○九死に一生を得る
「生者必滅会者定離」「人間の死亡率は限りなく100%」といわれるように、生あるものは必ず滅び、人間も必ず一度は死ぬことになっているのです。だからといって、せっかく両親からいただいた尊い命を粗末にすることはもってのほかで、自分で命を絶たない限り、天命まで生き続けれるのですから、もっと生きることの喜びを感じながら生きてほしいと思うのです。日本人の自殺者が年間3万人になったといって驚いたのはそんなに遠いことではありません。しかし最近は10年間はコンスタントに3万人を超えている統計を見ると、日本もアメリカのように悩みの深い社会になっていることは確かなようです。人間の生き方には社会が鏡のようになっていて、雪深く冬の長い北日本、しかも裏日本といわれる日本海側に自殺者が多いのも、また世の中が不景気になれば生きる希望を失った人たちが自殺を図るのも、そのせいだと思わなければなりません。自殺者3万人という数字は統計になって現れますが、自殺未遂や自殺願望者の数はこの数字の10倍、つまり30万人とも言われているのですから驚きです。
最近ネットで人を誹謗中傷する事件が警察によって摘発されました。ネットの匿名性をいいことに、電子文字による脅迫や殺人予告をするのです。する方は面白半分やっているのでしょうが、された方はたまったものではありません。まさに現代社会が生んだ悲劇なのです。日本の道徳に「陰徳」という言葉があります。人の見ないところで徳を積むことの大切さ諭す言葉ですが、現代は人の見てないところで間違った「隠匿」を行っているのです。
今の世の中ネットなしでは考えられないくらい普及発展しています。私のように学校でパソコンを習っていない人間には住みにくい世の中となりました。そんな時代遅れの私でも、毎日の日課としてパソコンを開けてメールをやり取りし、ブログ記事を朝晩二本書いて配信するのです。パソコンやネットが危ないのだったら見ないが一番と、パソコンをやらない人はパソコンを使う人を笑っていますが、人間の発明した道具はすべからくそうで、包丁さなければ怪我もしないし、火さえなければ火事も起こらないのですが、人間はそれらを道具として使いより良く生きているのです。
死のうと思ったとき、誰かに助けられたという実話をよく聞きますが、これはまさに「九死に一生を得た」話です。私は自分で死のうと思ったことは64年間の半生においてまだ一度もありません。ただ「死ぬかも知れない」と思ったことは何度かありました。高校生の時、宇和島水産高校の練習船愛媛丸に乗ってオーストラリア近くの珊瑚海までマグロを獲りに行きました。マグロを腹いっぱい抱えた帰りの船が伊豆半島沖に差し掛かった折、冬としては珍しい980ミリバールの低気圧の中に入ってしまい、船長さんは私たち実習生に「死ぬかも知れない」と死の宣告をしました。実習生の狼狽は計り知れず大混乱になりましたが、低気圧が二つに分かれて脱出しひん死の思いで日本へ帰ってきました。台風一過の荒れ狂う水平線の彼方に富士山の姿を見た時の感動は今でも忘れることはできず、まさに「九死に一生を得た」私の生の原点となったのです。死ぬのはいつでも死ねるが生きることは難しい、でもつらいことはあっても生きることは楽しいと、今年も高校生の前で命を大切にするよう話をさせてもらいました。
「死にたいと 言う人多く その度に 九死一生 経験話す」
「世の中は 暗い話が 多過ぎる もっと楽しい ことを話そう」
「もし俺が あの時死んで いたならば こんな楽しい ことも知らずに」
「死の淵を さまよい生きた 人話す 生きていたなら 神は見捨てず」