shin-1さんの日記

○七転び八起き

 私の家の神棚に小さなダルマさんが置かれていました。多分親父がどこかの神社にお参りした際、縁起を担いで露天商で買ってきたものだろうと思うのですが、親父は年末に神棚を掃除する度にこのダルマを転がして「七転び八起き」の話をしてくれました。その時私は子どもながら不思議な質問を親父にしました。「転んで起きて転んで起きてと何回指折り数えても七回転び七回起きるのだから七転び七起きではないのか」といったのです。親父は「昔から七転び八起きと言うんだから、そんな難しいことを考えなくてもいい」と言葉を濁しました。明くる年も同じような質問をしましたが、やはり答えは同じでした。しかし親父もさるもので、どこでどんな本を読んだのか達磨大師というお坊さんの話をしてくれました。達磨大師はインドから中国へ渡り坐禅を広めた人で、中国へ渡ろうと船に乗るものの七回も失敗し八回目にやっと中国の杭州に到着したそうで、お釈迦さまから数えると二七代目の祖師というえらいお坊さんだと教えてくれました。達磨大師は百二十歳まで長生きをしたそうで、坐禅をし過ぎて足が使えなくなったなどと、アレンジした話をしましたが、どこまで本当かは不明です。

 しかし最初起きている姿から数えると確かに七転び八起きであることに、今になって気がつくのですから私も大したことはない凡人だと思うのです。日本人はダルマが大好きで、どこの選挙事務所でも眼の黒く塗られていないダルマが置かれていて、選挙事務所を開いたときに片目を入れ、当選したらもう一方の目に墨を入れて両目開眼としているようです。外国の人にはこれが何とも奇妙で理解できないようです。普通であれば選挙に当選すると聖書を片手に神に敬虔な祈りを捧げるのが普通でしょうが、日本人は人が昔からやっているからくらいな軽いノリで選挙を戦っているようです。

 関係のない話で横道にそれてしまいましたが、さて七転び八起きとは尋常では考えられない不屈の精神です。言われて自分の人生を静かに振り返ってみれば失敗も多くあり、まさに七転び八起きの人生だったと思いつつ、最後が肝心、八回目に起き上がり人生を歩まなくてはならないと決意を新たにするのです。


 私の友人には地域づくりという世界に生きてきた人が多く、どこかで自分の信念の結末を政治家として成就したいと、選挙に立候補する人が意外と多いのです。確かに自分が描いたまちづくりの理想を実現する最も早道は首長さんになって思いのまま政治的手法でまちづくりをやればそれに越したことはないのです。首長選挙に立候補する場合は自分の信念もさることながら周りの人を巻き込まなければ選挙にはなりません。自分に対する信用度をどの程度に見積もるか、また対抗馬批判の票数をどこまで味方にするか、選挙費用と合わせて激しい攻めぎ合いの見極めが必要なのです。結果的に信任を得て当選しても次の選挙で勝てる保証はないのです。

 ダルマさんのように七転び八起きしながら最後の選挙で負けた場合はみじめなもので、七転び七起きとなって寂しい結末を送るのです。

 私の友人にもそんな人が何人もいて、時々会うのですがかつての当選した時の胸を張って歩いていた姿からは想像もできない別人かと思われる姿に哀れさえ感じることがあるのです。

 まあ人生は軽い七転びと最後は強い起き上がりで締めくくりたいものです。七転び十起き、てな調子にはいかないものでしょうか。


  「転んでも 最後は起きて 終わりたい 今の世の中 転んで終わる」

  「転んでも タダで転ばぬ 起きる時 必ず何か つかんで起きる」

  「俺なんて 転んだ割に 怪我もなく むしろ大きく なって生きてる」

  「七転び 十起きしたい 人生は だけど八起きで 丁度良いかも」

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shin-1さんの日記

○雪の山陰路夢紀行

 「お父さん、山陰は寒いから厚着をして風邪をひかないように」と妻から、まるで子どもが雪の北国へでも修学旅行に行くような注意のされ方をして、早朝6時わが家を出ました。空には光々と満月の冬月が照って私を見送ってくれました。松山から乗り込んだ特急しおかぜの車窓から見える石鎚山系の山並みもここ2~3日の冷え込みで真っ白に雪化粧し、列車の後ろに消える高縄半島の山は吹雪いているようでした。それでも早春の瀬戸大橋を渡り列車は順調に岡山到着です。

 いつも利用する見慣れた8番線ホームから特急やくもの発車する2番線ホームに向かうと、出入りする列車の屋根に白い雪を乗せていて、「ああ雪国へ向かうのか」と身の引き締まる思いがしました。いきなりホームの放送で「雪のため列車の到着が遅れ約10分遅れで運転予定と告げられました。冬のホームは瀬戸内海側の晴れの国岡山といいながら、南国暮らしの私には身に堪えるような底冷えのする寒さで、コートの襟を立て両手はポケットに突っこんだまま列車を待ちました。

 いつの間にか列車を待つ乗客の長い列ができ、自分の順番がかなり後列になっているため、自由席をキープした不安が少し募りつつも、隣に並んだおばちゃんと、「何処へ行きますか」「はい米子へ日帰りで」「えっ、米子日帰りですか?、それは御苦労さまです。ところで米子へはお仕事で?」「はい講演jを頼まれまして」「えっ、大学の先生ですか?」「いえいえただのサンデー毎日の人間です」なんて、旅の途中の何かの縁が短い言葉のやりとりで生まれました。

 列車は予想したほどは混んでいなくて、真ん中ほどの窓際の席を確保することができましたが、先ほど言葉を交わしたおばちゃんが、「よろしいですか」と断って私の横の席にどっかと座りました。私は普通特急やくもに乗る場合は、必ず進行方向に向かって右側の席に座るのですが、乗車したお客の殆ども右に座ったため、残念ながら左となってしまいました。右に座る理由は伯耆大山の容姿が見えるからです。でもこの日はあいにくの雪模様で、備中高梁、新見と中国山地の山奥に入るにしたがって、車窓は白い雪化粧に一変し、見飽きぬ光景にカメラを取り出してシャッターチャンスをうかがったりして過ごしました。

若松進一ブログ (根雨駅の車窓から眺める積雪は半端ではありませんでした)

 隣のおばちゃんは出雲へ行くらしく、まだ10時過ぎだというのに早くも弁当を広げて食べ始め、盛んに私に話しかけてきますが、そのうち軽い寝いびきをかいてコックリコックリし始めました。列車は次第にノロノロ運転になって、その度に車掌さんが遅れた理由と時間を説明しているようでした。根雨に一時停止したころには車窓から見える屋根の雪は多分50センチは越しているかもしれないと思うくらいの積雪で、水分を含んだ重い雪が竹藪の竹をしならせ、冬の厳しさを見せていました。


若松進一ブログ (山陽から山陰へ、中国山地を縫うように走る特急やくもの車窓は「トンネルを抜けるとそこは雪国だった」という表現がぴったりの風景でした)

 それでも隣のおばちゃんと話をしながら20分余り遅れで米子に到着しました。前もって列車の中へ入った携帯電話で列車遅延を知らせていたので、スムーズに担当の金田先生と駅で出会うことができました。

 講演会の会場は駅近くの合同庁舎でした。教育局でお茶をいただき早速2時間の講演が始まりました。雪の中鳥取県内から集まった公民館や社会教育の関係者を前に、休む間もなくぶっ通しで話をさせてもらいました。片道6時間をかけてやってきた想いを語らなければと気負って話しましたが、まるで早送りの多分普通だと3時間分は話したのではないかと思うほどでした。外の雪もなんのその皆さんにも熱心に聴いていただきました。

若松進一ブログ (研修会が始まる前のくつろいだ会場風景)

 金田先生に駅まで送ってもらい、再び特急やくも、特急しおかぜに乗って元来た道を帰りました。どの列車も雪のために大幅に遅れ家に着いたのは12時少し前でした。「寒かったでしょう」。寝ないで待っていてくれた妻の一言が何よりも救いの一日でした。帰りの車のラジオで聞いたのですが、昨日日本中で一番多い積雪は鳥取大山の1メートル90センチだそうで、よくぞ行けた、よくぞ帰れた、というのが実感のようです。


  「よく行けて よくぞ帰れた 雪の中 列車遅れて 帰宅も遅れ」

  「列島で 一番雪が 多い聞き 驚きつつも 胸撫でおろす」

  「二時間を 一気に喋る 迫力に あっけにとられ 気がつきゃ終わる」

  「ぬかるんだ 足元見つつ しみじみと 雪は見るもの 暮らしにゃ要らぬ」 

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