〇ものづくり生命文明シンポin松山(その2)
愛媛新聞の社告のお陰か、松山が文化度が高いのか、はたまた幸福になりたいと思う人が多いのか、松山市総合コミュニティセンターには220人もの人が集まりました。この日のお目当ては、何といっても「森は海の恋人」というキャッチフレーズで、一躍有名になった宮城県気仙沼市唐桑で、カキ養殖や植林に取り組む畠山重篤さんの講演です。顎に白髪の髭を蓄えた風貌は、まるで仙人を髣髴させるような出で立ちですが、非常な謙虚な方で東日本大震災に遭い、苦難を乗り越えようとする言動には熱いものが伝わってきました。
私も及ばずながらこのシンポジウムには、、企画段階から関わっていますが、ひょっとしたら私が一番畠山さんにお会いして話を聞きたかったのかも知れません。畠山さんは1943年の生まれですから私より一歳年上です。宇和島水産高校を卒業している私と同じように気仙沼水産高校の卒業で、海の環境を守るには海に注ぐ川、さらにはその上流の森を守ることの大切さに気付き、「牡蠣の森を慕う会」を結成、1989年より気仙沼湾に注ぐ大川上流の室根山で、漁民による広葉樹の植林活動「森は海の恋人」運動を続けています。この活動は小中学校の教科書にも紹介されています。
松山会場ではパネルディスカッション1「坂の上の雲とこれからの幸福のかたち」、パネルディスカッション2「これからの幸福論~明治維新から東日本大震災までとこれからの日本~」というテーマで、熱い議論が繰り広げられました。私はパネル2の方に出演が予定されていましたが、私を含めて5人のパネラーが、場所文化機構副代表吉沢さんの進行で、僅か1時間30分の短い時間で語るのですから、発言が一番しんがりとなった私の話など、多分聞く人はいないだろうと、開き直って話しました。
私の話は日本がこれまで追いつけ追い越せの朝日型国づくりをしてきた結果、地方が縮む社会になって危ないと訴えました。
私が夕日によるまちづくりを始めたころは、坂の上の雲を目指して誰もが、私のやろうとしていた夕日をあざ笑っていました。夕日によるまちづくりの出発となった夕焼けコンサートは、文字通り100人の中で99人が反対しましたが、社会が下降線を辿ったり低成長時代になると次第に雪解けとなり、特に阪神淡路や東日本大震災以降は、成長の限界に気付き夕日のような穏やかな社会が求められつつあるのです。今は朝日型から夕日方に代わろうとしている潮目の時だと話しました。
「五番目の しんがり何を 話すのか 貧乏くじ引く だけど頑張る」
「坂の上 雲を見つめて 登り行く どこまで登る 彼方は見えず」
「都会人 相手に論陣 張ったとで 田舎者ゆえ 勝てる訳なく」
「この歳に なって会いたい 人がいる 会えて幸せ 思し召しかな」
追伸 私のブログにはもう一つ、アメーバブログに部屋があります。覗いて見てください。