shin-1さんの日記

○プリンターのスキャナーが使えるようになりました

 恥ずかしい話ですが、パソコンを使っているしエプソンのプリンターを使っているのにこれまで、写真や絵、それに新聞のスクラップを画像にするのには、デジタルカメラで直接撮影してデジタル化していました。要はプリンターに内蔵されたスキャナーを使ったことがないと言うだけでの話なのです。2年前私の誕生日に子どもたちがプリンターをプレゼントしてくれました。その説明書きにはスキャナー内臓と大書していましたが、忙しさにかまけてロクに説明書も読まず、むしろプリンターはプリントアウトする道具だと思い、ブログの記事や送られてきた文章をプリントアウトするだけに使ってきたのです。スキャナー機能を一度は使ってみたいと思っていましたが、昨日お盆で帰省した息子が突然朝日新聞から送られてきた写真を見て、スキャナーでデジタル化してくれたのです。

 こんな使い方ができるのかと感心しながら目を丸くして見ていましたが、操作はいたって簡単であっという間にマスターしてしまいました。

さあそれからスキャナーの使い方の練習のつもりで、これまでの写真の中から幾つか選んで入力してみました。

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 上の画像はえひめ地域づくり研究会議が20周年を迎えた時、記念誌を編集発行しました。当時代表を務めていましたので記念号にふさわしい表紙にしようと相談して、五十崎の旧友山田さんにご無理を言って版画で山里の棚田風景を彫ってもらいました。

 その時の原画が手元にあって、思い出の一枚だけに保存したいと思っていましたが、スキャナーで綺麗に画像入力することができました。スキャナーとはパソコンの画像入力措置のことですが、写真や絵からの反射光の強弱を電流の大小に変換することによって入力する優れモノです。意味は分っていてもどんなメカがそんな仕事をするのか、私のような凡人には知る由もないのです。私の浅はかなパソコン能力に強い助っ人ができました。これからはスキャナーをしっかりと使って残したい資料をデジタル化したいと思っています。ついでにもう一つ新聞のスクラップをスキャナーで処理をしました。

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 この記事は2009年2月23日月曜日付山形新聞の夕刊一面の「気炎」というコラムに星寛治さんが撫心庵人というペンネームで「伊予の人間牧場」と題して書いた記事です。年輪塾の公開セミナーに訪れ、「農の魂(こころ)を求めてー宮沢賢治と私ー」という演題で話した時の感想がリアルなタッチで描かれています。

 星さんが私に送ってくれた新聞ですが、うず高く積まれたスクラップの中に埋もれて、今後も陽の目を見ないであろう記事がこうしてデジタル情報処理されて、しまっている場所さえ覚えておけば劣化することなくいつでも引き出せるようになったのです。

 資料収集家ではないのでそれほどこだわった収集や分類はしていませんが、それでも整理整頓ができるという点では偉い進歩なのです。これで無智によって生ずる不幸は知ることによって避けられるといいますが、無智によって失われる記録が知ることによって失われることなく保存されるのです。


  「大切な 写真や記事を スキャナーして 記録に残す 術を覚える」

  「色あせた セピア色した 新聞も スキャナーすると 綺麗修復」

  「前ばかり 見て活動の 俺だけど 後ろ振り向き 整理もせねば」

  「カタログを 読みもしないで 使ってた も一度読んで 使いきりたい」

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○ちょっとした騒動

 昨日はお盆や終戦記念日、それに甲子園での高校野球なども重なって、何となく賑やかな一日でした。朝から小降りの雨が降っているにもかかわらず、私が造ったシーサイド公園のビーチには大勢の人が訪れて、わが町のお盆は田舎が田舎でなくなる日かもしれませn。私たちが子どもの頃お盆に泳ぐと河童に足を引っ張られるから泳ぐな」と言われたものですが、そんな伝説や迷信も何のそので、まるで裸ではないかと思われるような水着姿の若い女性が、ビーチでキャーキャー言いながら泳ぐ姿を見て、日本も変わったと思いました。

 田舎ではお盆の帰省に合わせて色々な催しが行われます。そのひとつが同級会です。中学校時代の仲間が帰って来るのに合わせ、地元で暮らす物好きな人たちが幹事になって同級会を開くのです。公民館を借りた質素倹約型から、地元の料理屋さんを借りた普通型、松山に繰り出すちょっと豪華型まで、その様子は様々ですが、恩師を呼んで久しぶりに懐かし顔々が揃うのもお盆なのです。さすがに還暦を過ぎた私たちには、お盆の仏事や子どもの帰省などの世話があって同級会どころではないようですが、昭和47年生まれの長男も、昨日6時から近所の料亭で予定されている同級会に出かけて行きました。

 孫に食事をさせたり風呂に入れたり寝かせたりと息子のいない分をカバーして一息ついた9時半ごろ息子は歩いて帰りました。私の血筋を受け継いでいないのか、息子は缶ビール一本が限度のような下戸なのです。それでも同級会とあって少し度を過ぎてお酒を飲んだらしくて、体中真っ赤になって、まあ赤尾にではないかと思うほどでした。帰ったころは酒の勢いもあってかなり饒舌に同級生の消息を私たちに話していましたが、そのうち暑いので裸になって居間のテレビの前横になってしまいました。顔は少し朦朧としていました。

 やがて気分が悪いといってトイレへ駆け込み、ゲェーゲェーと吐き始めたのです。妻と息子嫁は洗面器やタオルを用意したり、背中を撫でたりと、時ならぬ騒動に付き合わされてちょっとした騒動となりました。飲んだものを吐いたせいかそのうち収まって、居間で寝てしまいました。二人は布団をかけて様子を見ていましたが、1メートル80センチもある大男を動かすこともできず、そのまま眠らせることにしたのです。

 その姿を見ながら妻は、かつての新婚時代の私を見ているようだと述懐していました。実は私も余りお酒は得意な方ではありませんでした。でも酒は世渡りに必要とばかりに、漁師仲間や青年団仲間、それに役場仲間に誘われて飲み続け、お陰さまでアルコールなしでは生きていけないような雰囲気になていたのです。その過程では飲んでは吐き、吐いては飲むといった風に涙ぐましい努力をしました。特に新婚時代は妻にそのことで随分迷惑をかけたように思うのです。息子の穏やかな寝顔は私の昔と同じに写ったのかも知れません。

 10年前から胆のう手術の後遺症で酒を止めているゆえに、余計昨晩のちょっとした騒動が印象的に思えました。私が酒を飲んで吐く姿を見て昔親父が、「酒は大いに飲め、飲んでも飲まれるな」と口癖のように言っていた言葉を反芻しながら、久しぶりに大人になった息子の寝息を聞きながらお横になりました。

 午前2時までは確かに私たちの近くで横になっていた息子が、いつのまにかいなくなり、二階の家族の元へ去ったようでした。家族が恋しくなったのでしょう。お盆休みだし今朝はゆっくり寝かせてやろうと、妻は自分の朝寝坊の理由をつけて今もゆっくり休んでいます。

  「そうだった 下呂吐く息子 横目見て 若かりし頃 思い出しつつ」

  「酒は飲め 飲まれちゃならぬ 言っていた 親父の言葉 今頃なって」

  「横たわる 息子の寝顔 しみじみと 同じ道のり 歩いているか」

  「あの人が あんな人生 生きている 時の流れに 棹差しながら」

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shin-1さんの日記

○写真を撮る視点が違う

 7月22日に付の朝日新聞夕刊一面と7月23日朝刊36面「ニッポン人・脈・記、ふるさと元気通信③」で紹介された私の記事が全国配信されました。以来多くの方から激励や感想のお便りなどをいただきましたが、その取材を受けたのは4月10日でした。毎日大河のごとく事件や事故が起き、それにニュースや情報が流れる中での取るに足らない私のような人間の記事などいつ出るのかさえも分らず、すっかり記憶の中から消えていました。しかし7月22日の一週間前、取材した記者から掲載予定日といくつかの疑問点について電話があり、思い出が蘇ってきたのです。そうかあの日は八幡浜市保内町川之石の公民館の講演会に招かれた時間が気になり、長引く取材にイライラしていたっけ・・・。

 そういえばあの日は大掛かりな取材で、カメラマンまで大阪からやってきました。カメラマンは私の押され気味のスケジュールも気にせず、色々と注文をつけたのです。砂浜を歩いてくださいとか、夕日の沈む場所の地図上に座ってくださいとか言うのです。私はスケジュールを気にしながら求めに応じましたが、一応OKが出たのはまだ日没前でした。

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 わが家では朝日新聞の夕刊も朝刊も取っていないのですが、22日の夜には仲間から見た・呼んだと第一報が入り、23日にはえひめ地域政策センターの松本さんからメールに添付して新聞のスクラップが送られてきたのです。記事もさることながら写真を見て驚きました。これまでの取材ではまったくこんな写真は使っていないアングルなのです。

 そして昨日、その写真の引き伸ばしたのが新聞記者さんから遅れれてきたのです。お盆で帰省している息子がプリンターのスキャナでその写真の取り込み方を教えてくれたので、練習のつもりでやってみました。プリンターを誕生日のプレゼントに貰ってからもう2年が来るというのに、スキャナも使わないなんてと息子は呆れていましたが、お陰でスキャナの使い方をマスターしたのです。

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(この写真が新聞に使われた一枚です)

 私が気に入ったのはもう一枚の方で、同じアングルですが夕日が私の手の中にあるような錯覚をするもので、私が見出しをつければ「夕日をつかんだ男」「夢をつかんだ男」くらいの誇大見出しをつけたいような出来栄えなのです。

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 いやあいい写真です。私が悦に入っていると息子が、「それほど気に入っているのなら、お父さんが死んだときの遺影にしてあげる」と、縁起でもないことを言って家族中で大笑いをしました。

 昨日は写真づいて、大分市佐賀関町に住む渡邊又計さんからも、先日四万十市西土佐で交流した時の写真が沢山送られてきました。プロとアマの違いこそあれ、渡邊さんのセミプロのような腕前の写真も、私のような素人とは何処か視点が違っていて、いつも感心させられるのです。

 忙しさにかまけて写真の整理も殆どできていませんが、息子に教えてもらったスキャナを使って、大事な写真はデジタル化して保存したいとおもいましたが、これまたいつになることやらです。ちなみに朝日新聞から送られてきた写真には裏側に著作権が明記されていて、勝手に使えないことになっているのです。


  「一枚の 写真が語る 物語 どんな記事より 凄い表現」

  「俺などは こんなアングル 気がつかぬ さすがはプロと 感心しきり」

  「関心は 異文化ギャップ だからこそ 学ぶことあり ひらめき変わる」

  「息子から 遺影にどうか ドキリする 人間いつか 死ぬのですから」

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shin-1さんの日記

○肥えるのは簡単だが痩せるのは難しい

 「肥えることは簡単だが痩せることは難しいねえ」と、昨日近所に住む中年の女性たちがしみじみと立ち話をしていました。見れば3~4人の女性の殆どが中年太りもいいところで、「立てば芍薬座れば牡丹、歩く姿は百合の花」なんて若い時代もあったのにね」?という言葉が信じられないくらい、体のどこがくびれか分らない程ずん胴型の体系になっているのです。

 彼女たちの話を要約すると、①痩せたい願望が強い、②痩せるための努力をしている、③努力をするが成果が出ないの概ね3点でした。まず①の痩せたい願望は女性なら誰もが持っています。今はテレビが普及していて、同年代の女優さんなどがスラっとしたプロポーションで登場すると羨ましくなり、「あんな風に痩せたい」と思うのです。人間には痩せ形と肥え型の2種類があるようですが、最近は子どものころから栄養が行き届き、昔のような痩せ型体系の人は少なくなってきました。また女性は全てではありませんが「子どもを産み育てる」という大変な作業があるため、母子との関係でどうしても痩せていては仕事にならないのです。「いつ頃から太りだしたの」と聞けば、みんな「お産を境に」というのです。確かに私の妻だって、別人かと思うほど今の姿が信じられないくらい痩せ形でした。子どもを4人産んだせいもあって、お腹は季節外れの鏡餅のようになっているのです。

 じゃあ②の痩せるための努力をしているそうですが、確かにバナナダイエットや寒天ダイエットなどまるで思いつきのような行動をしています。痩せるためには食事療法と運動療法が最適と言われていますが、いくら食事療法がいいからとカロリー計算して臨んでも、お茶の時間に大福を食べ、小腹が空いたからといってケーキやお饅頭を食べたりジュースを飲んだのでは何の足しにもならず、かえって太ることをしているのです。

 痩せたいという願望を持っている妻の暮らし方を見ていると、確かに栄養過多の面があります。問題は栄養入力を超える運動量出力があるかどうかです。残念ながら妻の場合も職場までの往復1キロ以内を歩く程度の運度では運動量の確保はできないのです。最も女性は家事全般の労働量が亭主族の私たちより多いので、カロリー消費は多いのですが、やはり運動量は今後も確保しないといけないようです。

 最近は「痩せたい願望をくすぐるように、連日「わたしは○○で○キロ痩せました」なんて記事や広告、チラシが目につきます。中には「食べながら痩せる」とか、サプリメントで痩せる誇大なものまであって信じ難いこれらに飛びつき思わぬ被害をこうむった人も沢山いるようです。

 ③の「努力をするが痩せない」は、「肥えることは簡単だが痩せることは難しい」という立ち話のように誰もが認めています。成果を期待するなら毎日の体重を記録するようなチェックが必要でしょう。私の友人に「1日15グラム減量法」を実践し2年で10キロ減量した女性がいます。1日15グラムはいとも簡単な目標です。15グラムなんて脱衣場に置いたヘルスメーターで測れないくらい微妙な数字です。1か月450グラムでも微減ですが3ヶ月で1.35キロですから確実に2年後には10キロを超えるのです。

 彼女の場合糖尿病境界人と医者から言われ、不退転の決意で臨んだことが効果をあげたようですが、今はしっかりとその体重をキープして健康な生活を送っているのです。

 サプリメントや薬に頼って痩せる方法は正常とは言えません。よく「痩せたいのに痩せない」という人に私は、「痩せるには寝ないこと、食べないこと、悩みを持つこと」と笑い話のように話していますが、日本人の食生活を変えない限りどうも痩せることはできないようです。


  「痩せたいと 言う口の下 菓子食べて これで痩せたら 苦労はしない」

  「一日に 僅か痩せても 三か月 すれば結果が 出てくるはずだ」

  「痩せたいと 願望持った 女性たち 心情くすぐる ような広告」

  「ダイエット 犬の散歩で 犬が痩せ 当の本人 食欲増大」

 

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shin-1さんの日記

○人は死ねば無となるが・・・・

 毎年お盆になると死んだ人のことを思い出します。私にとって最も身近な人は母であり祖母でしたから、二人のことは時々夢に出たりして、折につけ思い出すのです。先日講演依頼があって佐田三崎半島の中ほどにある旧瀬戸町を訪ねました。午前中の集会だったものですから、急な思いつきで久しぶりに祖母のふるさとである瀬戸町小島という小さな集落へ車で向かいました。佐田三崎半島は日本一細長いと言われ13里52キロもあるのです。昔は今のような国道197号の頂上線もなく、リアス式海岸の港々を縫うように連絡船が通っていましたが、道路網の整備によって船は廃止され、遠いと思われた佐田三崎の灯台まででも、起点となる八幡浜から1時間余りで行けるように便利になったのです。

 しかし道路網の整備は過疎の拍車をかけるという思わぬ結果をもたらしました。小島も含めて浦々にある集落は住む人絶えた空き家が目立ち、高齢化も進んで限界集落と呼ぶにふさわしい地域となっているのです。


 頂上線から枝別れした道を瀬戸内海側に向かって幾重にも下ると小島湾の奥まった海岸に出ました。風光明媚な場所に住吉様という神社があって、お参りを済ませました。私が若いころ漁船で漁をしたついでに立ち寄った見覚えのある場所だけに感慨も一入でした。

 近くで談笑しているお年寄り2~3人に祖母の旧姓古高という話をすると懐かしそうに色々なことを話してくれました。祖母が生きていたら100歳を超えるのですから祖母にまつわる話は聞けませんでしたが、親戚のこと、家のあった場所、お墓のことなどを聞きました。願わくば私のルーツであるので再訪してみたいと思いながら元来た道を引き返しました。

 人間は何処から来て何処へ去っていくのか。考えれば果てしない疑問です。地球上に生まれ有となり、死ねば祖母のように無となります。しかし無となっても私の心の中には有として存在するのですが、それもいつしか無となって忘れ去られてゆくことでしょう。しかし私が祖母の生まれたふるさとを訪ねたいという衝動に駆られたのは、やはり無の中で有を感じたからだと思うのです。

 何年か前「人は死ねばゴミになる」というショッキングな本を読んだことがあります。確かに物質的や科学的にはゴミになるのかもしれませんが、せめて短い時間でも無でありながら有と感じるような人間でありたいとも願うのです。無は有の反対語ですが、有でありながら迷いや煩悩のない無の境地になることも大事なことかもしれません。無から有が生まれ有から再び無に戻る悲しい人間の嵯峨をふとお盆ゆえに考えてしまいました。

 今日はお盆、外は30度を超える猛暑ですが、思い切って先祖の墓参りにでも行くとしましょう。


  「無とか有 暑いさなかに 考える 結論も出ず 馬鹿げたことと」

  「わがルーツ 三崎半島 中ほどと 久方ぶりに 訪ね歩いて」

  「初盆の 友なき家を 訪ねたり 仏壇傍の 灯篭悲し」

  「盆が来て 次は祭りに 正月と 歳を加える 老いのせつなさ」 

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shin-1さんの日記

○いいこととできることは違う

 「毎日早寝早起きがしたい」「毎日日記や家計簿をつけたい」「お酒やタバコを止めたい」「食事を制限して痩せたい」などと、人は簡単にできそうなことを思ったり口にしたりしますが、これが実践となると中々続かないものなのです。かくいう私も子どもの頃は日記が続かず、大人になってからお酒も止めれませんでした。多分それは自分の心の弱さだったのです。

 あるときある人に出会いました。その人は「できもしない目標を立ててもそれは計画倒れになりかえって自分が惨めになる。できる目標を立てろ」というのです。その人の話を聞いて「自分は今まで理想ばかりを追っていた。確かに日記を毎日つけることはいいことだが、今の自分にはそれだけの持続能力が身についていない。自分の予定表に例え一文字、一行でもいいから文字を書き込むような行動をすればそれが習慣化して身につくようになる」「大好きなお酒も1カ月に1回でも1週間に1回でもいいから休肝日を作ればいい」と納得したのです。

 早速ささやかな予定表日記と1週間に1回の休肝日を目標に、自分の部屋に「毎日日記を書く」「1週間に1度の休肝日」などと書いた紙を張って始めてみましたが、これくらいならどうってことないと思うようになり、何とか1年の目標をクリアーできたのです。

 私は目標を達成すると自信がわき、無理は禁物という気持ちを越えてもう少し重めのノルマを自分に課すようになりました。「お酒を1週間に1回飲まない日をもう少し増やし、酒を飲まない日はお酒を飲んだつもりで1回千円のつもり貯金をしたらどうだろう。1か月に10日で1万円、12か月で12万円貯まるかも知れない」と思うと、そのあとに何か面白いことができそうな夢の世界が広がってきたのです。「そうだそのお金を原資にして人間牧場を造ろう」そう思いました。48歳ころから始めたこのお酒を飲んだつもり貯金は、結果的に胆のう摘出手術で酒を完全に断ったため、多少目的とかけ離れましたが、それでも58歳までの10年間に120万円の貯金を目標通り達成し、人間牧場の柱や屋根の一部になっているのですから、人間は成せばなるものです。

 自分にできそうな目標を立て、それも日々の暮らしの中で実践化しながら習慣化する、そうすれば自分の人生が確実に進化する。簡単なようで難そうですが、やってみると案外難しそうで簡単なものなのです。

 1日1行の予定表日記はもう30年も続けているし、その習慣がいつしかパソコンを利用したブログ「shin-1さんの日記」に進化して、もう4年になるのですから驚きです。また1日3枚のはがきを書くことも24年間続いている私のささやかな実践だし、今はもう止めていますが、毎日朝5時から3時間シーサイド公園の掃除をした実践も12年間続いて私の大きなパワーとなったのです。


 お酒も日記もハガキも気がつけば習慣化しましたが、でも「いいこととできることは違う」といつも思うのです。人間は欲の塊のようなもので、少しできるともっとできる、もっとできると更にできるとついついオーバーワークになりがちです。そこから習慣が破たんすることもあるのですから用心しなければなりません。

 私は昭和19年生まれの64歳です。自分ではまだまだ若いと思っていますが、確実に体力や気力は衰える方向に進んでいます。今まで頑張れたことも頑張れないし、パワーもなくなったと実感しています。同年齢の仲間たちが病の床に伏したり、あの世へ旅立つようになってきました。もう限界だと思うこともありますが、それでも健康に留意して暮らせば何とかなると思って日々を生きています。リタイアして自由人になったおかげで少しゆとりが出て、義理や人目を気にせず生きて行けるようになったのもある意味救いです。

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 今日からお盆です。今朝妻と二人で玄関先で先祖を迎える迎え火を焚きました。10年前に亡くなった母が祖母を連れてわが家に里帰りしてきました。仏壇に手を合わせ母や祖母に今の私の状況を報告しましたが、位牌の戒名が立ち上る線香の煙の向こうで何処となくほほ笑んだようにも見えました。

  「したいけど できぬ言い訳 するだけじゃ 進化もせずに 退化するのみ」

  「歳重ね 気力体力 下がり気味 その分持続の 力でカバー」

  「朝起きて 迎え火妻と 焚きながら 両手合わせて 先祖迎える」

  「梅雨明けの ような爽やか 朝迎え 今日からお盆 風は立秋」

  

 

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shin-1さんの日記

○自慢の夕日でまちづくり

 もう20年以上も夕日によるまちづくりにかかわっているため、夕日に魅せられた私のことは随分全国的に知られるようになってきました。何処へ行っても夕日=若松というレッテルで通るし、全国に先駆けて夕日を売り出したため、先進的な取り組みとしてそれなりの評価も受けているのです。そんな私へのやっかみなのか、「若松さん、双海の夕日も綺麗かも知れませんが、私の町の夕日も綺麗ですよ」と挑発的な発言も見られます。その都度私は「それがどうした」とこれまた挑発的に喧嘩を吹っ掛けるのです。確かに夕日は人の心をひきつける魅力があって、ご当地に行けばそれはそれとして地域の人が日本一だと思うような夕日があるのです。まさにオンリーワンという名にふさわしい夕日なのです。

 夕日が美しいと思うだけなら正直子どもの発想です。でもその夕日を使って物語を作り経済に結び付けるとなると生半可なことで成果は生まれないのです。沈む・落ちる・没するという夕日の持つマイナスイメージを払しょくし、夕日の物語を作って情報を発信する、さらには夕日のメッカを整備して観光客を誘致して経済効果を高めるとなるとこれはもう至難の業で、物まねをしていいとこ取りをしたくらいで地域づくりはうまく行くものではないのです。

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(静岡県西伊豆町の夕日)

 これまで私に夕日に関する協力依頼がきた市町村は十指に余りますが、中でも忘れられないのは伊豆半島の突端にある静岡県西伊豆町田子と宍道湖に落ちる夕日を売り物にしている島根県松江市です。西伊豆には静岡新聞の主催するシンポジウムに出かけましたし、松江市へは昨年の11月に全国夕日サミットがあって基調講演に出かけました。いずれも夕日百選に選ばれているつわもので、夕日にこだわったまちづくりをしているのです。

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(宍道湖嫁が島に落ちる夕日は小泉八雲の愛した夕日です)

そして先日、北海道釧路から、「くしろ夕日シンポジウム」を10月31日に開催するから、その基調講演をしてほしいと依頼がありました。明くる日広島での会合が予定されていますが、夕日と聞けば何をさておいても行かなければならないとお引き受けしました。

 担当者のホームページやブログを見ると、釧路の夕日の写真が掲載されていました。何処のポイントなのかよく分りませんが、北海道らしい広い夕空が写っています。

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(釧路の夕日)

 わが双海町の夕日も松江市や釧路市とそんなに差はないだろうと、私のホームページの「夕日の観覧席でアップしている写真を2~3枚みつくろいました。

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 今から10月の釧路行きが楽しみですが、釧路へはわが夕日を自慢に行くのではなく、物語づくりの手順や夕日も金になることなどを熱い想いを込めて話してみたいと思っています。

 私が作った夕日の時刻表によると今日の双海町の日没は18時58分です。ちなみに今日は台風8号崩れの低気圧の影響で昼から小雨が降っていて、あいにく自慢の夕日は見えないようですので、昨日わが家から撮った写真を一枚添付しておきましょう。

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(わが家の裏山から見える夕日)

  「夕日など 落ちる没する 沈むもの 誰も相手に されることなく」

  「わが町の 自慢の夕日  オンリーワン 信じ今日まで 何かにつけて」

  「変ですね 釧路がだんだん 近くなる もっと近づき 交流したい」

  「好きになりゃ あばたもえくぼ 見えてくる 十年経てば 日本一に」



 

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shin-1さんの日記

○何かと忙しいお盆を迎える準備

 集中豪雨の被害の記憶が冷めやらぬうちに今度は静岡県沖でかなり大きな地震があり、日本列島はお盆の帰省ラッシュも重なってパニックに陥りました。電話やメールで豪雨や地震のあった近くに住む人たちに安否の確認をしたところ、被害に遭った人もなくホッとしていますが、度や崩れの被害に2度も遭い被害甚大だった経験がある私としては決して他人事ではなく、被害に遭われた人に心からお見舞い申し上げます。

 お盆の帰省が始まって、都会から民族大移動した人々が田舎に帰り、久しぶりに田舎がざわついています。ふたみシーサイド公園の海水浴場も海水浴客でごった返しているようですが、お盆後との落差を思うと手放しで喜べないようです。今週末には解散している衆議院議員選挙の選挙戦も始まり、賑やかな蝉の声とともに暑い夏に輪をかけることでしょう。

 こうした目に見える耳に聞こえる夏のざわつきとともに、お盆は先祖のみなさんが目に見えない客として打ち揃ってわが家へ帰って来るのです。今日は菩提寺の住職さんが棚行と称して檀家の家々を回ってきてお経をあげてくれるのです。住職さんは体が不調で入院しているらしく、息子のお坊さんから今日の12時に来るから連絡が入っているので、妻は朝早くから起きて、おりゅう具膳に供える精進料理を作っています。妻はこの家に嫁いでもう40年になりますが、おりゅう具膳の作り方を教えてもらった祖母や母はもこの世の人ではなく、迎えられるあの世の人になっているのです。やがていつかは私たちもそのようにして息子嫁の作ったおりゅう具膳でもてなしてもらうのでしょうが、もうそろそろ、妻から息子嫁への伝授も考えなければならない歳になってきました。

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 わが家では先祖を迎える準備を棚行と同時に始めます。倉庫から仏具を出して応接間に飾ります。本当は仏間か座敷か居間に飾りたいのですが棚行にやって来るお坊さんのために冷房の利く部屋へ飾るのです。仏具は年に一度お盆にしか出さないため、組み立てを妻と二人でああでもないこうでもないと思案しながら飾るのです。最近まではお団子まで全て妻が作っていましたが、今はお供え用の団子が売られていて随分助かるのです。


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 今日から3日間は棚行、迎え火、送り火と妻にとっては気の抜けない日が続きます。毎朝精進料理を作っておりゅう具膳を供え、送り火のときはお弁当まで用意するのです。いつの間にか妻も長男の嫁として家の年中行事を仕切っていますが、やがてこういう古いしきたりもなくなるのかも知れません。親父は昨日私が人間牧場で取ってきたシキビをお墓に供えて準備万端です。

 わが家はお盆の度に帰省していた大阪に住む弟たちもいつの間にか遠のき、娘の家族も娘婿の実家である大阪へ今日出発するため、長男の家族が今日からやって来るようです。間もなく2歳になる孫と生後3ヶ月の孫が蝉とおなじように賑やかな泣き笑いを見せ聞かせてくれることでしょう。

 私は来週末に近づいた農学部の授業の準備です。35人もの学び直しの学生が二日間人間牧場で座学をやるのです。15時間もの講義は少々骨が折れますが、それでもしっかりと伝えるべきことを喋りたいと思っています。息子に頼んでDVDの映写ができるようにしたいと思っています。

 お盆が過ぎると8月は予定が混んでいて、かなりハードなスケジュールになりそうですが、先祖のご加護をいただいて今年の夏も元気で乗り切りたいと思っています。


  「長男の 妻ゆえ悲し お盆月 何処へも行けず 仏事こなして」

  「目に見えぬ 客人迎え 賑やかな 今年もお盆 仏壇準備」

  「ああ母や 祖母は今頃 何処おわす 年に一度の 再会間近か」

「盆来れば 歳を重ねる 嘆き節 親父の弱音 聞く度思う」 

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shin-1さんの日記

○鱧料理

 鱧といえばスズキやイサキと並んで夏が旬の魚です。魚辺に豊と書いハモと読むのですから何か訳があるのでしょうが、水産高校出身の身でありながら、凡人の私にはその深い意味がわからないのです。鱧はアナゴやウツボと同じように細長い体形をしています。ゆえに気持ちが悪いと食べない人もいるようですが、これが料理をすると器の中でまるで白い花が咲いたように生まれ変わるのですから日本料理は奥が深いと思います。

 鱧といえば京都の夏を彩る食べ物という印象があります。氷の上に載せられた鱧を真っ赤な梅酢をつけて食べると、夏の暑さを忘れさせ食欲が進みますが、鱧は徳島や愛媛などの海で沢山獲れ大阪市場を経て京都へ運ばれるのです。わが双海町も鱧の一大産地で、7月から9月にかけて沢山の鱧が水揚げされるのです。

 私はかつて若いころ漁師をしていたこともあって、鱧を漁獲したことがありました。ゆえに鱧の鋭い歯で手指を噛まれたりしましたことが何度かありましたが、その痛いことは言葉では言い表せないほどです。

 今日の昼過ぎ、親類の漁師さんから「鱧があるので取りに来ないか」と誘われました。港に行くと今漁から帰ったばかりで、鱧の水揚げをしていました。この時期は港の海水温度が高いため、鱧がイケスの中で酸欠状態になって死に易く、生きている鱧と死んだ鱧とでは値段が雲泥の差なので、漁師さんは鱧を生かすために気を使っていてまるで戦場のような姿でした。

 私は死にかけている鱧の首に包丁を入れて〆たものを発泡スチロールの箱の中へ入れていただきました。「好きなだけ持って帰れ」と気前のいいことをいってくれましたが、持ち帰ると自分で料理をしなければならないので、適当に頂いて帰りました。

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 さあそれからが大変です。外にしつらえた流し台まで運び、砥石で包丁を3本砥ぎ、千枚通しと少し長めのまな板を用意して,

妻の前掛けを着用してさばき始めました。30本ほどの鱧を次々と背開きにして骨や内臓を取り除き最後に頭を落として行くのです。夏の魚は鮮度が落ちやすいので、発砲スチロールの箱に冷蔵庫から取り出した氷を敷き、5本くらいの調理が終わると水洗いをしてその中へ入れて行きました。その作業に2時間ばかりかかり、いよいよ鱧の骨切りです。これは素人には中々できない包丁さばきです。強く切ると皮目まで切り、弱く切ると骨が残るといった具合です。また面倒くさいと思って荒く切ると骨が残るし、細かく切ると時間がかかるしで、丁度よいことを覚えるのには相当時間がかかるのです。

 妻が帰ってきたので、私の包丁さばきをカメラで写真に収めてもらいました。

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さあそれからが大変です。骨切りした鱧をトレーに小分けしてラップをかけ、発泡スチロールの箱の下に氷を敷いて友人や子どもたちに配るのです。地元だけならまだしも、息子の職場の社長さんや息子がお世話になっている人ににもおすそ分けの話がまとまり、松山まで持参したので、家に帰ったのは9時近くになってしまいました。偉い難儀でしたが、それでも皆さん喜んでいただき、わが家も冷凍庫にしっかり保存してお盆の食料品を確保することができました。目出度し目出度しです。

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  「骨切りに 骨が折れるや 鱧料理 恰好だけは 板前のよう」

  「お上手ね 妻の言葉は 褒め殺し 悪い気もせず その気になって」

  「友人に 日ごろのお礼 鱧持参 俺が骨切り 自画自賛する」

  「湯晒しの 鱧の料理や 盆近し 美味い美味いと 褒めてほおばる」 

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shin-1さんの日記

○久しぶりに煙会所での集会

 昭和51年に青年の船で建国200年のアメリカへ渡ってからもう34年が経過しました。アメリカで受けた衝撃的な異文化ギャップや価値観の変化によって、わたしは様々な取り組みをして大きな成果を得ました。まさにカルチャーショックの旅でした。そのひとつに煙会所建設がありました。青年を育てるにはたまり場が必要と、家の横に施設公民館を建てようと思いついたのです。若いころの想いは突拍子もなく、また何のためらいもなく行動に移すことです。早速自分で設計図を引き妻の止めるのも聞かず予算7万円で始めました。当時は町の教育委員会で社会教育主事をしていたこともあって青年たちの協力を存分に受けることができました。また親父の物心両面の協力も大きな存在でした。僅か4畳半の囲炉裏を切った小さな庵でしたが、完成後は様々な人を迎え入れ、特に町に宿泊施設がなかったことも幸いして、宿泊所兼ミニ集会所兼、居酒屋のような場所として活発な活動を行ってきたのです。双海町の青年教育も、地域づくりもこの場所が火種となって広がりました。特に夕日による町づくりはまさにここが震源地だったのです。

 5年前に人間牧場を作ってからは人間牧場に活動の軸足が移りましたが、人間牧場構想も煙会所教育の延長線上にあって、すみ分けや使い分けをしていましたが、人間牧場に気を取られて分だけ煙会所の使用は少なくなり、今はむしろ私を訪ねてくる人たちの打ち合わせ場所としての利用が増えているのです。

 昨日も人数が少ないものの3団体がやってきて、囲炉裏を囲んだ話し合いが持たれました。特に夜7時30分から始めた年輪塾の打ち合わせは、煙会所の名前にふさわしい狼煙を上げる集会でした。集まったのは年輪塾の塾頭清水和繁さん、小番頭松本宏さん、塾生第一号浜田久男さん、それに塾長の私の計4名でした。

 年輪塾は人間牧場で開いている塾ですが、今週11月7日(土)に、ノンフィクション作家の佐野眞一さんを迎えて公開セミナーを開こうと計画しているのです。既にそのプログラム原案は出来上がっていて、その詰めをしようということになりました。集まった3人は私を除けば見識のある連中なのであうんの呼吸ですんなりと話が進み、未定だったパネラーの一人も決まっていよいよゴーサインが出るところまで漕ぎ着けました。

若松進一ブログ
(左から浜田さん、清水さん、松本さんの各氏)

 密談はとかく楽しいものです。思い切り夢の風船を膨らませ、大空を飛んでいるような錯覚になるのです。これまでにも無人島キャンプや丸木舟での瀬戸内海航海、夕焼けコンサートなど煙会所で話し合った密談が大きな行動と成果を生んできました。維新胎動といわれた京都近江屋のような、刺客に襲われることもない他愛もない話し合いではありますが、ワクワク・ドキドキするような予感を感じさせてくれました。

 宮本常一に焦点を当てた一連の講座の集大成ともいえる11月の公開講座はいよいよ佳境を迎えます。後3ヶ月ほど、宮本常一に関する本をしっかり読んだりしながら勉強し、スキルをアップして臨みたいと思っています。

 人間牧場に勝るとも劣らぬ私設公民館煙会所は今も健在です。


  「久方に 囲炉裏を囲み 話し込む 酒も飲まずに お茶を濁して」

  「新しき 集う場所でき 忘れてた 和みの場所の 存在するを」

  「どれ程の 人と面談 したことか 囲炉裏の部屋は 今も健在」

  「スイカ食い お茶を飲むだけ 下戸の会 湯呑持つ手が 不満言いたげ」

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