○無人島探検記・ルポ④
無人島には人間が住んで使ったであろう道具類がやたらと散乱しています。家が打ち果てて潰れたため五右衛門風呂の風呂釜や水瓶など押し潰された屋根の重みで殆どが粉々になっていました。多分何年が後にどこかの物好きな考古学者や郷土史家がこれら人間の生きた証を調査しまことしやかに語るのでしょうが、今を記録することも大切ではないかと思いました。
雑多なごみの中で水瓶を見つけました。取り出してみると多少傷んではいましたがまあ使えないことはないと思い近くにあったボロ布で粗方の掃除をして蜘蛛の巣やゴミを取り除きました。そしてそこら辺に落ちていた紐で荷造りをして海岸まで運びました。多分このままだと朽ち果てて役には立つまいと思い、豊田さんと相談して取って帰る事にしました。由利島の見える人間牧場にでも置いてこの水瓶にメダカでも飼って由利島の話を長く語りついで行きたいと思っています。
(口が割れてかけているものの、何とか水が溜りそうなので、船に積んで取って帰る事にした小さな水瓶です。私が梱包し、埼玉の工藤さんに手伝ってもらいました。
(海岸で集めたニナをにわか釜戸で茹でました。柳町さんもボーイスカウトの出で立ちで加勢しました)
(タコも上手に茹で上がりました。早速タコのぶつ切りパーティです)
(タコもビールも会話も飛びきり美味いです)
探検が終わると私たちは海岸に出て石をはぐってニナを取りました。10人なのであっという間に手鍋にいっぱい取りました。潮池に戻って石でにわか釜戸を造り、手鍋で茹でました。中々の味です。ついで私たちを送迎してくれた船の船長さんがくれたタコを一匹ずつ茹で、豊田さんが包丁で調理して野趣豊かなタコのぶつ切りを賞味しました。埼玉の連中もこれには大喜びで、塩水で冷したビールを飲みながら楽しい昼食弁当を食べました。炎天下でしかも今年一番と思われる暑さの中でのパーティでしたが、大満足です。
(潮池の向こうには緑色片岩の大きな石山があり、そこからは四国のぢ方や、双海町がよく見えます。大野さんの案内で小林さんと二人が散策しました)
(ゴロ石の浜で全員が記念写真を撮りました)
(へっぴり腰の無人島常連峯尾さんと小林さん)
やがて迎えの船が来る約束の13時30分になったので荷物をまとめ干潮時の乗り場となる砂浜へ移動し記念写真を撮りました。迎えの船は約束の時間きっかりに姿を見せ、慣れた手つきで錨を打って小船を下し、私たちは次々に乗船しましたが、船足の軽いプラスチックの小船ゆえ、柳町さんが思わず海面に尻餅をつくハプニングもあって思い出多い無人島に彩りを添えてくれました。やがて渡し舟は全員を乗せ思い出多いつかの間の無人島由利島を全速力で走り後にしました。
約1時間弱で三津浜に到着しましたが、岸壁には河野さんも出迎えに来てくれていました。河野さんはこの春リタイアし、桟橋の目と鼻の先の渡し船の船長として第二の人生を始めています。その後みんなで由緒ある道後温泉本館の湯船に浸かって疲れを癒しました。この温泉は私たち地元の人でも中々体験できない珍しいお風呂で、通された2階の風呂や休憩所はお茶やお菓子のサービスもあって中々のものでした。
(道後温泉本館風景、間もなく10年間の大改修が行われるため全てが工事用のベールに包まれるそうです。間に合ってよかったです)
(坊ちゃん列車に乗って町を散策しました。丁度土曜夜市の初日とあって沢山のお客が大街道通りに集まっていました)
小料理屋千昌の2階で開かれた交流会には無人島キャンプで知り合ったフロンティアグループの仲間11人が加わり、賑やかな小宴が持たれました。哲ちゃんの頭が示すとおり、北本市と交流が始まった平成2年からだともう17年も経って、仲間の体調や職業にも大きな変化が見られています。次の出会いは確約できないものの、久しぶりに旧交を温めたことで、新たな活力が湧いてきたような感じがしました。
同じ目標に向かって楽しくボランティア活動に熱中した時代が懐かしく感じられる分私たちも歳を取ったのでしょうが、やはりあの頃のパワーの源を考えれば、メンバー個々が新たな目標を持って進化しなければならないと、私はみんなに開会のあいさつで訴えました。
私は仕事の都合で最終日は止む無くご一緒できませんでしたが、大野さんと藤本さんの案内で午前中松山市内を見学して帰郷、今日の午後8時過ぎ、松本さんから「北本へ無事着いた」旨の電話をいただきました。
またお会いしましょう。「グッバイ、シーユーアゲイン」
「若き頃 ふとした縁で 無人島 夏は毎年 子どもと一緒に」
「おいお前 薄くなったな 笑う顔 お前の頭も 五十歩百歩」
「無事着いた いまだに届く 締め電話 これでホッとの 仕事終りぬ」
「また少し パワーを加え 元気だし 老いの坂道 ブレーキかけつつ」