shin-1さんの日記

○人は死ねば無となるが・・・・

 毎年お盆になると死んだ人のことを思い出します。私にとって最も身近な人は母であり祖母でしたから、二人のことは時々夢に出たりして、折につけ思い出すのです。先日講演依頼があって佐田三崎半島の中ほどにある旧瀬戸町を訪ねました。午前中の集会だったものですから、急な思いつきで久しぶりに祖母のふるさとである瀬戸町小島という小さな集落へ車で向かいました。佐田三崎半島は日本一細長いと言われ13里52キロもあるのです。昔は今のような国道197号の頂上線もなく、リアス式海岸の港々を縫うように連絡船が通っていましたが、道路網の整備によって船は廃止され、遠いと思われた佐田三崎の灯台まででも、起点となる八幡浜から1時間余りで行けるように便利になったのです。

 しかし道路網の整備は過疎の拍車をかけるという思わぬ結果をもたらしました。小島も含めて浦々にある集落は住む人絶えた空き家が目立ち、高齢化も進んで限界集落と呼ぶにふさわしい地域となっているのです。


 頂上線から枝別れした道を瀬戸内海側に向かって幾重にも下ると小島湾の奥まった海岸に出ました。風光明媚な場所に住吉様という神社があって、お参りを済ませました。私が若いころ漁船で漁をしたついでに立ち寄った見覚えのある場所だけに感慨も一入でした。

 近くで談笑しているお年寄り2~3人に祖母の旧姓古高という話をすると懐かしそうに色々なことを話してくれました。祖母が生きていたら100歳を超えるのですから祖母にまつわる話は聞けませんでしたが、親戚のこと、家のあった場所、お墓のことなどを聞きました。願わくば私のルーツであるので再訪してみたいと思いながら元来た道を引き返しました。

 人間は何処から来て何処へ去っていくのか。考えれば果てしない疑問です。地球上に生まれ有となり、死ねば祖母のように無となります。しかし無となっても私の心の中には有として存在するのですが、それもいつしか無となって忘れ去られてゆくことでしょう。しかし私が祖母の生まれたふるさとを訪ねたいという衝動に駆られたのは、やはり無の中で有を感じたからだと思うのです。

 何年か前「人は死ねばゴミになる」というショッキングな本を読んだことがあります。確かに物質的や科学的にはゴミになるのかもしれませんが、せめて短い時間でも無でありながら有と感じるような人間でありたいとも願うのです。無は有の反対語ですが、有でありながら迷いや煩悩のない無の境地になることも大事なことかもしれません。無から有が生まれ有から再び無に戻る悲しい人間の嵯峨をふとお盆ゆえに考えてしまいました。

 今日はお盆、外は30度を超える猛暑ですが、思い切って先祖の墓参りにでも行くとしましょう。


  「無とか有 暑いさなかに 考える 結論も出ず 馬鹿げたことと」

  「わがルーツ 三崎半島 中ほどと 久方ぶりに 訪ね歩いて」

  「初盆の 友なき家を 訪ねたり 仏壇傍の 灯篭悲し」

  「盆が来て 次は祭りに 正月と 歳を加える 老いのせつなさ」 

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