shin-1さんの日記

○積ん読か熟読か

 私は子どもの頃から本が好きなタイプではありませんでしたが、それでも必要に駆られて読んでいるうちに、いつしか本を読むことが日課のような暮らしになりました。私が子どもの頃貧乏なわが家には、教科書以外本は殆どなく、「本は学校の図書室で借りて読むもの」という認識でした。ところが図書室に通うようになって自分の好みの本が分かるようになって本の魅力に取りつかれ、小学校の図書室は私の最もお気に入りの場所となったのです。そんな私の行動を見てた担任の先生が小学校5年生の時、私を図書部長にしてくれました。私についた初めての公職だったのです。テレビなどない時代でしたから私は一躍クラスの物知りになりました。本を読んで知り得た知識は自分の錯覚を生みました。それまで劣等生だった私が読書によって少し勉強のコツが分かるような気がしてきたのです。勉強もしなかった私が勉強し始めたのです。驚いたのは先生と両親でした。参観日など来なかった母親が参観日に来たりするようになり、その余勢をかって中学・高校へ進みましたが、そこそこの成績を修めことができました。私にとって本はその頃からかけがえのないものになりました。

 役場職員として努めるようになってからも公民館や広報を担当し、特に広報では読まないと書けないため膨大な本を読みました。その本の一部は人間牧場・水平線の家の壁片面を埋め尽くすほどの量で、人間牧場・水平線の家の知的インテリアとして存在感を誇示しているようです。

 しかし時代の流れでしょうか、これらの本も訪れる人たちは殆ど手にすることもなく、開くでもなくやがては紙ごみとしての運命をたどることでしょう。それでも前に来られた宇和島の女性が本棚の本を何冊か貸して欲しいと申し出があり貸したところ、先日宇和島へ講演に行った折、お返しに見えられました。イカの一夜干しまでお礼にいただきました。ただ今のところ貸し出している本は50冊くらいあるようですが、いつ帰る当てもなく、また読んだ感想も届かず行方知れずになっているようです。まあそれでもどこかの人のどこかの場所で積ん読されているのだと思うと気も休まるのです。

 私の友人に浜田さんという人がいます。人間牧場に開設した年輪塾の塾生第1号ですが、彼は本を読むのが大好きな人間です。と同時に本を人に配る奇特な人間です。私も彼から色々な本をいただき、その度に熟読してきたつもりです。浜田さんから本を読むことの大切さを改めて教わりました。

 一昨日門田眞一さんを通じていただいた栄養学の本類は昨日友人に貸し出しました。その人も無類の本好きで、度々自分が読んで良かったものを紹介してくれるのですが、彼らのようなスピード感あふれる読み方は残念ながらできず、机の隅に積ん読しながらゆっくりゆっくり熟読しています。

 このところ忙しくて一ヵ月も本屋に行っていません。本屋へ行かないと何か時代に取り残されたような、また情報に乗り遅れたような錯覚に陥ります。今日あたりは宇和島に行くので昔懐かしいキング堂という本屋さんにでも立ち寄ってみようかと思いました。

 「本に金をかけない人は自分に投資しない人である」とは私の持論です。

  「積ん読じゃ 知識得られぬ 熟読し 作者の真意 しかと読み取る」

  「はじめにと 後書き読んで 本文を 読む癖今も 治らず健在」

  「そういえば ひと月間も 覗かずに 本屋遠のく 金は要らぬが」

  「辞書要らぬ インターネットの 世界にて 読み書き忘れ 能力退化」

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shin-1さんの日記

○夫婦の会話

 「お父さん、今が一番幸せじゃねえ」と、昨晩テレビを見ながら妻がいきなり言うのです。「何でそう思うの?」と尋ねると、「だってこれまであなたは仕事仕事で殆ど家にいなかったし、また働きと子育てに夢中にならざるを得なかったでしょう」と追いうちの言葉が返ってきました。そういえばわが家は妻の言うようにこれまで、五里霧中のようなやみ雲な暮らしでした。

 私が教育委員会に勤め始めた頃、私26歳、妻25歳で結婚しました。当時の社会教育は目の回るような忙しさで、土日も昼夜も関係なく13年間働き続けました。私が青年団出身ということもあってわが家には連日連夜多くの青年たちが飲みに来たりしました。また町に旅館がないため遠来の友や先生は全てわが家に泊めました。それらの世話は全て4人の子育てをしながら妻の背中にのしかかっていたのです。その13年間の間に香川大学へ社会教育主事講習で1ヶ月、青年の船班長としてアメリカ・メキシコへ約2ヶ月それぞれ家を開けました。

 町で降って沸いた町名変更騒動では町を二分するリコール運動や選挙などの渦中に私がいたものですから、私のストレスは相当溜まっていましたが、左遷と思われる人事異動にもくじけず、それを励ましながら支えてくれました。

 家も建てました。綿密な妻の経済的生活設計に基づいて借金も全て返済しましたが、赤貧洗うが如き日々の暮らしは生易しいものではなかったようです。

 その後まちづくりの世界に移り、夕日によるまちづくりをした時は、これまた奇抜なアイディアを次々繰り出し脂の乗った仕事を、家庭を顧みずやりました。たった一人の日本でいちばん小さな課の課長として孤軍奮闘しながらシーサイド公園を整備し、12年間も早朝5時から3時間、12年間も掃除活動に明け暮れました。

 その間、21世紀えひめニューフロンティアグループを立ち上げ、無人島に挑む少年の集いなどのボランティア活動を20年間やったり、松山工業高校PTA会長として6年間PTA活動にものめり込みました。

 役場を早期退職し2年間教育長という要職を経験しましたが、この時は合併騒動の渦中であり、閉町までのタイムスケジュールが決まっていたためこれまた忙しい日々でした。

 いつの間にか大きくなって独立したように見える4人の子どもたちを、立派とはいえないまでもどうにか独り立ちさせたのも妻であり、今も孫たちを含めた若松家集団の真ん中で輝かざるを得ないのが今の妻なのです。

 妻が言うのには、子どももそれぞれ独立し、二人は結婚して孫も3人生まれ、一応幸せに暮らしています。親父も90歳になったとはいえまだまだ元気で何とかスープの冷めない距離の別棟の隠居で暮らしています。何よりなのは私が退職して責任のある地位から去ったため、気苦労をしなくて済むそうなのです。リタイア後にこんなに忙しく私が過ごすことだけは誤算だったようですが、それでも妻も私も色々言いながら健康で過ごせるのですからこの上ない幸せのようです。

 不足を言えばきりがありませんが「今が幸せ」、これは何にも代えがたい価値あるものなのかも知れません。そこそこ飯が食え、家族が健康で明るく、そして楽しく働ける、少しだけ余力(年金生活かも?)の経済がある、これ以上の幸せはないと自分でも思っています。これからは次第に背中に背負った荷物を降ろしながら穏やかな老いを夫婦で生きていきたいと思い、夫婦で同じ風呂に入り同じ床につきました。

  「不足なく 飯食い暮らす 幸せを 幸せ思い 生きて行きたい」

  「気がつけば 人生土俵 後がない も少し余裕 持って生きねば」

  「人生の 恩を返して やりたいと 妻をねぎらい 足肩を揉む」

  「幸せは みな身にあるを 自覚して これから先も しっかり生きる」

 

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