○国立大洲青少年交流の家の運営委員会がありました
私は若いころ青年団活動に熱中しました。8年間の活動の締めくくりは、愛媛県青年団連合会長と四国四県青年団連絡協議会の会長をしましたが、その折国立大洲青年の家の誘致運動に深くかかわりました。その結果同じ四国ながら室戸とその候補地を争い、結果的には大洲に青年の家が建設されたのです。当時は骨肉の争いで、当時の文部大臣坂田道太さんの来県を促し、県知事白石春樹さんも大洲市長村上清吉さんも大層熱を入れてくれたお陰で成果を得ましたが、早いもので昭和49年に建設されてから30数年が過ぎたのです。以来私は千年の家の運営に深くかかわり、また自らも青年の家の講師になって青年の指導をしていました。
時の流れとでもいうのでしょうか、青年の家の対象にすべき青年の力はその後急速に衰え、主たる利用者が青年から少年になったのです。数年前青年の家が独立行政法人になったのを機に名称も青年の家から青少年交流の家に改称されました。それでもこの施設を存続しなければならず、私もその片棒を担がされて運営員の末席に名を連ね、委員長まで引き受け今日に至っているのです。
昨日はその運営委員会があり、様々な問題について短い時間ながら話し合いました。青少年交流の家の説明だと他県の青少年交流の家よりも高い利用率を誇り、屋さんや人員を削減される中で孤軍奮闘大きな成果を上げているのです。その話を聞くたびにわがことのように喜べるのです。
大洲青少年交流の家は30年も通い続けていると、もう家族のような人たちばかりで、まるで自分の家のような雰囲気で過ごせるのです。この一年だけでも何度通ったことでしょう。所長さんは替わられましたが、新しい所長さんもアットホームな方で、次長さんともども職員の皆さんにはご厚誼をいただいているところです。
(昨日の運営委員会、委員長席に座って司会進行をさせてもらいました)
時代の流れとでもいうのでしょうか、交流の家の運営も随分様変わりして、夜はお酒が飲めるようになりました。若いころ隠れて飲んだヒヤヒヤドキドキの思い出は忘れることができません。また食事もバイキング方式でかなりのバリエーションとボリュームです。私などは毎回食べ過ぎるのです。昨日もお昼だというのにラーメンとカレーを食べてしまいました。
昨日は大洲市の人権教育の大会があって300人近くが利用されていて、多くの知人友人に会いました。これもこの施設ならではの大きな恩恵です。年齢的に少し青少年交流の家とは縁遠くなるような一歩下がった気持になっていますが、この施設に行くと何故か自分の体内に今やれる青春というべき不思議なパワーをいただいて帰れるのです。もう少し頑張ろうと昨日も思い、施設を後にしました。