shin-1さんの日記

〇フーテンの寅さんとのやり取り(その②)

 フーテンの寅さんと私のやり取りは、今日の私のブログ「フーテンの寅さんとのやり取り(その①)で紹介したとおりですが、ふと気がついて私の自著本「昇る夕日でまちづくり」をめくってみると、225ページに「寅さんの寝像を造りたい」という小見出しで文章を書いてます。

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 昭和52年フーテンの寅さんこと渥美清が、往年の大スター嵐勘十郎が大洲を舞台にお殿様として出演した寅さんシリーズの第19作目「殿様と虎次郎」のロケのために山田洋次監督とともにやって来たことは前にも書いた。

 寅さんは下灘駅のプラットホームのベンチに横になって夢を見ている。鞍馬天狗と自分をダブらせ、新撰組に負われ、馬で必死に逃げようとするが、黒頭巾が目をふさいで上手く逃げれない。「お客さん、のぼりの列車が来ましよ:とエキストラ役の駅長さんに起こされ、「ああ、良く寝た」と海に向かって両手を広げ、大あくびをしてストーリーが始まる算段である。

 当時私は役場の広報マンをしていたこともあり、そのロケ風景を下灘駅へ取材に行った。山田監督の許しを得て、寅さんと始めて対面し、写真を撮らせてもらった。「すみません。街の広報担当の若松という者ですが、写真を一枚撮らせて下さい」というと、寅さんは「やあ」と左手を上げて軽く会釈し、ベンチに寝ているポーズや、あの旅行カバンを持ち、縞模様のダブルの背広を羽織ってプラットホームを歩いてくれた。ものの5分ほどで、しかも返ってきた言葉は「やあ」だけの出会いだったし、死後「国民栄誉賞」をもらう大スターなんて夢にも思わなかったからすっかり忘れていたが、双海町の町政要覧には、その時私が撮影した写真が載っている。以後、虎sんとであった下灘駅のプラットホームを使って「夕焼けコンサート」を既に書いたが、あの「夕焼けコンサート」が私の出世作となろうとは、夢にも思わなかった。


 文章はこの後小見出しのように「寅さんの寝像を造りたい」という私の夢物語へと発展していますが、続きは次の機会に紹介したいと思います。

 さて縁とは不思議なもので、今日奄美大島の友人重村さんから電話がかかってきました。重村さんはアマチュア相撲の全日本チャンピオンになった人で、瀬戸内町の役場に勤めています。風の噂だと後に町会議員になった池田さんたちと共に双海町へ研修に訪れ、私も何度か講演に招かれましたが、招かれた時偶然訪ねた加計呂間島は浅丘ルリ子が出演した寅さんの映画に出たリリーの家がありました。

 いつの日かもう一度瀬戸内町の加計呂間島へも行ってみたいと思っています。実は私設公民館煙会所の分家である第17縁開所へ看板を送っていますが、その後どうなったか・・・・。これも見定めたいと思っています。とりあえず重村さんが送るといった写真集の到着を首を長くして待ちと思っています。


  「自著本に 寅さん出会い 克明に 寝像の夢は 今も忘れじ」

  「よくもまあ 連鎖反応 起こるなあ 奄美の友の 電話嬉しく」

  「そういえば 十七番目の 縁開所 跡形もなく 消えているかも」

  「大雨の 被害気にして 一度だけ 元気な声を 聞いた記憶も」 

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〇フーテンの寅さんとのやりとり(その①)

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 昨日の夕方朝日新聞の取材で下灘駅へ行った折、市役所の松本さんが広報ふたみの縮刷版から、私が書いた昭和52年8月1日付の候補をコピーして持って来てくれました。そのコピーは記者の小泉信一さんが資料として持ち帰りましたが、私の書斎の書棚には私が書いた昭和49年4月15日付け(299号)から昭和58年7月1日付(505号)の広報がファイルされ大切に保管されています。

 取材が終って帰宅後、昭和52年の綴りを取り出して開けてみると、8月1日号に、「男はつらいよ」「寅さん下灘駅でロケ」という見出しで、次のような記事を書いていました。

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 ちぢみの半そでシャツに毛糸の腹巻き、山高帽子で、夏になると必ずやって来る。ご存知「男はつらいよ」のフーテンの寅さんこと渥美清が、ロケのため双海町にやって来ました。

 男はつらいよ19作目は、中心舞台を四国大洲とし、大洲藩主八代目の当主藤堂宗清を演ずるかつての鞍馬天狗嵐寛寿郎殿様と、こころ優しい寅さんの浮世はなれためぐり逢いの楽しい映画だそうです。今回のワンカット撮影地となった下灘駅は、すぐ下が海の駅として全国的にも有名であり、これまでにも小林旭の映画や、長山藍子の出演する映画のロケになったところであり、カメラマンの来町も多い場所です。

 下灘駅のプラットホームにあるベンチに横になって仮眠している寅さんに駅長さんが、「お客さん、上りが来ますよ」と起こすと、寅さんが寝ぼけた調子で、ウウン、あそう」と起き、海に向かって大きなあくびをする簡単なひとコマでしたが、本番に入るまでに幾度となリハーサルをくり返し、そのたびに別人のように芸をこなす渥美清の姿に、さすがプロの人気スターだと思いました。

 それにしても凄いスタッフです。山田洋次監督以下数十人が、色々な役柄で取り組んでいました。撮影の後、上灘駅前の上田商店で休憩、食事をして帰途につきました。

 インタビューに応じてくれた山田洋次監督は「この映画は、寅さんと殿様が友達になるという浮世離れした物語です。浮世は余りにもつらくて、重く、苦しいことばかりです。我々はせめて映画館の中で、浮世をはなれて夢を見たいというのが願いではないでしょうか」と話されました。

 8月6日、全国一斉に封切られる下灘駅の一コマをみたいものです。


 ワープロもパソコンもなかったあの頃は、後方ふたみ専用の13文字20行の原稿用紙に鉛筆と消しゴムを使って原稿を書いていました。思い出せなくて書けない漢字は漢字辞典と国語辞典を使って書いたものです。文字の世界はバーチャルですが、見た目や肌で感じた記事はリアルで、今でも当時の様子が懐かしく思い出されるのです。

 この映画の場面となった下灘駅での出来事は私の心に深く刻まれ、夕日の物語のプロローグとなったのですから世の中は分からないものです。


  「もし私 ロケの現場に 行かずんば コンサート会場 使わなかった」

  「寅さんや 監督さんとの やり取りは 文字に残りて 今もリアルに」

  「早いもの あれから三十 四年経つ 三十二歳の 夏の出来事」

  「寅さんも 今はこの世に いないゆえ 映画だけしか 出会うことなし」 


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