shin-1さんの日記

○ヨモギは雑草か

 先日菜の花は雑草と書いたら賛否両論の意見が帰って来ました。菜の花を愛でる人たちは菜の花を花だと言います。一方お百姓さんは私の意見に同調して菜の花は雑草だとメールを送ってくれました。さてヨモギは雑草でしょうか。畑で農作物を作る人にとってみればヨモギは雑草でしょう。あのミミズのような地下茎は始末に悪く、取っても取ってもネダを枯らすことはありませんし、草刈機で刈ってもまた元気な茎が伸びてくるのです。コンクリートの道路でよく見かける光景ですがコンクリートの継ぎ目の土分もない僅かの隙間からヨモギが芽を出して生きています。また田舎のアスファルトの路肩ではアスファルトを突き破って生えています。このようにヨモギの生命力は実に旺盛なのです。最近の農家は省力化するために草枯らし、いわゆる除草剤をかけます。この除草剤は不思議なことに草は枯れるのですが、何故か作物は枯れません。でもベトナム戦争のあった頃米軍が度重なるゲリラの攻撃を減らそうと枯葉剤をま撒き、これが環境汚染や新生児の発達に大きな影響を与えたことが報告され、大きな社会問題となりました。確かに序す剤を撒いても私たち大人には何の影響もないかのように思われていますが、植物の根まで枯らすいわば毒物が人間にいいはずはありません。たぶん安易に撒いている除草剤は地下に蓄えられ汚染水として循環しながら私たちの暮らしにじわり影響を与えるであろうというのが大方の予想なのです。

 ヨモギは雑草であると同時に薬草としてもよく利用されています。あのもぐさはヨモギが原料だし、ヨモギの乾燥したものは薬用入浴剤とし、あせもや湿疹に効くそうです。そして私たちの暮らしに最も身近なものは草もちの草がヨモギなのです。今日人間牧場へ上がりましたが昨日までの雨水をいっぱい吸ったヨモギが伸び伸びと伸びていました。早速ヨモギをつんで草もちにしたいと秘策を練りました

 もう一つは最近流行のアウトドア天ぷらです。人間牧場の来訪者によもぎや食べれる食材を探してそれで天ぷらをして食べれば美味しい食事が出来上がるのです。幸い人間牧場は除草剤は絶対まかない環境に優しいエリアですから安全な自然食が味わえるのです。気象予報士の清水さんとその話をしたら、清水さんも同じ意見なので、ヨモギを見直す運動を起したい、はいよもぎは雑草ではなく薬草や食草なのだということを認識し、自然とともに生きてゆきましょう。

 ああそうそう忘れていました。茅とヨモギをくくって屋根の上に乗せる魔除けの風習も子どもの頃にありました。何のためだか聞きませんでした。

  「ヨモギとて 雑草処理は 可愛そう 天ぷら草もち 使い道あり」

  「切り傷に ヨモギこすって 止血した 子どもの知恵も まんざらでなし」

  「ヨモギ茅 束ねて屋根に 乗せたっけ 口でまじない もぐもぐ祖母が」

  「足の裏 ツボを探して 灸すえる ヨモギ原料 妻が毎日」

 

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○会議での意見

 私は現役を引退しているので現役の時代に比べたら月とスッポンの差とも思えるほどに会議は大幅に減りました。今でも不思議に思うのは何で役所はああまで無駄な会議をしなければならないのでしょう。現役晩年はうんざりしつつも、「何故・どうして」と会議をまとめたり廃止したりしましたが、それでも無駄な会議はなくなりませんでした。多分その殆どが対処法だったからです。例えば子どもの事件が起きます。すると上に立つ人は自分の身に降りかかる前に通達を出します。この通達を受けた組織は点検と問題点を洗い出し責任の所在を明確にしながら確認作業を末端組織に指示すべくまた小さな集会を限りなく開くのです。たった一人の責任を回避するため末端では相当の時間と労力をとられ、結果的にその集会だけが来年も引き継がれて行くのです。

 会議とはお互いがお互いの意見を述べ合いながら一致点を見出してゆくのが正しい姿なのですが、中には強烈に自分の意見を述べる人と終始無口を決め込む人の両極端がいて、右往左往します。最後は数の理論が民主主義ですから、大きな声に傾いて一件落着なのです。

 昨日は私が代表を務める会議に出席をしました。最近はFAXやメールの普及によって事前の会議開催通知も全てメールかFAXです。そして議案に対し意見を言い合いますから、議論が広く深まります。しかし欠点もあります。メールやFAXに参加していない人との落差が大きく、その人たちは蚊帳の外に置かれてしまうし、理念やコンセプトに主眼が置かれ過ぎるきらいもあります。

 昨日の集会は20周年を迎えた組織の20周年記念事業の進め方について議論しました。端的に言えば「20年の総括とあるべき姿」の模索なのでしょうが、議論をすればするほど深みに入ってゆくようでした。でもこの議論が実は大切な根っこの部分なので、口角泡を飛ばして議論しました。多分いい結果が出ることでしょう。会議での意見は要約され直ぐにメールで配信されます。事務局の役割もしっかりしているので安心です。

 さて、昨日の会議で意見を言う人は大きく分けて二つのタイプがあるように見受けられました。反応的に話すタイプと主体的に話すタイプです。反応的に話すタイプは状況によって起きた感情に基づき反応して話します。主体的に話すタイプはどういう状況においても自分の価値観に基づき話します。反応的な話には「行わなければならない」「どうそようもない」「○○さえしてくれたら」「彼らは頭にくる」などと否定的な言葉がやたらと出てきます。一方主体的な話には「行くことにした」「代替案を考えよう」「私は○○できる」「自分の感情はコントロールできる」などと肯定的、進歩的な言葉が出てきます。結局は反応的な人は意見が関心の輪に集中し影響の輪が小さくなりますが、主体的な人は意識が影響の輪に集中し、影響の輪が大きくなるのです。

 要は人間は関心の輪(自分で関心があるもの全て・自分でコントロールできないもの)と影響の輪(自分が影響を及ぼすことができるもの・自分でコントロールできるもの)という二つの輪を持っていますが、ストレートに反応するのではなく、自覚(自分を見つめる自分)、想像力(新しい姿を思い描く力)、良心(善と悪の区別のわきまえ)、自由意志(自分の考えで行動できる)という四つの特性を持って反応に反映させる人間を目指さなければならないのです。

 少し難しい持論を展開してしまいましたが、悪しからず。

  「色々な 意見を聞いて 思うこと 主体的なる 意見で生きよう」

  「変えちゃ駄目 だのに変わって 元もなく そんなことって 以外と多い」

  「横文字を 使えば何か 利口そう 俺など日本語 さえも使えぬ」

  「結局は 何が言いたい 言った人 自分さえにも 分らず終い」

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○アウトサイドインかインサイドアウトか

 自分という人間を評価するには、自分が評価する場合と人が評価する場合がありますが、自分と人の評価は必ずしも一致せず、時には大幅なズレだって生じることがあります。自分では正しいと思って行動しても人はそうは思っていなかった、なんて経験は誰にでもあるはずです。人の声に耳を傾け絶えず自分の存在を意識しながら正しい方向に導くことは、自分の人生を充実したものにするためにやらねばならない作業なのです。中には人の意見などまったく無視し、それを自分の信念だと思い込み自我を通そうとする人もかなりおり、人の世の難しさをしみじみ感じるのです。

 自分が自分の欠点に気付きその欠点を変えようとする場合に最初にやることはアウトサイドインという手法です。私の場合人の前で話をすることがまったく苦手で赤面症かと思われるくらい人の前に出ると上がってしまい思っていることの半分も言えない時代がありました。今の自分を知っている人は「えーっ、うそー」と思うくらい本当の話なのです。一度大失敗をしました。私が23歳の時双海町青年団長候補に推薦され、他の3人と演説で争うことになりました。私は原稿用紙を3枚も書いてウンコ部屋で丸暗記したのです。これなら大丈夫と臨んだ演説会でその原稿の全てを忘れてしまい、頭が真っ白になって何もいえなかったのです。でも結果は応援弁士の巧みな話術によって85パーセントの得票を得て私は青年団長に選ばれました。その時はまだアウトサイドインにその救いの手を求めて、話の上手い人の話を聞いたり、上手く話せる本を読んだりしました。でも自分の欠点に気付いて焦れば焦るほどアウトサイドインでは上手く喋れなかったのです。

 その年、青年学級で「ラブレターの書き方」なる講習を受けました。先生が「どんな美辞麗句を並べても相手のハートは動かない。普段着の気持ちを書こう」というのです。その学びが4回ありましたが、青年学級生は先生の勧められるままに第14回「NHK青年の主張」に80人全員が応募をしました。ところが何故か私の原稿だけが審査に通り、私はNHK松山放送局のオーディションに望んだのです。多分駄目だろうからと五本の指にマジックで自分の主張の粗方を書いて望み、原稿は団長選挙の時と同じようにどうせ忘れるだろうからと持参しませんでした。じつはこれが私のアウトサイドインからインサイドアウトになった瞬間だったのです。

 結果はNHK青年の主張の愛媛県代表に選ばれ、それ以来人の前に立っても余り上がらなくなって話が出来るようになったのです。原稿を書いて覚えこむと、その原稿を忘れまいという考えばかしが先走り、肝心な話がどうしても疎かになります。ですから私は今でもそのことがきっかけで、どんな2時間の講演であろうと原稿など一切持たずに話ができるようになりました。

 アウトサイドインは外側から変えようとする方法ですが、外側から個人を強制的に変革させようとしても帰って反発を招きます。人や組織を指導する場合この手法では決していい成果は生まれません。むしろ内からの変革というインサイドアウトは不可能に近いのです。私はこれまで社会教育やまちづくり、それにボランティア活動でこの手法を使って組織を活性化してきました。勿論家庭の子育てだってこの手法しか方法はないのです。インサイドアウトは個人からの変革、心の変革なのです。

  「外よりも 自分の内に 力あり やれば出来るは 魔法の言葉」

  「話せない 私は欠点 克服し 今はどうにか 内気口下手」

  「あれ程に いつもムダ口 何故か人前 急に上がって」

  「俺にでも 出来るか聞いて 話し出す 少し自信が そうだその意気」 

 

[ この記事をシェアする ]