○悪魔の声と善人の声の狭間で
「正月は冥土の旅の一里塚目出度くもあり目出度くもなし」とはよくいったもので、「もう幾つ寝るとお正月」と指折り数えて正月が来るのを待った少年時代とは違い、どこか白けて気持ちになるのはやはり加齢のせいなのでしょうか?。昔はそこら辺でよく見かけた駒遊びや凧あげに講じる子どもの姿はいつの間にか姿を消してしまい、子どもに代わってお爺やお婆の手押し車を押す姿が、どこか暗い影を引きずりながら歩いているのです。私たちが青年時代に高齢化社会の先進事例として北欧の福祉施設を映画で見ましたが、他人事、他所の国の出来事と思っていたことが今現実に起こっているのです。
一方仕事につけば終身雇用と思っていた日本でも、いつの間にか聞こえの良い契約社員雇用がまかり通るような世の中になっていました。100年に一度といわれる世界経済の同時不況の中で職を失い、失おうとしている姿を見るにつけ、政治も経済も企業も結局は保身のことしか考えていないようだと思いながら、ゆく年くる年の除夜の鐘を聞き、新しい年を迎えました。さて私たちのように小さい力では解決できないこれらの大きな問題を前に果たして何をすればいいのでしょうか。
お前の考えることではない。お前は自分の目の前のハエを追っていろ。
お前のような貧乏人に何ができるか。施しは冨のある人がすることだ。
お前がいくら考えても世の中は変わらない。世の中はなるようにしかならない。
世の中はそのうち良くなる。慌てることはない。
世の中はそんなに甘いものではない。努力しない人まで助ける必要はない。
世の中はこんなものさ。多分今までもそうだったしこれからもすなる。
人や世の中を信じるな。人や世の中は冷たいもの。
人や世の中は見てくれはいい。でも本心は絶対違う。
人や世の中は隣に蔵が建ったら腹が立つ。人が不幸になると嬉しいようだ。
心の隅のどこからか悪魔のような声が聞こえてくるのです。しかし心の隅のどこからか「お前は何をしている。今こそ立ち上がって行動すべきではないか」と善人の声もかすかながら聞こえてくるのです。始めて嘘を言った時、わが心の隅に住んでいる善人からお前は悪いやつだと随分ののしられました。それ以来嘘を言うことを止めました。母親の財布からお金を黙って取った時も嘘をついたと時と同じようにしかられ、それ以来二度と人のものに黙って手をつけることをしませんでした。
心の隅に潜む悪人の声を聞きじっと見ているべきか、善人の声に耳を傾け何かの行動を起こすべきか、凡人たる凡人の私は今も悩の淵に勇気もなく立っているのです。
「寒いけど 風除けあって 幸せだ この寒空に 明日とてなきは」
「アリさんは 熱い夏にも 働いて キリギリスなど 見・て・ご・ら・ん(黙・涙)」
「善人と 悪人声が ぶつかって どちらが勝つか 生き方決まる」
「六十五 驚くような歳になる 今年も進化 道を辿りつ」