shin-1さんの日記

○ペンキ塗りたて

 昔都会の公園のベンチに「ペンキ塗りたて」という張り紙がされているのを見落として、ズボンとシャツを駄目にした「周りが見えない田舎者の私」なので、ペンキといえばその時の悪い印象が思い出されてます。また家業の漁師をしていた若い頃、私の持ち船の船倉の中でペンキを塗っていてシンナーに酔ってふらふらになった経験もあります。美しいはずのペンキも私にとっては嫌な思い出が付きまとっていますが、人間牧場の仕上げはどうしても防腐剤やペンキが必要なので仕方なく、次男と孫を連れて人間牧場のペンキ作業をしました。専門家に外注すればいいのですが、資金が底をつきかけたこともあって水平線の家の外壁に塗った余りの防腐剤を塗りました。この作業は二度塗りなので今日は下地塗りです。午後からは雨という天気予報なので、長いはしごをかけて私が上、次男が下を分担して塗りました。下塗りのペンキは温度の上がったためか伸びもよく2時間足らずで終わりました。

 孫はペンキ塗りの手伝いをすると張り切っていましたが、結局2時間の間周辺で花を摘んだり石ころを投げたりして遊び、飽きるとおじいちゃん、一生ちゃんと交互に呼んで、やれオシッコだのやれ喉が渇いただのと10分置きに梯子の上の私たち二人を目掛けて自分の存在を知らせていました。それでも一人でよく遊んでくれたお陰で仕事がはかどり、12時の音楽サイレンを合図に妻の作ってくれた巻き寿司弁当を広げて早速お花見兼用の昼食です。あいにく箸を忘れていたのでにわく作りの金の火箸(囲炉裏用なのでまだ未使用)でつまんでは食べました。山は長閑な春霞でしたが下山する2時過ぎにはポツポツと早くも雨が降り出しました。やっと満開宣言の桜の花もこの雨で心配です。帰りには孫と朝約束した潮風ふれあい公園の展示遊具消防自動車まで行き、少し遊んで帰って来ました。

 保育園だとこの時間はお昼寝の時間だと思って寝かそうとするのですが、孫は寝ると遊ぶ時間が少なくなると思うのか、ぐずって」寝るのは嫌だと言い張るのです。大好きな本を読みながら寝かせると私も熟睡、気がつけば何と1時間も孫と昼寝をしてしまいました。お昼寝なんて久しぶりでお陰さまで夕べは少し目がさえて寝れませんでした。でも長い昼寝は体がだるく感じますが約1時間の短い昼寝は気持ちがいいもので頭の中の霧が晴れたようですっきりしました。

 本当は今日にでも上塗り用の防腐剤を塗りたかったのですがあいにくの雨でペンキ塗り作業が2日間遅れてしまいました。でも慌てる作業でもないので天気を見計らい、近々出掛けて塗りたいと思っています。

 それにしても孫のおもりがこんなに疲れるものとは知りませんでした。妻曰く「自分の子どもの面倒を見なかったのだからそれぐらいはしないと」だそうです。娘曰く「孫のおもりをさせてもらうくらい有難いことはない。私の面倒を見なかったのだから当然」だそうです。二つともごもっともなお話です。あーまだ孫のもりは3日か、あとひい、風、みい、よー、厳しいなあ。

  「孫のもり 二言目には じいちゃんと 呼ばれうれしや それでも疲れ」

  「満開の 桜を愛でる 孫と爺 綺麗の基準 違っていても」

  「ペンキ塗る 五右衛門風呂の 外壁に まるで啄木鳥 孫が笑って」

  「二月末 植えたジャガイモ 芽はまだか かすかに土の 盛り上がりつつ」

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○海面に浮かんでいるのは一体何?

 春が来たこの頃になると決まったように双海町の海面には何やら黒ずんだ姿が見受けられます。これを見て「双海町の海は汚い」と言った人がいますがこれは素人の浅はかな考えです。この黒ずんだ海面の下にはホンダワラという海草がぎっしりと生えているのです。山に木や草が生えているように海の底も海草で覆われているのが普通なのですが、最近は海岸線の乱開発によって海岸線が人々の暮らしから段々遠のく傾向にあります。下灘という漁村で生まれ育った私が子どもの頃は家の直ぐ前が海で手の届くところにありました。台風や大しけの時はこわかったのですが、夏になると浜辺は格好の遊び場でした。その後埋め立てて道が出来、漁港が出来て人々の暮らしは快適になりましたが、海はだんだん離れてゆきました。と同時に冬になると砂浜に打ちあがっていた波はコンクリートの波返しに跳ね返されて、海岸近くに生えていた海草は三角波の力でことごとく切れ、磯焼けという現象、つまり海底が禿山のようになってしまったのです。磯焼けになると海草の中を住処にしていた魚が住めなくなり、魚が卵を産んだり孵したりすることが出来なくばかりか、海草が汚い水を綺麗にする浄化作用までもできなくなって、海は汚れていくという悪循環が長い間のうちに海を駄目にしてきたのです。最近魚が獲れないと漁民が嘆いていますが、魚を獲り過ぎたり海を汚したりしたことも原因ですが、藻場に海草が生えないことも大きな原因のひとつと考えられています。

 最近高知県のある海沿いに面した町の人が双海町へ視察にやってきて、この海の様子を見て羨ましいと言って帰りました。高知県では磯焼け現象がひどいと嘆いていました。

 春から夏に移り変わる頃になるとこの海草は新しい海草に生え変わる準備のため、古い海草が自然に切れて海を漂い始めます。その一部はシーサイド公園などの海岸に流れ着き、処分に頭を痛めていますが、これも自然現象だと捉えなければなりません。流れた海草にはハマチやシイラといった回遊魚の卵が産み付けられるのですから無駄なことは一つもないのです。

 つい最近自然塩が注目を集めています。昔は流下式という製法で塩を作っていましたが、膨大な場所と重労働が必要なことからその方法で塩を作ることは姿を消し、イオン交換樹脂膜法による科学的な塩の製法に変わりましたが、実はこの海草の一種であるホンダワラに塩水をかけたものを煮詰めた藻塩という自然製法塩が、飛び切り上等の塩として売られているのです。今は呉市に合併した下蒲刈町で商品化されたこの塩は売り出したところ大きな反響を呼びました。わたしもこの町と深い関係があって度々訪れましたが、藻塩で食べる刺身や天ぷらは食材の味を一層引き立たせてくれたことを覚えています。

 双海町では漁協女性部の人たちが中心になってこの海を守る運動を長年行っています。山に木を植えたり、EM菌で下水処理お行っています。そうした取り組みが実って双海町の海岸は成り立っているのです。

  「海の底 山と同じで 藻が生えて 海底森林 酸素吐き出す」

  「一人から 始める環境 問題も 地球規模なる 大きな力に」

  「ホンダワラ 流れ着いたら ただのゴミ 活かして使えば 特産藻塩に」

  「この海を 守る人たち ひたむきに 木を植えEM ありとあらゆる」  

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○空になった盆栽鉢

 日本人はよくよく花の好きな国民だと思います。どの家の玄関や庭を見ても植木鉢やプランターの一つや二つはお目かかるものです。ところが花の好きな国民性でありながらせっかく買った花を手入れもせずに枯らす国民も少ないのではないかと思われます。買った時が最高で後は枯れるのを待つのみといった花や緑の使い捨てはもう少し考え直す必要があります。命ある物は必ず滅びることは当然のこと、しかもそんな社会だから花産業が伸びるのでしょが、もう少し花や緑に対する考えを変えた方がよいように思うのは、そんな苦い経験を持っている私だから言えることのかも知れません。

 私は若い頃盆栽に興味を持っていました。趣味の世界というのは恐ろしいもので、職場には盆栽仲間も沢山いて休みなどには連れ立って山取りのために時間をかけて山野を歩きました。いい盆栽と交換したりあの花が咲いた、あの木は今が植え替えの適期などと話題も盆栽のことが殆どでした。忙しい合間を縫って盆栽店を訪ねたり盆栽手入れの七つ道後も手に入れ水や肥料をやって丹精を込めて世話をしたものです。

 いつの頃からでしょうか、多分私のまちづくり熱の曲線と符合するように忙しさのピーク時には盆栽熱が急速に冷めて行きました。一つ減り二つ減り、三つ枯れなんてことが毎年繰り返され、ついには私の盆栽棚から完全に盆栽が消えてしまったのです。「忙しかったから」という言い訳はしたくありませんが、悩殺されるようなまちづくり熱が盆栽熱をやっつけたお陰で夕日やシーサイド公園も完成したのですから満足です。でも何処かにこの失敗を取り戻したいという思いもあるようです。

 庭の隅にうず高く積まれている盆栽鉢の数々を見るにつけ心が痛みます。今だったら枯らしてはいない盆栽の数々が頭の中に浮かんでは消えます。あれ以来罪の呵責に駆られてか盆栽屋の店には立ち入らない私自身の生き方も、もうそろそろ解放してやりたいような心境です。その点親父は偉いと思います。そんなに数は持ち合わせていませんが、名品ではないものの町の集会には必ず借りに来る盆栽の鉢植えを枯らすことなく手入れして見事な姿を保っているのです。多分あの盆栽や庭木は私に受け継がれることでしょうが少しの不安はこうした忌まわしい過去があるからかも知れません。

 妻も花が大好きです。あちらこちらから沢山の花の苗を貰って来ますが、相変わらず忙しいのか枯らしてしまうようです。私が手助けすればよいのでしょうがそれも適わず日々の暮らしに明け暮れています。

  「盆栽の 鉢だけ残る 庭の隅 かつて育てた ケヤキや松は」

  「上桜 下は草花 桜草 プランターにも 小さな春が」

  「あれ程に 熱中したのに 今は冷め そんなことって 一つや二つ」

  「盆栽の 入門書まで 買って読み 夢中熱中 病の如く」

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○FAXと電話が新しくなりました

 これまでは勤務先に入ってきた電話やFAXや電話も、勤務を辞めた関係で自宅へ入って来るようになり、FAXのロール紙が間に合わないくらいの量で通信されることもあって対応できにくく、少し最新モードのFAX兼用電話に変えました。というのもコードレス子機の調子が悪く度々故障して使えなくなるので思い切っての変更です。メカに弱い人間としましてはやっとFAX操作に慣れたと思う頃の機種転換には賛成ではありませんが、これも仕方がないことだと妻が娘と相談して娘の家の更新とあわせて多少値引きで手を打ったようです。

 子機は今までどおり寝室に一台、わが書斎に一台置きましたから都合3台もの電話が用意されていることになり、広い我が家でも大体のエリアはカバーできます。電話がかかってきて一番困るのはトイレと風呂場です。トイレと風呂は途中で出ることが出来ず、特に朝風呂はひげを剃ってる途中だと出るに出られず、県外からの電話はあとでということもできないため、妻が電話の子機をわざわざ運んできてくれるのです。しかし子機電話機は便利です。私はコードレス電話やコードレスマイクが普及し始めてからいつも不思議に思っていました。線が切れているのに何故声や通じ声が出るのかと・・・・・。「あんた馬鹿じゃないの。それは地下鉄はどうして地下に入れたのでしょね。考えてたら眠れなくなるという漫才のネタに似ているよ」なんて笑われそうですが、凡才な私には理解は出来ても説明は出来ないのです。

 最近の電話は多機能とかで音声まで出るようになっています。しかし使ってみて思うのは音声など余り必要ではなく結果的には電話とFAXの送受信が手早くタイムリーに出来れば済むことなのです。パソコンも携帯電話も私のような時代遅れな人間に多機能は効果がありません。パソコンは表計算が出来なくても、携帯電話はパソコン接続が出来なくても別に必要ではないのです。でも今の若者の買い心を引き付けて多機種と販売を争うにはどうしても区別と差別の特徴を新機種として売り込まなければならないのでしょう。

 でも機種が変わっても電話番号が変わらないのですから一安心、わが家に4台ある車のナンバーも自分のだけしか覚えれられない私としては大助かりのわが家の技術革新でした。

 私の場合は書斎が事務所兼用なので事務連絡はFAXよりインターネットでの受信が俄然多くなりました。一年前には考えられない私の技術革新です。Eメールだのメールアドレスさえも混乱し、スラッシュやドット、コロンといった言葉にも息詰まっていたのですからまさに青天の霹靂といった成長でしょう。「ブログやってるんだって」との仲間内での話も、心の中では「えっあんた、ブログも知らないの」なんて優越感が見え隠れしている私なのです。

 それにしてもインターネットは私にとって第二の電話やFXとでもいうべき便利なものになりました。もう少し勉強してもう少しグレードを高くすればもxっともっと便利になることでしょう。

  「電線が 切れてる電話 通じます 説明できない 何でだ何で?」

  「便利だが 金の要ること 忘れてる 通帳漬け込み 勝手に引き出し」

  「多機能も 時代遅れの 私には 必要ないのに 一緒買わされ」

  「パソコンと FAXなければ 成り立たぬ スピード時代 俺も悪乗り」

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○孫と二人でピクニック

 「おじいちゃん行こうよ」、そういう孫の言葉に引っ張られて今日は孫と山の家へ出かけました。山の家と孫が呼ぶ家は人間牧場の水平線の家のことです。妻の愛車の軽四にお菓子とお茶とデジカメを乗せていざ発信、孫は「出発進行ー発車オーライ」と威勢のよい掛け声です。海沿いの道沿いには満開に近い桜の帯が何処までも続いています。この桜は20年前青年会議がまちづくりの一貫として辺り構わず植えたものです。枯れたものもありますが、風雨や潮風に耐えて根付き今では立派な花を咲かせて道行く人の目を楽しませています。

 孫に「この桜綺麗でしょう」というと、孫は「なんで綺麗の」「どうしてここに花が咲くの」とうるさいくらい聞き返してきます。大人の世界だと「綺麗なもには綺麗」「花が咲くのに理由がいるか」と反発しかねないこの聞き返しの言葉も、「ああ知恵が付いてきつつあるなあ」と思わず目を細めるのです。でも「何で」「どうして」と問われても答えられない事だってありますが、「おじいちゃん何でと聞きよるんよ」と追い討ちをかけられます。仕方がないので適当に答えるとえらい失敗をする事だってあるのです。

 今日は水平線の家の鍵を昨日息子が松山まで誤って取って帰ったため、鍵が開くか心配でしたが、取っておきの道具でピッキングし鍵を開けて中に入りました。備え付けのハーモニカで海と夕焼け小焼けを吹いてやると孫は大きな声で「♪海は広いな大きいな♪」「♪夕焼け小焼けで日が暮れて♪」を歌いました。おじいちゃんと孫の歌声とハーモニカのコラボレーションは最高の盛り上がりです。お互いが「じょうずじょうず」と拍手をしあいました。お礼にお菓子をプレゼントし二人でかくれんぼをしました。かくれんぼと行っても、一部屋の部屋の中なので隠れるところはないのですが、二階のロフトに上がる収納階段をセットすると、さっきまで怖がっていた二階へどんどん上がっていって「もういいよ」と言うのです。面白さは恐怖心を隠したのでした。

 途中からは持参した絵本を孫は読み、私は7つの習慣という本を読みました。孫は読むというより捲るという感じですが、それでも椅子に座って何やら本を捲っていました。昨日の雨もあがり外は春霞、ちょっと肌寒い感じもしましたが、思い切って戸を開けウッドデッキに出て遊びました。悪さをする啄木鳥が相変わらず東隅の外壁をトントンとつついていました。孫は双眼鏡でバードウォッチングの真似事をしていたようですが、間抜けな鳥はいませんから、結局は逃げられてしまいました。帰りに潮風ふれあい公園の桜と、お目当ての消防自動車、滑り台に乗って楽しいピクニックを終わりました。孫のもりも正直疲れます。はい。

  「じいちゃんと せがまれ山へ ピクニック ハーモニカ吹き 歌のコラボレ」

  「山の家 隠れたつもり 尻が出て それでも孫は 怖さ忘れて」

  「疲れます 孫のもりでも 重労働 これから長く 続く思うと」

  「はいポーズ 慣れた手つきで Vサイン 写真納まる 孫は可愛い」

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shin-1さんの日記

○明日はお節句

 私たちの地方では4月4日をお節句といいます。桜の咲くこの頃は春を待つ人間の気持ちを表現するように野も山もパッと明るくなったような気がします。お節句には巻き寿司を巻いてお弁当を作ってもらい野山に繰り出して友だちと花見をするのが慣わしでした。最近は車の普及や少子化、それにマイホーム主義の普及によって子供だけでそんな年中行事をすることもなくなりましたが、それはそれとして私たちにとってはよき思い出です。

 分業化が進み花見弁当さえも家で作らなくなったのですから、「母親の味ってどんな味」と尋ねられても一向に思い出せないのは親子の関係で少し情けない思いもします。私の母親が作った巻き寿司は未だに覚えていますが、アナゴの入ったとても美味しい巻き寿司でした。でも子供の味からすると三つ葉やニンジンは余り好きではなく、いつも食べ飽きたら最後は三つ葉とニンジンを抜いて空洞にして食べたものでした。

 今夕妻は仕事から帰って巻き寿司を巻く準備をしています。この忙しいのによくそんな気になるなあと思いつつも、ほのかなお酢の匂いが家中に漂い「ああお節句か」という雰囲気です。妻は古いタイプの人間でしょうか、結婚して30年も過ぎたというのに、毎年毎年この作業を飽きもせずにしてきました。最近までは民生委員をしているため自分の持分の独居老人の所へ2本ずつ配るほどの気配りを見せてお年寄りから喜ばれていました。最近は独居老人が増えさすがに配りきれないので止めていますが、それでも20本もの巻き寿司を作るのです。そして明日の朝は早起きをして父の弁当を作って持ってゆくのです。

 「お父さんちょっと」とさっき台所から声がして、味見をするよう頼まれました。妻は料理を作るのに軽量カップや量りなどは一切使わず目分量なのです。アバウトな感じもしますがこれでいて殆ど失敗をしないのですから偉いものです。時々そのことを尋ねますが、「そんなことしていたら、大家族には間にも拍子にも合わなかった」と過去の大家族やお客事の凄さを述懐します。

 今日の巻き寿司は案の定糸三つ葉が彩りとして使われるようです。緑色の鮮やかな三つ葉はまさに春の色、子どもの頃嫌だった三つ葉の苦味も今は風味として味わうことが出来るのですから、年齢によって味好みは変わるのですね。

 それにしても家で巻き寿司を巻くことすら珍しいことだと言われるようになりました。食の分業化が進んだのでしょうか、巻き寿司は完全に母の味ではなくお店の味に変わりました。また寒天を使って家で作っていた羊羹も家ではもう作らない、いや作れないようです。

 手作りはかえって高くつくと言われますが、私の妻のように寸暇を惜しんで作る巻き寿司はお金では買えない高価なものだと思います。明日は感謝をしながら巻き寿司をいただきます。

  「巻き寿司は 母の味から 妻の味 二代続けて 味わう楽しみ」

  「節句くりゃ 亡き母作りし 巻き寿司を 思い出します 俺も歳だわ」

  「いい香り 家中漂い 明日節句 つつましながら 巻き寿司妻が」

  「三十年 食べると妻の 味でさえ 飼い慣らされて 美味しく感じ」

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○煙仲間は今何処に

 私は公務員駆け出しの頃、教育委員会で公民館を13年間担当しました。将来は日本一の公民館主事になろうと固く心に決めて「朝は朝星夜は夜星、昼は梅干身は日干し」なんて笑い話のような話をしながら仕事に没頭しました。結果的には12年目に全国優良公民館職員の表彰を東京赤坂プリンスホテルで受けましたが、その頃一生涯を公民館に捧げようと仲間数人で心に誓い、煙仲間という主事集団を立ち上げました。私たちの集団に見習えと麦だの海武士だのという集団が県下各地に生まれ、競い合っていい発想の仕事を実践したものです。

 あれから30年余りが経ちましたが、煙仲間に所属していた人たちもそれぞれの職場に赴き、最近は人事異動の末尾退職の欄に寂しそうに名前が載っているのを見かけるのです。みんな最後は課長や課長補佐でなどの管理職的名前をいただいているのですが、あれ程燃えてた仲間も、左程の出世もせず雑踏や時代の流れの中に消え行く運命にあるのだと思うと、何か悲しくも寂しくなるのです。

 昨日お寺さん参りに出かけ、帰りに高速道路のサービスエリアで偶然にもかつての煙仲間の一員に会いました。私「おい元気か。今度退職じゃそうなが」、友「ああやっと退職した」、私「これからどうする」、友「これから少しゆっくりしたい。旅行でもしようと妻と二人でこれから大阪へ行く」、友「ところでお前はどうしてる。時々新聞やテレビで活躍の様子は見ているが」、私「一足先に自由人になって全国を講演行脚で回ったり、大学へ教えに行ってる」、友「お前はいいよな、羨ましい。俺なんか今日から何もすることがない」、私「家は百姓じゃあないのか」、友「畑など全然ないからな」、私「近々集まって一杯飲まないか」、友「そうしよう。じゃあ先を急ぐので元気でな」、なんて月並みな会話をお互いが交わして去って行きました。

 こんな会話をする度に、少々幻滅、少々憂鬱な気持ちになります。これから始まるであろう第二の人生を思うと、まるでマッチの燃えカスのようで寂しくて仕方がありません。燃えカスはくすぶる余力さえも見えないのですから・・・・。彼が言うように私はひょっとしたら幸せ者かも、いや本当に幸せ者かも知れません。こうして団塊の世代といわれる人たちに混じって煙仲間たちもいよいよリタイアです。私は彼らの目標になる必要も彼らを立ち直らせる義務もないのですが、せめてあれ程燃えてた人たちですから、もっと燃えて欲しいと思います。私はかつて青年団活動を終えた若者たちが何もしないことに危機感を募らせ21世紀えひめニューフロンティアグループを立ち上げました。結果は様々な社会への揺さぶりや自立に繋がりました。煙仲間もそうあって欲しいと願っています。人間牧場へおいでよ。素敵な生き方をしている私に出会えるから。

  「明日から 何もすること ないですと 情けないかな 退職の日に」

  「ねえ奥さん あんたのご主人 危ないよ このまま過ごすと 早く冥土イン」

  「あれ程に 夢を語った 仲間たち 定年退職 ゴミのようです」

  「俺を見ろ 生き生き輝き 生きている 人間牧場 人気澤山」

  

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shin-1さんの日記

○同行四人の旅

 昨日は久しぶりにブログを書く時間がありませんでした。朝5時に起きて家を出発し、夕方9時過ぎに我が家へ帰るまでずっと愛車の運転をしていました。その距離400キロ余りで、四国八十八ヵ所のうち10ヶ所ものお寺を回ってお参りをして来ました。しかも同行二人の私とお大師様に加え妻と3歳の孫の合計4人(実際は3人)の旅でした。早朝5時に起されて母親と別れるのが辛いと眠い目をこすりながら泣きじゃくる孫をなだめて後部座席のチャイルドシートにシートベルトでくくりつけ、伊予市から高速道路に乗って一路高松を目指しました。高松周辺には沢山のお寺さんがあって、この殆どのお寺にお参りしてないので82番の一宮寺から逆打ちで回りました。昨日は春の雨が時には優しく時には激しく降る中でのお参りでしたが、それでも午後は時折陽も射してやわらいだ温かさに誘われながらいいお参りが出来ました。

 カーナビゲーションをウン10万円もかけて装備したのは5年前、本当は八十八ヵ所参りのためだったのですが、あれから5年も経つというのに、一度もその目的で利用していなかったのが不思議なくらいです。早速目的地のお寺さんの電話番号で入力すると、道順がはっきりと表示しされ、おまけに音声サービスまで付いてきる優れものに昨日は一日中大助かりでした。

 途中のパーキングエリアや門前町のお土産屋さんなどに立ち寄るものですから後部座席の孫も上機嫌で、喋ったり食べたり、時には大きな声で歌ったりと、まるで遠足気分のルンルンです。孫のために用意したお菓子やクーラーボックスの飲み物が胃袋に入ると孫は時々お昼寝で、起すのも悪いと思い、2つのお寺は本堂まで近いこともあってロックして2人で後ろ髪を引かれながらお参りしました。

 納経帳と掛け軸にそれぞれのお寺さんの納経所で書いてもらうのですが、それぞれのお寺さんの対応が違うのも面白いものです。愛想よく声を掛けてくれるお坊さんもいれば、無愛想な女性もいました。納経超は3百円、掛け軸は5百円ですがこれもお参りの証だと思い実行しています。時折同じコースで回る団体客のバスと出会うと、先か後では時間的ロスが大違いです。でも優しい人だと「お先にどうぞ」などと気配りしてくれたりもします。

 お寺参りは修行の一つなのでこれも仕方がないことなのでしょうが、お寺さんはバリアフリーではなく階段や坂がやたらと多い事に気付きます。中高年令の膝や足が悪い人にとってはこれがかなり難儀なようで、後ろ向きではいずるような姿は何とも心痛む光景です。根来寺では何を思ったのか孫がおばあちゃんの手を引いてあげていました。おばあちゃんは嬉しくなって「パワーを貰った」と頭を撫でてくれました。最後の雲辺寺は突風で山頂までのロープウェーがストップしたとかで納経に間に合わないこともあって断念しましたが、帰りには温泉につかり遅い夕食を済ませ、三日月と星の綺麗な空を眺めながら家路に着きました。

 今日から一週間は孫も春休み、これまで通っていた保育園を卒園し、新しい幼稚園に変わるのだそうです。したがって昨日から夜勤の娘から孫を一週間預かることになりました。嬉しいやら大変やらで気のもめる一週間になりそうですが、嬉しさだけにしておきましょう。

 昨夜は孫を寝かせるため「おじいちゃんと寝る」という孫の足を股に挟んで「おじいちゃん温かい」という孫に添い寝の夜でした。孫が寝たらブログでもと思っていたのについつい眠ってしまい朝を迎えました。

  「雨の中 同行四人の 寺参り 大きな傘を さす孫歩く」

  「この辺り 桜蕾は まだ固く 綺麗だろうね 咲く日話題に」

  「カーナビの 案内通り 寺参り 迷うことなく 何と十ヵ寺」

  「孫と妻 それにお大師 様と行く 春の遍路は ウキウキ気分」

 

 

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○功名が辻

 今日からお隣の高知県高知市では、NHK大河ドラマ「功名が辻」にあやかって博覧会が開かれていることがテレビのニュースで流れていました。今年の大河ドラマは司馬遼太郎の原作だけに中々面白く、山内一豊とその妻千代の波乱に飛んだ生涯が描かれています。高知といえば坂本龍馬に代表される明治維新の志士たちを生んだお国柄だけあって、あちらこちらにやたらと銅像や生家などがあり、これらを使った物語やまちづくりには事欠きません。今度の大河ドラマによって一豊の妻千代が加わりその熱はオーバーヒート気味のようです。

 しかしこれは小説家が後の世に書いたあくまでもノンフィクションの世界であり、千代があれほど美人だったかどうかも疑問なのです。ドラマを見ていつも思うのですが何故にあんな美人ばかしを登場させるのだろうかと・・・。それは視聴率を上げるためにいたし方のないことかも知れませんが、もう少し普通の世界を描いてもいいのではないかと思うことさえあります。

 戦国時代の醍醐味は手柄と出世です。大将の首の一つもとれば大きな手柄となり出世は間違いなしです。時々取った首の実検分が行われるシーンがありますが、さらしに包んだ血の滲む首は思わず目を背けたくなる光景です。でも何故かその首なし死体はどうなっかまでは放送には出てこないのです。

 大阪夏の陣で徳川方は豊臣方の首を2万人も取ったといわれています。取った首は首検分されますが、これは宗教の弔いの儀式でもあったようで、首は身分によって作法が定められ軍師が管轄していました。

首検分の後の死体や名もなき雑兵の遺体はそのまま放置され野に朽ちるのを待つだけでした。日本では死者を「葬る」といいますが、語源は「放る(ハブル)」、「棄る(ハブル)」ではないかといわれています。

 遺体の放り方はそのままかゴザに巻いて放置、大きな穴を掘って遺体を捨ててそのままにする。川や沼に沈めるなどいずれも手厚く葬ることはしなかったようです。

 戦場となった場所にはその後の人が供養のため石を置いたり塚を立てたりしたようですが、時々工事現場からそんな戦の後が見つかるのも当然のことといえましょう。

 ドラマは時として格好よい場所だけを誇張して表現します。「小説家見てきたような嘘を書き」かもしれません。信長や秀吉や家康といった時代の英雄のわがままな戦にどれ程の名もなき人が死んだであろうと思う時、ドラマの華やかな一面だけでは語れない隠されたもう一つのドラマにも心を移して欲しいと思うのです。

  「高知では 大河ドラマに 名を借りて 地域おこしに 熱を入れ過ぎ」

  「鬼の首 いや大将の 首を取る それ程しないと 功名上がらず」

  「俺の妻 千代より上だ 褒めてみた 褒め殺しだと かえって冷めた」

  「高知県 銅像好きな お国柄 えーとあそこに あそこにもある」

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○私の名前と顔を覚えていた認知症のおばあちゃん

 昨日親戚の叔父が入所しているわが家の近くの特別養護老人ホームへ見舞いに出かけました。老人ホームといえば薄暗いなんて想像しますが、今のホームは明るい色調で窓から明かりが入り明るさそのものです。入所している人も過去を忘れている以外はみんな元気で日々の暮らしを営んでいます。

 「若松の進ちゃんじゃあないの」。いきなり見覚えのある顔が声を掛けてくれました。「はいそうですが」と答えて手をとりあって昔のことをお話しました。過去を忘れているなんて失礼なことを申しましたが、何人かの認知症の方でも何故か私の顔と名前を覚えていたのです。近所にいたヘルパーさんも驚いた様子で「へえー、おばあちゃん、進ちゃんを知っているの」「そりゃ知ってるがな、昔お世話になったもの」。「ところで進ちゃん、あーちゃんは元気かな」。名前が出て一瞬戸惑いました。あーちゃんとは私の母アキ子の愛称なのです。「おばあちゃん。あーちゃんは5年前に亡くなりました」「ほうそれは知らなんだ。香典を送らずに」。まあこんな具合に普通の会話が出来るのです。

 見舞いが終わって帰ろうとすると、私の服をつかんでもう少し話をしてくれとせがむのです。おばあちゃんの話を要約すると「私はボケていないのに嫁は『ばあちゃんはボケたボケた』言うてここここに入れられた。ここに入ってもう3年になるというのに見舞いにも面会にも中々来てくれない。寂しい」そうです。

 所用があるので「また来るきんな」と言っておいとまをしました。ふと私は高齢化社会への不安を感じました。確かに昔と違って長男夫婦が家で高齢者を介護する時代は終わり、こうした立派な施設で老いを迎えれることだけが幸せな人生だとは思えないのです。いつの時代も、幾ら時代が進展しても子供の親に対する敬愛の念は変わることはない、極論すれば変えてはならない倫理のようなものだと思うのです。施設に入ることは仕方がないことです。でも施設へ入れることが即立派な親孝行だとは思えないのです。施設に入れても親の顔を見にくることぐらいは出来ると思うのです。

 私はこのおばあちゃんと口約束をしました。覚えているか忘れるかそれも分りません。でも認知症と言われながらも私の顔を覚え、私の母親の名前「あーちゃん」まで覚えているのですから、約束どおり近々おばあちゃんの顔を見に特別養護老人ホームへ面会に行きたいと思ってます。おばあちゃんお元気でね。

  「認知症 言われながらも わが名前 覚えて声かけ 嬉しい出会い」

  「また来るね 言葉約束 交わしたり 近々覗くと 心に決めて」

  「親孝行 何をすること 分らない 今の世の中 大分狂って」

  「俺だって 間もなく来るよ このホーム 小さな幸せ 見つかるかもね」

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