○空になった盆栽鉢
日本人はよくよく花の好きな国民だと思います。どの家の玄関や庭を見ても植木鉢やプランターの一つや二つはお目かかるものです。ところが花の好きな国民性でありながらせっかく買った花を手入れもせずに枯らす国民も少ないのではないかと思われます。買った時が最高で後は枯れるのを待つのみといった花や緑の使い捨てはもう少し考え直す必要があります。命ある物は必ず滅びることは当然のこと、しかもそんな社会だから花産業が伸びるのでしょが、もう少し花や緑に対する考えを変えた方がよいように思うのは、そんな苦い経験を持っている私だから言えることのかも知れません。
私は若い頃盆栽に興味を持っていました。趣味の世界というのは恐ろしいもので、職場には盆栽仲間も沢山いて休みなどには連れ立って山取りのために時間をかけて山野を歩きました。いい盆栽と交換したりあの花が咲いた、あの木は今が植え替えの適期などと話題も盆栽のことが殆どでした。忙しい合間を縫って盆栽店を訪ねたり盆栽手入れの七つ道後も手に入れ水や肥料をやって丹精を込めて世話をしたものです。
いつの頃からでしょうか、多分私のまちづくり熱の曲線と符合するように忙しさのピーク時には盆栽熱が急速に冷めて行きました。一つ減り二つ減り、三つ枯れなんてことが毎年繰り返され、ついには私の盆栽棚から完全に盆栽が消えてしまったのです。「忙しかったから」という言い訳はしたくありませんが、悩殺されるようなまちづくり熱が盆栽熱をやっつけたお陰で夕日やシーサイド公園も完成したのですから満足です。でも何処かにこの失敗を取り戻したいという思いもあるようです。
庭の隅にうず高く積まれている盆栽鉢の数々を見るにつけ心が痛みます。今だったら枯らしてはいない盆栽の数々が頭の中に浮かんでは消えます。あれ以来罪の呵責に駆られてか盆栽屋の店には立ち入らない私自身の生き方も、もうそろそろ解放してやりたいような心境です。その点親父は偉いと思います。そんなに数は持ち合わせていませんが、名品ではないものの町の集会には必ず借りに来る盆栽の鉢植えを枯らすことなく手入れして見事な姿を保っているのです。多分あの盆栽や庭木は私に受け継がれることでしょうが少しの不安はこうした忌まわしい過去があるからかも知れません。
妻も花が大好きです。あちらこちらから沢山の花の苗を貰って来ますが、相変わらず忙しいのか枯らしてしまうようです。私が手助けすればよいのでしょうがそれも適わず日々の暮らしに明け暮れています。
「盆栽の 鉢だけ残る 庭の隅 かつて育てた ケヤキや松は」
「上桜 下は草花 桜草 プランターにも 小さな春が」
「あれ程に 熱中したのに 今は冷め そんなことって 一つや二つ」
「盆栽の 入門書まで 買って読み 夢中熱中 病の如く」