人間牧場

〇サツマイモ掘り

 テレビの天気予報を見て、間もなく雨が降るかも知れないと思い、昨日の午後家庭菜園のサツマイモ堀をしました。今年わが家の家庭菜園には、2ヶ所サツマイモを50本ずつ作付けしました。例年は50本にするのですが、人間牧場の芋畑がイノシシに狙われそうな気配がして、その予備畑として50本植えていたのです。その読みは残念ながら見事に的中し、人間牧場のサツマイモはイノシシに全部食べられてしまったのです。これまでだと2日後に迫った子ども体験塾のサツマイモ堀収穫祭は中止にするのですが、子どもたちにイノシシに荒らされた畑を見せることも学習だと思い、あえて収穫祭をやる通知を子どもたちに発送しているのです。そのためにはサツマイモを確保しなければならず、先日公民館主事の赤石さんと二人で芋掘りをして、キャリーに2箱ゲットしているのです。

勢い良くつるが伸びた芋畑

 

 

 

 

 

 

つる切り

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 昨日は残り半分を掘りました。勢い良く伸びたつるを切り分け、持ち運びしやすいくらいの大きさにして、切ったつるを移動させました。つるの下から黒いマルチが顔を出しました。そのマルチをはがしてさあ芋掘りです。

鍬を高々と振りかざして芋掘りスタート
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 サツマイモに傷をつけないよう注意しながら、鍬で掘ると土の中から鳴門金時の真っ赤なサツマイモが芋づる方式でたくさん出てきました。天候のせいかつるのせいか、はたまた畑のせいか分かりませんが、サツマイモは近年にない大豊作で、掘り上げた芋をつるから切り離し、キャリーに入れる作業を手伝ってくれた親父も、大喜びでした。
ホラこのように大豊作でした
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 2時間余りの作業で掘り上げたサツマイモはキャリー3つもありました。つるを片付けた後、早速サツマイモをポリ袋に入れて近所にお裾分けし大変喜ばれました。わが家でも仕事から帰った妻が、収穫をしたサツマイモの見事さに驚き、早速サツマイモを蒸かしてくれ食べましたが、掘りだちのサツマイモはホカホカして味も良く、お陰で夕方から屁が出て仕方がありませんでした(笑い)。
 残ったサツマイモはこれから一週間陰干しをして、発泡スチロールの箱に籾殻を入れて保存する予定です。サツマイモは無農薬な健康食品なので、これからせいぜい冬場に天ぷらや蒸かし芋にして食べたいと思っています。
 
  「菜園で 親父と二人 芋を掘る 大豊作に 満足の秋」
 
  「この芋は わが家の冬の 食料品 大事に保存 しっかり食べる」
 
  「怪我功名 少し遅れて 植えながら 何故か豊作 自然分からぬ」
 
  「掘りたての 芋を近所に お裾分け お礼にブドウ いただきました」
 
 
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人間牧場

〇エクスカーション(その4)

 ものづくり生命文明シンポジウムは二日間にわたって、in松山市とin西予市の二地区で行なわれました。一般参加に加えて、NPO法人ものづくり生命文明機構や国際文化研究センター安田喜憲研究室の皆さんが大勢全国から集まりましたが、3日目は来県された県外の方をエクスカーションとして宇和島市遊子水ヶ浦の段々畑へご案内することにしました。私と渡辺浩二さん、それに宇和島から森田浩二さんに同行していただき、案内をしました。

段々畑のパンフレット

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 前夜は宇和パークホテルと松屋へ泊まっていたので、8時30分の出発となりました。私は自家用車で西予市へ行っていたため、帰路のことも考えて道の駅どんぶり館へ車を置き合流するため、30分間早く出発しました。その日の朝宇和盆地には特有の濃い朝霧が立ちこめていました。どんぶり館で旧友の薬師寺智彦さんに連絡して来てもらい、妻から預かっていた土産を手渡し、束の間の音信を立ち話しました。

 

下から見上げる段々畑

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 バスは予定通りやって来て、宇和海や入り組んだリアス式海岸の見える法華津峠を下り、吉田を通って宇和島の市内に入り、森田さんを乗せて三浦半島の先にある水ヶ浦を目指しました。壺井栄の「二十四の瞳」の「岬かと思えば島なり、島かと思えば岬なり」を思い出させるような幾重にも重なった海沿いの細い道を縫うように走り、1時間ほどで水ヶ浦の段々畑に到着しました。ボランティアガイドの方の熱心な説明を受けた後、全員で段々畑の頂上まで登りました。私もこれまで水ヶ浦には何度も足を運んでいますが、段々畑へ登るのは初めてでした。巾1mほどの小さな畑が幾重にも重なる姿は、まさに東洋のピラミッドの感じがし、同行した人たちもその美しさと人間の勤勉さに驚嘆の声を上げていました。

上から見下ろす段々畑
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
頂上での記念写真
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 遊子では旧友の藤田光弘さんがお土産の魚を発泡スチロールにい入れて持ってきてくれました。いつもながらの気配りに感謝しながら魚見ヶ丘付近から見返りの段々畑を後に眺め、宇和島まで引き返しました。途中平澤さんたちが手掛けている木屋旅館の前を通り、きさいや広場で美味しい鯛めしの昼食をみんなで食べました。
 わたしは広場で行なわれていた大道骨董市で能面を見つけ、骨董店の大将と口相撲を取って4つも能面を買いました。私がこれまで収集している能面の数は有に30個以上となっていますが、また新たな伝説が生まれそうです。
骨董市で買った能面
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 それはさて置き、バスの中では県外の人たちに私がマイクを握って、面白い話をするよう心がけて、西予市のインターチェンジまでマイクを握りました。そして短くも長くもあった二泊三日の小さな旅は一応ここで完結し、その先飛行場や松山駅までは渡辺さんに委ねてお暇しました。安田先生ご夫妻初め多くの人と心を許して話し合った思い出は今も脳裏と心に深く刻み込んでいるのです。
 どんぶり館から車を走らせて自宅に帰ると、既に私のパソコンにお礼や感想のメールが入っていました。さあこれからハガキを書かなければなりません。
 
  「東洋の ピラミッドだと 形容す いやいや違う これは人汗」
 
  「段畑の 頂上付近 墓ありて 先祖見守る 故に尊し」
 
  「巾僅か 一尋ほどの 狭い畑 耕し芋麦 人々救う」
 
  「ジャガイモの 作付け間近か 耕して その時を待つ 一番静か」 
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人間牧場

〇ものづくり生命文明シンポジウムin西予市(その3)

 シンポジウムの二日目は会場を愛媛県歴史文化博物館に移して行なわれました。皆さんは前泊のJALホテルからバスでの出発でしたが、私は前夜商談?が成立したギノー味噌の田中社長さんから、お味噌を受け取るために7時半に家を出て、松前町のギノー味噌へ向かいました。田中社長さんは8時の約束をたがわず荷物を準備してくれていました。荷物を受け取った後急いで自宅へ引き返し、私の荷物を積んで夕やけこやけライン~長浜~大洲(国道56号線)~西予市と走り、9時半には会場へ到着です。
 前日もそうでしたが、えひめ地域政策研究センターの研究員の皆さんが実にかいがいしく裏方に徹して働いていただいてくれたので大助かりでした。

シンポジウムの資料

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

シンポジウムの内容を知らせる愛媛新聞の社告と内容
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 この日のプログラムは3部に分かれていて、「森・海からの日本再生:漁師は海を恨まない」という畠山さんの講演、畠山さん、安田先生、それに不詳私による「森里海で生きる」という鼎談、南予の高校生と語る「南予のくらしに確かな未来がある」というディスカッションでした。会場には高校生を含めて250人もの人が集まり、ほぼ満席でした。
 私の出番は鼎談でしたが、畠山さんと安田先生への進行役に徹したため、私の話は余りしませんでした。お二人の話の内容概要は昨日の愛媛新聞に掲載されていました。約40分という短い時間の鼎談でしたが、お二人の話には今回のシンポの本質に触れる話が随所にちりばめられていました。
 嬉しいことに私の仲間が沢山参加してくれていました。中には私の恩師である城川の西岡先生もわざわざ来ていただき、久しぶりに旧交を温めました。
昨日の愛媛新聞5面社会覧に掲載された鼎談の内容
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
  交流会は宇和パークでした。二日目の交流会も大いに盛り上がり、私も用意してもらったノンアルコールのビールを飲んで、すっかり酔った気分になり、レクチャーや出し物にハーモニカまでリクエストされ汗顔でした。交流会では最前列に私と畠山さんの席を対面で用意いただき、水産高校の思い出のこと、唐桑のこと、震災のこと、家族のことなど深い話を対話する機会が持てて、本当によかったと思っています。畠山さんは昨日の一番の飛行機で帰るため、早立ちで岸本さんと松本さんが空港までお見送りをしたようです。
 
 交流会後の夜は長く、相部屋となった渡辺浩二さんと久しぶりに水入らずで深夜までお話をすることができました。渡辺さんは私がバトンを渡したえひめ地域づくり研究会議の代表運営委員です。研究会議のこれまでと今、これからの活動、職場のこと、仲間たちの消息、家族との向かいあい等、私の心を心行くまで満たしてくれました。軽い吐息やいびきを感じながら深くも浅い秋の夜長を楽しみました。
 今回のシンポジウムはえひめ新聞社の武田さんと浅野さん、えひめ地域政策研究センターの研究員、それに渡辺さんが黒子に徹してくれたお陰で何とか成功しました。私は出番もあって運営には深く関わりませんでしたが、責任者として心を痛めた岸本さんの心労も大変だったのではないかと慮るのです。高校生から事前にアンケートをとり意見を集約した南さんの下支えも見事で、今回のシンポに高校生を加えた作戦は大成功だったようです。
 
  「念願が 叶って会いたい 人に会え 深いご縁を いただきました」
  
  「いつの世も 表と裏に 人ありて 裏人黒子 いてぞ成功」
 
  「頑張って いるから来たぞ 恩師言う 差し出す握手 私オロオロ」
 
  「秋夜長 仲間と枕 並べつつ あれやこれやと 思い出話」
 
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人間牧場

〇ものづくり生命文明シンポin松山(その2)

 愛媛新聞の社告のお陰か、松山が文化度が高いのか、はたまた幸福になりたいと思う人が多いのか、松山市総合コミュニティセンターには220人もの人が集まりました。この日のお目当ては、何といっても「森は海の恋人」というキャッチフレーズで、一躍有名になった宮城県気仙沼市唐桑で、カキ養殖や植林に取り組む畠山重篤さんの講演です。顎に白髪の髭を蓄えた風貌は、まるで仙人を髣髴させるような出で立ちですが、非常な謙虚な方で東日本大震災に遭い、苦難を乗り越えようとする言動には熱いものが伝わってきました。

10月9日付愛媛新聞3面総合欄に掲載された当日の記事

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 私も及ばずながらこのシンポジウムには、、企画段階から関わっていますが、ひょっとしたら私が一番畠山さんにお会いして話を聞きたかったのかも知れません。畠山さんは1943年の生まれですから私より一歳年上です。宇和島水産高校を卒業している私と同じように気仙沼水産高校の卒業で、海の環境を守るには海に注ぐ川、さらにはその上流の森を守ることの大切さに気付き、「牡蠣の森を慕う会」を結成、1989年より気仙沼湾に注ぐ大川上流の室根山で、漁民による広葉樹の植林活動「森は海の恋人」運動を続けています。この活動は小中学校の教科書にも紹介されています。

 

ステージのスクリーンに双海の夕日を写しながら話しました

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 松山会場ではパネルディスカッション1「坂の上の雲とこれからの幸福のかたち」、パネルディスカッション2「これからの幸福論~明治維新から東日本大震災までとこれからの日本~」というテーマで、熱い議論が繰り広げられました。私はパネル2の方に出演が予定されていましたが、私を含めて5人のパネラーが、場所文化機構副代表吉沢さんの進行で、僅か1時間30分の短い時間で語るのですから、発言が一番しんがりとなった私の話など、多分聞く人はいないだろうと、開き直って話しました。
 私の話は日本がこれまで追いつけ追い越せの朝日型国づくりをしてきた結果、地方が縮む社会になって危ないと訴えました。

 私が夕日によるまちづくりを始めたころは、坂の上の雲を目指して誰もが、私のやろうとしていた夕日をあざ笑っていました。夕日によるまちづくりの出発となった夕焼けコンサートは、文字通り100人の中で99人が反対しましたが、社会が下降線を辿ったり低成長時代になると次第に雪解けとなり、特に阪神淡路や東日本大震災以降は、成長の限界に気付き夕日のような穏やかな社会が求められつつあるのです。今は朝日型から夕日方に代わろうとしている潮目の時だと話しました。

  「五番目の しんがり何を 話すのか 貧乏くじ引く だけど頑張る」

  「坂の上 雲を見つめて 登り行く どこまで登る 彼方は見えず」

  「都会人 相手に論陣 張ったとで 田舎者ゆえ 勝てる訳なく」

  「この歳に なって会いたい 人がいる 会えて幸せ 思し召しかな」

  追伸 私のブログにはもう一つ、アメーバブログに部屋があります。覗いて見てください。

 

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人間牧場

〇坂の上の雲のまち松山公開講座(その1)

 私にとって今回の坂の上の雲のまち松山公開講座も、国際日本文化研究センター安田喜憲研究室やNPO法人ものづくり生命文明機構という団体も、まったく未知なる講座や団体で、愛媛県警察本部長岸本さんからのお声係で、企画運営に多少なりともかかわったり、出番を与えられても、テーマである「幸福のかたち~明治維新から東日本大震災までとこれからの日本~」という深い意味さえも分からず、少しだけ緊張の面持ちで昨日から参加を始めました。
 そもそものきっかけは愛媛県商工会連合会の職員で、私の後のえひめ地域づくり研究会議代表運営委員である渡辺浩二さんに、産業経済省から県警本部長となって愛媛県にやって来た岸本さんに会うよう勧められ、双海町で出会ってからでした。岸本さんは県警本部長といういかめしい役職とは裏腹に、出会ってみると温和な方で、通産官僚などというキャリアを少しも感じさせない知的で穏やかな人でした。私もある意味私人として岸本さんと向かい合い、人間牧場へ案内したり、そのことがご縁で大洲市田処のほたる祭りや夜神楽見学を妻とともにご案内したのです。

 今年の5月30日、安田先生ご夫妻が人間牧場へやって来ました。ものづくり生命文明シンポジウムin松山の打ち合わせのため来県されたのですが、岸本さんから安田先生を一日双海町へ案内して欲しいと頼まれたので、私はためらうこともなく一日ご一緒し、あちらこちらを案内、夜は道後ふなやで打ち合わせを兼ねた懇親会をやりましたが、その過程で岸本さんから粗方は聞いていたものの、安田先生が凄い人であることを肌で感じていました。安田先生は岸本さん同様温和な方で、偉さ等微塵も外に出さない方ですが、私にとっても新しいジャンルで異質な方なのでとても新鮮に感じました。
 そんなこんなで心の整理もできぬまま、加えて私もパネラーとして名を連ねて愛媛新聞の社告に、これでもかといわんばかりに紹介されたものですから、まああちらこちらから「若松さん、近々二つのシンポジウムに出られるそうで、偉いものですねえ」などと近所の人や知人から冷やかされていたのです。

公開講座の資料

 

 

 

 

 

 

 

 

 

昨日のシンポジウムを知らせる愛媛新聞の社告
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 昨日は11時から松山コミュニティセンターでシンポジウムの直前打ち合わせがあるので、少し早目の9時30分に自宅を出て、事務局である愛媛新聞の浅野和子さんから指示があったとおり、愛媛新聞の正面玄関に車を止め、歩いて会場へ向かいました。穏やかな秋の日差しを浴びながら、のんびりゆっくり20分余り歩きました。3階のシンポ会場である会議室に入ると渡辺浩二さんや浅野和子さん、それにえひめ地域政策研究センターの職員さんが、会場準備に追われていました。2階の打ち合わせ会場へ入り、安田先生や岸本さんたちと談笑しながら、次々とやって来るゲストの皆さんと名刺交換しながら、少し早い昼食弁当をいただきました。どのゲストも偉い肩書きの人ばかりで、サンデー毎日の私のような値打ちのない人間は一人もいないようでした。知らない人ばかりなので込み入った話もできず、多分ゲストの偉い人たちも、部屋の隅でじっとしている私を見て、白いご飯に入った小石のような違和感を持ったのではないかと想像していました。場違いなところへ来たもんだと自分を恥じながら、ある種開き直って開会までの時間をのんびり過ごしました。
 
  「連休と いうのに私 三日間 カゴに入れられ 自由が利かず」
 
  「名刺見て 珍しい方 そう言って 少し打ち解け 話し始める」
 
  「白ご飯 入った小石 違和感が 開き直って 何とかなるさ」
 
  「この歳に なって人前 恥をかく これも最後の 体験思う」
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人間牧場

〇ゴルフ嫌いな私

 私は紳士のスポーツといわれるゴルフはやったことがありません。といえば噓になりますが、私の友人にシングルの人がいて、「一度でいいから騙されたと思ってゴルフ場へいって見ないか」と誘われ、騙されたつもりで一回だけハーフコースの小さなゴルフ場へ出かけました。行ってみるとゴルフ場には何人かの人が、さもお金持ちのような服装で、楽しそうにゴルフを楽しんでいました。そこへ行くと私はカジュアルな服装とはいいながら、田舎のおじさんのような姿で、クラブを持ち、似合いもしないゴルフをやったのです。
 残念ながら結果は散々で、林の中や砂の中、挙句の果ては池の中へゴルフボールを落として、一緒に行ったシングルの友だちの大いなる足手まといとなったのです。私はその時からゴルフが大嫌いになり、誘われようが、「お前はゴルフもできないのか」と馬鹿にされようが、ゴルフだけはすまいと心に決めたのです。

 ゴルフのボールは小さ過ぎて、練習しているとはいえよくもまあ当たるものだ感心します。しかしプロの人さえ私が失敗したように時には失敗して、林の中や砂の中、時には池の中へボールを打ち込んでいますが、さすがにその人たちは顔色一つ変えず平静悠然としていて、相手と競争しているにもかかわらず相手をののしることもなく、「この人たちは余程人間ができている」と思ったりするのです。
 私だったら悔しくてクラブを振り回して八つ当たりしたに違いないと、ゴルフをやらなかったことに、安堵の胸を撫で下ろすのです。若い石川さんや宮里さんのようにゴルフで賞金を稼ぐ人がいますが、ゴルフ嫌いな私は羨ましいとは思わないのです。

 ゴルフが嫌いな理由はもう一つあります。それは暇と金がないのです。若いころから青年団活動や公民館活動に明け暮れ、その後のボランティア活動や地域活動で私にはゴルフをやる暇はありませんでした。また律義者の子沢山の宜しきを得て4人の子育てでゴルフをやるような金銭的余裕はなかったのです。ゴルフは大人の社交場といわれるように、ゴルフを通して人と人の交流や、仕事の相談等が行なわれているようですが、私はゴルフをしなくても、ゴルフを上回る人と情報のネットワークを得ることができたのですから、もう十分なんです。多分ではなく絶対、私はこれからもゴルフはしないでしょうから、別の人生を歩んでみたいと思っています。

 

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人間牧場

〇散髪屋で噂話を聞きながら男前を上げました

 私は大体ひと月に一回ぐらいの間隔で近所の散髪屋さんへ、男前を上げに出かけます。昔から散髪屋と風呂屋は噂話の宝庫といわれるように、散髪をしないのに何故か近所の人がたむろして、近所の人の噂題を面白おかしく話しているのです。ひと月に一回行く散髪もそういう意味では、役場を退職した私としては地元の話に耳を傾けれる、僅か一時間ながら楽しい時間でもあるのです。
 私は身だしなみには案外無頓着です。特にこの歳になるとそんなにお洒落しても、誰も見向きもしてくれないと諦めているのか、散髪に行く間隔も多少伸び気味で、講演等に行く前「もうそろそろ散髪に行ったらどう」と妻に言われて、「そういえば少し伸びたかな」なんて調子です。一昨日も「お父さん、週末には3日間もシンポジウムに行くのだから、散発をした方がいい」と勧めてくれました。若いころには私が「散髪に行く」と言ったら散髪代が惜しいのか、「どこを散発するの。まだ早い」などと後ろ髪を引っ張られたもので、今とは偉い違いです。

 

男前上げたところでこの程度

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「歳をとるとせめて身だしなみはきちんとしないと人に嫌われるよ」と、さいきん妻からあれやこれやと注意を受けます。そういえば退職してからはあれやこれやと妻がいうように、朝は着替えもせずにパジャマのままでブログを書くし、時にはパジャマのままでウロチョロして、急な来客にハッとすることがあるのです。
 私の頭は電動バリカンで襟裾を刈り上げ、その後は鋏で短く刈る、いわば丸刈りタイプの散髪です、顔を剃り頭をシャンプーして顔を自分で洗い、整髪香料をささっとふるだけのシンプルなものですが、散髪屋の対象と奥さんの二人がかりで小一時間、金額は3400円です。最近は市内に千円散髪の店もできているようなので、そこに比べると格段高い金額ですが、頭を刈ったり顔を剃ったりする間ついウトウトと昼寝をしたり、噂話を聞ける代金を含んでの金額ですから、まあ一ヶ月持つことを考えれば安いものです。

 考えてみれば、私の頭や顔を男前にしてくれるのは世界中で散髪屋の大将と奥さんだけですから、多少値上げされても我慢しなけばなりません。
 昨日の話題は先日亡くなった近所の人の話や、近づいた秋祭り、そして最近多くなった離婚の話でした。犬も食わない世間話ですが散髪屋に集まってくる暮らしの情報は、PCネットを持たない庶民の暮らしの話なので、それなりに考えさせられるものがありました。私が毎日熱を入れて書いているブログの記事など、読まない人には分からないのです。
 人々の暮らしはいつものように朝が来て、いつものように夜で幕を閉じ、噂話に耳を傾けながら一喜一憂して短くも長い人生を終えるのです。散髪屋の噂話に耳を傾けながら、ここには時間が止まったような、穏やかな世界があることを実感しました。

  「散髪を したらどうかと 妻勧め 五千円札 持って出かける」

  「散髪屋 噂話の寄る所 面白可笑し 話満載」

  「犬食わぬ 噂話に 耳を向け 顔は鏡に じっと釘付け」

  「大将と 奥さん協働 散髪屋 二人がかりで 男前上げ」 

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人間牧場

〇ピザ釜完成間近か

人間牧場へピザ釜を造ろうと思いついたのは今年の春先でした。そして補助金でもと思いついたもののそれも当てがはずれ、仕方なく松本小番頭の努力で、年輪塾のなけなしの財布をはたいてやることを決意し、築炉工事を快く引き受けてくれた閏住の戸田さんに、土台の大まかな設計図を書いてもらいました。その設計図に基づいて地元の土木業者大栄建設に格安で石積みをしてもらい、7月7日ごろに土台が完成しましたました。早速耐火煉瓦などの資材を調達し8月の暑い最中、戸田さんと松本さんが目いっぱい汗をかき、8月3日ごろには築炉工事が佳境に入りました。その後戸田さんの仕事の都合で築炉工事は中断していましたが、わが家のリフォーム工事のついでに、ピザ釜の上屋工事をしてもらい、ピザ釜はじっくり時間をかけて自然乾燥させたのです。

 

完成間近な人間牧場のピザ釜

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 今回のピザ釜築炉工事における私の役割は土台工事にくらいなもので、その殆んどを戸田さんと小番頭の松本さんがやってくれました。
 今日人間牧場へ草刈に行きました。近々子ども体験塾の収穫祭があるし、加えて三重県から親友の杉谷さんが愛媛で開かれる過疎シンポに来たついでに、松本さんの案内で人間牧場を訪ねるようなので、少しは綺麗にしておかねばならないと思ったのです。
 人間牧場水平線の家周辺と、侵入路の両側を中心に半日ほど草を刈り、どうにか体裁を整えました。人間牧場に開設以来残している大きなススキの一株から、ススキの穂が何本も出て出て、まるで活花でも見ているようです。ススキは秋が来たことを告げているようでした。

人間牧場のススキの大株
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 松本さんの話によると、日の焚口やピザ釜周辺を退化コンクリートで化粧すれば出来上がるとのことです。予定より少し遅れましたが、その分乾燥もしっかりできたし、完成が待たれるところです。高知県馬路村の木下さんに弟子入りして上手にピザを焼く修行をしなければなりません。今のところそんな暇はありませんが、仲間や家族の協力を得てまあぼちぼちやろうと思っています。それにしてもわが双海町にもピザ釜を作れる人がいたとは驚きです。
 
  「また一つ 人間牧場 名物が これから先が とても楽しみ」
 
  「人間は 愛や恋より 食べること 万国共通 みんな大好き」
 
  「もうこれで 終わりと誰も 思ってる いやいやこれから もっとやりたい」
 
  「また少し 資金蓄え 背伸びせず 身の丈あった 程度に進化」
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人間牧場

〇イノシシ被害でサツマイモ全滅!!

 それはもう「青天の霹靂」とでも言うべきことでしょう。先日のことです。人間牧場での子ども体験塾収穫祭が間近に迫ったので、周辺の草を刈って準備をしようと、公民館主事の赤石さんと二人で出かけました。私は草刈機に使うガソリンを綿井石油で10ℓ買い求め、赤石さんより少し遅れて人間牧場へ到着しました。到着すると赤石さんが落胆した様子でウッドデッキに座り込んでいました。その空気でサツマイモ畑の異変を察知しましたが、「イノシシにやられました」という言葉を聞き、ロケ風呂下の畑へ一目散走って行きました。
 上から見る畑はまるで鋳物収穫を終えた畑のように、赤土が掘り返されてむき出しになっているのです。人間が鍬で掘ってもこうも綺麗に掘れないと思えるほどの見事な仕業です。

イノシシの被害で全滅したサツマイモ畑
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
無残にもなぎ倒された案山子・何もここまでしなくても・・・。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 この畑はこれまでにも何度かイノシシの被害に遭いましたが、これほど酷い仕業は6年前の初年度以来二度目です。子どもたちがイノシシ除けの願いを込めて作って立てていた案山子も無残に倒されていました。
 頑丈な網で囲っているのに何故と、イノシシの侵入経路を探しましたが、どうやら下の畑からスカートをめくるようにして侵入し、悪態の末満腹になって同じような経路で退散したような形跡が見えました。来週の土曜日(15日)に予定している収穫祭の子どもへの案内状は発送しているので、どうしようか迷いました。
 実はこんなこともあろうかと、去年も今年も二段構え作戦を考えていて、私の家の横の家庭菜園へサツマイモを植えているのです。
わが家の家庭菜園に作っているサツマイモ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 二人別々の車でわが家まで引き返し、サツマイモ畑のつるを切って芋掘りをしてみました。昨年は異常猛暑でサツマイモは余りできませんでしたが、掘ってみると今年は豊作で2列だけマルチ栽培した芋は長めのキャリーに2箱も収穫できました。これなら子どもとリーダーを含めて50人の参加予定にも十分対応できると判断し、芋掘りこそできないもののリアルのイノシシの被害状況も失敗経験として学ばせることができると判断し、予定通り収穫祭をやることに決定しました。子どもたちにはまだイノシシ被害のことは内緒にしておこうと思っています。
 
 私も落胆しましたが、担当である赤石さんの落胆は相当なもののようでした。幾多の失敗を潜り抜けてきた私には「何のこれしき」ですが、純真な赤石さんにはしてみれば怒り心頭かも知れないのです。「これがお百姓さんだったら大変でしょうね」と言いつつ、掘り上げたキャリー二つのサツマイモを車に積んで帰って行きました。
 「遊びでやる農業は楽しく、失敗も笑って済ませるが、飯を食う農業はしんどい」という私の言葉を思い出しました。たとえ相手ががイノシシでも、収穫ゼロ・食料ゼロで冬を迎えることのつらさは被災と同じです。このことを子どもたちにどう伝え、どう教えるか、私や赤石さんの技量が試されそうです。
 
  「今年また イノシシ被害 サツマイモ 全滅落胆 相当ショック」
  
  「この様子 子どもにリアル しっかりと 見せるも学び 技量試され」
 
  「無残にも 案山子にまでも 八つ当たり 今頃彼ら 豊作祝う」
 
  「イノシシに 智恵で負けたか 今年また 新た作戦 来年こそは」
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人間牧場

〇飽きが来ずに秋が来た

 夜が明けるのが遅くなり、夜が来るのが早くなったと感じるようになりました。季節はもう完全に秋モードです。これまでだと午前4時に起床して、書斎でブログを書いたり本を読んだりしていると直ぐに夜が明けるような感じがしていましたが、朝5時にやって来る新聞屋さんも牛乳屋さんも完全に暗がりで、懐中電灯片手にやって来ます。東の空が明るくなると、前夜のテレビによる天気予報を確かめるように、東の空を見るのが日課になってきました。今朝は薄雲がかなり速い速度で東から南西の方に流れていました。こんな時は決まって秋特有のコチ若しくはくだりと地元で呼ぶ東寄りの風が吹くのです。

空が高くなったような朝の空
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 東よりの風は陸風が海風に変わる9時過ぎから強くなり始め、昼ごろには白波が立つほど強くなりますが、「くだりと夫婦喧嘩は夕方に凪ぐ」といわれるように、夕方5時ごろには一旦止みますが、明くる日も同じようなパターンで吹くので、猟師さんたちはいい日和なのに漁にも出られず、ジレンマを感じながら過ごすのです。
 秋風が吹くのは主に10月から11月初旬にかけてですが、やがてその風が収まると本格的な冬の北西の風に変わり、来年3月初めまで深い眠りに就くのです。
 
 私の書斎をダイニングに衣替えしてから、外を眺め夫婦二人で話しながら食事をする時間が増えてきました。食卓の上に花を飾り、日々の出来事や、見聞きした話題を話すのですが、妻は近所の歯科医院にパートで勤めているため、町内の話題を患者さんが話すので、むしろ私より町内の話題は豊富で、「へえ」と思うことや、「お目出度お悔やみ」など話題には結構事欠かないのです。
 妻の作った手料理を食べながら二人で話し込む風景がダイニングの窓に映る姿は何ともほほえましく、幸せさえ感じています。このまま幸せが続くように今晩も二人で色々な話をしました。だとさ・・・。(笑い)
 
  「旧書斎 ダイニングになり 朝昼晩 二人で食事 窓に写りて」
 
  「食卓に 野花一輪 活けにけり 夫婦の会話 仲を取り持つ」
  
  「今晩も 妻の手料理 満足し 秋の夜長を あれこれ話す」
 
  「何気ない 日々の暮らしが 幸せと 感じる歳に なってしまった」
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