○何を求める 風の中ゆく
一昨日の夕方、西条からの帰り道、わが家への帰り道信号を通り越して、シーサイド公園へ足を伸ばし、暮れなずむ海岸辺りを散策しました。このところの急激な寒波で、海は荒れて寒さを一層感じさせましたが、それでも夕日や夕焼けを楽しもうと、何組かのカップルが体を寄せ合って西の空を見つめていました。
これまで幾度となく夕日にまつわることを仕掛けてきた私にとって、夕暮れ時ともなると何となく気になって、暇さえあればこんな訳のわからない動作を繰り返している自分にハッと気づくことがあるのです。はてさて私は何を求めて動いているのだろうと・・・・。まさに山頭火の句の中にある「何を求める 風の中ゆく」といった心境でしょうか。それでも夕日や夕焼けに向かうと何故か、日々の忙しさに悩殺され自分を見失っているゆえに、自分というちっぽけな人間の存在にハッと気づくのです。
人間はどこから来てどこへ去って行くのか、こんな哲学めいた気持を呼び起こしてくれるのも夕日なのです。私はこれまで様々なことを起こしてきました。多分同年代の人の中でも田舎の人間にしては波乱に富んだ半生であったと思うのですが、何かをしようとうする度にこうして夕日と向かい合い、自分の心の中の扉を開けて、自分というもう一人の自分と向かい合って話しをしてきたのです。やるべきかやらざるべきか、前へ進むべきか後退すべきか、常に心の中で自問自答してきました。すると不思議なことに何か分からないパワーのようなものを感じ、そして色々な発想が浮かんでくるのです。夕焼けコンサートを思いついた時も、反対と怒号の中でシーサイド公園を整備する時も、常に生き生きと冷静に対峙することができたのです。多分それは太陽のエネルギーをいただいたのだと思うのです。
もう私にはそんなに大きな夢がある訳でもなく、日々を着実に生きるだけですから、太陽のパワーなど必要はないのですが、それでも残された余生をどう進化しながら生きるか、人生の仕上げの年代に入っているだけにささやかながらどう生きるかは私にとって大きなテーマでもあるのです。
一昨日思いもかけぬ光景を見ました。シーサイド公園の砂浜で若いカップルが結婚衣装でオリジナルな記念写真を撮っていました。この寒空に何て物好きなと思うかも知れませんが、彼や彼女にとってここは人生のスタートであり思い出のアルバムでもあるのです。新しい発想がにわかに浮かびました。
もうひとつ、恋人岬の突堤にあるモニュメントの穴の中に夕日を入れて写真を撮ってみました。夕日はもう西の端辺りに沈むため、穴は三日月のような位置でしか見えませんが、三日月と太陽もこれまた新しい発想でした。また夕日に双海町のシンボルである本尊山がまるで赤富士のように映えて見えました。これら全ての目に映ったものはシーサイド公園ができてからこれまで、見たこともない光景でした。既成概念にとらわれることなく新しい位置と目の角度で見るとまた新しい発見があるのです。このひらめきを家に帰って早速文字と絵に書いてみました。また新しい夢が泉のごとく浮かび上がってき始めました。
「いつも見る 見慣れた姿 時として 違って見える 心一つで」
「山頭火 何を求める 風の中 ゆくと詠んだが 俺にはとても」
「赤々と 燃えて黄金の 本尊山 神々しくも 照り映え見える」
「秋過ぎて 冬来たりなば 海荒れて 春待ち遠い 心沈みぬ」