shin-1さんの日記

○九死に一生を得る

 今日奥東に行った帰りのことです。車のな目を突然何やら動物が横切りました。一瞬「しまった」と思い慌ててブレーキを踏み、サイドブレーキをかけて外に出てみました。何かを引いたような感触や音もなかったので、あるいは難を免れたと安堵の胸をなでおろしました。

 私たちの地域はド田舎を自任する地域です。ゆえにイノシシやキツネ、タヌキ、ハクビシンなどの野生動物に出会うことは決して珍しいことではなく、特に夜の山道を走っていると夜行性動物たちが縦横無尽に車の前を走りぬけてゆくのです。多分あの身軽さはタヌキだろうと思いつつ、今晩あたりあのタヌキの家族たちは北西の季節風をよけるようなどこかのねぐらで「今日は人間様の車の前を横切ってもう少しで車にひかれるところだった。『九死に一生を得た』お前たちもあのけもの道は気をつけるように」と話しているに違いないと思いました。

 人間は長い一生のうちには色々な危険と遭遇し、その都度「九死に一生を得」て生きているのです。私の「九死に一生を得た」話は色々なところで話していますが、何といっても2つのことが思い出されます。まず一つ目は僅か18歳の時、愛媛県立宇和島水産高校の実習船「愛媛丸」で珊瑚海までマグロを獲りに出かけました。帰り際日本を前に冬としては珍980ミリバールの低気圧の中に入ってしまい、大しけの海をさまよいました。「ひょっとしたら死ぬかも知れない。死ぬ時は海の男らしく潔く死ね」といった船長さんの言葉が今も耳の奥に残っているのです。私たちは大しけの海を生還し神奈川県三浦三崎漁港に着いたとき、「私は生きてる」と実感したのです。まさに「九死に一生を得た」話です。

 二つ目は家の裏山が台風による集中豪雨で崩れ家が土砂に埋まりました。その片付けをしている最中使っていたチェンソーが跳ねて足を切ったのです。長靴いっぱいほどの血が出て救急車で病院に運ばれた時は失血で目まいがするほどでした。20センチも断裂しているのに幸運にも骨に異常がなく手術の結果多少の痺れは残っているものの元気に復帰したのです。これも私にとっては「九死に一生を得た」武勇伝でしょうが、もう二度とあんな危険や痛い目には合わないようにと願っているのです。

 この二つの出来事ほどではないにしても、これまで私は仕事の面でも随分九死に一生を得たことが沢山あり、手の指だけでは数えられないほどです。九死に一生を得たことは過ぎてしまえば美談にゃ武勇伝に聞こえますが、せめてこれからは穏やかな暮らしがしたいものです。


  「あれもそう これもそうだと 指を折り 九死に一生 今は武勇に」

  「本当は 死んでいたって 可笑しくない あの世とこの世 境に生きる」

  「そういえば 親父もガンに 侵されて 九死に一生 今も生きてる」

  「生きてれば 浮かぶ瀬もある 人生は くよくよするな 明日があるさ」

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shin-1さんの日記

○人間牧場で写した写真を届けに

 気になっていた地元奥東のおばさんたちが12月10日、人間牧場に来られた時の写真を、風邪でダウンして年いて末に届けることができずそのままになっていたのを、今日やっと届けることができました。本当は何枚かのスナップ写真をそれぞれにプリントアウトしようかとも思ったのですが、それでは余りにも芸がないと思い、愛媛新聞社のシニアサイト【自悠くらぶ】に毎週一回連載している記事の中に、「田舎のおばさんたちに足湯のサービス」というタイトルで書かせてもらっているので、その記事には写真も三枚添付してあり、写真用のA4用紙を手差しで入れて3枚×8部をプリントアウトし持参したのです。

 元々この出会いのきっかけとなった黒田富貴子さんからは既にご丁寧な年賀状まで届いて、その返信さえもできなかった呵責も引っ提げて黒田さん宅を訪問しました。

 黒田さんの家は双海町奥東の豊田の奥の空と呼ばれる山深い場所にあります。そこから見ると下灘のシンボルである黒山が目の前に聳え、眼下に広がる瀬戸内の海は青島の裏側が見えるほど高い場所にあるのです。黒田さんのご主人は町議会議員や森林組合長を務められた名士で、今はもう亡くなった弟剛さんとは友人として中学時代から付き合いがあって何度か山道を歩いて訪ねた懐かしい家なのです。

 ご主人は病院へ出かけていてあいにく留守でしたが、「まあおあがりなさい」との言葉に甘えて居間に案内され、掘りごたつに足を突っ込んでお茶を飲みながら四方山話に花を咲かせました。黒田さんは既に私の「夕日徒然草・地の書」を既に読んでいて、私の生き様や変わった発想について矢継ぎ早の質問がありました。小さな田舎に生まれ高校卒業後7年間も漁師をしたこと、青年団活動を8年間やったこと、公民館で13年間しごとをしたこと、広報を10年間担当したことなど、知っているようで知らない私の過去について質問に答えるような形でお話をしたのです。そして先日【自悠くらぶ】に書いた記事がかなり小さな文字のため読んで聞かせてあげました。

 やがて10時が過ぎたのでそろそろお暇しましたが、私が中学生のころ訪ねた思い出と少しも変わらない庭の風情や山並に懐かしさを感じながら、庭の隅に咲く水仙のほのかな香りに送られて黒田さん宅を後にしました。豊田川と並行して走る急峻な一直線の道を下りながら、荒れるがままの段畑に忍び寄る限界集落の暗い影が忍び寄るような寂しさを覚えました。

 私の姉がこの集落に嫁いできた頃はまだ活気がありました。姉は嫁ぎ先がモータースをしていたため、役場の近所に引っ越して今はその家も移築したため跡形もないようです。わが家の菩提寺があるこの地域もいよいよ寂しくなりました。人間の想いだけではどうにも止まらない少子化・高齢化・過疎化・学校統廃合・限界集落という厄介な問題も解決策を見いだせぬまま、いたずらに時間だけが過ぎて行くようです。せめて田舎に暮らす人たちにいい老後を過ごさせてあげたいと思いつつ奥東を後にしました。

  「車だと あっという間に やってくる 車乗れなきゃ 歩くしかない」

  「皮肉にも 人間少なく 田畑が 自然に帰る 荒れるまかすが」

  「勉強を した子どもたち 皆都会 残りし人は 爺と婆」

  「よう来たと 足突っ込んで 向かい合い お茶をすすりて 四方山話」  

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