shin-1さんの日記

○梁瀬杉の器

 日本全国には屋久杉や吉野杉といわれるような名の知れた杉の銘木を産出する地域があります。四国にも梁瀬杉といわれる銘木の産地がありますが、どの産地も残念ながら戦後の無秩序な伐採によって、屋久島の縄文杉などを除いて、銘木といわれるものは殆ど姿を消したといわれています。

 昨日も「森は海の恋人」というキャッチフレーズで知られる、宮城県気仙沼の牡蠣漁師さんが山に木を植えた話を高知県奈半利町でさせてもらいましたが、交流会で梁瀬杉のことが話題になりました。そして友人の坂本さんが梁瀬杉の板で手作りした木の器(皿のような大きな器です)を私に持ってきてくれました。梁瀬杉の板で作った器は「えっ、これ本当に杉ですか」というような素晴らしい鼈甲色をした芸術品でした。

 長い年月をかけて育まれた梁瀬杉の器はまさに自然でしかできない素晴らしい文様が随所に見られ、「これ人間牧場で使ってください」と、惜しげもなく私にくれたのでした。さらに坂本さんは私を自宅の車庫に連れて行き「この梁瀬杉の根元もよかったら差し上げます」と言われました。しかし私一人では動かせないようなものを乗用車に積んで帰ることもできず、「次の機会に必ずトラックで取りに来ます」といって別れました。

 私の友人には色々変わった人がいますが、まだ4回しか会っていない坂本さんは龍馬の血を引いているのではないかと思わせるほどに動き回る面白い人物です。米を作り、鶏6万羽を飼い、朝新聞を1500部配る新聞直配所を経営するなど尋常とは思えない働き者です。さらに40メートルの潜水も平気な平成の仙人なのです。先日いきなり奥さんを連れて「人間牧場」にやってきました。そのロケーションや私の構想に同調し、より深い人間関係が成り立ちました。

 人が人に共鳴すると次々に新しい発想が湧いてきます。百年の時を語る「人間牧場」に百年の時を超えて生きてきた梁瀬杉の年輪を置き、年輪からの教えを集う人たちに伝えたいと思いました。泥にまみれ古ぼけている梁瀬杉の根元をできるだけ早く貰い受け、できるだけ早く命を吹き込む磨きをしたいと思っています。

 さあまた忙しくなってきました。

 「百年の年輪刻む梁瀬杉俺の歳などまだまだまだだ」

 「古ぼけた梁瀬杉株教えてよ日本と俺に足りないものを」

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shin-1さんの日記

○妻の金魚の糞

 このところ、妻と出歩く機会が多くなりました。多くなったと言っても普通の夫婦に比べたら少ない方だと妻は言うのですが、私にとっては35年間の結婚生活でこれほど一緒に出歩くことはなかったため、何かしら人の目が気になって面映い気持ちです。昨日今日と高知県へ講演に行く機会があったので、先方もよく知っている方々ばかりなので、先方の了解を得て一緒に出掛けました。

 高速道路を走って高知県南国インターで降り、そこから国道55号線を通って奈半利町へ着いたのは午後5時頃でした。折りしも綺麗で真赤な夕日が海に沈む時間と重なり、黒潮鉄道終着駅のデッキからドラマチックな天体ショーを鑑賞することができました。勿論妻も「綺麗ねえー」と相槌を打っていました。

 私が講演中妻は隣の会場で誘われるまま友人夫婦の詩吟と吟舞の発表会を見学していましたが、友人たちとの夜なべ談義に合流し皿鉢料理を食べながら楽しいおしゃべりをし、宿舎のホテルへ11時頃入りました。明くる日は早起きして室戸岬の札所にお参りし、高知市の日曜市で買い物をして、もみじに染まる国道33号線を帰って来ました。

 まあこんな具合で、急ぎもせずのんびりと二人だけの休日を楽しみましたが、世の中は狭いもので行く先々知り人にあい、「何と珍しい奥様とご一緒ですか」と皮肉られる始末です。妻の買った品物を持ってぞろぞろ後をついて歩くのは嫌だと思っていたのに、今日はそんな風な一日でした。

 それにしても妻はよく買うしよく食べてました。これが女性の元気の秘密かと思わせるように・・・・。お蔭様で帰る頃には腹も満杯、トランクの中も満杯になりました。

 私は2時間の講演と妻のアッシー君、それに荷物持ちとまるで妻の金魚の糞の2日間でしたが、妻は「お父さん今日は楽しかった」と満足そうに言うのです。私が相槌を打とうものならまたこの次も「私を旅行に連れてって」てなことになるに決まっています。「少し頭を冷やして考えてみる」とその場の会話を打ち切りました。ここだけの話ですが一人で行くより数倍疲れた二日間でした。

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○腰の調子がおかしい

 毎朝の日課である隠居で暮らす親父の所へ機嫌伺に行き、サロンパスを腰に張ってあげて帰る時、親父から肥料を3袋納屋へはこんでおくように頼まれました。一輪車を引き出し3つの袋を持ち上げた瞬間、ギクリと腰にきました。「しまった」と思ったのですが時既に遅しでした。ぎっくり腰の兆候です。私は年に3~4回くらいぎっくり腰をやります。長期出張や慣れない労働の後に起こるものですから、最近h忙しさの中でも柔軟体操をしたりして気をつけていたのですが、その時は突如としてやってきました。普通はその場に座り込んで動けなくなるのですが、その度に隣町の整体さんに揉んでもらって1週間ぐらいで完治するのですが、今日は軽い方なので歩けるようです。今日は長浜と高知県奈半利町でそれぞれ大事な仕事が待ち構えています。

 妻に腰の具合が今一だと言うと、「今日は仕事が午前中で終わるので運転手をしてあげる」と嬉しい言葉が返ってきました。高速道路を走って高知県までの旅は少々きついと思っていたので大助かりです。夫婦での出掛けは中々思うに任せず、88箇所の遍路参りも香川と徳島がまだ相当残っています。昨夜は妻が納経帳をチェックしていましたが、香川と徳島はそれぞれ宿泊しないと難しいようです。

 それにしても私の腰痛は突如として前触れもなく起こります。腰が悪いと鏡に映った自分の歩く姿がまるで歳をとったおじいさんのようで藁ってしまいます。腰が悪くなっていつも思うのは腹筋と背筋を鍛えなければという反省ばかりです。そういえばせっかく自由人になったのに身体を鍛えなおすという目標をあっさり忘れていました。歩いたり走ったり、時には労働もしながら気になる部分、つまり腰と内臓に特に気をつけて健康でいたいと、今朝思いました。

 腰を良くする特効薬は腰の周りを強くする以外ないようです。

 私は13キロも痩せたのでズボンがダブダブなので腹帯兼用の腹巻をしています。これが身体にあっているのか姿勢も良くなり随分腰痛になる回数も減りました。しかし今朝のように腹巻をせず、ちょいとということでパジャマのままでの作業だったのでこの災難に遭いかけました。腰痛は忘れた頃にやってくるようです。

 「どっこいしょ持った瞬間ギクリきたヤバイと思うが後のまつりだ」

 「腰広げパテンシップの張り薬笑った自分が腰痛とは」

 「イチ・ニイ・サン・シ・イチ・ニイ・サン」。はいこれ私流腰痛体操の掛け声です。「みなさーん、腰痛は日ごろの心がけが大切ですよ」なーんちゃって・・・・・。洒落にもなりませんね

 

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○きんつばというお菓子

 昨日シーサイド公園の特産品センターで「きんつば」を買いました。私は子どもの頃から何故かきんつばが好きなんです。辞書できんつばを引いても、適当な言葉が出てきませんし、きんつばを作っている地元菓子製造業のおじさんに聞いても「あんたは物知りじゃきん調べて分かったらわしにも教えてや」と、反対に期待されてしまいました。

 私がきんつばが好きになったのは大した理由はないんです。戦後の物のない、とりわけ甘いものに不足していた頃、何処かで父親がきんつばを貰ってきて、酔った親父は真夜中だというのに寝ていた私たち子ども全員起こし、「いいものを貰ってきたから食え」と言うのです。みんな眠い目をこすりながら「美味しい」と言って食べました。私はあまり美味しいので半分を新聞紙に包んで水屋にしまって寝ました。

 明くる日学校から帰って食べようと思いましたが何処を探しても見つかりませんでした。ちゃっかり屋の弟に食べられてしまっていたのです。食い物の恨みは恐ろしいといいますが、あのきんつばの思い出は今も忘れられません。

 きんつばは甘く味付けした小倉あずきがぎっしりと詰まってあずきを薄い衣で包んでいるだけのシンプルな和菓子ですが、渋いお茶で食べるとこれがまた美味いのです。

 きんつばが誕生したのは江戸時代だそうで、うるち米の粉でつくった皮で小豆餡を包み楕円形にして釜の上で焼いたのが始まりで、真ん中をへこませた姿が刀の鍔に似ていることから銀鍔とよばれていたそうです。その後上方から江戸に伝わり銀より金という江戸っ子気質が金鍔に変化させ、浅草馬道に「おかめのきんつば」店が現れ、四角に切った角型六法焼きという現在のきんつばの形が出来上がりました。

 きんつばは決して上菓子ではないのですが、きちんとした桐箱にでも入れられると、まるで献上品のような気品が漂います。

 私の買ったものは発泡スチロールのトレーに5個入れられ、ラップをしているだけの簡単なものでしたが、それでも1個食べて、子どもの頃と同じ水屋にしまいました。妻いわく「そんな所へしまったら忘れるよ。誰も取りゃせんのに」・・・・・・。いいえきんつばだけはしまっておきたいのです。

 でも2~3日経っても誰も手をつけず、結局3個は賞味期限切れであえなくゴミ袋行きとなりました。勿体無い話です。子どもの頃「お金持ちになったらきんつばを腹いっぱい食べよう」と思った若松少年の夢は叶えられましたが、半分食べられたきんつば時代とは何故か幸せ感は薄れていました。

 親父にこの話をしたら覚えていないとけんもほろろでした。

 「きんつばを腹と水屋にしまい込む妻さえ太ると見向きもされず」

 「きんつばを前にゴクンと唾を飲む子どもの頃の懐かしきかな」

 「耳元できんつば食うか親父さん鍔は食えぬと唾を飛ばして」  

 きんつば私の思い出記」でした。

 

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○富士山

 「人間牧場」に連れて行った孫が双眼鏡を見て、いきなり海の向こうに浮かぶ興々島を指差して「おじいちゃん富士山だ」と言うのです。私は驚きました。だって興々島を伊予の小富士と呼ぶのを知っている人も現代人では殆どいないのに、孫が知っているのですから・・・・・・。

 孫の富士山の話は飛行機で東京へ行ったとき、飛行機の窓から眼下に富士山が綺麗に見えるのをお父さんが教えたからだそうです。だから富士山に似た山を見るとどれでも「富士山だ」と騒ぐのだそうです。

 サクラ・フジヤマ・ゲイシャといえば外国人がかつて持った日本のイメージ3だそうですが、外国人がフジヤマに出会ったときの驚嘆は彼らの日本滞在記からもうかがい知ることができます。

 飛行機の中でスカイワードという雑誌を拾い読みしていたら、旅する目で斉藤さんがイザベラ・バードの「日本奥地紀行」という本を紹介していました。この本は「ふと天上を見上げると、思いもかけぬ遠くの空高く、巨大な円錐形の山を見た」という甲板での光景から始まっています。船旅の時代、富士山は東京湾の船上で最初に目にする光景だったらしいのです。

 実は私も43年前にこれと同じような光景を三浦半島の沖から見ていたのです。それは18歳のときでした。南太平洋珊瑚海にマグロを求めた愛媛県立宇和島水産高校の練習船愛媛丸はマグロを腹いっぱい抱え帰国の途についていました。ところが母港でである三浦三崎漁港を前に思わぬ時化に遭い、苦難の末たどり着きかけた朝ぼらけの水平線の彼方に富士山の姿を見たのです。まさにイザベラ・バードの言葉そのままでした。感激の余りに私たち実習生は涙が止まりませんでした。そして日本人としての誇りが蘇ってきたのです。「富士山」と聞いただけで不思議な思いに駆られます。何年か後に青年たちを連れて富士山に登ったときもそうでした。勿論孫が「あっ富士山だ」という声に私の心は43年前へとタイムスリップしていました。

 人は誰でも思い出の彼方に夢のような出来事を隠し持っているものです。私の富士山もそうした思い出の一コマなのです。愛媛丸の沈没という悲しい出来事は記憶に新しい出来事ですが、富士山が愛媛丸と結びつくのは私だけかも知れませんが、いつか孫にこの話を大きくなったら聞かせてやりたいと、イザベラ・バードの記事を読んで懐かしくなりました。

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shin-1さんの日記

○何故パックは安いのか分からない

 私のように一年中全国を旅していると、結構旅上手になって色々と知恵を働かせて旅をします。昨日・今日と二日間熊本へ行ってきました。9月に東京丸の内の東京フォーラムで開催された全国町村監査委員研究大会で記念講演したのが話題になって、是非熊本でも聞きたいという提案で、球磨地方の義会議員さんの研修会に招かれました。普通熊本へは松山ー熊本の空路があるのですが、地図を見ると熊本でありながら宮崎や鹿児島に近いことから鹿児島空港を選びました。松山から鹿児島へは僅か一時間、公用車で空港まで迎えに来てもらって、という手順でばっちり、いい講演会が終わり、先ほど帰って来ました。

 霧島や球磨地方では深まり行く晩秋のたたずまいを堪能しながら、昨夜は町村の議会議長さんたちと美味しい球磨焼酎を傾けました。と言っても飲めない私はもっぱら民宿桜の女将さんが作ってくれた美味しいお茶を飲みながら、イノシシ焼肉、鹿刺し、鮎塩焼きなど田舎料理に満腹の腹鼓を打ちました。また水上村の議長さんには焼酎の蔵元とあって、美味しい焼酎や、ウイスキーボンボンならぬ焼酎ボンボンという世にも珍しいチョコレートを食べさせてもらいました。焼酎ブームとあって、飲むほどに酔うほどに盛り上がり、味岡議長さんにはクマ蜂の焼酎付けを味見までさせていただきました。

 湯山という地名にある水上温泉はいい湯で、私は妻に電話したら「羨ましい」「お父さん温泉には3回入って帰りなさい」と言われたので美人女将にお願いして朝風呂まで入ってしまいました。また早朝には大石議長さんの焼酎蔵まで案内いただき、コニャックの酒樽に入った幻の焼酎を見せていただき感激しました。お土産の焼酎は親父に飲ませてやりたいと、孝行息子ぶっています。

 ところで、何時も思うのですが、飛行機代とホテル代が一緒になったパックの方が飛行機代単品より何故安いのか、合点がいきません。誰が考えても同じだと思うのですが、まか不思議です。今度も東京へ行くのにパックだと随分お得なようで、妻から「何で」と聞かれても、知恵者の私にも説明ができないのです。

 旅は新しい心の発見があります。今回も様々な発見がありました。36人乗り満席のJAC飛行機は雨模様もあって揺れにゆれましたが、お蔭様で小腹が減りました。今晩の食事が楽しみです。

 「美人湯と言われて温泉入ったけど男のわしにはとんと効かぬわ」

 「猪と鹿を食べたよ馬かったそれもそのはず共食い大馬鹿」

 いい旅でした。

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shin-1さんの日記

○大パニック

 私の私生活もパソコンをいじる時間が段々長くなりつつあります。便利だし情報を検索する手間が省けるからでしょうが、昨日大パニックが起きました。大パニックなんて大げさですが、私にとっては大パニックなのです。

 4月からデジカメで撮り続けている「人間牧場」の写真全てがキーボードに触った瞬間、画面から消えてしまったのです。最初はバックアップやゴミ箱探しをしましたが、一向回復の兆しがありません。「大変だ」と思えば思うほど頭の中がパニックになって、早朝7時だというのに息子の所へ助け舟の電話をしました。あいにく就寝中だった息子の計帯電話は留守電コール、直ぐに息子から折り返しの電話、「お父さん電話が長くなるから掛け直して」と所帯持ちの質素な生活が見え隠れ、「こんな時に」と思いつつ掛け直し、電話で言われるままに修復を試みましたが失敗に終わりました。

 私のパニックの声など聞くこともせず、「大丈夫ちゃんと元に戻せるから。ノートパソコンを弟に会社へ持たせて」と言って電話を切りました。

 専門学校へ行くついでに兄に届けるようノートパソコンを次男に渡し、所要で家を留守にしました。今日は大学の講義日なので、夕方息子の会社に立ち寄る(何と今日が始めて)と、消えたはずの写真200枚が画面に現れているのです。さすが息子だと思いつつ学校へ出かけました。車を走らせながら私の大パニックは一体何だったのか、思わず一人で苦笑してしまいました。二日前に人間牧場へ訪ねて来た仲間との交流写真もプリントしていなかったし、何よりも人間牧場草創の短いながらも歴史が消えることへの憂いに一喜一憂したこの気持ちは忘れまいと、電子文字やデジタル写真の怖さを改めて知りました。

 そういえば昔、雷が共同アンテナに入って近所のテレビが根こそぎやられたことがあります。群馬へ行った折、群馬では雷によるパソコン被害が多いという話も聞いたことがあります。取りインフルエンザ流行で気になったパソコンウィルスのこともあります。今後は大パニックにならぬよう気をつけます。

 画面から消えた写真の中に、最近の孫の成長を撮っているのも何枚かありましたが、これも嬉しいことに復元されました。目出度しめでたしです。

 パソコンは魔法の箱だと思いきや消えた画面にこんちくしょう」

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○伊予市の若松になって半年

 私は生まれたとき、伊予郡下灘村の村民でした。12歳の時上灘町と合併して双海町民となりました。そして60歳で伊予市・中山町と再び合併し新伊予市民になりました。村民・町民・市民とされぞれ居住する地域の自治体名称は変わりましたが、今も双海町という町名が残っているため、何か複雑な気持ちです。

 4月1日に合併して公職を去ってから、公の場所に出る機会が少なくなりましたが、それでも請われるままに全国行脚をしていると、自己紹介をしなければなりません。これまで50年間も使ってきた愛媛県伊予郡双海町という地名を捨て、愛媛県伊予市双海町と紹介するのですが、なだまだぎこちない感じがします。

 でもひょっとしたら4万市民の中で、伊予市民を公言した数は、上位にランクされるのではないかと思うのです。

 もうひとつ、厄介なことは毎日ハガキを3通書く私の18年間にも及ぶ実践の殆どは、伊予郡双海町大字上灘甲5391-2のゴム印を使用していましたが、只今は昔のゴム印も使えず、とりあえず伊予市双海町上灘甲5391-2と手書きをしています。役所のように毎日手紙を出す人を除けば伊予市という市名を書いた数は、これまた上位にランクされることでしょう。最初は間違ってばかりの住所も最近では随分なれてきました。こうして一つ一つの言葉や文字を使うことによって、伊予市民としての誇りも生まれてくるのだと、納得いかぬ自分に言い聞かせているのです。

 昨日来た伊予郡双海町という住所での手紙も、経過措置でしょうか丁寧に郵便局は届けてくれます。1週間前は何と郵便番号があったので届いたのでしょうが愛媛県、若松進一で堂々と我が家へ郵便物が届きました。一瞬「おらも有名人や」と勘違いするほどでした。

 今年も年賀状が売り出されました。昨年までは千枚に手の届く枚数が舞い込みましたが、セミ・リタイアした来年はさて何枚か、また性格に住所を記したハガキは何枚か、郵便局を悩ませる平成の大合併のゴタゴタは当分続きそうです。

 私も暇を見つけて住所録の整理をしなければなりませんが、合併したとこしないとこ、私の頭も悩みそうです。いっそこの際年賀状を止めようかとも思ったりする今日この頃です。

 去年インターネットで5通年賀状もどきをいただきました。これもひとつの手かも知れませんが、入力しなければないませんから煩わしい・・・・・。あー面倒くさい。

 「面倒くさい匂いもせぬにくさいという頭をかいてお尻もぞもぞ」

 「来いとなど言わずも正月やって来る歳という名の土産を持ちて

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○この季節に黄砂現象

 黄砂といえば春の使者と思っていましたのに、このところの陽気に誘われて?、昨日は何と黄砂現象が見られました。黄砂とは中国大陸の黄河付近で舞い上がった黄砂が、ジェット気流にに乗って数千キロの彼方日本まで、はるばる海を越えてやってくるものです。普通は春先に多く見られる現象で、大気を黄色く染め、時には霧のように視界を悪くすることだってあります。昨日の黄砂もかなり強めのもので、明らかに黄砂と分かるほどの強さでした。

 私のように、夕日に狂っている人間にとっては夕日のとk別な見方ができるため、結構黄砂の降る日を楽しみにしています。写真で言えば黄色いファインダーを被せたようなもの、絵で表現すると平山郁夫画伯がローランの都を書いた砂漠の色と表現すればピッタリかも知れません。西の空に傾く太陽が黄砂に黄色く染まり早い時間から輝きを失い、ゆっくりと降りてゆくのです。昨日は今年の秋始めての北西の季節風が吹きましたが、夕方には止んで風も無く、穏やかな雲ひとつない天気だったため、珍現象の天体ショーを堪能することができました。

 夕日見学のメッカふたみシーサイド公園には、黄砂のことを知って知らずでか沢山の人が夕日を見に来ていましたが、黄砂の夕日を盛んに携帯電話のカメラに収めていました。近頃の夕日見学も随分変わったもので、一眼レフカメラから簡易カメラへ、簡易カメラからデジタルカメラへ、デジタルカメラから携帯電話カメラへと変化しているようです。夕日が沈む頃になると携帯電話を西に向かってかざし、パチパチとフラッシュが焚かれるのです。一眼レフの本格派は「今日は写真にならん」とそそくさと引き上げる人もいました。

 「夕日は誰と見るもの」と尋ねられたら、やはり「恋人」と答えるでしょう。二人で肩を寄せ合い(勿論熟年夫婦と分かる人でも肩を寄せ合っていましたが、明らかに変な関係と分かるような二人連れもいましたが、人それぞれ、詮索無用です。失礼)ながら、夕日を見るシルエットは絵になる光景で、一人で見ながら「しもうた。妻でも(おっと失礼・・・・でもとは妻に失礼)連れてくるのだった」思いました。

 多分黄砂は来年の春、菜の花が咲くころまでお預けでしょう。小さな子どもが「あっママ、夕日が目玉焼きみたい」とはしゃいでいました。お母さん「・・・・・・・・・・(無言)」

 「黄砂降る茜に染まる空見上げ目玉焼きしか浮かばぬ悲しさ

 

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○愛媛県内で一番古い現役木造校舎の学校

 今日、高知県須崎市周辺の広域市町村から、10人の若者が私の元へ視察研修にやって来ました。嬉しいことに過日須崎市のまちづくり講演会に招かれた折、私の話しを聞いた人が連れて来たのです。彼らは終始真面目で、熱心にメモを取りながら私の話に耳を傾けてくれました。1時半から5時過ぎの日没まで3時間半に及ぶ研修で彼らが私から何を学んだか定かではありませんが、特に人間牧場構想に興味を持ち、次に来るときは必ず人間牧場へ案内して欲しいと念を押して夕闇の中を帰って行きました。

 今日の研修は私の話とシーサイド公園の見学、わが煙会所の見学、それに翠小学校の見学をセットにしました。特に翠小学校は乗ってきたバスの回転を目的に奥まで足を伸ばしての突発的な見学でしたが、若者たちは愛媛県内の現役木造校舎で一番古い築75年の翠小学校を興味深そうに見学していました。子どもたちが下校した後の学校は静まりかえり、先生たちが僻地教育の研究をしている最中だったので、息を殺しながらの見学となりました。でも懐かしさのあまりに涙が出るという若者もいました。

 私は学校がこうも懐かしいものなのかと、彼らの行動をじっと見詰めながら色々考えさせられました。木のぬくもり、長い廊下や長い天井、腰板の破れの補修の跡、階段に書かれた数字、校長室からの眺望、二宮金次郎の銅像、吹きぬける風、全てが時代をタイムスリップしたようなセピア色だと彼らは語りました。勿論金次郎さんの前で記念写真も撮りました。今この学校は40人を割った児童数の減少で将来を危ぶまれています。でも教育長だった私は多くの人と、この学校の校舎だけは何としても守りたいと、学校周辺に様々な仕掛けを施してきました。水車小屋、蛍、水辺空間、観光農園、蛍まつりなど、グリーンツーリズムの下地をこしらえてきました。何時の日かそれらが実を結ぶことを信じています。

 学校は木が交わって学ぶと分解して読めば、木造校舎の翠小学校はその言葉どおりです。また学校は楽校とも書きます。学校の内外には楽しいことがいっぱいあるのです。校長先生はじめ心優しい先生たちがいっぱいいて、ひょっとしたらこの学校は日本一とも思えるような物語がいっぱい詰まっています。

 この学校がジャパハリネットのプロモーションビデオの舞台になったことは知る人ぞ知る情報ですが、学校が子どもたちの行きたくなるような雰囲気をつくることは教師と親の、そして教育委員会の仕事だと思います。いい学校にいい子は育つのです。

 おっといけない。まるで教育長の言葉のようなことを書いてしまいました。私は教育長を失職していたのです。失言しました。

 帰り際、久しぶりに出会った子どもたちが「あっ進ちゃんだ」と近寄って声を掛けてくれました。涙が出るほどジーンときて、嬉しかったです。勝手に上がり込んでしまって校長先生済みませんでした。決して怪しいものではありません。

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