shin-1さんの日記

○喪中のハガキが舞い込んで

 数日前からわが家へも「喪中につき年末年始のご挨拶をご遠慮申し上げます」という喪中のハガキが届きはじめました。そのハガキを手にする度に心が痛みます。多分そのハガキを書いた人はこの一年間、自分につながる人の仏事に心を痛めたことでしょう。

 わが家でも今年は叔父が急逝し悲しい出来事がありましたがこの叔父が存命中、「わしが死んでも喪中などといわず、祭りも年賀状もOKだ」と言っていたので、私もその遺志を継いで喪中のハガキなど出さないつもりで早々と年賀状を購入しているのです。

 このところの忙しさで郵便物の整理が全くできず、山のようにたまっていましたが、今日は久しぶりに机に座ってそこら辺の郵便物を片付けました。すると中から友人からの喪中のハガキを見つけました。「6月に長男が永眠いたしました」と書いているのです。私の場合友人や知人の訃報は人んどは知人が知らせてくれるのですが、今回は友人も知らなくて、半年も私の耳に入っていなかったのです。アメリカの大統領がオバマさんになったという海の向こうの話は逐一自分の耳に入るのに、僅か25キロ離れた松山に住んでいる友人の家族のことはまるで入らないのですから、情報化時代もいい加減なものだと思いました。

 早速友人たちにそのことを連絡しましたが、友人たちも一応に知らなかったようで驚いていました。友人たちと相談し半年遅れたとはいえ不義理を詫びねばと思い、喪中ハガキをくれた友人に電話をかけ、仏壇へ線香を上げさせて欲しいと頼みこみ、早速出かけて行きました。友人の家には一度きりしか行ったことがないので、カーナビに相手の電話番号で入力して出かけましたが、この電話番号が指し示す場所はとんでもない所が出て、結局は記憶を頼りに出かけて行きました。

 私の記憶も相当なもので一発で松山の住宅地で友人の家を探し当てました。家の中に入ると奥さんも居合わせていましたが、話す度に半年も経っているのに夫婦とも涙がこみ上げるようで、こちらも思わず貰い泣きをしてしまいました。聞けば息子さんは学校の先生をしていたようですが長の患いでもなく、気がついた時は既に遅しで、一日の患いくらいで急逝したそうです。悲しみの中なので詳しいことも聞けなかったのですが、自慢の子どもだったので余計悲しさが募るようでした。今は毎日奥さんが息子の嫁さんと孫2人のために夜は泊まりに行っているそうで、友人も家の中に閉じこもっているような状態でした。

 幸い友人宅にはまだ子どもが2人いて気はまぎらうようですが、親がしっかりしないといけないと精をつけ、お暇しました。


 友人は私の退職と相前後して務めていた電力会社を少し早く退職し、第二の人生を再就職して頑張っていましたが、その仕事も辞めて悠々自適の穏やかな暮らしを楽しんでいました。しかし降って湧いた今回の長男の急死という悲しみで友人の人生は狼狽し一変しているようでした。多分私でも同じ境遇に会うと同じような気持ちになるだろうと同情しながら、彼の元気回復に私も手助けできないものかと考えました。

 まだ60歳そこそこですから再就職をするよう勧めました。多分この年齢になるといい仕事は見つかりにくいかも知れませんが、働いているうちは気分もまぎらうかも知れないのです。また私のようにボランティア活動に参加することも一考です。とにかく家の中に閉じこもってあれやこれやと考えていると、うつ病になりそうだという友人の気持ちを考え、何とかしたいと思いました。

 人は一寸先のことは分かりません。今幸せでも先は全くよめないのです。はてさてわが身にもそんな悲しみが来ないことを願っています。


  「一枚の 喪中ハガキに 込められた 悲しき日々を 乗り越え歩む」

  「残された 幼子親の 死も知らず にこやか笑顔 余計不憫で」

  「アメリカの ニュースその日に 聞こえるが 近き訃報は 何故か届かず」

  「半年も 遅れて香典 持って行く 何ともバツの 悪い役柄」


  

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○やっと肩の荷が降りました

 あれほどみんなが熱中して、あれほどみんなが心血を注いだ全国大会が全て終わり、どこか心にぽっかり穴がいたような一両日でした。私にとっては10月18日と19日、松山市で開いた青年の船の班長会も、11月13日と14日、15日、宇和島を主会場に開かれた地域づくり団体交流研修大会も、これまでにない全国の人を相手の大会で、しかも多くの人を全国から迎え入れたものですから想像以上心配して、想像以上に力を注ぎました。多分そのためでしょうが、想像以上に大きな感動を得たようです。

 私はこれまで役所に35年間勤めていたこともあって、全国大会と名のつく集会や会議には数えきれないほど参加してきました。しかしその殆どは司会や助言、基調講演、パネラーなどの出番はあっても、自らが主催するような大事業はありませんでした。勿論今回の青年の船班長会や地域づくり団体研修大会もそれなりの団体や事務局があってしっかりと下支えをしてくれたので、私は飾りのようなものでしたが、それでも責任の重さはあるのですから、周りはどう思っているか分かりませんが自分なりに一生懸命やったつもりでいるのです。多分自分の置かれている立場を考えるとこれから先に、このような責任ある仕事はもうないだろうと思うのです。

 昨日旧友から相次いでメールが入りました。青年の船の班長会で31年ぶりに再会した仲間と、地域づくり団体交流研修大会で25年ぶりに出会った仲間からです。31年ぶりに出会った仲間からは、人生の岐路とでも言うべき60歳の坂を越えた今、31年前に青年の船に乗って太平洋を渡りアメリカやメキシコを旅したことの意味が連綿と綴られていました。彼がそうであるように私にとっても青年の船で建国200年のアメリカへ行ったことは、自分のそれまでの価値観を根本から変えるような大きな旅でした。自分のこれまでの人生を振り返っても、もしあの経験がなかったらこうまでも楽しく生きれなかっただろうと思うのです。人間はそれぞれの人生に見合った大きさの世界に生きています。杯ほどの小さな世界もあれば丼鉢のような世界もあるでしょう。また風呂桶や琵琶湖のような大きな世界があるかも知れません。私の場合はそれほど大きくはないものの、それまで杯だった世界がいきなり風呂桶のような世界になったのですから大変な変わりようでした。お陰で自分の世界が今でも風呂桶のような大きさになっているのですから有難いことなのです。


 地域づくり団体交流研修で25年ぶりに出会った人は、まだ私がまちづくりという世界に入門した頃でした。その人はすでに私とそんなに年齢は違わないのに、まちづくりの世界では有名になっていて、何かと目をかけご指導をいただきました。まちづくりに対する彼の姿勢への憧れもあって、何度となく出会いましたが、その後音信も途切れがちとなり、お互いの記憶の中でのみの知り合いが長く続いていました。

 「全国大会にいくから」といきなり1ヶ月前にメールが入り私をあわてさせましたが、彼は元気な姿で愛媛入りし再会を喜びました。「上は来ず、中は日帰り、三日泊まりの下下の下の客」といわれるとおり、再三の誘いにも応じず去って行きましたが、別れ際に引き時の話をしました。そろそろ引き時かなとも思いつつ、彼の顔を思い出しているところです。

 相次いで入ったメールに近況をしたため返信しました。この二人には遠方ゆえもう会えないかも知れません。でも今年一番のビッグな出会いが降って湧いたように31年目、25年目に実現したのですから、密かに再会を楽しみにして生きてゆきたいと思っています。


  「この二人 俺の人生 語る時 なくてはならぬ 思い出の人」

  「忘れてた 記憶の彼方 呼び戻す 二人相次ぎ 便り届きぬ」

  「忙しく 過ごしただけに どことなく ぽっかり穴が 空いたようです」

  「盃の ように小さな 俺だった 今は風呂桶 なったようだが」 

 

[ この記事をシェアする ]