○能ある鷹は爪を隠す
私のような凡人は能もないため能の爪の隠しようもありませんが、能のある人には二つのタイプがあって持っている能を見せびらかせる人と、あくまでも謙虚に能力を見せない人がいるようです。今のご時世ですから能力があることを内外に広くアピールすることはとても大切なことです。でもそれが過ぎるとどこか鼻もちならない人もいるのです。昨年はノーベル賞ラッシュで日本人が4人も選ばれました。それぞれの受賞者がそれぞれの感想と抱負を述べ、それぞれにノーベル賞受賞への険しい道のりを語っておられましたが、ある学者で好感が持てたのは授賞式の講演を日本語でした学者がいたことです。世の中は国際的になって世界的には英語が標準語になっていて、これまでの受賞者は全て英語で講演しているのですが、この学者は英語では自信がないと母国語の日本語で講演をしたようです。一部には英語も話せないのにノーベル賞を貰うなんてという意見もあったようですが、私はむしろ日本語で話したこの学者こそ日本人が日本人らしく振舞った人として評価したいと思いました。まさにこの人のことを能ある鷹は爪を隠すというのでしょう。
鷹は昔から鷹狩りの道具として使われてきた動物です。鷹の仲間には絶滅危惧種に指定されているものもありますし、鷹狩りそのものが庶民的な遊びでないので何ともいえませんが、あの精悍な顔つきや獲物に食らいつく鋭い口ばし、それに日ごろは見せない鋭い爪は、猛獣さえも恐れるほどです。鷹匠はあの鋭い爪から身を守るため動物の皮でできた手袋のような手負いを腕にはめて鷹を操るのです。テレビの映像でしか見たことがありませんが鷹狩りは昔から貴族や大名の高貴な遊びだったようです。
さて能力とは一体どんなものでしょう。学問の世界で理論を極めた人を学者といいます。一方この道一筋頑固一徹その道に精進した技術者を匠といいます。いずれも立派ですが、極めた理論を理路整然と説明する学者に比べ、匠はむしろ物を作り上げていく人ですから、「詳しいことは分かりませんが」と前置きしてただひたすらに生きてきた生きざまを冒頓として語るのです。
宮大工の世界などはその最たるもので、曲尺と隅坪それに大工道具で材木をまるで魔術師のように組み立てて行くのです。宮大工で有名な西岡棟梁の言葉に「木の癖組」というのがあります。木には育った環境によって全て癖があるそうです。その癖を見誤ると反り返って折角作った建築物がバランスを崩してしまうのです。いくら立派な技術を持っていても、木の癖を見抜いて聞かす技術がなければ立派な建築物は出来上がらないのです。
西岡棟梁の「木の癖組」はどこか人間にも通じる言葉です。一応同じように見える人間も実は育った環境で随分違った癖を持っています。その癖を見抜き癖をその人間の長所として活かすなら、その人間は大きく成長するのです。人の上に立つ者はせめて一の癖を見抜き癖を組み合わせる技量がなければ、会社や組織をうまく統率することはできないのです。
私は能ある鷹にはなりたくてもなれませんが、せめて少ない能を見せびらかせて生きるような人間にだけはなりたくないものです。
「隠すよな 能もないのに 見せたがる 人もいるから 気を「つけ生きよ」
「若者の 爪見てギャーと 驚いた まるで鷹爪 能もないのに」
「男でも 爪を伸ばして 格好良く 見せたがるひ人 意外と低能」
「爪隠す 謙虚生き方 肝命じ 余命を生きる 人になりたい」