shin-1さんの日記

○自慢は知恵の行き止まり

 人間は自分の人生のプロセスにおいて、様々な生き方をします。その中には失敗も多いものの成功した話は自慢話として、人に話し認めてもらいたいものなのです。釣りに行ってでっかい魚を釣りあげたり、競輪で大穴を当てたり、時にはいい女性をナンパしたりした話は一夜一日の他愛ない話として、酒の肴にしながらお互いがお互いを褒めたりこけ降ろしたりして飲むのも楽しいものなのです。

 しかし、自慢の殆どは人の目には見えないものが多く、いくら自分が自慢のできる話だと思っても、人の尺度で推し量るとそれほどでもない話が沢山あって、「あいつはまた他愛のない自慢話をしよる」とかえって敬遠されてしまうのです。昔は村の家々には目には見えない格式というようなものがあって、貧乏人は貧乏人なりにつつましやかでした。しかし山持ちなどは財産があることを鼻にかけて暮らしていました。「私の先祖は○○家の末裔で」なんて話になると、途方もない昔のことなので信じ難く「、家にはそれを示す家系図や刀がある」などとなると鼻もちならなくなるのです。だって豊臣秀吉さんも元はといえば百姓の子せがれだったし、総理大臣になった田中角栄さんも学歴などなく、阿部さん、福田さん、麻生さんなんて総理大臣も親父が偉かっただけの話で、漢字さえもまともに読めないのですから、私たち庶民となんら変わらずちょぼちょぼなのです。

 私たちが子どもの頃は戦後間もないこともあって、戦争の武勇伝はあちらこちらで聞かされました。10人もの敵を相手に戦った話や、満州での凱旋はまるで自分一人の手柄話のようで、ヒーロー気取りのおじさんの話に手に汗握って聞き入ったものです。その人たちも既に歳老いて戦後は遠くなりにけりですっかり影をひそめてしまいました。人間の話を大別すると過去を語る人、今を語る人、未来を語る人に大別されますが、過去を語る人の多くは、「自慢は知恵の行き止まり」と感じるような人が多いようです。

 はてさて、ふと気がつくと私自身も人の前で堂々と自慢話をしていることに気が付きハッとしました。私は23歳の時自分の人生を85歳と決め26歳で結婚したい、子どもは女・男・男・男と4人欲しい、30歳になったらアメリカへ行きたいなどと、見果てぬ夢を紙に書いていました。ところが64歳になった今、自分の人生を振り返ったとき、ことごとく自分の思い描いた夢の殆どが成就しているのです。「えー、ウソ、本当?」などと疑問符が付きそうですが、まさに他愛のない自慢話なのです。そもそもこの話を思いついたのは日々の暮らしに何の疑問も持たずただ漠然と生きている若者を見て、「俺だって夢を持って生きたらこんなに楽しい宝ものを勝ち得たのだから君たちも」となったのです。

 まさにこれは私の自慢話です。じゃあ自慢話をすれば知恵は行き止まりかと尋ねられたら、私は新しい知恵を生み出し、また生み出そうと行動しているのです。まさに過去の話に今の話をプラスし、未来の話へと誘導しているのです。今と未来をどう生きるかという話をセットにしないと私の話はただの自慢話に終わってしまうのです。

 確かに知恵は思考と行動があってこそ成り立つのです。いい知識イコールいい知恵ではありません。潜在している知識をしっかりと使って顕在化した知恵に変えたいと今も願って生きています。自慢話のひとつも話せないようでは困ります。さりとて自慢話にうつつを抜かしていると人に足元をすくわれます。自慢話から新しいヒントを得て生きてゆきたいものです。


  「気がついた 自慢は知恵の 行き止まり これから先は 何を語るか」

  「気がつけば 人は自慢を して生きる 鼻をへし折る 手立てはないか」

  「先祖はなー それがどしたん 口はさむ 二の句が継げつず 早々退散」

  「浅はかな 人ほど自慢 したがって 自分を偉く 見せたがるもの」 

  

 

 

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