shin-1さんの日記

○バックヤードを見ればその店が分かる

 人はそれぞれいろいろな仕事をしています。その仕事先にはバックヤードと呼ばれる場所が多かれ少なかれあるのです。35年間役場に勤めデスクワークを仕事にしていていた私にでさえも、小さいながら机やロッカーといったバックヤードがあったのです。私は元来整理整頓の下手な方です。ゆえに公民館主事をしながら町の広報を担当し月に2回発行していたころは目の回るような半端ではない忙しさでした。机の上にうずたかく積まれた書類の中から取材のメモや電話連絡のメモ、写真などを探すのは容易ではなく、次第に探す時間が長くなって、時々パニックになることさえありました。その都度要らないものを捨てて処分し、整理整頓ができたように思うのですが、またいつの間にか元の姿になってしまっていました。私は自分のの上の上の整理ができないのはてっきり仕事のせいだと思っていました。ある日のことNHKの有名なアナウンサーが自分の事務所の机の前でいる姿がテレビの画面に映し出されました。そのアナウンサーの机の上は私の机など比ではないほどにうず高く積まれていました。小さな田舎の小さなジャーナリストを自認していた私は、そのアナウンサーの机の上と自分の机の上をだぶらせながら、仕事を多くやっているからこうなるのだと、安堵をしてものでした。

 私は10年余り、自分がかかわって造ったふたみシーサイド公園という道の駅で商売をしました。その研修会で「バックヤードを見ればその店が分かる」というショッキングな話を聞きました。その方が言うのには、いくらお店をきれいにしても、裏口がちゃんと整っていないといい商売はできるはずがないというのです。思い当った私は社員にそのことを話し、自らも清掃活動をするなど色々と実践したのです。不思議なことにバックヤードをきれいにするとお客が増え売り上げも伸びるのです。そんな目でよそのお店を見てみると、流行っているお店は必ずと言ってよいほどバックヤードの整理整頓ができていました。

 自分の家でもそうだと思います。家には倉庫や車庫などがありますが、きちんと片付きている時は家族の人間関係も良いし、いい仕事ができているように思うのです。幸いわが家には片付けを専門にしているような91歳の親父がいて、息子の私が叱られるほど整理整頓や掃除をしてバックヤードを守ってくれているのです。数日前春一番が吹いて山の近くにあるわが家へも沢山の落ち葉が舞い込みました。掃除をしなければと思いつつ、出張したたのですが、昨日帰ってみると、すっかりきれいに掃除されて大助かりでした。

 私のバックヤードは書斎です。これは親父も手をつけられない部分なので、自分以外に整理整頓をすることはできません。このところの忙しさでと、また言い訳じみた話になるのですが、少し乱雑になって先日も欲しい資料を探すのに骨が折れました。

 私が若いころは見合い結婚が主流でした。そこここに若いカップルの世話をする仲人さんなどがいて、時々見知らぬ人が役場に入ってきて、用事もないのにキョロキョロして帰ってゆく風景をよく見かけました。その人は紛れもなくお目当ての人の様子を探っていたのです。ほとんど結婚が決まっていた女性の様子を探りに来て、机の上の整理整頓ができなかったことと、靴の踵を踏んで歩いている姿を見て破談になったという話を聞きました。多分その人は付けの上と靴の踵をその人のバックヤードと思ったに違いないのです。

 いつの間にか親父を頼って生きてきた自分に気づきました。こんなことを思いつつ、近々書斎の整理整頓をしたいと思う今日このごろです。




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shin-1さんの日記

○歌は世につれ世は歌につれ

 学校の音楽の授業で習った歌を除けば、私が一番先に覚えたと思われる歌は「リンゴの唄」でした。私の生まれ育った時期が戦後の混乱期で、そんなに口ずさむ歌がなかったこともあって、この歌を覚えているのかも知れません。作詞家サトウ八ローさんがこの詞を作ったのは戦時中でした。戦時下には軟弱過ぎるという理由で検閲ふかとされ、戦後になって日の目を見ました。可憐な少女の思いを赤いリンゴに託して歌う歌詞が、戦後の焼け跡の風景や戦時の重圧からの開放感とうまくマッチしたのと、敗戦によって焦燥しきった憔捽しきった国民の心を癒す楽曲と評価され、空前の大ヒットとなりました。レコードは昭和21年1月に日本コロムビアから発売され、3ヶ月で7万枚を売り尽くし、17円50銭のレコードに100円の闇値がつくほどでした。

 この当時まだリンゴは貴重品で、昭和20年12月に行われた公開ラジオ番組(NHK希望音楽会)において並木路子がこの歌を歌いながら客席に降り、籠からリンゴを配ったところ、会場がリンゴの奪い合いで大騒ぎになったというエピソードもありました。またテレビ番組などの資料映像として終戦直後の焼け跡や空爆、闇市、買い出し列車などのモノクロ映像が流れる度に、必ずと言っていいほどBGMにこの曲が流れていました。

いつだったか、川中美幸さんとそば焼酎雲海酒造提供のラジオ番組「人・歌・こころ」に出演したとき、私はこの歌をリクエストしたことがあるのです。

(歌詞掲載不可のため割愛)

私の心に残る歌はこればかりではありません。集団就職列車に乗って都会へ向かう同級生を送ったとき流れていた井沢八郎の「ああ上野駅」、18歳の時、日本を目指して北上中の愛媛県立宇和島水産高校の練習船えひめ丸の船中で聞いた吉永小百合・橋幸夫の「いつでも夢を」、高校を卒業するころに聞いた舟木一夫の「高校三年生」などなど、歌手と歌詞、それに曲が一致しないものの、自分の人生の端々に様々な歌や歌詞が蘇えり、そしてその歌を聞くと何故か自分の過ぎ越し人生が見えてくるのです。

 この歌を口ずさんだり、時には最近凝っているはーモニカで吹いたりして一人楽しんでいますが、もうそれらの歌も私の加齢そのままにナツメロとなってしまいました。先日91歳になる親父にはーモニカで軍歌を吹いて聞かせたところ、とても喜んでくれました。人それぞれ、「歌は世につれ世は歌につれ」思い出の歌はたくさんあるのです。これからも人に何と言われようと大いに記憶の中にある歌を歌いたいと思っています。

 

  「あの歌や この歌歌い 思い出す 過ぎ越し日々が 鮮やかにして」

  「若い人 俺の歌聞き キョトンする それもそのはず 歌は世につれ」

  「今朝リンゴ 食卓並び 食べながら 歌って聞かせる 妻もしみじみ」

  「幸田未来 知ってはいるが 歌えない 古くなったな 賞味期限か」 

 

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