○夫婦水入らずの夕食会
日々の暮らしの中で私たち家族には喜びや悲しみが、まるで海のうねりのような形で現れたり消えたりしてきました。結婚から始まった小さな私の家庭に子どもが生まれたり、子どもが受験に合格したり、また子どもに子どもが生まれたりと、喜びはむしろ子ども中心で動いてきたようです。しかし祖母や母の死のように悲しい出来事も沢山ありました。それらの喜びや悲しみに一喜一憂しながら何とか今日まで平穏に半生を過ごしてきたのです。
いつしか子どもたちも住み慣れた家を出て、それぞれが自立の道を歩むようになったため、気がつくと私たち夫婦と年老いた親父を加えた3人だけとなってしまいました。4年前にリタイアした私と、近所の歯医者でパートで働く妻にとって、それほど目を見張るような喜びはなく、その分悲しみもないのです。
先日私にちょっとした喜びごとがありました。人に言えば「何だそれくらい」と言われそうなので中身は伏せておきますが、妻が言うのにはちょっとした喜びなのです。「宝くじが当たったの?」と言われそうですが、お金を伴った喜びではないことだけは確かなのです。
昨日は前日から泊まりに来ていた娘の子どもを伊予路に春を呼ぶといわれる椿さんに連れて行くことにしました。昨日は初日、しかも久しぶりの好天とあって大勢の参拝客が押し寄せ、11時ころにお参りしましたが本殿まで行くのに30分もかかるほど混んでいました。お参りしたあと来年から小学生になる孫朋樹と今年の5月に出産予定の長男夫婦のため、そして年老いた親父の健康を願ってお札、それに縁起熊手を買い求め、参拝客の中に身をゆだねながら孫の買いたいものを約束通り一個買って、ツウ車上に止めてあった車まで帰りました。その後孫のリクエストで食事をしたり温泉に行ったりして無事孫を娘の家まで届けました。娘と留守番していた二男の孫と少しの間遊んでやり帰路に着きました。
昨日は親父の夕食を作って出ているためゆっくりできるとあって、妻の発案であることのお祝いを兼ねた夫婦水入らずの夕食会を、伊予市の伊呂波という和風レストランですることにしました。このお店には先日も仲間とお邪魔しているし、親父の米寿のお祝いもここでしたため、すっかり馴染みの店となっているのです。
酒も飲めないのに、少しははり込んで、私たちにとっては少しおご馳走と思われる料理を注文しました。二人だけで外食する場合はうどんやラーメンなどで簡単に済ませるのですが、この日は食べきれないほどの料理を、二人とも酒が飲めないためお茶で乾杯して料理を食べながらいろいろな話をしました。
お寿司や刺身など日本食主体の料理だったためお茶をお変わりして、他愛のない話に終始しながら小一時間過ごしました。私のような古い年代は大家族の中で過ごしてきたため、こんな夫婦二人だけの食事などがとても苦手で、普通の夫婦のようなイタリア料理でワインでも傾ける粋な計らいはできないのです。
お店を出て帰る車は妻が運転を変わりましたが、妻はいたく感激した様子で、「お父さん今日は楽しかった。また時々来ようね」と神妙な面持ちで言ってくれました。もう私たち夫婦には喜びごとなど望むべきもありません。でも普通の何げない暮らしの中に喜びを見出し、ささやかな楽しみを持ちたいものだと思いました。私は毎日外へ出て適当に楽しく暮らしていますが、親父の面倒や子ども、孫のことに気を配る妻への感謝は余りやらなかったと、深く反省させられた一夜でした。
「ちょっとした 気配りひとつ 嬉しくて 妻今度また 催促しきり」
「人見れば とるに足らない ことだけど 妻にとっては 嬉し出来事」
「ささやかな 夫婦二人の 食事会 久し振りだと 忘れし前を」
「お祈りの 言葉をちゃんと いう準備 孫も成長 もうすぐ一年」