shin-1さんの日記

○パズル遊び

 「おじいちゃん、パズル遊びをしよう」とひさしぶるに訪ねてきた孫にせがまれてパズル遊びをしま下。残念ながら私はこんな神経が衰弱するような遊びは大の苦手です。孫の遊び道具の一つにパズルがあります。まだ3歳なのでそんなに多くの枚数での遊びではありませんが、それでも3歳の孫は褒めてもらいたくてどんどん早く完成させて、私がやろうものなら「おじいちゃんそのパズルはこっち、それはあっち」と全部覚えていて私に指図をするのです。パズル遊びにおいて私は完全に3歳以下のランクなのです。

 先日関西汽船の浜田さんが来宅の折、関西汽船のフェリー客船のパズルを手土産に持ってきていたのを孫が見つけ、それをしようというのです。私にとっても孫にとってもこんなにピースのおおいパズルは初めてなので渋りましたが、結局孫の根に負けて応接室を片付け、板間に座ってで組み合わせる事にしました。

 この作業は気の遠くなるような作業です。孫に指示して同じような絵柄とおぼしきピースを何組かにより集めるのですが、孫もチンプンカンプンで、20分もすると「おじいちゃんもう疲れたから片付けよう」というのです。幼稚園や家庭での片付け癖がついているのでしょうが、私はそのままにするよう孫と妻に頼んで、今晩夕食でも終わったしようかと思っているところです。

 夕食が終わりました。現代の若者ならこんな作業は簡単にするのでしょうが、私たち頭の固くなった大人にこの作業は難解です。ああでもない、こうでもないと思いを廻らせるのですが一向にはかどりません。でも今まで使っていなかった脳を刺激するのか相当な疲れです。ということはボケ防止の特効薬になるかも知れないということです。妻にそのことを話すと「パズルぐらいでボケが直りますか」と軽くいなされました。そうかもしれませんが、少しだけ挑戦してみようと思って今晩は応接室に篭り、休憩の度にブログに書いているという始末です。

 最近脳の活性化に関する本が沢山出版されています。果たしてそんな本を読んで脳が活性化するかどうかは疑問です。でも使っていない脳を刺激することの意味は十分にあるはずですから、パズルの組み合わせに進んで挑戦したいものです

 わが家には、子どもが中学生の頃に作ったパズルの絵が4~5枚あって居間の壁に飾っています。今までそのパズル絵をまざまざと見たことは殆どありませんでした。孫とパズルをしながら、よくもあんな絵をよう組み合わせて作ったものだと感心しています。私の未完のパズル絵が完成しうるのはいつの頃でしょうか。孫との合作だけに今度孫が来る頃までには完成をさせ、孫を喜ばせてやりたいと、早くもおじいちゃん気取りではまっています。

  「パズルする 孫に指摘の 一枚を 入れて出来たと 孫に褒められ」

  「気が遠く なるよなパズル 組み合わせ 大脳刺激 ボケのリハビリ」

  「孫と俺 合作パズル 挑戦中 何時の事にか 出来る目安は」

  「刺激ない 日々の暮らしに 孫刺激 与えてバイバイ また会う日まで」

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shin-1さんの日記

○生前に用意された挨拶状の自筆原稿

 昨日人間牧場へ来られた女性からいただいたコピーをデジカメで撮りましたが、余りにも字が小さいので文章を紹介します。

  このたび私  年  月  日

     にてこの世をおさらばすることになりました。

  これは生前に書き置くものです。

  私の意思で、葬儀、お別れ会は何もいたしません。

  この家も当分の間、無人となりますゆえ、

  弔慰の品はお花を含め、一切お送り下さいませんように。

  返送の無礼を重ねるだけと存じますので。

  「あの人も逝ったか」と一瞬、たったの一瞬

  思い出して下さればそれで十分でございます

  あなたさまから頂いた長年にわたるあたたかな

  おつきあいは、見えざる宝石のように、私の胸に

  しまわれ、光芒を放ち、私の人生をどれほど豊に

  して下さいましたことか・・・・・。

  深い感謝を捧げつつ、お別れの言葉に代えさせて

  いただきます。

  ありがとうございました。

             年  月  日

 この文章を読んで、こんな人生の終わり方もあるのだなあと思うと同時に、こんな死に方が出来たらと多少憧れました。人間にとって死期を予測することは自らが自らの命を絶たない限りは不可能です。たとえ病気で予測できても死ぬ前には余程心の鍛錬が出来ている人でないと命が惜しくて、死への恐怖に苛まれるようです。終戦間際に特攻隊として出撃した若者が母親に出した手紙を何度か読んだことがありますが、まさにその心境と似ている文章のような気がしました。死を準備する、そして死後の葬式や香典、また死んだ後の自分に対する相手の思いなど、死を直前に控えた人間が考えられるのでしょうか。私には到底真似の出来ることではありません。この方は本当に死んだそうですからこの文章がいっそう重みを持っています。

 死が偶像化された話はよく小説では読みます。そんな記事を書いた小説家の中には川端康成や三島由紀夫のように自らが命を絶った人がいます。故にその生き方に共鳴したり、たとえ共鳴しなくても人生に行き詰って死を選ぶ人が日本では年間3万件にも上るといい大きな社会問題となっています。死んだことがないので分りませんが、死ぬことは勇気のいることです。しかしもっと勇気のいることは生きることなのです。人は苦労もなく生きてると思ったり人の荷物が軽く見えるのは、自分の努力の足りなさです。死んでいい人生なんてあり得ません。生きることの素晴らしさを見つけたいものです。

  「この詩読み 同じ考え するのでは 一瞬思い 相手の顔見る」

  「指折りて 命を絶ちし 人思う 生きてりゃ花も 咲いてるものを」

  「死ぬなんて まだまだ遠い 先のこと 俺がいなけりゃ この世は闇だ」

  「死ぬことは 死んだ後に 考えよ 生きてるうちは 生きる算段」 




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shin-1さんの日記

○黒い鉛筆と丸い鉛筆

 私の机にはお洒落な焼き物の鉛筆立てがあり、そこには日ごろ使い慣れた鉛筆やボールペンが無造作に入れられています。直ぐに対応できるようにとハサミと天眼鏡もありますが、今朝インターネットで送られてきた原稿ゲラの校正をしようと思って赤鉛筆を手に取りました。その後シャープペンシルで書き直そうと思ってノックしたらあいにくの芯切れ、削った鉛筆を手に取りました。今その作業が終わって赤と黒の鉛筆が机の上の校正済みゲラの上に無造作に置かれています。ふたお「何で赤鉛筆は丸い形で黒鉛筆は六角形なんじゃろうか」と考えました。

 昔聞いた話なので定かではありませんが黒い鉛筆の形が六角形なのは、力学的にいちばん握りやすい形であるからだというのです。なるほどと手を開け六角形の鉛筆を親指、人差し指、中指の三本で持ってみると六角形の鉛筆がしっくり手に馴染むのが分るのです。じゃあ赤鉛筆も六角形にすればいいのにと思うのは私だけではないと思うのは当然のことでしょう。

 色鉛筆の丸い理由はどうやら鉛筆の芯のせいなのです。黒い鉛筆と断面を比較してみると色鉛筆の芯は黒鉛筆の芯に比べて太い。柔らかくて折れやすいから太くしているので、周囲を同じ厚さの木で支える事によって芯にかかる力を均等にして折れにくくしているのです。また私たちが黒い鉛筆を使う時は、ずっと同じ持ち方で文字や数字を書きますが、色鉛筆は絵やデザインを書く時に使うので、倒して色を塗ったり軽く握ったりと様々な持ち方で一定ではありません。現在は芯を作る技術が進んで色鉛筆の芯も折れにくくなっているのでしょうか、先日デパートへ行きましたが六角形の色鉛筆も売っているようです。でも何故か私たち消費者は長年の「色鉛筆は丸型」のイメージが強いのか、圧倒的に丸い色鉛筆が売れているようです。

 孫のわが家へ置いている色鉛筆のケースを見ましたが、この色鉛筆は全て買った時から削られていました。黒い鉛筆は削っていないのに何故だろうとまた疑問が生じました。聞いてみると、色鉛筆はたくさんの色を一遍に使うので削るのは面倒だろうとメーカーさんがあらかじめサービスで削っているとのことでした。黒い鉛筆も削っておけばいいのにと思ったりもしましたが、まあ削っても一本だから削るのもやぶさかではありません。

 それにしても孫の色鉛筆ケースの色鉛筆を見てみると、やはり特別な色だけが短くなっています。赤橙黄緑青藍紫です。人間は七色の色調が好きだとか、そういえば色の三原色や七色などとよく言われ、暮らしの中にもそういった色調が溢れています。最近はファジーなどという訳の分らぬあいまいな色も好まれるようです。

  「鉛筆は何故に六角 丸いのか 疑問調べる それには訳が」

  「近頃は 暮らしに鉛筆 ありませぬ ボールペンシル 以外使わぬ」

  「文字さえも 書かず一日 日が暮れる 忘れるはずだよ 俺の頭は」

  「日記帳 ブログに変わり 早いもの 八ヶ月過ぎ 今では欠かせぬ」 

 

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