○雨の一日は雨読と雨書と雨校正
昨日は朝から夜まで一日中雨でした。雨が足繁く降るようになると春近しの感じがするのですが、水分とと気温を必要とする人間牧場の落ち葉による腐葉土づくりのことが気になっていながらその暇もなく、また折角時間が取れたのに昨日のような雨では農作業をすることができず、晴耕雨読に甘んじ中ればならない空を見上げて少し憂鬱な一日を過ごしました。それでも宿題となっていた「耕す心の時代」を一冊速読ながら読み上げ、予約の入っていた印刷インクのの匂いがする「夕やけ徒然草・水の書」を仕分けて送ったり、また文化振興財団から届いた原稿の校正をしたり、まだ手の付いていない原稿書きをしたり、何かと足を引っ張っていた細かい作業が一気に片付き、外の雨とは裏腹に心の霧が少し晴れた気持になりました。
1月を総括すれば風邪を引いたことが足を引っ張り、中旬から下旬にかけては日程が詰まりかなり忙しい日々を過ごしました。それでも県外に近県ながら講演で3回も出張しました。また念願の「夕やけ徒然草・水の書」の原稿書きや印刷までの工程が入って、忙しい日々だったように思います。そんな忙しさも過去となってしまいましたが、出会った人や書いた原稿、出来上がった自著本、書いたブログ64本は生きた証とでもいうべき形になって残っているのです。
午前中清水研究員と私の書斎で打ち合わせを行い、お茶を飲みながら色々な事を話しました。その途中に偶然にも大河内結子さんから電話が入り、年輪塾公開セミナーの折にハーモニカを吹いて欲しいとリクエストがありました。私は楽譜を見て演奏することはできず、むしろ体感音楽の部類なので、リクエストされても歌えない歌は吹けないのです。そのあとメールで届いたリクエスト曲を見て少し安心しましたが、吹けるかどうか心配で、清水さんが帰ってから木になるカバンからハーモニカを取り出し吹いてみました。私がハーモニカを吹いていると、書斎の外窓からやって来た親父が不思議そうに見ていました。多分息子がハーモニカを吹く姿を始めて見て驚いたのでしょう。親父を座らせ聞き覚えのある軍歌を3曲吹いて聞かせたら、「中々上手いが何処で習ったのか」と外聞もなく褒めてくれました。「独学だ」と言葉を返しましたが、91歳の親父には理解できたかどうかは分かりません。でも初めて親父に軍歌ながらハーモニカを聞かせて良かったと思っています。大正・昭和・平成と揺れ動く社会に翻弄されながら生きてきた親父には、もう口ずさむ歌などありませんが、戦争という暗くて悲しいタイムトンネルを抜けた経験だけは今も脳裏に深く刻まれているのです。昨日は伊予路に春を呼ぶ椿神社の春祭りです。戦後間もない子どものころ、親父に連れられて椿祭りに行った折、露天商の並ぶ参道の片隅で、傷痍軍人の人たちが口にハーモニカを加えて軍歌を吹き、物乞いともとれる姿を見ました。なけなしの小銭をポケットの中から一枚取り出し、お皿の中に入れてあげたことが懐かしく思い出されました。
夕方から町民会館で開かれた史談会2月例会に出席しました。最近は会員が二人づつ持ち回りで「戦争を語る」というテーマで卓話をするのです。昨日は本村の矢野さんと会長の中嶋さんの話を聞きました。矢野さんは昭和15年生まれですから戦争の記憶は殆どなくむしろ戦場に出征したお父さんの話や銃後の守りに苦労したお母さんの話が胸を打ちました。中嶋会長さんの話は、終戦間近なころに志願兵として海軍航空隊に入隊しパイロットを目指した思い出を語られました。中嶋さんは当時の資料を数多く持っていて、この日も沢山の資料を見せていただきましたが、海軍ゆえにこれらの資料は帰らぬ遺骨の代わりになったかも知れないと述懐されました。戦争を直接体験した人の数も次第に減って、中嶋さんの話は今まで聞いたことのない貴重なお話でした。
雨の一日でしたが、遠い記憶に遡る一日でもありました。人はそれぞれの思い出とともに生きています。中嶋さんの生き方から学ぶとすれば、やはり記憶と記録の違いだと思います。半世紀も過ぎると記憶は完全に途切れます。ところが記録は記憶を思い出させてくれるのです。特に日時などは覚えることは至難の業ですが、記録にはちゃんと残るのです。記憶と記録の違いを教えていただいた雨の日の一日でした。
「記憶ほど 当てにならない ものはない 記録残すは 今人務め」
「椿さん 参道で見た 軍人の ハーモニカ吹く 悲しき音色」
「雨の日は 身辺整理 こまごまと 出来てすっきり 慈雨と思いつ」
「一月は 忙しい日々が 続いたな 二月ゆっくり したくもできず」