shin-1さんの日記

○インターネットで上手なお買い物

 「ウソー、本当?」という言葉が若い人の間では日常茶飯事に使われています。先日私が教えている大学生と話をしていたら「ウソー、本当?」という言葉を盛んに使うのです。「私の言った言葉がそれほど信じられないのか」といいたくなるような疑心暗鬼のこの言葉は、やはり今の世代を象徴しているようにも聞こえるのです。

 でも私たちだって新聞やテレビで自分の思っていることと違った情報を聞くと「ウソー、本当?」と言葉は出さなくてもそういいたくなるようなことがいっぱいあるのです。例えば最近の買い物傾向は自分がお店に足を運んでこの目この手で確認してから買い物するのが普通なのですが、世の中はインターネット流行りで、統計上は自分がお店で直接買う買い物金額よりインターネットの通信販売で買う金額の方が逆転して多くなっているそうなのです。「そんなことはない」と最少は信じきれませんでした。しかし昨日娘のマンションへ出かけてそれが本当であることに気が付きました。

 娘は助産婦をしていますが、次男の出産と育児のために今は休暇を取っています。これまでの超多忙な暮らしとは一変して、今は人生を謳歌しているように穏やかな暮らしなのです。大学へ通う旦那と幼稚園年長組に通う長男を送り出すと、1年半になる次男の子育てをしながら、長男が帰ってくるまでの自由な時間を楽しんでいます。友人と出かけたり、次男の昼寝をしているときは料理を楽しんだりしていますが、インターネットでショッピングを楽しんでいるのです。昨日は私が聞きもしないのにやれ「子どもの洋服が3枚で2千円とは安い」とか、「ブログを読んでいるとこんな安いものが手に入った」などなど、ネットでの買い物を楽しんでいるようです。コープえひめの組合員でもあるので、安心で安全な食べ物も宅配してくれるし、旦那は旦那でこれまた何でもネットで物を買うようなのです。私の持ち物もパソコン、プリンター、デジカメ全ては娘婿の世話でネットで買いました。息子もインターネットで人間牧場の五右衛門風呂も薪ストーブも買ってくれたのです。

 確かに私たち田舎に住む人間にはまだまだネット販売などは余り馴染みがありませんが、都会ではチケット販売や日常茶飯事の暮らしがもうネット社会に組み込まれているのです。私より一歩先に行く娘や息子にネットの様々な利用法について教わるのですが、ネットやカードは危険性もあって自己責任だからと厳しく教えてきたつもりなのに、親の言うことより世の中の流れに沿って生きている子どもたちはいつの間にかネット社会で生きる術を身につけて生きているようです。

 私が欲しいものは必ず今は息子に相談するようにしています。すると息子は私から必要な条件を聞きインターネットから情報を取り出してプリントアウトしてくれるのです。ゆえに安心してこれが欲しいと息子に言えば、息子は注文をしてくれるのです。ただしお金を払うのは妻ですから、私の知らない場所で息子に世話賃と称して多少上乗せして手渡しているようですが、まあこれも家族円満の秘訣かもしれません。

 ネットで失敗する時代は去りました。ネットを上手に利用すれば暮らしはもっともっと豊かになるはずです。田舎に住んで買い物さえできないような社会に暮らしてる自分がどこかみじめな感じもしていましたが、これからはネットを最大限利用して、もっと豊かな暮らしを実現しようと思っています。


  「娘たち ネットで上手 お買いもの 見ている私 あっけにとられ」

  「買物は 今やネットが 主流です 時代遅れと いう歌あった」

  「これ欲しい 思って見ても 買い方が 分からぬ俺は 時代遅れか」

  「失敗を 気にする余り 進化せず こうして歳を とってゆくのか」

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shin-1さんの日記

○上り坂あれば下り坂あり

 私が子どもの頃の私の家は俗にいう半農半漁でした。天気の良い海が凪いだ時は鯛網の船に乗って沖合に出て漁をし、海が時化ると裏山にある畑を耕すといった、今考えると合理的な暮らしをしていました。当然家は親父もおふくろも殆ど留守で、居間と土間の間になる太い大黒柱に小さな黒板があって、家族への母の伝言はこの黒板に書かれていました。学校から帰るとまずこの黒板を見て行動しなければ叱られるのです。学校帰りに友だとと遊ぶ約束をしても、この黒板の伝言が優先するため、時々見なかったふりをして無視したこともありましたが、いつも大目玉でした。

 黒板に書いていることは、「悦子(私の姉で長女)-御飯を○○合炊いておきなさい。進一(私)-庭に荷造りした背負い子をかるうて○○の畑へ来なさい」で、3人の弟や妹には余り指示書きがなかったように思うのです。仕方なく言われたとおり、約30分もかけて急な坂道を背負い子をしょって出かけたものでした。ただでさえ急な坂道を背負い子を背負って上がるのですからもうしんどくて、途中で何度も道端の適当な場所を選んで球形をしたものですが、その場所は案外決まっていて、山の上の池久保集落の人たちが街へ下りたり帰ったりする人たちと一緒になって、様々な世間話を聞かされたものでした。その中には顔見知りのおじさんやおばさんもいて「坊は偉いのう」などと褒められるものですから、ついつい嬉しくなって、大人と同じような馬力を出したつもりで大汗をかきながら登りました。

 やがて畑に着くと母が私の来るのを待っていて、芋飴のようなおやつをくれるのです。母と二人で並んで座り、眼下の海を見ながら様々な世間話や、将来のことなどを話しました。母は当時漁協婦人部の部長をしたりして浜の生活改善運動をリードしていました。日掛け貯金などをしたり進水式の簡素化などに取り組んでいて、松山でのブロック会や時には東京までも発表に行っていました。私がこのようになったのも多分母親の影響が大きかったように思うのです。

 母は私がそこらの野山で遊んでいる間にミカンや芋などを荷造りして再び背負い子にくくりつけてくれ、元来た道を下ってわが家へ帰って行くのでした。子どもの足ですが、行きの30分に比べ帰りの速さは格別で、荷物を背負ってもまるで3倍以上の速さで下れるのです。そんな登りの難儀と下りの楽さを比較しながら「上り坂あれば下り坂あり」を何度思ったことでしょう。

 山を登る辛さは想像以上に難儀でした。でも下りの楽さを知っているから多様辛くても我慢ができました。背負い子を背負って畑へ到達したときの「やったー」と思う達成感も格別で、時には畑に作っているスイカを割って母と二人で食べたりもしましたし、秋には掘り上げたばかりの芋を焚火で焼いてホクホクする芋を食べたりもしました。既にあの世に旅立った母のことは昨日のことのように思い出すのです。今は人間牧場になっている池久保の土地は私が働く母の姿を見る人生劇場のような気もするのです。

 畑に植わっていたミカンの木も既に枯れてなく、母が丹精込めて耕した畑の隅々は雑草に覆われていても、母と二人で腰かけて話したとっておきの場所は今も残っていて、草刈りの途中で休む時、横に母が座っているような錯覚さえ覚えるのです。

 「上り坂あれど下り坂あり」これは母が身をもって教えてくれた人生哲学のような気がしています。ゆえに私は坂の上の青い天の一朶の雲を見つめて登るのです。人生の坂道は未だ半ば、まだまだ人生の荷物は降ろせず登っていますが、母お教えどおりやがて楽な下り坂があるかも知れないと、今日も少しだけ元気を出して坂を登ってみようと思っています。


  「上り坂 あれど必ず 下り坂 母の教えが やっと今頃」

  「この場所に 母と並んで 腰かけて 色々夢を 語ったっけな」

  「あの母は あの世のどこを 旅してる やがてどこかで 会える気がして」

  「死んだのに 今も心に 生きている 俺を育てた 母の思い出」  

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