shin-1さんの日記

○北海道と沖縄では体重計が違う

 毎日毎日何気なく乗っては一喜一憂している体重計、どの家にも一台くらいはあるのでしょうが、最近は狂いやすいアバウトな目盛りのものよりデジタル式が多いようです。わが家の体重計も家族3人と時おりやってくる孫家族の重いと思いを乗せて計り続けているのです。

 ところでこの体重計が北の北海道用と南の沖縄用があることを知っていますか。勿論私も知りませんでした。電気も使わずただ人が乗って重さを量るだけなのに何故変えなければならないのか?、そんな疑問があるのは当然なことでしょう。実はその秘密は南北に長い日本の地形にあるのです。地球は絶えず自転していますがその影響による重力は日本列島の北と南とでは微妙に違うのです。デジタル式や目盛り式の家庭用ヘルスメーターはバネのたわみで量る仕組みになっていますが、北海道と沖縄では緯度の差20度です。それをヘルスメーターで換算すると0.1パーセント程度なのですが北海道の方が下へ引っ張る力が強いという形で表れてくるのです。その差を考慮して家庭用ヘルスメーターは北海道用、沖縄用、さらに中間をとって本州用と三種類の設定で売られているそうです。沖縄の人が北海道に人事異動した折、今まで使っていたヘルスメーターを持参して使うと、誤差があるという事実を知っておいた方がよいかも知れません。

 じゃあ正確なデーターが必要な病院などはどうするんだろうという素朴な疑問が湧いてくるのもこれまた当然なことです。ご安心下さい。病院には病院用というのがあるそうで、日本中を更に細かく16地域に分類して製造販売されているというからただただ驚くほかはありません。2百グラムや3百グラムぐらいと思うのは私たち素人の考えだし、日々の暮らしでもそんなに困ることはありません。私もかつて産業課で計量器検定という仕事に携わったことがありますが、そんなちっぽけな誤差ぐらいと思っても、商売をしている人から考えたり、消費者の監視からするとそれは大きな問題なのです。時々内容量の表示と容量が違って大問題になったことがありました。世の中には暇な人がいるなあと思ったものですが、それは私が間違いで、暇な人が正しいのです。

 さて、今朝の私の体重は本州用で量ると56キロでした。只今妻の方が少し、いえ少し軽いようです?。

さあきょうも孫と少し歩いて元気を維持しましょう。ここまで書いたところで隣の部屋から孫がやって来ました。二人で脱衣場の体重計で量りました。「おじいちゃん僕の体重は何キロ」と聞くので、只今の朋樹の体重は17.5キログラムです」と言ってやりました。

  「体重計 壊れてるのか 言う妻の 重さ微妙に 増えております」

  「いいことを 知ったとばかり 書きました 体重計に 北と南用」

  「増えるのに ヘル(減る)スメーター これいかに 漫才ネタに これ使えそう」

  「体重の 目盛りで一喜 一憂し 贅沢しないで 贅肉何故に」

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shin-1さんの日記

○人のブログを見るのは楽しい

 私は人のブログを見るのは得意な方ではありません。何か勝手に読んだような後ろめたさがあるからです。でも私のブログにコメントがつき、あれやこれやと自動的に意見をもらえるのは有難いことです。でもでもそのコメントに対し「返事はご遠慮下さい」なんてコメントがついて、相手のメール先も分らないと少しガッカリしてしまうのです。

 今朝嬉しいメールが届きました。「ブログを始めたがまだ誰にも知らせていないがあなたに知らせる」とのこと、仕事柄なのでしょうがブログは匿名、しかも中身に教育という文字が大きく見えました。匿名も教育も仕方がないなと思いながら読ませてもらいましたが、これが中々面白く匿名や教育臭くないのです。

 私はかつて役場に勤めていました。役場に勤めている頃も出来るだけ役場臭くない人間になりたいと努力をしてきましたし、役場を離れた後も役場の役場臭さが益々気になって仕方がありません。役場という所は情報と権力が集中します。故に「私は偉い」という特権階級の意識を持ちがちです。「役場に行くのは嫌」という役場アレルギーの人たちは案外多いのです。役場は自己主張はするし色々なことを住民に押し付けます。やった成果は自分のものにしたがるが、失敗の責任は取らず説明はないままです。個人情報が問題になって益々そのガードは固く仕事はしろというのに情報は教えないのですからやりようがありません。

 役場の中にいるとこんな住民のブツブツはまったく聞こえません。パソコンが仕事をするようになるとパソコンに向かって仕事をして人間に向かって仕事をする時間は益々少なくなってきました。これも役場の常識なのでしょうか。

 まあ、こんな具合に時にはやんわり、時には鋭く批判や批評をしていますが、約6ヶ月、これほどパソコンが普及しこれほどブログが普及して誰でも読める時代になっても、未だ一件も私のブログへ役場から文句や批評を言う人がいないのですから、黙認・黙殺としか言いようがありません。お偉い人が市役所の入所式で「市民の声なき声に耳を傾け」なんて新入公務員に言ったそうですが、私流に言わせれば「声ある声に目を傾け」と言った方がパソコン時代には受けるかも知れないと思ったりしました。

 匿名の注意すべきことは「匿名だから何でも書ける」という怖さです。バーチャルの世界はそこが問題なのです。人のものも自分のものも区別が付かなくなって大きな問題に発展することだってあります。また自分ではいいと思っても情報の交流がないと歯止めが利かなくなります。お互い気をつけながらいい情報を流しあい、交流しましょう。

  「嬉しいね ブログを始めた 文届く 同じ話題も 違う目線で」

  「悪くても いい(E)メールとは これいかに まるで漫才 面白ネタだ」

  「音信の 消えた友より 風便り メールで元気か メールで元気だ」

  「お礼状 段々遠のく わが暮らし それでも三枚 限界宣言」

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shin-1さんの日記

○史談会が誕生しました

 双海町という自治体が合併によりなくなって丁度一年が経ちました。双海町という時代に築かれた団体や機関は統廃合の憂き目に会ってあっさりその旗を降ろしてしまいましたが、何とそんな中で生まれるグループがあるのですから世の中は面白いものです。

 合併を記念して改定「双海町誌」が2年間の苦労を経て出来上がったのは一年前のことでした。閉町のタイムリミットも近づいて何かと慌しいなかで、編纂委員さんはそれぞれの立場で努力をしていただき、短い時間にしては立派な町誌が出版されました。そのメンバー数人が、双海町の歴史を語ったり文章化することを考えて好きものを勧誘し24人のメンバーが揃い、今日の設立総会と相成ったわけです。歴史に詳しいいわば双海町の一時代を築いた方ばかりの会員が年会費2千円で会を運営しようというのですから、しかも失礼ながら年齢的に盛りを過ぎた人が殆どですからそんなに大きな期待は持てません。でも金や年齢だけではなく、その心意気は相当なもので、自己紹介では薀蓄を長く短く喋り捲り、凄いパワーを感じました。

 私は退職を機に民俗学の研究を細々と続けています。耳も遠くなった親父との話は主に下灘漁村の民俗学に焦点を絞って、元気な今のうちにとコツコツ聞き取りしたことをまとめています。何年か後にはそれを一冊にまとめてみたいと思っています。そう自己紹介でお話をしたら会の終了後早速一会員から、近いうちに話をしようという申し出がありました。同じ町に住みながらこんな話をしたことも聞いたこともないだけに、ああいい会を通ってくれたなあと、事務局を担当する事になったかつての同僚だった中尾先生の若さと行動力に感謝しています。

 早速家に帰って色々なことを考え、色々な心に浮かぶことをメモしながら下灘の民俗学を考えてみました。多分こんな馬鹿げたことを考えるのは私が最初で最後だろうなあと思いつつ、宮本常一の本を読んで見ました。奥の深かった宮本常一の世界が少し見えてきた感じです。

 明日は孫を連れて人間牧場へ行く予定はないのですが、改めて沖合いに浮かぶ春の周防大島に思いを馳せながら読書の時間を取りたいものです。

 小さな世界から大きな世界へ目を向けた私の人生も、いよいよ大きな世界から小さな針の穴へと回帰しつつあることを感じながら・・・・・。

  「消えた会 多いというのに 出来る会 身をゆだねつつ 意の向くままに」

  「一家言 ある人ばかりで 賑やかに 史談の会は いつまで続くか」

  「えっあの人 既に喜寿という 一緒年とり 私も還暦」

  「歴史とは 人の生き様 語ること 表舞台を 裏の舞台へ」 

 

 

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shin-1さんの日記

○集落が消える

 私の住んでいる集落は300戸余り、旧役場の中心地だけに「集落が消える」なんて話は他人事でしかありません。逆に小さな集落の強固なまとまりのあるコミュニティが羨ましくさえ思うほど、以外と他人事として片付けられることが多いのです。僅か15戸で組織している私の組内ですら葬式以外は殆ど会合もなく、それでも毎年が過ぎてゆくのですから今の時代は、村社会のような封建的な生き方は通用しないのかも知れません。しかし双海町の遠隔地では一戸また一戸と次第に戸数が減って、10戸以下の集落が目立ってきました。多分10年後には、いやひょっとしたら5年後にはその集落は消えていくだろうと思われます。

 合併によって私たちの住む街も新しい伊予市として誕生しましたが、新しいまちでは地域の自立をテーマに掲げているし、合併構想の中でも地域支援センターなるものを明記しています。しかし今回の組織改革ではその名称すら見ることもなく、むしろ総合支所は縮小され後退と言わざるを得ないようです。そしてもう一つ集落の再編という私たちの暮しにとって大変重要な出来事が、住民に周知徹底されないまま行われようとしているのです。自治の再編は大きな自治会と小さな自治会があることを考えれば当然のことであり、何処かに右へなれは仕方がないことかもしれません。旧伊予市の500戸単位と旧双海町や旧中山町の10戸単位では民意の集約もままならないことは分っていても、右へなれの対象が伊予市という都市型に全てを合わせられる農山漁村とでは、余りにも意識や行動が違い過ぎるのです。であれば、「自治会組織は旧市町単位で温存してもいいのではないか」、「何故中央に集めて自治会長会をしなければならないのか」という疑問を持つ現在の自治会長の疑問も説明責任として答えなければならないでしょう。

 田舎の集落には、「村八分」という悪しき習慣が残っています。いかにも集団でいじめをするというイメージに聞こえますが、もともとは村の決まりごとを破った人に対して行う厳格な処罰規定でした。江戸時代の集落の規則では冠・婚・病気・建築・葬・火事・水害・旅・出産・年回忌の10の行事については集落の人々が協力しあって行う風習がありました。しかし集落の規則を破った人には相談してこうした付き合いを拒否したのが村八分です。でも気をつけたいのは村10分でなく村八分なのです。つまり村八分とは火事と葬式は別物として考えられたのです。村八分の語源は村はぶく、村はじくとされていますが、村八分はいかにも義理堅い日本人の心といえましょう。

 今の世の中では葬式も式場でするので、村八分にされたとしても別に困らないし、火事も消防車がいち早く駆けつけてくれます。集落が集落としての機能を果たさなくなった時代に、広報区長などと名前をつけて広報を配ってもらったり、住民の意見は全て広報区区長を通じてなんて持ち上げることより、自治会にどんな自治を担わせるのが本来の目的なのか、もう少し前向きな議論が欲しいものです。

 先日市役所の職員とコミュニティ議論をやりました。私の考えるコミュニティには従来の集落が持っている地域コミュニティと集落を超えて持たねばならないテーマコミュニティがあると、持論を展開しましたところ、そんな難しいことは初めて聞いたと目をぱちくりしていました。

 「集落が消える」この重いテーマをあなたはどう考えますか。

  「この歳に なっても未だ 若い方 嘆く集落 五戸だという」

  「村八分 されても別に 困らない それより役など しない方まし」

  「役所から 身を引き途端 見えてくる 口には出さずに 利口な生き方」

  「指折りを 数えて任期 来るを待つ 自治会の世話 結構きついね」

 

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shin-1さんの日記

○ペンキ塗りたて

 昔都会の公園のベンチに「ペンキ塗りたて」という張り紙がされているのを見落として、ズボンとシャツを駄目にした「周りが見えない田舎者の私」なので、ペンキといえばその時の悪い印象が思い出されてます。また家業の漁師をしていた若い頃、私の持ち船の船倉の中でペンキを塗っていてシンナーに酔ってふらふらになった経験もあります。美しいはずのペンキも私にとっては嫌な思い出が付きまとっていますが、人間牧場の仕上げはどうしても防腐剤やペンキが必要なので仕方なく、次男と孫を連れて人間牧場のペンキ作業をしました。専門家に外注すればいいのですが、資金が底をつきかけたこともあって水平線の家の外壁に塗った余りの防腐剤を塗りました。この作業は二度塗りなので今日は下地塗りです。午後からは雨という天気予報なので、長いはしごをかけて私が上、次男が下を分担して塗りました。下塗りのペンキは温度の上がったためか伸びもよく2時間足らずで終わりました。

 孫はペンキ塗りの手伝いをすると張り切っていましたが、結局2時間の間周辺で花を摘んだり石ころを投げたりして遊び、飽きるとおじいちゃん、一生ちゃんと交互に呼んで、やれオシッコだのやれ喉が渇いただのと10分置きに梯子の上の私たち二人を目掛けて自分の存在を知らせていました。それでも一人でよく遊んでくれたお陰で仕事がはかどり、12時の音楽サイレンを合図に妻の作ってくれた巻き寿司弁当を広げて早速お花見兼用の昼食です。あいにく箸を忘れていたのでにわく作りの金の火箸(囲炉裏用なのでまだ未使用)でつまんでは食べました。山は長閑な春霞でしたが下山する2時過ぎにはポツポツと早くも雨が降り出しました。やっと満開宣言の桜の花もこの雨で心配です。帰りには孫と朝約束した潮風ふれあい公園の展示遊具消防自動車まで行き、少し遊んで帰って来ました。

 保育園だとこの時間はお昼寝の時間だと思って寝かそうとするのですが、孫は寝ると遊ぶ時間が少なくなると思うのか、ぐずって」寝るのは嫌だと言い張るのです。大好きな本を読みながら寝かせると私も熟睡、気がつけば何と1時間も孫と昼寝をしてしまいました。お昼寝なんて久しぶりでお陰さまで夕べは少し目がさえて寝れませんでした。でも長い昼寝は体がだるく感じますが約1時間の短い昼寝は気持ちがいいもので頭の中の霧が晴れたようですっきりしました。

 本当は今日にでも上塗り用の防腐剤を塗りたかったのですがあいにくの雨でペンキ塗り作業が2日間遅れてしまいました。でも慌てる作業でもないので天気を見計らい、近々出掛けて塗りたいと思っています。

 それにしても孫のおもりがこんなに疲れるものとは知りませんでした。妻曰く「自分の子どもの面倒を見なかったのだからそれぐらいはしないと」だそうです。娘曰く「孫のおもりをさせてもらうくらい有難いことはない。私の面倒を見なかったのだから当然」だそうです。二つともごもっともなお話です。あーまだ孫のもりは3日か、あとひい、風、みい、よー、厳しいなあ。

  「孫のもり 二言目には じいちゃんと 呼ばれうれしや それでも疲れ」

  「満開の 桜を愛でる 孫と爺 綺麗の基準 違っていても」

  「ペンキ塗る 五右衛門風呂の 外壁に まるで啄木鳥 孫が笑って」

  「二月末 植えたジャガイモ 芽はまだか かすかに土の 盛り上がりつつ」

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shin-1さんの日記

○海面に浮かんでいるのは一体何?

 春が来たこの頃になると決まったように双海町の海面には何やら黒ずんだ姿が見受けられます。これを見て「双海町の海は汚い」と言った人がいますがこれは素人の浅はかな考えです。この黒ずんだ海面の下にはホンダワラという海草がぎっしりと生えているのです。山に木や草が生えているように海の底も海草で覆われているのが普通なのですが、最近は海岸線の乱開発によって海岸線が人々の暮らしから段々遠のく傾向にあります。下灘という漁村で生まれ育った私が子どもの頃は家の直ぐ前が海で手の届くところにありました。台風や大しけの時はこわかったのですが、夏になると浜辺は格好の遊び場でした。その後埋め立てて道が出来、漁港が出来て人々の暮らしは快適になりましたが、海はだんだん離れてゆきました。と同時に冬になると砂浜に打ちあがっていた波はコンクリートの波返しに跳ね返されて、海岸近くに生えていた海草は三角波の力でことごとく切れ、磯焼けという現象、つまり海底が禿山のようになってしまったのです。磯焼けになると海草の中を住処にしていた魚が住めなくなり、魚が卵を産んだり孵したりすることが出来なくばかりか、海草が汚い水を綺麗にする浄化作用までもできなくなって、海は汚れていくという悪循環が長い間のうちに海を駄目にしてきたのです。最近魚が獲れないと漁民が嘆いていますが、魚を獲り過ぎたり海を汚したりしたことも原因ですが、藻場に海草が生えないことも大きな原因のひとつと考えられています。

 最近高知県のある海沿いに面した町の人が双海町へ視察にやってきて、この海の様子を見て羨ましいと言って帰りました。高知県では磯焼け現象がひどいと嘆いていました。

 春から夏に移り変わる頃になるとこの海草は新しい海草に生え変わる準備のため、古い海草が自然に切れて海を漂い始めます。その一部はシーサイド公園などの海岸に流れ着き、処分に頭を痛めていますが、これも自然現象だと捉えなければなりません。流れた海草にはハマチやシイラといった回遊魚の卵が産み付けられるのですから無駄なことは一つもないのです。

 つい最近自然塩が注目を集めています。昔は流下式という製法で塩を作っていましたが、膨大な場所と重労働が必要なことからその方法で塩を作ることは姿を消し、イオン交換樹脂膜法による科学的な塩の製法に変わりましたが、実はこの海草の一種であるホンダワラに塩水をかけたものを煮詰めた藻塩という自然製法塩が、飛び切り上等の塩として売られているのです。今は呉市に合併した下蒲刈町で商品化されたこの塩は売り出したところ大きな反響を呼びました。わたしもこの町と深い関係があって度々訪れましたが、藻塩で食べる刺身や天ぷらは食材の味を一層引き立たせてくれたことを覚えています。

 双海町では漁協女性部の人たちが中心になってこの海を守る運動を長年行っています。山に木を植えたり、EM菌で下水処理お行っています。そうした取り組みが実って双海町の海岸は成り立っているのです。

  「海の底 山と同じで 藻が生えて 海底森林 酸素吐き出す」

  「一人から 始める環境 問題も 地球規模なる 大きな力に」

  「ホンダワラ 流れ着いたら ただのゴミ 活かして使えば 特産藻塩に」

  「この海を 守る人たち ひたむきに 木を植えEM ありとあらゆる」  

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shin-1さんの日記

○空になった盆栽鉢

 日本人はよくよく花の好きな国民だと思います。どの家の玄関や庭を見ても植木鉢やプランターの一つや二つはお目かかるものです。ところが花の好きな国民性でありながらせっかく買った花を手入れもせずに枯らす国民も少ないのではないかと思われます。買った時が最高で後は枯れるのを待つのみといった花や緑の使い捨てはもう少し考え直す必要があります。命ある物は必ず滅びることは当然のこと、しかもそんな社会だから花産業が伸びるのでしょが、もう少し花や緑に対する考えを変えた方がよいように思うのは、そんな苦い経験を持っている私だから言えることのかも知れません。

 私は若い頃盆栽に興味を持っていました。趣味の世界というのは恐ろしいもので、職場には盆栽仲間も沢山いて休みなどには連れ立って山取りのために時間をかけて山野を歩きました。いい盆栽と交換したりあの花が咲いた、あの木は今が植え替えの適期などと話題も盆栽のことが殆どでした。忙しい合間を縫って盆栽店を訪ねたり盆栽手入れの七つ道後も手に入れ水や肥料をやって丹精を込めて世話をしたものです。

 いつの頃からでしょうか、多分私のまちづくり熱の曲線と符合するように忙しさのピーク時には盆栽熱が急速に冷めて行きました。一つ減り二つ減り、三つ枯れなんてことが毎年繰り返され、ついには私の盆栽棚から完全に盆栽が消えてしまったのです。「忙しかったから」という言い訳はしたくありませんが、悩殺されるようなまちづくり熱が盆栽熱をやっつけたお陰で夕日やシーサイド公園も完成したのですから満足です。でも何処かにこの失敗を取り戻したいという思いもあるようです。

 庭の隅にうず高く積まれている盆栽鉢の数々を見るにつけ心が痛みます。今だったら枯らしてはいない盆栽の数々が頭の中に浮かんでは消えます。あれ以来罪の呵責に駆られてか盆栽屋の店には立ち入らない私自身の生き方も、もうそろそろ解放してやりたいような心境です。その点親父は偉いと思います。そんなに数は持ち合わせていませんが、名品ではないものの町の集会には必ず借りに来る盆栽の鉢植えを枯らすことなく手入れして見事な姿を保っているのです。多分あの盆栽や庭木は私に受け継がれることでしょうが少しの不安はこうした忌まわしい過去があるからかも知れません。

 妻も花が大好きです。あちらこちらから沢山の花の苗を貰って来ますが、相変わらず忙しいのか枯らしてしまうようです。私が手助けすればよいのでしょうがそれも適わず日々の暮らしに明け暮れています。

  「盆栽の 鉢だけ残る 庭の隅 かつて育てた ケヤキや松は」

  「上桜 下は草花 桜草 プランターにも 小さな春が」

  「あれ程に 熱中したのに 今は冷め そんなことって 一つや二つ」

  「盆栽の 入門書まで 買って読み 夢中熱中 病の如く」

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shin-1さんの日記

○FAXと電話が新しくなりました

 これまでは勤務先に入ってきた電話やFAXや電話も、勤務を辞めた関係で自宅へ入って来るようになり、FAXのロール紙が間に合わないくらいの量で通信されることもあって対応できにくく、少し最新モードのFAX兼用電話に変えました。というのもコードレス子機の調子が悪く度々故障して使えなくなるので思い切っての変更です。メカに弱い人間としましてはやっとFAX操作に慣れたと思う頃の機種転換には賛成ではありませんが、これも仕方がないことだと妻が娘と相談して娘の家の更新とあわせて多少値引きで手を打ったようです。

 子機は今までどおり寝室に一台、わが書斎に一台置きましたから都合3台もの電話が用意されていることになり、広い我が家でも大体のエリアはカバーできます。電話がかかってきて一番困るのはトイレと風呂場です。トイレと風呂は途中で出ることが出来ず、特に朝風呂はひげを剃ってる途中だと出るに出られず、県外からの電話はあとでということもできないため、妻が電話の子機をわざわざ運んできてくれるのです。しかし子機電話機は便利です。私はコードレス電話やコードレスマイクが普及し始めてからいつも不思議に思っていました。線が切れているのに何故声や通じ声が出るのかと・・・・・。「あんた馬鹿じゃないの。それは地下鉄はどうして地下に入れたのでしょね。考えてたら眠れなくなるという漫才のネタに似ているよ」なんて笑われそうですが、凡才な私には理解は出来ても説明は出来ないのです。

 最近の電話は多機能とかで音声まで出るようになっています。しかし使ってみて思うのは音声など余り必要ではなく結果的には電話とFAXの送受信が手早くタイムリーに出来れば済むことなのです。パソコンも携帯電話も私のような時代遅れな人間に多機能は効果がありません。パソコンは表計算が出来なくても、携帯電話はパソコン接続が出来なくても別に必要ではないのです。でも今の若者の買い心を引き付けて多機種と販売を争うにはどうしても区別と差別の特徴を新機種として売り込まなければならないのでしょう。

 でも機種が変わっても電話番号が変わらないのですから一安心、わが家に4台ある車のナンバーも自分のだけしか覚えれられない私としては大助かりのわが家の技術革新でした。

 私の場合は書斎が事務所兼用なので事務連絡はFAXよりインターネットでの受信が俄然多くなりました。一年前には考えられない私の技術革新です。Eメールだのメールアドレスさえも混乱し、スラッシュやドット、コロンといった言葉にも息詰まっていたのですからまさに青天の霹靂といった成長でしょう。「ブログやってるんだって」との仲間内での話も、心の中では「えっあんた、ブログも知らないの」なんて優越感が見え隠れしている私なのです。

 それにしてもインターネットは私にとって第二の電話やFXとでもいうべき便利なものになりました。もう少し勉強してもう少しグレードを高くすればもxっともっと便利になることでしょう。

  「電線が 切れてる電話 通じます 説明できない 何でだ何で?」

  「便利だが 金の要ること 忘れてる 通帳漬け込み 勝手に引き出し」

  「多機能も 時代遅れの 私には 必要ないのに 一緒買わされ」

  「パソコンと FAXなければ 成り立たぬ スピード時代 俺も悪乗り」

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shin-1さんの日記

○孫と二人でピクニック

 「おじいちゃん行こうよ」、そういう孫の言葉に引っ張られて今日は孫と山の家へ出かけました。山の家と孫が呼ぶ家は人間牧場の水平線の家のことです。妻の愛車の軽四にお菓子とお茶とデジカメを乗せていざ発信、孫は「出発進行ー発車オーライ」と威勢のよい掛け声です。海沿いの道沿いには満開に近い桜の帯が何処までも続いています。この桜は20年前青年会議がまちづくりの一貫として辺り構わず植えたものです。枯れたものもありますが、風雨や潮風に耐えて根付き今では立派な花を咲かせて道行く人の目を楽しませています。

 孫に「この桜綺麗でしょう」というと、孫は「なんで綺麗の」「どうしてここに花が咲くの」とうるさいくらい聞き返してきます。大人の世界だと「綺麗なもには綺麗」「花が咲くのに理由がいるか」と反発しかねないこの聞き返しの言葉も、「ああ知恵が付いてきつつあるなあ」と思わず目を細めるのです。でも「何で」「どうして」と問われても答えられない事だってありますが、「おじいちゃん何でと聞きよるんよ」と追い討ちをかけられます。仕方がないので適当に答えるとえらい失敗をする事だってあるのです。

 今日は水平線の家の鍵を昨日息子が松山まで誤って取って帰ったため、鍵が開くか心配でしたが、取っておきの道具でピッキングし鍵を開けて中に入りました。備え付けのハーモニカで海と夕焼け小焼けを吹いてやると孫は大きな声で「♪海は広いな大きいな♪」「♪夕焼け小焼けで日が暮れて♪」を歌いました。おじいちゃんと孫の歌声とハーモニカのコラボレーションは最高の盛り上がりです。お互いが「じょうずじょうず」と拍手をしあいました。お礼にお菓子をプレゼントし二人でかくれんぼをしました。かくれんぼと行っても、一部屋の部屋の中なので隠れるところはないのですが、二階のロフトに上がる収納階段をセットすると、さっきまで怖がっていた二階へどんどん上がっていって「もういいよ」と言うのです。面白さは恐怖心を隠したのでした。

 途中からは持参した絵本を孫は読み、私は7つの習慣という本を読みました。孫は読むというより捲るという感じですが、それでも椅子に座って何やら本を捲っていました。昨日の雨もあがり外は春霞、ちょっと肌寒い感じもしましたが、思い切って戸を開けウッドデッキに出て遊びました。悪さをする啄木鳥が相変わらず東隅の外壁をトントンとつついていました。孫は双眼鏡でバードウォッチングの真似事をしていたようですが、間抜けな鳥はいませんから、結局は逃げられてしまいました。帰りに潮風ふれあい公園の桜と、お目当ての消防自動車、滑り台に乗って楽しいピクニックを終わりました。孫のもりも正直疲れます。はい。

  「じいちゃんと せがまれ山へ ピクニック ハーモニカ吹き 歌のコラボレ」

  「山の家 隠れたつもり 尻が出て それでも孫は 怖さ忘れて」

  「疲れます 孫のもりでも 重労働 これから長く 続く思うと」

  「はいポーズ 慣れた手つきで Vサイン 写真納まる 孫は可愛い」

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shin-1さんの日記

○明日はお節句

 私たちの地方では4月4日をお節句といいます。桜の咲くこの頃は春を待つ人間の気持ちを表現するように野も山もパッと明るくなったような気がします。お節句には巻き寿司を巻いてお弁当を作ってもらい野山に繰り出して友だちと花見をするのが慣わしでした。最近は車の普及や少子化、それにマイホーム主義の普及によって子供だけでそんな年中行事をすることもなくなりましたが、それはそれとして私たちにとってはよき思い出です。

 分業化が進み花見弁当さえも家で作らなくなったのですから、「母親の味ってどんな味」と尋ねられても一向に思い出せないのは親子の関係で少し情けない思いもします。私の母親が作った巻き寿司は未だに覚えていますが、アナゴの入ったとても美味しい巻き寿司でした。でも子供の味からすると三つ葉やニンジンは余り好きではなく、いつも食べ飽きたら最後は三つ葉とニンジンを抜いて空洞にして食べたものでした。

 今夕妻は仕事から帰って巻き寿司を巻く準備をしています。この忙しいのによくそんな気になるなあと思いつつも、ほのかなお酢の匂いが家中に漂い「ああお節句か」という雰囲気です。妻は古いタイプの人間でしょうか、結婚して30年も過ぎたというのに、毎年毎年この作業を飽きもせずにしてきました。最近までは民生委員をしているため自分の持分の独居老人の所へ2本ずつ配るほどの気配りを見せてお年寄りから喜ばれていました。最近は独居老人が増えさすがに配りきれないので止めていますが、それでも20本もの巻き寿司を作るのです。そして明日の朝は早起きをして父の弁当を作って持ってゆくのです。

 「お父さんちょっと」とさっき台所から声がして、味見をするよう頼まれました。妻は料理を作るのに軽量カップや量りなどは一切使わず目分量なのです。アバウトな感じもしますがこれでいて殆ど失敗をしないのですから偉いものです。時々そのことを尋ねますが、「そんなことしていたら、大家族には間にも拍子にも合わなかった」と過去の大家族やお客事の凄さを述懐します。

 今日の巻き寿司は案の定糸三つ葉が彩りとして使われるようです。緑色の鮮やかな三つ葉はまさに春の色、子どもの頃嫌だった三つ葉の苦味も今は風味として味わうことが出来るのですから、年齢によって味好みは変わるのですね。

 それにしても家で巻き寿司を巻くことすら珍しいことだと言われるようになりました。食の分業化が進んだのでしょうか、巻き寿司は完全に母の味ではなくお店の味に変わりました。また寒天を使って家で作っていた羊羹も家ではもう作らない、いや作れないようです。

 手作りはかえって高くつくと言われますが、私の妻のように寸暇を惜しんで作る巻き寿司はお金では買えない高価なものだと思います。明日は感謝をしながら巻き寿司をいただきます。

  「巻き寿司は 母の味から 妻の味 二代続けて 味わう楽しみ」

  「節句くりゃ 亡き母作りし 巻き寿司を 思い出します 俺も歳だわ」

  「いい香り 家中漂い 明日節句 つつましながら 巻き寿司妻が」

  「三十年 食べると妻の 味でさえ 飼い慣らされて 美味しく感じ」

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