○上り坂あれば下り坂あり
私が子どもの頃の私の家は俗にいう半農半漁でした。天気の良い海が凪いだ時は鯛網の船に乗って沖合に出て漁をし、海が時化ると裏山にある畑を耕すといった、今考えると合理的な暮らしをしていました。当然家は親父もおふくろも殆ど留守で、居間と土間の間になる太い大黒柱に小さな黒板があって、家族への母の伝言はこの黒板に書かれていました。学校から帰るとまずこの黒板を見て行動しなければ叱られるのです。学校帰りに友だとと遊ぶ約束をしても、この黒板の伝言が優先するため、時々見なかったふりをして無視したこともありましたが、いつも大目玉でした。
黒板に書いていることは、「悦子(私の姉で長女)-御飯を○○合炊いておきなさい。進一(私)-庭に荷造りした背負い子をかるうて○○の畑へ来なさい」で、3人の弟や妹には余り指示書きがなかったように思うのです。仕方なく言われたとおり、約30分もかけて急な坂道を背負い子をしょって出かけたものでした。ただでさえ急な坂道を背負い子を背負って上がるのですからもうしんどくて、途中で何度も道端の適当な場所を選んで球形をしたものですが、その場所は案外決まっていて、山の上の池久保集落の人たちが街へ下りたり帰ったりする人たちと一緒になって、様々な世間話を聞かされたものでした。その中には顔見知りのおじさんやおばさんもいて「坊は偉いのう」などと褒められるものですから、ついつい嬉しくなって、大人と同じような馬力を出したつもりで大汗をかきながら登りました。
やがて畑に着くと母が私の来るのを待っていて、芋飴のようなおやつをくれるのです。母と二人で並んで座り、眼下の海を見ながら様々な世間話や、将来のことなどを話しました。母は当時漁協婦人部の部長をしたりして浜の生活改善運動をリードしていました。日掛け貯金などをしたり進水式の簡素化などに取り組んでいて、松山でのブロック会や時には東京までも発表に行っていました。私がこのようになったのも多分母親の影響が大きかったように思うのです。
母は私がそこらの野山で遊んでいる間にミカンや芋などを荷造りして再び背負い子にくくりつけてくれ、元来た道を下ってわが家へ帰って行くのでした。子どもの足ですが、行きの30分に比べ帰りの速さは格別で、荷物を背負ってもまるで3倍以上の速さで下れるのです。そんな登りの難儀と下りの楽さを比較しながら「上り坂あれば下り坂あり」を何度思ったことでしょう。
山を登る辛さは想像以上に難儀でした。でも下りの楽さを知っているから多様辛くても我慢ができました。背負い子を背負って畑へ到達したときの「やったー」と思う達成感も格別で、時には畑に作っているスイカを割って母と二人で食べたりもしましたし、秋には掘り上げたばかりの芋を焚火で焼いてホクホクする芋を食べたりもしました。既にあの世に旅立った母のことは昨日のことのように思い出すのです。今は人間牧場になっている池久保の土地は私が働く母の姿を見る人生劇場のような気もするのです。
畑に植わっていたミカンの木も既に枯れてなく、母が丹精込めて耕した畑の隅々は雑草に覆われていても、母と二人で腰かけて話したとっておきの場所は今も残っていて、草刈りの途中で休む時、横に母が座っているような錯覚さえ覚えるのです。
「上り坂あれど下り坂あり」これは母が身をもって教えてくれた人生哲学のような気がしています。ゆえに私は坂の上の青い天の一朶の雲を見つめて登るのです。人生の坂道は未だ半ば、まだまだ人生の荷物は降ろせず登っていますが、母お教えどおりやがて楽な下り坂があるかも知れないと、今日も少しだけ元気を出して坂を登ってみようと思っています。
「上り坂 あれど必ず 下り坂 母の教えが やっと今頃」
「この場所に 母と並んで 腰かけて 色々夢を 語ったっけな」
「あの母は あの世のどこを 旅してる やがてどこかで 会える気がして」
「死んだのに 今も心に 生きている 俺を育てた 母の思い出」