shin-1さんの日記

○農林年金受給者連盟の研修会に招かれて

 農協に勤める旧友から頼まれて、農林年金受給者連盟の研修会に3日連続で招かれました。愛媛県内といっても、東予、中予、南予と3つのブロックは土地柄も考えも違うため、西条市、松山市、西予市の会場を渡り歩きながら、色々な話をさせてもらいました。先日もこのことについては「終わりの時間を守る」というタイトルで書きましたが、やはり3日間とも同じような時間配分に戸惑ってしまいました。

 私への講演依頼文書には解除こそ違え3日間とも14時15分から15時15分という1時間の講演時間が記されていました。私は必ず30分前には会場入りするように気配りをしているため、遠方の会場でもあるため少し早目に出かけ40分以上も前に会場入りしました。私の出番時間が来ても、主催者は私の存在を無視して喋り続けるのです。私の気持ちが少しイライラしました。自分の講演がこの研修会の最後ですから、私の話が長引くと結局研修会の終わりの時間が延びて、その責任は全て私が負わなければならないのです。

若松進一ブログ(東予会場のJA西条)
若松進一ブログ(中予会場の松山市コミュニティセンター)
若松進一ブログ(南予会場の西予市文化会館)

 もし私が参加者だったら多分、案内状に書かれた終わりの時間が延びたら、この寒空にと必ずブーイングを起こすでしょう。最初の日は講演時間を何処まで話していいのか主催者からは何の指示もなく、私は少し不機嫌ぶって「決められた時間には終わりますので」と前置きして話をはじめ、会議が伸びたのは私の責任ではないとアピールし、尾張の時間を守って短めの講演を終えて、参加者から「もっと聞きたかった」「時間通りに終わって嬉しい」などの嬉しい感想が寄せられました。

 ところが私の損な抗議行動に気づいたのか主催者は二日目に、「時間が長引いても1時間は話して下さい」といわれましたが、二日目も三日目も相変わらず変化のない会議の運営にうんざりし、抵抗する形で早めに終わらせました。三日間の連続講演会を終わってホッとはしましたが、何となく後味の悪い研修会となってしまいました。しかし、主催者たるものもう少しはそこら辺の工夫が欲しかったし、会場の雰囲気を読み取る知恵が欲しかったと、思うのです。帰ってから私に感想のメールが届きました。嬉しいことに私の話への反応です。「参加して終わりの時間を守ろうと努力した若松さんに大きな拍手を送ります」でした。

 私はもう現職ではなく、年金に依存して生きなければならないリタイア組です。ゆえにリタイア組の置かれている立場はよく分かるつもりです。増えない年金、増える不安、そんなことを考えると日々の暮らしがとても暗くなるのです。そんな人たちが何故こんな寒空研修会に集まるのか、それは安心と安全を手に入れるためなのです。国家や年金を出す側の台所事情など聞きに来ているのでうはなく、どうしたら簡単に年金が効率よく受けれるかなのです。残念ながら説明はそこら辺の迫力に欠けていました。

 私の話は簡単です。いくら悩んでも年金は増えないのだから、貰う年金でいかに楽しい人生を送るようにするかだけなのです。「私を見てください。こんなに元気に夢を持って田舎で楽しく生きています」と胸を張って自分の人生を見せびらかしてあげました。そうです。もっと楽しく生きようではありませんか。私の夢のような話がお気に召さなかったら、どうか文句を言いに来て下さい。待ってま~す。


  「俺のせい? みたいに見える 伸び時間 誰の責任? 俺ではないぞ」

  「芸がない 同じ失敗 繰り返し ご苦労さんで あっさり幕を」

  「私なら こうするだろう 抵抗し それも気づかぬ 不思議な会議」

  「よくやった メールで褒めて くれました 気持ちは同じ 参加者意識」 

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○インターネットで上手なお買い物

 「ウソー、本当?」という言葉が若い人の間では日常茶飯事に使われています。先日私が教えている大学生と話をしていたら「ウソー、本当?」という言葉を盛んに使うのです。「私の言った言葉がそれほど信じられないのか」といいたくなるような疑心暗鬼のこの言葉は、やはり今の世代を象徴しているようにも聞こえるのです。

 でも私たちだって新聞やテレビで自分の思っていることと違った情報を聞くと「ウソー、本当?」と言葉は出さなくてもそういいたくなるようなことがいっぱいあるのです。例えば最近の買い物傾向は自分がお店に足を運んでこの目この手で確認してから買い物するのが普通なのですが、世の中はインターネット流行りで、統計上は自分がお店で直接買う買い物金額よりインターネットの通信販売で買う金額の方が逆転して多くなっているそうなのです。「そんなことはない」と最少は信じきれませんでした。しかし昨日娘のマンションへ出かけてそれが本当であることに気が付きました。

 娘は助産婦をしていますが、次男の出産と育児のために今は休暇を取っています。これまでの超多忙な暮らしとは一変して、今は人生を謳歌しているように穏やかな暮らしなのです。大学へ通う旦那と幼稚園年長組に通う長男を送り出すと、1年半になる次男の子育てをしながら、長男が帰ってくるまでの自由な時間を楽しんでいます。友人と出かけたり、次男の昼寝をしているときは料理を楽しんだりしていますが、インターネットでショッピングを楽しんでいるのです。昨日は私が聞きもしないのにやれ「子どもの洋服が3枚で2千円とは安い」とか、「ブログを読んでいるとこんな安いものが手に入った」などなど、ネットでの買い物を楽しんでいるようです。コープえひめの組合員でもあるので、安心で安全な食べ物も宅配してくれるし、旦那は旦那でこれまた何でもネットで物を買うようなのです。私の持ち物もパソコン、プリンター、デジカメ全ては娘婿の世話でネットで買いました。息子もインターネットで人間牧場の五右衛門風呂も薪ストーブも買ってくれたのです。

 確かに私たち田舎に住む人間にはまだまだネット販売などは余り馴染みがありませんが、都会ではチケット販売や日常茶飯事の暮らしがもうネット社会に組み込まれているのです。私より一歩先に行く娘や息子にネットの様々な利用法について教わるのですが、ネットやカードは危険性もあって自己責任だからと厳しく教えてきたつもりなのに、親の言うことより世の中の流れに沿って生きている子どもたちはいつの間にかネット社会で生きる術を身につけて生きているようです。

 私が欲しいものは必ず今は息子に相談するようにしています。すると息子は私から必要な条件を聞きインターネットから情報を取り出してプリントアウトしてくれるのです。ゆえに安心してこれが欲しいと息子に言えば、息子は注文をしてくれるのです。ただしお金を払うのは妻ですから、私の知らない場所で息子に世話賃と称して多少上乗せして手渡しているようですが、まあこれも家族円満の秘訣かもしれません。

 ネットで失敗する時代は去りました。ネットを上手に利用すれば暮らしはもっともっと豊かになるはずです。田舎に住んで買い物さえできないような社会に暮らしてる自分がどこかみじめな感じもしていましたが、これからはネットを最大限利用して、もっと豊かな暮らしを実現しようと思っています。


  「娘たち ネットで上手 お買いもの 見ている私 あっけにとられ」

  「買物は 今やネットが 主流です 時代遅れと いう歌あった」

  「これ欲しい 思って見ても 買い方が 分からぬ俺は 時代遅れか」

  「失敗を 気にする余り 進化せず こうして歳を とってゆくのか」

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○上り坂あれば下り坂あり

 私が子どもの頃の私の家は俗にいう半農半漁でした。天気の良い海が凪いだ時は鯛網の船に乗って沖合に出て漁をし、海が時化ると裏山にある畑を耕すといった、今考えると合理的な暮らしをしていました。当然家は親父もおふくろも殆ど留守で、居間と土間の間になる太い大黒柱に小さな黒板があって、家族への母の伝言はこの黒板に書かれていました。学校から帰るとまずこの黒板を見て行動しなければ叱られるのです。学校帰りに友だとと遊ぶ約束をしても、この黒板の伝言が優先するため、時々見なかったふりをして無視したこともありましたが、いつも大目玉でした。

 黒板に書いていることは、「悦子(私の姉で長女)-御飯を○○合炊いておきなさい。進一(私)-庭に荷造りした背負い子をかるうて○○の畑へ来なさい」で、3人の弟や妹には余り指示書きがなかったように思うのです。仕方なく言われたとおり、約30分もかけて急な坂道を背負い子をしょって出かけたものでした。ただでさえ急な坂道を背負い子を背負って上がるのですからもうしんどくて、途中で何度も道端の適当な場所を選んで球形をしたものですが、その場所は案外決まっていて、山の上の池久保集落の人たちが街へ下りたり帰ったりする人たちと一緒になって、様々な世間話を聞かされたものでした。その中には顔見知りのおじさんやおばさんもいて「坊は偉いのう」などと褒められるものですから、ついつい嬉しくなって、大人と同じような馬力を出したつもりで大汗をかきながら登りました。

 やがて畑に着くと母が私の来るのを待っていて、芋飴のようなおやつをくれるのです。母と二人で並んで座り、眼下の海を見ながら様々な世間話や、将来のことなどを話しました。母は当時漁協婦人部の部長をしたりして浜の生活改善運動をリードしていました。日掛け貯金などをしたり進水式の簡素化などに取り組んでいて、松山でのブロック会や時には東京までも発表に行っていました。私がこのようになったのも多分母親の影響が大きかったように思うのです。

 母は私がそこらの野山で遊んでいる間にミカンや芋などを荷造りして再び背負い子にくくりつけてくれ、元来た道を下ってわが家へ帰って行くのでした。子どもの足ですが、行きの30分に比べ帰りの速さは格別で、荷物を背負ってもまるで3倍以上の速さで下れるのです。そんな登りの難儀と下りの楽さを比較しながら「上り坂あれば下り坂あり」を何度思ったことでしょう。

 山を登る辛さは想像以上に難儀でした。でも下りの楽さを知っているから多様辛くても我慢ができました。背負い子を背負って畑へ到達したときの「やったー」と思う達成感も格別で、時には畑に作っているスイカを割って母と二人で食べたりもしましたし、秋には掘り上げたばかりの芋を焚火で焼いてホクホクする芋を食べたりもしました。既にあの世に旅立った母のことは昨日のことのように思い出すのです。今は人間牧場になっている池久保の土地は私が働く母の姿を見る人生劇場のような気もするのです。

 畑に植わっていたミカンの木も既に枯れてなく、母が丹精込めて耕した畑の隅々は雑草に覆われていても、母と二人で腰かけて話したとっておきの場所は今も残っていて、草刈りの途中で休む時、横に母が座っているような錯覚さえ覚えるのです。

 「上り坂あれど下り坂あり」これは母が身をもって教えてくれた人生哲学のような気がしています。ゆえに私は坂の上の青い天の一朶の雲を見つめて登るのです。人生の坂道は未だ半ば、まだまだ人生の荷物は降ろせず登っていますが、母お教えどおりやがて楽な下り坂があるかも知れないと、今日も少しだけ元気を出して坂を登ってみようと思っています。


  「上り坂 あれど必ず 下り坂 母の教えが やっと今頃」

  「この場所に 母と並んで 腰かけて 色々夢を 語ったっけな」

  「あの母は あの世のどこを 旅してる やがてどこかで 会える気がして」

  「死んだのに 今も心に 生きている 俺を育てた 母の思い出」  

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○わが家のどんど焼き

 正月や松の内もすみ、日々の暮らしも平常に戻ってきました。世の中不思議なものでこれまで悪かった体調もいつの間にかすっかり回復し、元気いっぱいの日々です。多分それは私自身の自然治癒力もさることながら、献身的に看病をしてくれた妻のお陰だと、お金を払っていることを理由にお医者さんよりも妻を優先させて感謝しているのです。

 今朝親父の隠居に行ったら「今日は15日のはずだが、いつお飾りをはやすのか(片付ける)と文句を言われました。昔は1月15日が成人の日で、その日の朝松飾りを集めて畑の隅で火をつけて焼いたものですが、最近は成人の日が変わって、蔵氏の歳時記にも変化が出始めたようで、親父の言うのも一利あると思って、口から出まかせ「今朝お飾りはやしをしようと思っている」と言ってしまいました。早速家中のお飾りや玄関、自転車、車、煙会所や海舟館などに飾っていたお飾りを集め、畑の隅に持って行きました。また座敷のお餅や神棚のお供えも下げて、宇津高く積み火を付けました。昔からこの火にあたると一年中無病息災に暮らせるという言い伝えがあるので、親父も私もお供えのお餅を火にくべて清め焚き火にあたるような姿で霊験をいただきました。

若松進一ブログ

 最近は正月飾りも簡素になったり、焚火をきつく戒めているため、集落ごとにどんど焼きなどという年中行事を作って公民館などが文化や歴史の行事伝承を行っているようですが、これも悪魔払いの行事として大切にしてゆきたいものです。

 90歳の親父はやはり歳なのかこうした伝統行事はお前の力で是非息子にも伝えて欲しいと常々いっていますが、私から息子への伝承となるとかなり難しいようです。この近所の家はまだしも、限界集落と呼ばれる高齢化率の高い地域では、高齢者夫婦もしくは独居老人の家庭が目に見えて多くなってきました。これまでは歳を取っても何とか元気に過ごせたり、子どもさんとの音信もあったようですが、最近はそれさえも少なくなって、「やがて歳をとったら特老施設へでも行くのよ」と寂しく語る老人も珍しくなくなってきました。結局私たちの親の時代は向都離村の教育をしてきたのです。そして都会予備軍を作って都会戦士として都会に送り続けてきたのです。


 最近「本当の幸せとは何だろう」としみじみ考えます。お金や財産があって裕福なことが幸せだと思っていたけど、どうもそれは幸せの一部にしか過ぎないと思うようになったのです。また優秀な子どもに恵まれいい会社に入ってくれることが親の幸せと思っていたけど、本当は親子孫がひとつ屋根の下で笑って暮らせる普通のことが本当の幸せなのだと気が付きました。幸いわが長男は同居を望み、長男の嫁もこれに同意しているようです。やがて間もなく息子家庭との同居を始める準備もしたいと思っていますが、幸い私の方針に沿って4人の娘息子たちは全て県内に職を求めて暮らしています。

 どんど焼きの燃える火を親父とじっと見ながら幸せについて考えた一日でした。

  「しめ縄は 灰になっても 結ばれて 形崩れぬ 俺ら夫婦も」

  「同居する 意思あり息子 嬉しいね 親父いつかと せかされいます」

  「松の内 終わりて今日は どんど焼き 年中行事 次の世代も」

  「どんど焼き 体に煙り すり寄せて 無病息災 親父と祈る」

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○終わる時間も守ろうよ

 私たちは様々な会合に出席し、それぞれの会合開催の趣旨に沿った内容について参加します。時には参加する側から参加を促す主催者になって会合の運営についても役割を果たすのです。私はむしろ後者の側として長年にわたり、これまでに随分と会合を主催する側に立ってきました。

 会合を主催する側が一番労力を費やすのは会合の内容をどのように組み立てるかということと、参加者を目論見どおり集めることができるかという手立てです。参加が義務付けられているような会合は心配しないのですが、不特定な人を集めるオープン参加の会合などは蓋を開けてみるまで人数が分からず、胃の痛むようなことだって随分経験しました。人は会合にどんな想いを持って参加するかという参加する側の立場に立って考えるのが一番ですが、残念ながら行政に携わる人たちにとっては中身がどうであれ至上命令と予算や事業消化という側面が強すぎて、結果など余り気にしていない部分が、傍から見るとずいぶん見受けられる無意味な会合が多いようにも見受けられます。

 会合に進んで参加するのは自分にとってフィーリングが合うかどうか、また求めているものが期待できるかという点が重視されます。フィーリングが合って求めるものも期待できるとしたら、多少不便だったり会費が必要でも私だって会合には参加します。しかしその会合の運営次第で結果は変化しますから、そこで失望すると次への足は重くなるのです。私は愛号に参加して良かったと思う3つの条件を頭に入れて会合を組み立てました。①楽しい(楽しみづくり)、②役割感(仕組みづくり)、③達成感(値打づくり)でした。

 会合は予定された席に予定された人が埋まるとまず第一段階はクリアーです。ところが第二段階の会合開催の時間が大幅に遅れたり、前の席がガラガラで「前から詰めてください」といくら言っても動かない会合は上手くいったとは言えないのです。会議の冒頭主催者が「今日は他にも会議が予定されていて人数が少ないようです」とか、「今日は農繁期で天気もよく時間が遅れたようです」と言い訳するようでは、最初から上手くいくはずがありません。そんな言い訳をしている同じ主催者の集会に招かれたことがあります。主催者が「今日は雨が降って人が集まりません」と・・・・。「おいおいこの町はいつなら人が集まるのか」と言ってやりたい雰囲気でした。

 昨日私はある年金受給者連盟の受給者に講演をして欲しいと招かれました。私の講演予定は午後2時15分から午後3時15分までの1時間の予定でした。私は30分前に会場入りし、ロビーで出番の時間を待ちました。しかし前の人の話が10分伸び、次に主催者の報告が10分もあって、私の講演が始まったのは14時40分となりました。普通であれば私の話はそこからスタートして1時間は頂くはずなのですが、主催者からは何の話もなく始まりました。私は少々虫の居所が悪くなったので、講演が始まると「前の人に私の時間を20分も食べられました。残念ながら私の時間は45分になってしまいました。皆さんは今日の集会が午後3時15分で終わると思って参加されたのでしょうから、どうぞご安心ください。終わりの時間はきっちりおわります」といって、短いながら講演をはじめ講演を約束通り午後3時15分に終えました。参加した人は嬉しくて大きな拍手を送ってくれました。

 主催者が、参加した人の意思を無視した会合運営をするのはよくある話ですが、私は久しぶりに痛快な気持ちで会場を後にしました。さて同じ会合が今日は松山、明日は西予で行われます。今日はどんな奥の手を使おうか、今から楽しみです。


  「頼まれた 講演時間 食い込まれ 終わりきっちり 予定どおりに」

  「始まりを 気にするのなら 最後まで 時間気にして 終えて欲しいな」

  「久々の ヒットにみんな 拍手して 援護射撃の 会場を出る」

  「この歳に なると会場 空気読め 会場爆笑 舌好調です」 

  「

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○七転び八起き

 私の家の神棚に小さなダルマさんが置かれていました。多分親父がどこかの神社にお参りした際、縁起を担いで露天商で買ってきたものだろうと思うのですが、親父は年末に神棚を掃除する度にこのダルマを転がして「七転び八起き」の話をしてくれました。その時私は子どもながら不思議な質問を親父にしました。「転んで起きて転んで起きてと何回指折り数えても七回転び七回起きるのだから七転び七起きではないのか」といったのです。親父は「昔から七転び八起きと言うんだから、そんな難しいことを考えなくてもいい」と言葉を濁しました。明くる年も同じような質問をしましたが、やはり答えは同じでした。しかし親父もさるもので、どこでどんな本を読んだのか達磨大師というお坊さんの話をしてくれました。達磨大師はインドから中国へ渡り坐禅を広めた人で、中国へ渡ろうと船に乗るものの七回も失敗し八回目にやっと中国の杭州に到着したそうで、お釈迦さまから数えると二七代目の祖師というえらいお坊さんだと教えてくれました。達磨大師は百二十歳まで長生きをしたそうで、坐禅をし過ぎて足が使えなくなったなどと、アレンジした話をしましたが、どこまで本当かは不明です。

 しかし最初起きている姿から数えると確かに七転び八起きであることに、今になって気がつくのですから私も大したことはない凡人だと思うのです。日本人はダルマが大好きで、どこの選挙事務所でも眼の黒く塗られていないダルマが置かれていて、選挙事務所を開いたときに片目を入れ、当選したらもう一方の目に墨を入れて両目開眼としているようです。外国の人にはこれが何とも奇妙で理解できないようです。普通であれば選挙に当選すると聖書を片手に神に敬虔な祈りを捧げるのが普通でしょうが、日本人は人が昔からやっているからくらいな軽いノリで選挙を戦っているようです。

 関係のない話で横道にそれてしまいましたが、さて七転び八起きとは尋常では考えられない不屈の精神です。言われて自分の人生を静かに振り返ってみれば失敗も多くあり、まさに七転び八起きの人生だったと思いつつ、最後が肝心、八回目に起き上がり人生を歩まなくてはならないと決意を新たにするのです。


 私の友人には地域づくりという世界に生きてきた人が多く、どこかで自分の信念の結末を政治家として成就したいと、選挙に立候補する人が意外と多いのです。確かに自分が描いたまちづくりの理想を実現する最も早道は首長さんになって思いのまま政治的手法でまちづくりをやればそれに越したことはないのです。首長選挙に立候補する場合は自分の信念もさることながら周りの人を巻き込まなければ選挙にはなりません。自分に対する信用度をどの程度に見積もるか、また対抗馬批判の票数をどこまで味方にするか、選挙費用と合わせて激しい攻めぎ合いの見極めが必要なのです。結果的に信任を得て当選しても次の選挙で勝てる保証はないのです。

 ダルマさんのように七転び八起きしながら最後の選挙で負けた場合はみじめなもので、七転び七起きとなって寂しい結末を送るのです。

 私の友人にもそんな人が何人もいて、時々会うのですがかつての当選した時の胸を張って歩いていた姿からは想像もできない別人かと思われる姿に哀れさえ感じることがあるのです。

 まあ人生は軽い七転びと最後は強い起き上がりで締めくくりたいものです。七転び十起き、てな調子にはいかないものでしょうか。


  「転んでも 最後は起きて 終わりたい 今の世の中 転んで終わる」

  「転んでも タダで転ばぬ 起きる時 必ず何か つかんで起きる」

  「俺なんて 転んだ割に 怪我もなく むしろ大きく なって生きてる」

  「七転び 十起きしたい 人生は だけど八起きで 丁度良いかも」

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○雪の山陰路夢紀行

 「お父さん、山陰は寒いから厚着をして風邪をひかないように」と妻から、まるで子どもが雪の北国へでも修学旅行に行くような注意のされ方をして、早朝6時わが家を出ました。空には光々と満月の冬月が照って私を見送ってくれました。松山から乗り込んだ特急しおかぜの車窓から見える石鎚山系の山並みもここ2~3日の冷え込みで真っ白に雪化粧し、列車の後ろに消える高縄半島の山は吹雪いているようでした。それでも早春の瀬戸大橋を渡り列車は順調に岡山到着です。

 いつも利用する見慣れた8番線ホームから特急やくもの発車する2番線ホームに向かうと、出入りする列車の屋根に白い雪を乗せていて、「ああ雪国へ向かうのか」と身の引き締まる思いがしました。いきなりホームの放送で「雪のため列車の到着が遅れ約10分遅れで運転予定と告げられました。冬のホームは瀬戸内海側の晴れの国岡山といいながら、南国暮らしの私には身に堪えるような底冷えのする寒さで、コートの襟を立て両手はポケットに突っこんだまま列車を待ちました。

 いつの間にか列車を待つ乗客の長い列ができ、自分の順番がかなり後列になっているため、自由席をキープした不安が少し募りつつも、隣に並んだおばちゃんと、「何処へ行きますか」「はい米子へ日帰りで」「えっ、米子日帰りですか?、それは御苦労さまです。ところで米子へはお仕事で?」「はい講演jを頼まれまして」「えっ、大学の先生ですか?」「いえいえただのサンデー毎日の人間です」なんて、旅の途中の何かの縁が短い言葉のやりとりで生まれました。

 列車は予想したほどは混んでいなくて、真ん中ほどの窓際の席を確保することができましたが、先ほど言葉を交わしたおばちゃんが、「よろしいですか」と断って私の横の席にどっかと座りました。私は普通特急やくもに乗る場合は、必ず進行方向に向かって右側の席に座るのですが、乗車したお客の殆ども右に座ったため、残念ながら左となってしまいました。右に座る理由は伯耆大山の容姿が見えるからです。でもこの日はあいにくの雪模様で、備中高梁、新見と中国山地の山奥に入るにしたがって、車窓は白い雪化粧に一変し、見飽きぬ光景にカメラを取り出してシャッターチャンスをうかがったりして過ごしました。

若松進一ブログ (根雨駅の車窓から眺める積雪は半端ではありませんでした)

 隣のおばちゃんは出雲へ行くらしく、まだ10時過ぎだというのに早くも弁当を広げて食べ始め、盛んに私に話しかけてきますが、そのうち軽い寝いびきをかいてコックリコックリし始めました。列車は次第にノロノロ運転になって、その度に車掌さんが遅れた理由と時間を説明しているようでした。根雨に一時停止したころには車窓から見える屋根の雪は多分50センチは越しているかもしれないと思うくらいの積雪で、水分を含んだ重い雪が竹藪の竹をしならせ、冬の厳しさを見せていました。


若松進一ブログ (山陽から山陰へ、中国山地を縫うように走る特急やくもの車窓は「トンネルを抜けるとそこは雪国だった」という表現がぴったりの風景でした)

 それでも隣のおばちゃんと話をしながら20分余り遅れで米子に到着しました。前もって列車の中へ入った携帯電話で列車遅延を知らせていたので、スムーズに担当の金田先生と駅で出会うことができました。

 講演会の会場は駅近くの合同庁舎でした。教育局でお茶をいただき早速2時間の講演が始まりました。雪の中鳥取県内から集まった公民館や社会教育の関係者を前に、休む間もなくぶっ通しで話をさせてもらいました。片道6時間をかけてやってきた想いを語らなければと気負って話しましたが、まるで早送りの多分普通だと3時間分は話したのではないかと思うほどでした。外の雪もなんのその皆さんにも熱心に聴いていただきました。

若松進一ブログ (研修会が始まる前のくつろいだ会場風景)

 金田先生に駅まで送ってもらい、再び特急やくも、特急しおかぜに乗って元来た道を帰りました。どの列車も雪のために大幅に遅れ家に着いたのは12時少し前でした。「寒かったでしょう」。寝ないで待っていてくれた妻の一言が何よりも救いの一日でした。帰りの車のラジオで聞いたのですが、昨日日本中で一番多い積雪は鳥取大山の1メートル90センチだそうで、よくぞ行けた、よくぞ帰れた、というのが実感のようです。


  「よく行けて よくぞ帰れた 雪の中 列車遅れて 帰宅も遅れ」

  「列島で 一番雪が 多い聞き 驚きつつも 胸撫でおろす」

  「二時間を 一気に喋る 迫力に あっけにとられ 気がつきゃ終わる」

  「ぬかるんだ 足元見つつ しみじみと 雪は見るもの 暮らしにゃ要らぬ」 

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○能ある鷹は爪を隠す

 私のような凡人は能もないため能の爪の隠しようもありませんが、能のある人には二つのタイプがあって持っている能を見せびらかせる人と、あくまでも謙虚に能力を見せない人がいるようです。今のご時世ですから能力があることを内外に広くアピールすることはとても大切なことです。でもそれが過ぎるとどこか鼻もちならない人もいるのです。昨年はノーベル賞ラッシュで日本人が4人も選ばれました。それぞれの受賞者がそれぞれの感想と抱負を述べ、それぞれにノーベル賞受賞への険しい道のりを語っておられましたが、ある学者で好感が持てたのは授賞式の講演を日本語でした学者がいたことです。世の中は国際的になって世界的には英語が標準語になっていて、これまでの受賞者は全て英語で講演しているのですが、この学者は英語では自信がないと母国語の日本語で講演をしたようです。一部には英語も話せないのにノーベル賞を貰うなんてという意見もあったようですが、私はむしろ日本語で話したこの学者こそ日本人が日本人らしく振舞った人として評価したいと思いました。まさにこの人のことを能ある鷹は爪を隠すというのでしょう。

 鷹は昔から鷹狩りの道具として使われてきた動物です。鷹の仲間には絶滅危惧種に指定されているものもありますし、鷹狩りそのものが庶民的な遊びでないので何ともいえませんが、あの精悍な顔つきや獲物に食らいつく鋭い口ばし、それに日ごろは見せない鋭い爪は、猛獣さえも恐れるほどです。鷹匠はあの鋭い爪から身を守るため動物の皮でできた手袋のような手負いを腕にはめて鷹を操るのです。テレビの映像でしか見たことがありませんが鷹狩りは昔から貴族や大名の高貴な遊びだったようです。

 さて能力とは一体どんなものでしょう。学問の世界で理論を極めた人を学者といいます。一方この道一筋頑固一徹その道に精進した技術者を匠といいます。いずれも立派ですが、極めた理論を理路整然と説明する学者に比べ、匠はむしろ物を作り上げていく人ですから、「詳しいことは分かりませんが」と前置きしてただひたすらに生きてきた生きざまを冒頓として語るのです。


 宮大工の世界などはその最たるもので、曲尺と隅坪それに大工道具で材木をまるで魔術師のように組み立てて行くのです。宮大工で有名な西岡棟梁の言葉に「木の癖組」というのがあります。木には育った環境によって全て癖があるそうです。その癖を見誤ると反り返って折角作った建築物がバランスを崩してしまうのです。いくら立派な技術を持っていても、木の癖を見抜いて聞かす技術がなければ立派な建築物は出来上がらないのです。

 西岡棟梁の「木の癖組」はどこか人間にも通じる言葉です。一応同じように見える人間も実は育った環境で随分違った癖を持っています。その癖を見抜き癖をその人間の長所として活かすなら、その人間は大きく成長するのです。人の上に立つ者はせめて一の癖を見抜き癖を組み合わせる技量がなければ、会社や組織をうまく統率することはできないのです。

 私は能ある鷹にはなりたくてもなれませんが、せめて少ない能を見せびらかせて生きるような人間にだけはなりたくないものです。


  「隠すよな 能もないのに 見せたがる 人もいるから 気を「つけ生きよ」

  「若者の 爪見てギャーと 驚いた まるで鷹爪 能もないのに」

  「男でも 爪を伸ばして 格好良く 見せたがるひ人 意外と低能」

  「爪隠す 謙虚生き方 肝命じ 余命を生きる 人になりたい」

 

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○雪の鳥取米子日帰りの旅に出ます

 昨晩鳥取県からメールが入りました。「米子市内は20センチの雪化粧です。郊外は40センチも積っています。気をつけてお越しください」。というのです。そうです今日は鳥取県米子市内で開催される社会教育の研修会に講師として招かれているのです。鳥取県といっても東の鳥取市と西の米子市や境港市へ行くのは全くルートが違うのです。今日は家を6時に出発して7時の松山発特急しおかぜに乗って岡山まで行き、岡山から特急やくもに乗り換えて米子を目指すのです。途中伯耆富士といわれる大山を横目に見ながら走るのですが、今日は昨夜からの北西の季節風が収まらず、瀬戸大橋を無事に渡れるかも心配しているのです。少し余裕を見て12時に到着し、13時30分からの会議に間に合うように心がけていますが、無事な旅を祈っています。


 南国四国に住む者にとっては北国の雪の風景は憧れですが、北国に暮らす人にとってみれば、車のタイヤ交換はしなければならず煩わしいものだそうですが、季節の巡りは大切なもので、最近は冬の温度が温暖化の影響であまり下がらず、鳥取の特産品である20世紀梨の栽培にも影響が出始めているという話を聞きました。つまり外気温が下がらなければ梨の実の元となる花芽が十分休眠せず、結実率が低いのだそうです。私たちの地域でも温暖化の影響は出ていて、昔は殆どの害虫が冬の寒さで越冬できず死んでいたのですが、特にカメムシなどはこれもやはり温暖化の影響でしょうか冬が暖かいため死ぬこともなく越冬して大発生するのです。カメムシはミカンや柿の実に寄生して養分を吸うのですが、座れた実は商品価値がなくなるため、農家はカメムシ退治のために余分なぬ役消毒をしなければならないのです。

 「米子市内は幸らしいというメールが入った」と妻にいえば、「お父さんは幸せだねね。幸の米子が見えるのですから」と他人事みたいな顔をして羨ましがるのです。妻はどうも雪に憧れているようで、雪の飛騨高山とか、雪の京都を旅したいと友人たちと計画をして出かけるものの、その日に限って温かく雪の姿を見ることもなくタブの目的を達成してないようなのです。雪の米子といえば皆生温泉で松葉ガニと誰もが連想します。しかし残念なことに明日の予定が積んでいるため、今日は会議が終わると午後4時半米子発の特急やぐもでとんぼ返りしなければならないのです。乗り継ぎも入れると往復10時間の列車の旅は余りにも退屈なようですが、車窓に雪の中国山地を眺めながら駅弁を食べ、読みたい本を読んで過ごすのも旅のだいご味かも知れません。

 どうか今日一日ダイヤの乱れなどないようスムースな旅ができますよう心の底から願って出発します。


  「積雪の 情報メール 届く朝 心引きしめ いざ旅に出る」

  「お父さん 雪の米子は 羨まし 妻の言葉に 遊びじゃないぞ」

  「デジカメを カバンに入れて 旅に出る 土産は雪の 写真くらいで」

  「南国の わが町でさえ 小雪舞う 日本列島 まるで氷庫だ」 

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○自慢は知恵の行き止まり

 人間は自分の人生のプロセスにおいて、様々な生き方をします。その中には失敗も多いものの成功した話は自慢話として、人に話し認めてもらいたいものなのです。釣りに行ってでっかい魚を釣りあげたり、競輪で大穴を当てたり、時にはいい女性をナンパしたりした話は一夜一日の他愛ない話として、酒の肴にしながらお互いがお互いを褒めたりこけ降ろしたりして飲むのも楽しいものなのです。

 しかし、自慢の殆どは人の目には見えないものが多く、いくら自分が自慢のできる話だと思っても、人の尺度で推し量るとそれほどでもない話が沢山あって、「あいつはまた他愛のない自慢話をしよる」とかえって敬遠されてしまうのです。昔は村の家々には目には見えない格式というようなものがあって、貧乏人は貧乏人なりにつつましやかでした。しかし山持ちなどは財産があることを鼻にかけて暮らしていました。「私の先祖は○○家の末裔で」なんて話になると、途方もない昔のことなので信じ難く「、家にはそれを示す家系図や刀がある」などとなると鼻もちならなくなるのです。だって豊臣秀吉さんも元はといえば百姓の子せがれだったし、総理大臣になった田中角栄さんも学歴などなく、阿部さん、福田さん、麻生さんなんて総理大臣も親父が偉かっただけの話で、漢字さえもまともに読めないのですから、私たち庶民となんら変わらずちょぼちょぼなのです。

 私たちが子どもの頃は戦後間もないこともあって、戦争の武勇伝はあちらこちらで聞かされました。10人もの敵を相手に戦った話や、満州での凱旋はまるで自分一人の手柄話のようで、ヒーロー気取りのおじさんの話に手に汗握って聞き入ったものです。その人たちも既に歳老いて戦後は遠くなりにけりですっかり影をひそめてしまいました。人間の話を大別すると過去を語る人、今を語る人、未来を語る人に大別されますが、過去を語る人の多くは、「自慢は知恵の行き止まり」と感じるような人が多いようです。

 はてさて、ふと気がつくと私自身も人の前で堂々と自慢話をしていることに気が付きハッとしました。私は23歳の時自分の人生を85歳と決め26歳で結婚したい、子どもは女・男・男・男と4人欲しい、30歳になったらアメリカへ行きたいなどと、見果てぬ夢を紙に書いていました。ところが64歳になった今、自分の人生を振り返ったとき、ことごとく自分の思い描いた夢の殆どが成就しているのです。「えー、ウソ、本当?」などと疑問符が付きそうですが、まさに他愛のない自慢話なのです。そもそもこの話を思いついたのは日々の暮らしに何の疑問も持たずただ漠然と生きている若者を見て、「俺だって夢を持って生きたらこんなに楽しい宝ものを勝ち得たのだから君たちも」となったのです。

 まさにこれは私の自慢話です。じゃあ自慢話をすれば知恵は行き止まりかと尋ねられたら、私は新しい知恵を生み出し、また生み出そうと行動しているのです。まさに過去の話に今の話をプラスし、未来の話へと誘導しているのです。今と未来をどう生きるかという話をセットにしないと私の話はただの自慢話に終わってしまうのです。

 確かに知恵は思考と行動があってこそ成り立つのです。いい知識イコールいい知恵ではありません。潜在している知識をしっかりと使って顕在化した知恵に変えたいと今も願って生きています。自慢話のひとつも話せないようでは困ります。さりとて自慢話にうつつを抜かしていると人に足元をすくわれます。自慢話から新しいヒントを得て生きてゆきたいものです。


  「気がついた 自慢は知恵の 行き止まり これから先は 何を語るか」

  「気がつけば 人は自慢を して生きる 鼻をへし折る 手立てはないか」

  「先祖はなー それがどしたん 口はさむ 二の句が継げつず 早々退散」

  「浅はかな 人ほど自慢 したがって 自分を偉く 見せたがるもの」 

  

 

 

[ この記事をシェアする ]