shin-1さんの日記

○縁日のお接待

 四国は遍路の国といわれるように四国八十八ヵ所があって、1500キロともいわれる遍路道をただひたすら歩く祈りや修行の場所でもあります。各地には遠出できない人々のためにお四国さんというミニの八十八ヶ所が今でも残っていて、地元の人が大切に守っていますが、その基本は「お接待」といわれるサービスです。富める人が貧しい人に与えるのではない、ささやかな心のサービスが祈りの旅にとってどれ程心温まるものかは、お接待を受けたものでないと分らない有難さなのです。

 私の家の入口にもお地蔵さんがあって、私の家では30数年にわたってこのお地蔵さんを大切に守ってきました。昔は道端にあったようですが、道路拡張工事の折道の上に祠を造り、そのお地蔵さんを祠の中に収めて毎月21日には手づくりの幟を立てて赤飯を炊き、パックに入れて10軒余りの親しい近所に配るのですが、最初は母がやっていましたが、母亡き後の今は妻がその役を引き継いでせっせと赤飯を炊いて配るのです。私はできた赤飯を配る程度しかできませんが、妻は民生委員をしているので自分手持ちの独居老人にも配ったところ、老人たちはたいそう喜んで、今に続いているのです。妻が忙しいときは独居老人への配達も私がやるのですが、そのことが独居老人への声かけともなって皆さんから感謝されているようです。

 お地蔵さんに通じる急な坂道は入口に大きな石が組まれその上を覆い隠すように枝垂れもみじが棚いっぱいに広がっていますし、手摺は親父が親類の鉄工所で加工してもらったステンレス製です。最近は姉や友人知人など近所の方のお参りも多く、線香やシキビの花も絶えたことがないほどの信心ぶりなのです。

 このお地蔵さんにハクビシンが住み着いたり、賽銭箱が盗まれたり、これまでにもお地蔵さんにまつわる様々話題がありましたが今はひっそりとして、毎月21日の縁日のみに幟が立つ程度になっています。

 最近の日本人は信心や宗教心が欠けているとよく言われます。オーム心理教などの新興宗教が世間を騒がすものですから、宗教に対する信頼が薄れそうなるのかも知れません。でも日本人の心の支えはやはり宗教心だと思うのです。先祖や人を敬う優しい心を持ったなら、親を殺したり兄弟や近隣が憎しみゆがみあうこともないのです。人は神仏に自分が幸せになるための願い事盛んにします。「どうか幸せになりますように、どうか受験に合格しますように、宝くじがあたりますように」と・・・・・。でも日々の暮しの中で今幸せに生きてることに感謝して神仏に祈るような人は中々少ないようです。幸せが日々の祈りや精進の積み重ねだと思うと、殆どの人の神仏への願いはまさに聞き届けられないことなのです。

 お接待はその代価を求めないところに大きな特徴や意味があります。お接待が何かの代価を求めたら台無しです。よく「私は毎日こんなことをしているのに神も仏もないものよ」という言葉を耳にします。そんな気持ちでボランティアをするのだったらしない方がましなのです。多分私の妻も親父もそんな代価を求めたり「これほど毎月しているのに」なんてことは思って尾接待はしていません。しかし結果的に幸せなのですからこれに越したことはないのです。

 「近頃は縁日の来るのが早くなった」と妻も親父も歳をとったからでしょうかよくいうようになりました。一年で21のつく日は僅か12回しかありません。今も昔もそのことは変わらず、一日24時間もまったく変わらないのです。でも短くも長くも感じるところに人間の喜びや悲しみが隠されているのです。来月の21日は早くも秋の入り口です。また心を込めてお接待したいものです。

  「入り口で じっと見守る お地蔵さん 今月縁日 知らせる幟」

  「接待に 炊いた赤飯 独居人 嬉と喜び 思わず手合わせ」

  「今月も 妻はせっせと お接待 額の汗を タオルでぬぐい」

  「願いなど せずとも地蔵 知っている 日々の精進 だから幸せ」




 

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