shin-1さんの日記

○ガソリンが安くなりました

 昨年はガソリンの価格が高く、遠出するときは財布の中身を気にしていましたが、いつの間にか価格が元に戻ってやれやれです。昨日の朝は友人の門田石油さんでガソリンを入れましたが、最近はガソリンの安い看板が目につき入ると、自分でガソリンを注入したり自分で窓ガラスを拭かなければならないため、これまでそんなサービスに馴れている自分に気がついたりするのです。

 私の車も年式そのものはそんなに古くはありませんが、遠出をするため乗る距離が半端ではありません。私はどちらかというと車を大事に乗る方だと思うのですが、車庫の天井に吊り下げていたカヌーがロープが切れて車の上に落っこちて傷やへこみができてからは何となく水洗いがおっくうで、年末にも風邪をひいていたこともあって洗車をしていないのです。そんな車のままガソリンスタンドに入った時は、何となく肩身の狭い思いがして、店員さんが雑巾で何度も拭いてくれるサービスが何だか悪いような気がするのです。

 私はタバコを吸わないため、車の灰皿は汚れることがないのですが、先日講師の先生を乗せたら車の中でタバコを何本も吸われました。「実はこの車は禁煙なのです」と言いたかったのですが、ご高名な方だったものですからさすがにそんな勇気もなく、短い時間ながら3本も吸われてしまいました。加えて私の車は後部座席と運転席は通称土足禁(土足厳禁)にしているのですが、これも土のついた汚い靴で乗り込まれ散々な目に遭いました。

 もうそろそろ新しい車を買い替えなければならないと妻も私も思っているのですが、考えてみれば私に与えられた余命からするともう今度が最後の車になるかも知れないと思うのです。あちらこちらでは運転免許証返上の話が話題に上っています。私の場合も例外ではなくいよいよそんな年齢が近付いているようです。もし私から車を取り上げられたら仕事にならないだろうと、これからは安全運転に注意をして車に乗りたいと思っています。

 私は演劇をしていた頃の息子の友人がトヨタのセールスをしていたこともあって、プラッツという車種に乗っています。妻と私の共有のため妻が足繁くオイル交換もしているため、これまでトラブルは殆どありませんでした。車のトランクには風呂好きな妻と私のお風呂セットの籠が積んでいますし、私の自著本と名刺も小箱に入れています。30万キロ以上を走破したこの車の車検が今年の秋にはやってきます。はてさて私のお気に入りの車に出会えるかどうか楽しみです。

 世の中不景気になったといわれ、日本景気や輸出を長年引っ張ってきた自動車産業も厳しい冬の時代を迎えているようです。アメリカのビッグ3は軒並み30パーセント以上の落ち込みで、いまや世界一となったトヨタですら今年は減収減益で、減産休暇などが検討されているようです。リタイアして年金暮らしになったわが家にとって最後の一台となりうるであろう新車の購入は、臨時出費の最たるものとなって家計を圧迫しそうですが、大蔵大臣たる妻の経済運営に頼るしかありません。「お父さん大丈夫よ」と強気な発言をしている妻を信じるしかない今日この頃です。


  「あと一台? あそうか俺も そんな歳 あと十年で 七十四歳とは」

  「もう二年 乗ろうと思えば 乗れなくも 妻と言い合う わが家の家計」

  「二年越し 洗っていない 車にて それでも丁寧 スタンド店員」

  「ガソリンが 安く入って ホッとする 財布の中身 気にせず給油」  

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shin-1さんの日記

○成人式に招かれて

 今日は全国的に成人式の多い一日だったようです。昔は成人式は1月15日と決まっていたため殆どの市町村で成人式が行われていましたが、今は振替休日などという訳のわからぬ成人の日ができて、本当は明日が成人の日らしいのです。それでも日曜日の方が参加する側もいいという理由で今日式典を行う市町村もかなり多いと報道されていました。

 年末に久万高原町から電話が入り同町の成人式の記念講演を頼まれました。昔は成人式に記念講演はつきものでしたが、成人式がこころない若者に乗っ取られて、酒は飲むわ、爆竹は鳴らすわのばか騒ぎ会場となったため、主催者側が参加者側の意見を聴いて来賓の祝辞や講演を廃止したため、随分簡素な成人式となったようです。

 私は自分の車で三坂峠を越えて参加しようと思いましたが、前夜からの寒気の影響であちこちに雪が残り凍結の恐れがあるということで、砥部町役場まで行き、迎えに来てもらった教育委員会職員さんの車で会場に到着しました。女性の振り袖姿に加え男性も羽織・袴で参加している人も沢山いて会場は丸でファッションショーのような華やいだ雰囲気でした。若者に聞けば男性の羽織・袴も貸衣装屋で借りると何と10万円もするのだそうで驚いてしまいました。

 久万高原町の成人式対象者は約100名のようでしたが、殆どの方が参加し、来賓の方々も一緒になって私の記念講演を1時間あまり熱心に聴いていただきました。

 今日の話は駆け足で新成人たちが生きてきた平成の時代を振り返りました。平成元年/昭和天皇崩御平成スタート、平成2年/南宇和高校サッカー日本一、平成3年/湾岸戦争ぼっ発、平成4年/自衛隊初のPKO派遣、平成5年/さっかーJリーグ開幕・皇太子ご成婚、平成6年/関西国際空港開港、平成7年/阪神淡路大震災死者5500人、平成8年/若田さんエンデバーで宇宙へ、平成9年/河野兵市市北極踏破、平成10年/長野冬季オリンピック、平成11年/しまなみ海道開通、平成12年/四国縦貫自動車道Xハイウェー開通、平成13年/宇和島水産高校実習船えひめ丸沈没・小泉政権発足、平成14年/完全学校週五日制、平成15年/イラクフセイン大統領拘束、平成16年/新潟中越地震、平成17年/JR福知山線脱線事故、平成18年/北朝鮮核実験・松坂岩村米大リーグへ、平成19年/阿部首相突然退任などが主なニュースですが、平成の大合併による久万高原町の誕生が

何よりも大きな出来事でした。

 要約すると私の話は3つです。ひとつは人間の4つの願望、二つ目は4つの願望を勝ち得るには青年時代に5つの鍵「仲間・ふるさと・主張・感動する心・生き方の計画」を手に入れることだと話しました。そして3つ目は自分の潜在能力を大きくすることと大きくなった潜在能力を顕在化することだと締めくくりました。

 私たち人間はおおよそ21年刻みの日時計を持っています。最初の21年間は育ててもらう青少年期です。2つ目の21年間は成人期で一生懸命量の仕事をこなします。男の厄年42歳はもうこれで折り返しなのです。3つ目の21年間は実年期で仕事の仕上げをしなければなりません。そして私が入口に入った最後の21年間は高齢期、まさに人生の仕上げを楽しく愉快に過ごさなければならないのです。

 20歳という人生の通過点を何の迷いもなく通過する人もいますが、私がそうであったように20歳を次の成人期だと思って生きるとこれまた楽しくも充実した人生が過ごせるのです。

 久万高原町の新成人の皆さんの人生がいい人生でありますように心から祈っています。


  「嬉しいね 私の話を じっと聞き メモ取る人まで いるのですから」

  「平成の 生まれの人が 成人に 歳をとるはず 昭和はむ・か・し」

  「紋付に 袴を揃え 殿様の ような顔して 式に出席」

  「雪が舞う 久万高原の 成人式 真剣な顔 嬉しいですね」

  

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shin-1さんの日記

○仏の顔も三度

 私の知人に賭けごとが原因で離婚しかけた夫婦がいます。原因がはっきりしているので原因を取り除けば復縁は可能とばかり、奥さんが実家へ帰る度にかつて仲人をした人や友人が奥さんを迎えに行ったようですが、4回目ともなるとさすがに敷居が高いのか、私に奥さんの実家へ行ってくれと本人から申し出がありました。私も忙しい身なので時間的余裕もないのに時間を作って本人からこれまでのいきさつを聞き出し、もう二度と賭けごとはしないという約束を取り付けて、県外の奥さんの実家まで行きました。聞けばご両親と奥さんはもう見切りをつけているらしく、私の話で復縁するなどというレベルではありませんでした。

 奥さんのお父さんが私の顔を立てて面談してくれましたが、聞けば「毎回同じような詫び方で、絶対しないと言いながら賭けごとは今になっても止まっていない」といい、「痩せは治っても癖は直らない」ときっぱり断られました。しかし「二人の孫の将来を考えると、不憫でなりません。遠いところを娘のために来ていただいたあなたの顔を立てて、もう一度騙されたと思い娘を元の鞘に納めますのでよろしくお願いします。ただし仏の顔も三度です。これが最後の仏の顔だと思ってください」と、逆に頭を下げられてしまいました。

 本にはその言葉が余程堪えたのか、その後好きだったパチンコや競輪をスッパリ止めて仕事に励んでいるのです。年末のある日わが家へその親父さんがやってきました。聞けば娘の所へ来たそうで、その後娘が幸せな暮らしができているのはあなたのおかげです」と持ち上げられ、お歳暮にとお酒までいただき恐縮した次第です。

 私はその日のうちに本人の家庭へおすそ分けとして野菜や魚を持って行ってやりました。子どもはもう大きくなって高校生と大学生になっているようで、奥さんも私が奥さんの実家に迎えに行って貰ったことをバツが悪そうに話しました。多分忘れているだろうと思いつつ、ご主人に「仏の顔も三度」という言葉を覚えているか」といったら、「若松さん若気の至りで面目もありません。あの時妻の親父に据えられた「仏の顔も三度」というお灸は今も私の頭から離れません」と照れながらいいました。傍で聞いていた高校生の娘さんが「お母さん、「仏の顔も三度って何のこと?」と聞き返しました。奥さんは「もう少し大きくなったら話してあげるからね」と顔を赤らめていました。

 人生いろいろです。確かに今考えると愚かなことでも若いころには過ちを犯すものです。多分私も忘れたような顔をしていますが、妻が時々思い出したように話す失態の数々を「もう昔のこと、過ぎたこと」とお茶を濁しています。問題はそうした出来事を二度と起こさない不退転の決意が大事だと思うのです。

 妻の顔も今は仏様のような顔をしています(お世辞)が、若い頃は何度も衝突し「鬼嫁」と思ったことが何度かありました。多分妻も私を「許せない」ような思いをしたこともあったんだろうと思います。私の誓いは「女は妻一人。賭けごとはしない。選挙には出ない」です。(笑い)仏の顔が鬼にならないよう、せいぜい努力したいものです。女は優しいが怖い。これが妻と40年連れ添ってみての本音です。(笑い)


  「昔鬼 今は仏の 連れ添いに あんなこんなが あったと今頃」

  「幸せに 見える家庭も 波風の 一つや二つ あるからいいの」

  「賭けごとと 私とどっち 迫る人 今は寄り切り 奥さんの勝ち」

  「おっかねえ 仏の顔も 三度とは 四度目鬼に 変身怖い」

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shin-1さんの日記

○病院へ行った帰りに薬局へ立ち寄るとは?

 私の町の上灘地区には、昨年末に医院の梶原先生が亡くなって病院が閉鎖されたため、親父は7キロ離れた下灘診療所へ週に一回程度通っています。私も年末年始風邪をひいたため隣町長浜の城戸岡医院へ診てもらいに行っています。この医院の院長さんが妻の妹の旦那、つまり私の義理の兄弟のおいということもあって、妻は時々通院しているようですが、私は今度の風邪で初めて病院を訪れました。

 今日で通院三回目となりましたが、二回目に注射した以外は薬をいただいて帰るだけなのです。それでもその効果があったのか随分回復してきました。実は長浜に村上薬局という顔見知りの薬局があって、昨年伊方町の塩崎さんに頼まれてシンポジウムに出かけた折、「直ぐに治る風邪薬が欲しい」と駆け込んでもらった薬がとてつもなく効いて大任を果たし、その上風邪に効くからと薬を家まで届けてもらった経緯もあるものですから、医院で風邪薬を貰ったのに、医院の帰りに村上薬局へ立ち寄りました。ご主人はPTAの副会長をしていてあいにくどんど焼きや凧あげのイベントで留守でしたが、奥さんがご主人に電話をして顔を見せに帰ってくれました。

 世間話をしながら、「明日は久万高原町の成人式でお喋りをしなければならないので」、何としても風邪を治さないとなどと話したところ、特効薬というのを出してくれました。「若松さんこの薬は効きます」という漢方薬をお店で飲ませていただき、しかも買ったマスク以外はお金を払わずタダで処方してもらったのです。

 「出世払いか」と思いつつ、「えっ、俺はもう出世なんかしないので出世払いもないもんだ」と、身も心も温まって粉雪舞い散る海岸沿いの道を帰ってきました。

若松進一ブログ

 今日は新聞に一枚の広告が挟んでいました。「目の前が海」「シーサイド双海」土地分譲」「この風景と過ごす時間が私の日常を変えた!」「1平方メート18,200円より」などというタイトルが目立ちます。中には「黒潮の香り漂う海岸沿い」などと、黒潮でもない瀬戸内海をオーバーに表現した文字も目立ちますが、「土地分譲」「マリンレジャーの拠点に」など双海町に土地を求めたいという人の願いがほぼ一枚の広告に収められていました。

 地図を見るとシーサイド公園から約4キロ西に行った魚吉という料理屋さんのすぐ隣の土地のようです。最近造成工事が始まっていて、何ができるのか地元の人の関心事でした。まあ双海町という町の魅力を民主導でPRしていただく訳ですから、善良な人に買い求めていただくことを望んでいます。

 最近は私が人間牧場を造って盛んに情報発信していることもあって、「海が見え、夕日が見え、飛行場から1時間圏内でいい物件はありませんか」とよく尋ねられることがあります。しかし残念かとに双海町では水が少ないことがネックになって中々いい物件に巡り会えないのです。病院からの帰り際、広告の場所を通りましたが、既に見学会が予定されていたようで、車が何台か入っていました。(友人から電話が入り単価表と図面を貰って欲しいというので出かけました)


若松進一ブログ

 「こんな田舎」と、この町に住んでいる人のほとんどは自分の住んでいる町を卑下しています。確かに海と夕日以外は取り立てて特徴のない町ですが、これからはこんな手つかずの田舎に魅力を感ずる時代かも知れません。都会の雑踏や喧騒、それに日ごろつれた人間関係の中で暮らしていると、「無」こそ大切な人間性回復の宝物なのです。20世紀は私たち田舎に住む人間が都会にあこがれて生きてきました。21世紀は都会に住む人が田舎にあこがれる時代かも知れません。

 でもどこかで規制をかけなければ都会の悪しき都合が田舎に持ち込まれ、田舎が毒されていくことの危惧も持たねばならないのです。そのことに気づいて転ばぬ先の杖を用意するのは一体誰の仕事になるのでしょう。まちづくりはそんな話もしなければ本当に訪ねても住んでもいいまちにはならないと思うのです。


  「病院で 薬を貰い 薬局で 薬を処方 これで万全」

  「良薬は 口に苦しと いうけれど カプセル薬 苦くもなくて」

  「売り出しの チラシに書いた シーサイド よく似た名前 はてさて迷う」

  「見に行って みようかどんな 土地なのか 冷やかしでなく 仲間勧める」

 

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shin-1さんの日記

○言うは易し行うは難し

 口から出まかせで、できもしないことをベラベラ喋ることは意外と簡単です。また人のやったことを批判することも人の半分の能力があれば簡単にできるのです。しかしそれでは「あいつは言うだけ、うどん屋の釜、言うぎり丸の船長、大鉄砲、大風呂敷」といわれ、人を納得させたり信用を得ることはできないのです。昔は「言うことは易しされど行うは難し」という人間の生き方の難しさから、「不言実行」が美徳とされていました。口数少なく黙々と実践する姿は、いつしか人の信用を勝ち得たものです。しかし情報があふれるような社会に生きる現代人を相手にこれからの時代を生き抜くためには、それでは通用しなくなっています。自分の思っていることをはっきり言ってそれを実践する「有言実行」こそが最も理想の生き方だと思うのでます。

 私はその理想を求めて「結果こうなるだろう」ではなく「結果こうする」を周りの人に公言し、その成果を勝ち得るために実践してきました。現代風にいえばマニフェストのようなものです。今では日本全国珍しくもなくなった道の駅ですが、私が担当して双海町に造った頃はまだ県下でも珍しい時代でした。ましてや第三センターを設立してその運営を任せるというアイディアは不安いっぱいでした。「赤字になったらどうするのか」「人が来なかったらどうするのか」と、議会では非難や反対意見が相次ぎました。「赤字になったら黒いボールペンで書きます」と書いてある議員を激怒させた武勇伝は余りにも有名な話ですが、「人を来させる」「黒字にする」という公約を掲げて孤軍奮闘しました。特に12年間にわたってシーサイド公園の海岸清掃を朝5時から毎朝3時間、12年間続けたことは「言うは易し行うは難し」でした。その結果今ではシーサイド公園には年間五五万人もの人が訪れ、第三セクター「シーサイドふたみ」は開業以来一度も赤字になったことがなく、出資をしている団体に年間5パーセントの配当を続けているのです。

 掃除と来客数や営業成績は一見何の関係もないように見えますが、これこそお客様を迎える感謝の心であり、リピーターを増やす大きな力となっているのです。


 私たちはいつも理想を掲げその理想の実現に向かって努力しますが、目標も大事に違いはありません。でも日々の行動という積み重ねのプロセスが結果的には目標を勝ち得るのです。

 私は皆さんに色々な話をします。「毎日2本ブログを書いています」「毎日三枚のハガキを書いています」などなどですが、これはやろうと思えば誰にでもできることなのですが、日記や家計簿が三日坊主に終わったり、禁煙や禁酒などもなかなか辞めづらいのです。私の友人が昨年亡くなりました。大の愛煙家で私はその人のことを陸蒸気と呼んでいました。「たばこは百害あって一利なしといわれるから辞めた方がいい」と勧めました。彼曰く「たばこを辞めるくらいだったら死んだ方がましだ」と豪語していました。結果的には肺ガンになり短い生涯を終えました。病院に見舞ったとき私に「肺ガンになったのでタバコを辞めた」と吐露しました。時既に遅しでした。

 私は今「言うは易し行うは難し」という言葉より、「言うは難し行うはさらに難し」という言葉を編み出しました。「五年で五冊の本を出したい」ではなく「五年で五冊の本を出す」というとんでもない有言実行の言葉を発したばっかりに、私の苦行は今後三年間は続くのです。でもそれが人間の進化というものなのです。


  「言うことも やる事さえも 難しい 努力なしでは 信用できず」

  「言ってやる だから周りが 納得す 積み重ねたり 信用の山」

  「簡単に 口では言うが さてあんた できるのですか それは・・・・・・?」

  「さて次は どんな公約 股に張る いえいえアンマ 膏薬じゃない」

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shin-1さんの日記

○九死に一生を得る

 今日奥東に行った帰りのことです。車のな目を突然何やら動物が横切りました。一瞬「しまった」と思い慌ててブレーキを踏み、サイドブレーキをかけて外に出てみました。何かを引いたような感触や音もなかったので、あるいは難を免れたと安堵の胸をなでおろしました。

 私たちの地域はド田舎を自任する地域です。ゆえにイノシシやキツネ、タヌキ、ハクビシンなどの野生動物に出会うことは決して珍しいことではなく、特に夜の山道を走っていると夜行性動物たちが縦横無尽に車の前を走りぬけてゆくのです。多分あの身軽さはタヌキだろうと思いつつ、今晩あたりあのタヌキの家族たちは北西の季節風をよけるようなどこかのねぐらで「今日は人間様の車の前を横切ってもう少しで車にひかれるところだった。『九死に一生を得た』お前たちもあのけもの道は気をつけるように」と話しているに違いないと思いました。

 人間は長い一生のうちには色々な危険と遭遇し、その都度「九死に一生を得」て生きているのです。私の「九死に一生を得た」話は色々なところで話していますが、何といっても2つのことが思い出されます。まず一つ目は僅か18歳の時、愛媛県立宇和島水産高校の実習船「愛媛丸」で珊瑚海までマグロを獲りに出かけました。帰り際日本を前に冬としては珍980ミリバールの低気圧の中に入ってしまい、大しけの海をさまよいました。「ひょっとしたら死ぬかも知れない。死ぬ時は海の男らしく潔く死ね」といった船長さんの言葉が今も耳の奥に残っているのです。私たちは大しけの海を生還し神奈川県三浦三崎漁港に着いたとき、「私は生きてる」と実感したのです。まさに「九死に一生を得た」話です。

 二つ目は家の裏山が台風による集中豪雨で崩れ家が土砂に埋まりました。その片付けをしている最中使っていたチェンソーが跳ねて足を切ったのです。長靴いっぱいほどの血が出て救急車で病院に運ばれた時は失血で目まいがするほどでした。20センチも断裂しているのに幸運にも骨に異常がなく手術の結果多少の痺れは残っているものの元気に復帰したのです。これも私にとっては「九死に一生を得た」武勇伝でしょうが、もう二度とあんな危険や痛い目には合わないようにと願っているのです。

 この二つの出来事ほどではないにしても、これまで私は仕事の面でも随分九死に一生を得たことが沢山あり、手の指だけでは数えられないほどです。九死に一生を得たことは過ぎてしまえば美談にゃ武勇伝に聞こえますが、せめてこれからは穏やかな暮らしがしたいものです。


  「あれもそう これもそうだと 指を折り 九死に一生 今は武勇に」

  「本当は 死んでいたって 可笑しくない あの世とこの世 境に生きる」

  「そういえば 親父もガンに 侵されて 九死に一生 今も生きてる」

  「生きてれば 浮かぶ瀬もある 人生は くよくよするな 明日があるさ」

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shin-1さんの日記

○人間牧場で写した写真を届けに

 気になっていた地元奥東のおばさんたちが12月10日、人間牧場に来られた時の写真を、風邪でダウンして年いて末に届けることができずそのままになっていたのを、今日やっと届けることができました。本当は何枚かのスナップ写真をそれぞれにプリントアウトしようかとも思ったのですが、それでは余りにも芸がないと思い、愛媛新聞社のシニアサイト【自悠くらぶ】に毎週一回連載している記事の中に、「田舎のおばさんたちに足湯のサービス」というタイトルで書かせてもらっているので、その記事には写真も三枚添付してあり、写真用のA4用紙を手差しで入れて3枚×8部をプリントアウトし持参したのです。

 元々この出会いのきっかけとなった黒田富貴子さんからは既にご丁寧な年賀状まで届いて、その返信さえもできなかった呵責も引っ提げて黒田さん宅を訪問しました。

 黒田さんの家は双海町奥東の豊田の奥の空と呼ばれる山深い場所にあります。そこから見ると下灘のシンボルである黒山が目の前に聳え、眼下に広がる瀬戸内の海は青島の裏側が見えるほど高い場所にあるのです。黒田さんのご主人は町議会議員や森林組合長を務められた名士で、今はもう亡くなった弟剛さんとは友人として中学時代から付き合いがあって何度か山道を歩いて訪ねた懐かしい家なのです。

 ご主人は病院へ出かけていてあいにく留守でしたが、「まあおあがりなさい」との言葉に甘えて居間に案内され、掘りごたつに足を突っ込んでお茶を飲みながら四方山話に花を咲かせました。黒田さんは既に私の「夕日徒然草・地の書」を既に読んでいて、私の生き様や変わった発想について矢継ぎ早の質問がありました。小さな田舎に生まれ高校卒業後7年間も漁師をしたこと、青年団活動を8年間やったこと、公民館で13年間しごとをしたこと、広報を10年間担当したことなど、知っているようで知らない私の過去について質問に答えるような形でお話をしたのです。そして先日【自悠くらぶ】に書いた記事がかなり小さな文字のため読んで聞かせてあげました。

 やがて10時が過ぎたのでそろそろお暇しましたが、私が中学生のころ訪ねた思い出と少しも変わらない庭の風情や山並に懐かしさを感じながら、庭の隅に咲く水仙のほのかな香りに送られて黒田さん宅を後にしました。豊田川と並行して走る急峻な一直線の道を下りながら、荒れるがままの段畑に忍び寄る限界集落の暗い影が忍び寄るような寂しさを覚えました。

 私の姉がこの集落に嫁いできた頃はまだ活気がありました。姉は嫁ぎ先がモータースをしていたため、役場の近所に引っ越して今はその家も移築したため跡形もないようです。わが家の菩提寺があるこの地域もいよいよ寂しくなりました。人間の想いだけではどうにも止まらない少子化・高齢化・過疎化・学校統廃合・限界集落という厄介な問題も解決策を見いだせぬまま、いたずらに時間だけが過ぎて行くようです。せめて田舎に暮らす人たちにいい老後を過ごさせてあげたいと思いつつ奥東を後にしました。

  「車だと あっという間に やってくる 車乗れなきゃ 歩くしかない」

  「皮肉にも 人間少なく 田畑が 自然に帰る 荒れるまかすが」

  「勉強を した子どもたち 皆都会 残りし人は 爺と婆」

  「よう来たと 足突っ込んで 向かい合い お茶をすすりて 四方山話」  

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shin-1さんの日記

○大学での昼休み

 大学の私の一室にパソコンがやっと用意されました。私はパソコンに疎いので、メールの発信と受信、それに文章が打てたらいいと思っています。というのもパソコンは個人情報やウイルスなど私の知らない部分が余りにも多いので、余り深入りすると人に迷惑をかけたり、大変なことになるのでその程度にとどめておきたいのです。

 さて今日は大学への出勤日です。午前中新居浜の角田さんがわが家にを訪れ、2月の講演の打ち合わせをしてから出かけました。打ち合わせの途中にも沢山の電話やメールが入り、いよいよ今年も始まったなあという感じです。大学までは家から約25キロ約50分の道のりです。大学に着くと事務局に顔を出し出勤簿に押印するのですが、この歳になっても何となく昔の管理社会から抜けきれないもどかしさも感じています。でも役場はタイムカードでしたが、大学は押印なので時間管理の裁量余地があって随分助かるのです。

 出勤して直ぐに担当の小田先生の所へ行き、これまでの作業の報告文書を手渡し簡単な打ち合わせをしました。運よく森賀先生に会い産業景観について書いたという雑誌のコピーをいただきました。森賀先生は元新居浜市役所の職員でしたが、私と同じ観光カリスマで、今は客員教授として活動されています。愛媛新聞の四季碌に執筆している記事を何度か読んだことがありますが、鋭いタッチで書いている文章を感心しながら読んでいます。

 やがてお昼になりました。弁当も持たず、昼休みというのがあるのかないのかも分からず昼休みのつもりで、パソコンをいじりました。するとアメーバブログのトップページが現れ、遊び半分のつもりで文字を打ち始めました。この記事は私が愛媛大学農学部の一室でお昼の休憩中に打った初めての文章なのです。おっと午後1時になりました。昼休みも終わりのようですので一応ブログ画面を閉じたいと思います。それではまた夕方・・・・。

 午後は松山市上野にある愛媛県生涯学習センターで県公連の専門委員会があり出かけました。出がけに今治の井出サツミさんからシイタケを差し上げると予約が入っていて、見事なシイタケを沢山いただきました。

 夕方からえひめ地域政策研究センターの清水さんと近々出版予定の「夕日徒然草・水の書」の原稿を持参して打ち合わせを行い、これでやっと年末からの肩の荷が降りましたが、さてどんなものに仕上がるか楽しみです。

 帰りに娘のマンションへ立ち寄り今年始めて孫の顔を見ました。年末年始は大阪の娘婿の実家に帰省していたため出会うこともなく少し寂しい感じがしていましたが、週末にはこの豆台風がわが家にやってくるようです。

 しかし世の中は便利になったものです。大学で昼休みに書き始めた原稿に、家に帰ってこうして書き続けることができるのですから、驚くほかはありません。


  「昼休み 遊ぶつもりで ブログ書く 続きは家で 何と便利に」

  「大学は 全てのことが 霧の中 だからいいのだ 霧の向こうに」

  「ハンコ押し 確認作業 週二回 底冷え部屋で 我慢の仕事」

  「大学の 名刺を作る 準備する いよいよ俺も 評論家?かも」

  

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shin-1さんの日記

○故事ことわざへの挑戦

 昨年末に息子が会社から沢山のカレンダーを貰って帰ってくれました。その中から妻が好みのを選んでどの部屋にもやたらとカレンダーがぶら下げています。余ったものは残念ながら処分するしかなく、新年早々畑の隅のドラム缶を切って作った家庭用焼却場で焼却処分をしたのです。そんな中で少し大きめの日めくりカレンダーを見つけました。毎年使う大きい日めくりはもう既に台所にかけてもう7日分もめくられているのです。

 この日めくりの中には驚くほどの旧暦を中心とした歳時記が書かれていて、畑仕事や仏事・祝い事などに結構重宝なのです。一番下には「故事ことわざ」というのが載っていて、これが結構いいことを書いているのです。ちなみに1日・一年の計は元旦にあり/2日・柔よく剛を制す/3日・早起きは三文の徳/4日・急がば回れ/5日・残り物には福がある/6日・実を見て木を知れ/7日・一寸の虫にも五分の魂などと書かれています。

若松進一ブログ

 さて1月8日は?とめくってみると今日の故事ことわざは「山椒は小粒でもピリリと辛い」でした。よく聞く言葉なのですがさて本当の意味はとなるとかなり奥が深いようです。毎日書いている私のブログも3年余りが経ったので、捨てる運命にあったカレンダーの中からせっかく命拾いをして私の手元にきたので、これ幸いと受け止めて故事ことわざに少しふれてみようと思った次第です。

 山椒は七味トウガラシやワサビとともに日本独特の香辛料です。七味やワサビに比べ普通料理には余り使わないものの緑の葉っぱは澄まし汁や山菜の木の芽あえなどの料理に使われてその存在感を発揮します。一方山椒の実は粉にして七味と同じような小瓶に入れられていますが、土用丑の日に食べるウナギのかば焼きにはなくてなならない香辛料なのです。私は今まで山椒を辛いと思ったことは一度もありません。ゆえに山椒が「ピリリと辛い」という表現は首をかしげたくなるのです。そこへ行くと鷹の爪の種などは歯でかむとピリリと辛いという表現ぴったりなのです。

 まあ山椒を人間に例えた言葉なので、小さくても存在感のあるような人間でありたちという意味は分かるのです。私は仕事がら色々な場所で色々な人に出会います。地域づくりの世界は名刺や肩書きが比較的物を言わない世界なのですが、それでも財力や権力にまかせた人を見るとうんざりするのです。そこへゆくと意外な場所で存在感のある無名ながら意外な人に出会うのです。まさに山椒は小粒でもピリリと辛い存在の人なのです。私もそんな人になりたいと思いますが残念ながらその道は険しくて遠いようです。

 昨年新潟湯沢の駅構内にあるポンシュ館の高村秀夫さんにお会いしました。ほくとう総研の清水研究員さんの仲介で偶然にも出会いましたが、どうやらこの方もピリリと辛い存在のようです。偶然でしょうか、ここまで文章を書いた時私の携帯が鳴りました。何と高村さんからなのです。新潟に八海山という銘酒の蔵元があるのですが、そこへ話に来ないかというお誘いでした。「えーっ、こんなことって本当にあるんだ!」と「驚き桃の木山椒の木」でした。登れない例えとして「山椒の木に登る」という言葉も思い出しました。「山椒大夫」という悲しい物語を思い出しつつ、さて明日はどんな故事ことわざに出会えるやら・・・・・。今から楽しみです。


  「ゴミの中 命拾った 日めくりの 故事ことわざに 挑んでみたい」

  「山椒を ピリリ辛いと 思わない それでも俺も そんな男に」

  「世の中は 不思議なものだ 名前書く すると携帯 嘘?か本当?か」

  「スタンドの 社長に感謝 油入れ 実はしかじか 窓越し話す」

  

  

 

 

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shin-1さんの日記

○これが私の初夢か?

 今朝浅い眠りの中で夢を見ました。布団の中で見る夢はいつもつじつまが合わないもののようです。歴史上の人物と友人が一緒に出てきたり、まるで架空の物語のようでした。夢から覚めて思い出そうとするのですが、これがまた中々思い出せないのです。

 結論からいえば「お前は何をしに生まれてきたのか」という問いかけでした。人間は愚かな動物でできもしない見果てぬ夢を見ながら生きています。何度か挑戦するも夢破れ、夢はだんだん小さいくしぼんでより現実的なものとなって生きて行くのです。

 

 私の子どもの頃にはテレビがありませんでした。ゆえに憧れの人は坂本竜馬だのといった歴史上の人物だったりしました。それは本とてふんだんに買えなかった貧乏な私が、小学校の図書室で片っぱしから伝記物を読んだ影響によるものなのです。日本の歴上の人物から外国の歴史上の人物に移って行く中で、私は背表紙もなくなり薄汚れた一冊の本に出会いました。それが「ジョン・万次郎の生涯」という本でした。私は漁師の長男に生まれやがて漁師として生きる宿命みたいなものを感じていましたが、その本を読むうちに漁師でも太平洋を渡ってアメリカへ行けたら・・・なんて淡い夢を頭の中に描いていました。何度も借りて読む私の姿を目敏く悟った担任の先生は私の誕生日に、「ジョン・万次郎の生涯」という真新しい一冊の新聞紙に包んで私にプレゼントしてくれたのです。

 もし私にこの本を先生がプレゼントしてくれなかったら、私の人生はこれほどドラマチックに生きれなかっただろうと思うと、今は亡き恩師に感謝せずにはおれないのです。ジョン・万次郎に憧れ、30歳で建国200年のアメリカへも青年の船で行くことができ、私の人生観を大きく変えてくれました。

 今朝夢に出てきたジョン・万次郎が「お前は何をしに生まれてきたのか」という問いかけは、今日中に結論が出るものではありませんが、風邪で伏せっていた年末年始ずっと考え続けていたことでもあり、どうやらそのあたりが今年の自分の生き方の大きなテーマになりそうです。

 いくら大きな夢を抱いてもこの年齢になるとやれることはたがだかしれています。しかしそれを言い訳に自分の夢を小さくする必要は全然ないのです。社会に漂う不況感や閉塞感を思うと、現実を生きて行くのがやっとで、夢など持ちようがないように思われます。でも歴史はいつの時代にもこのようにその時々の大きな悩みがまるで大きなうねりのように襲いかかってくるのです。ひるむことはなく新しい夢に向かって考えをチェンジしチャレンジすればチャンスは必ずやってきます。他人任せ流れ任せでいい人生もいい社会もないのです。

 私は今朝の夢を初夢ととらえたいと思いました。

  「何をしに 生まれてきたの?と 夢枕 ジョン・万俺に ささやき消える」

  「ああこれが 初夢なのか 思い出す フイルム途切れ 思い出せずに」

  「年末と 年始にかけて 伏せながら 枯野巡りた 意味が分かりて」

  「よし俺も 今日から夢に チャレンジだ 歳など不問 動くあるのみ」 

  

  

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