるよ」と驚く発言をするのです。「朋樹君刺身は魚の名前じゃないよ」と否定したものの、「どうして?」という追求に一瞬言葉を見つけることが出来ませんでした。孫にとっては魚の刺身はハマチや鯛と同じように魚の名前と勘違いしているのです。都会東京の話ならいざ知らずこんな田舎で暮らしながらうーん・・・・・・と思いました。
そういえばつい最近は半調理若しくは全調理した魚がやたらと多く、元の姿を想像できないような魚が主流を占めていて、家の台所では買ってきた調理品を皿に盛り付けるだけ、ひょっとしたら盛り付けたままの姿で膳を囲むことだってあるのです。まな板や包丁さえもない家庭が増えてきました。面倒臭いと魚臭いの両面から魚離れが進み、子どもの頃から魚よりも肉を好む食生活に慣らされてしまっているのですから、「魚の絵を書きなさい」といきなり言われても、魚を釣りに行ったこともないし、丸ごとの魚を見たこともない子供にとっては書きようがなく、結果的には魚の切り身や刺身を書く時代になってしまっているのです。島国日本、魚の国日本は最早かつての思い出としてでしか語られないのかも知れません。
私は近いうちに孫を釣りに連れて行ってやりたいと思いました。できれば忙しい娘婿を連れ出して親子で釣りをさせたいとも思いました。そうすれば共有や共感、共鳴の世界が生まれるような気がするのです。
今朝下灘の親類から沢山の魚が届きました。今の時期は魚が最も痛みやすい時期なので、朝早くから起きてその処理をしました。鯛とニベは刺身にするため3枚におろし、ハモは背開きにして骨切りをしました。一見不器用な私ですが昔は漁師の端くれで、魚のことはちょっとした調理師には負けないくらい腕がいいと自分では思っています。甲イカはセンゴと皮と内蔵を取って水洗い、タコは塩でヌメリを落とし、約1時間半で冷蔵庫に入れれるだけの下処理をしました。これで冷凍をすると約1週間は美味しい魚が毎日食べられるのです。孫も娘婿も魚は大好きなので折に触れ魚そのものを見せて魚体をしっかりと目に焼き付けさせたいと思いました。
「刺身とは 魚の名前 思う孫 何と説明 お爺しっかり」
「絵を書けと 行ったら子ども 切り身書く 世も末日本 これでいいのか」
「夏が来て ハモの湯晒し 梅酢和え 風流楽し 食が進んで」
「食育が 大事だ思う 近頃は 親さえ魚 さばけぬ時代」