○人間等高線
詳しい地形に関する地図を見ると同じ高さを示す等高線が幾重にも薄い線で描かれています。科学万能な現代ならいざしらず、昔はこんな等高線をどのようにして調べて地図上に落としたのか今でも不思議に思うのです。伊能忠敬が全国を歩いて測量して日本地図を作った話は子どものころによく聞きましたし、その伊能忠敬が伊予市の宮内邸に逗留した話を聞くたびに、日本の先人たちの心理を追求し続けた姿に深い感動を覚えるのです。
さてそんな等高線を地図上でたどると、やはり日本で一番高い山は富士山で3776メートルのようです。私もこの山に何度か登りましたが、等高線が高くなるに従って植生が違っていることに気付くのです。青木ヶ原樹海のように人の進入を拒む樹海から始まり、だんだん植物の姿が限られるようになり、砂走り以上には植物も生えない厳しい自然があるようです。
人間が作った建物で高いのはご存じ337メートルの東京タワーですが、私が知らないだけで東京タワーより高い建物があるのかも知れませんが、まあ人間が人工的に作る建物は、地震の多い日本であれば、富士山の高さの10分の1が限界のようです。
さて人間はというと、どちらかというと国際的には背丈が高くない日本人はいくら高いといってもせいぜい2メートルが限界のようで、富士山や東京タワーに比べてもいかにちっぽけな存在であるかがよく分かるのです。
日本には1憶2千万人程の人が暮らしていますが、その殆どは背丈が2メートル、つまり2メートル以下の視覚で二つの眼を以て物を見ているのです。その人たちは住む場所も置かれている立場も違って人さまざまなようですが、人間にも等高線のようなレベルがあって、そのレベルにあった人と付き合って生きているようです。私はこれを愚かながら「人間等高線」と考えています。人間等高線には知能、職域、地域、文化、遊び、活動など色々なジャンルがあって人間等高線が同じような人と出会ったり行動を共にしたりしているのです。つまり人間等高線という目に見えない高さが人と人との付き合いを決めてゆくのです。パチンコの好きな人はパチンコの好きな仲間ができます。パソコンが得意な人はパソコンを使って人間等高線の同じような人と仲間になるのですから不思議な話です。
私は田舎に住みながら意外と人との出会いが広く、様々なコンテンツを持っています。リタイアした元役場職員ですから、普通はリタイアと同時に職場で得たコンテンツが閉ざされる、と急速に遠心力と求心力を失っていくのでしょうが、何故か新たな人間等高線が生まれ、遠心力も求心力も増しつつあると思うのです。
その一つが大学です。私にとって大学は正直縁遠い場所でした。社会教育もまちづくりも沢山の大学関係者のご指導を得ましたが、それでも人間等高線には成長しませんでした。ところが大学の非常勤講師をするようになって少しずつ人間等高線が生まれつつあるのです。これは私にとって未体験、未開拓の分野であって、少し自分の違った社会が近づいた感じがするのです。
「もうここまで」と自分の人間等高線の高さや低さを決めると、その等高線の中でしか人とも出会えず、自らの進化も望めないので、西日本の最高峰石鎚山ほどまではいかなくても、双海町の最高峰壺神山くらいは目指したいものと思っている今日この頃です。
「人間も 地図と同じく 等高線 同じ高さの 人と群れゆく」
「はて俺は どれ程高さ あるものか 自分の高さ 人しか分からず」
「様々な 高さの違う コンテンツ 複数持てる 人が幸せ」
「凄いなあ 眺め溜息 出てた人 同類になり 少し身近に」