shin-1さんの日記

○迎え火と送り火を焚く

 わが家は素祖父母、祖父母、父母と数えて私たち夫婦で四代目です。私の長男夫婦、長男の息子と、ただ今六代目までルーツが確定しています。しかも父、私、長男、孫の四代が平成の現代に顔を合わせて生きているのです。私は長生きをした素祖父は覚えていますが、私が二歳の時に亡くなった祖父の顔は知りません。それでも始めて生まれた男の子の跡とり孫をいつも抱いていたと祖母からいつも聞かされて育ったため、私の体にはどこか祖父の温もりが残っているような感じがするのです。こうして先祖のルーツを訪ねながら、毎年お盆を迎えると家の玄関先で迎え火を焚いて祖父母、祖父母、母に加え、徴用先大阪の空襲で亡くなった叔母二人を加えた人たちのお盆帰省を迎えるのです。昭和19年生まれの私には祖父と同じく叔母二人の顔も乳飲み子だったため知る由もありませんが、七人の先祖は今年もやって来ました。私の地域の迎え火は8月14日で、8月15日の夕方にはもう送り火を焚くので、僅か一泊二日の短い帰省なのです。

 私は長男に生まれました。ゆえに子ども頃から長男教育を受けて育ちました。長男は余りメリットがなくかえってデメリットの方が多いので、「何故長男に生まれたのだろう」と、少々親を恨んだこともありましたが、さすがこの歳になる今では、むしろ長男に生まれたことで、この町に生きれ、この町で死んでゆける幸せをかみ締めており、その宿命に感謝しているのです。

 長男の務めの最たるものは先祖祀りです。そしてその役割は長男の私より長男の妻というレッテルを40年前に貼られてしまった妻の役目に、いつの間にかなっているのです。その姿を思い浮かべながら、私たちが結婚する頃流行した「家付き、カー付き、ババー抜き」という言葉を思い出すのです。確かに長男に嫁ぐとこんな煩わしことが付いてくることは分っていて、敢えて長男の夫である私を選んだのですから、妻にとってはこの四十年間大変だったに違いありません。ましてや妻が私と結婚してわが家に来た頃は「家付き、カー付き、ババー抜き」どころか、私の妹や弟などのコブまで付いていたのですから、それはもう尋常ではなかったようです。でも妻は長年の習慣が見に付き長男の嫁らしく何の疑いも無く先祖祀りをしてくれているのです。

 今年のお盆の仏事は10日の8時30分に始まりました。お寺の住職さんが棚業と称して読経を唱えにやって来るのです。そのため前日の夜から座敷ににわか作りの仏壇を用意し、位牌と仏具を仏壇から移動して飾ります。こればかりは男仕事なので私がやりますが、今年は三男が帰省していたため手伝ってもらい事なきを得ました。

10日の朝には、早起きした妻がお料具膳を作って供え和尚さんの来るのを待ちます。和尚さんもこの日は沢山の家を回るので、来るのも読経が終って帰るのも予定通りで、余り無駄口をたたくような暇はないのです。私と妻と親父が座って読経を聞き、線香を手向けました。お墓は主に親父の役目で、墓地の掃除から花立てまで全て親父がお盆を逆算して整えてくれるのです。間もなくその役目は私に委譲される予定ですが、今私は人間牧場に作っているシキビを切り取って親父に渡すだけで事足りているのです。

 昨日の夕方送り火を焚きました。運良く長男夫婦が帰って来たため親父と孫を加えた6人の賑やかな送り火となりました。畑の隅に出て折った麻殻に火を付け、お供えしていたお弁当を置き、線香に火をつけて丁寧に送りました。何時もの事ながら親父は、「来年はわしを送ってもらうかも知れん」と、母の霊に言っていました。毎年のことなので妻が「じいちゃん大丈夫よ」と慰めの言葉をかけました。間もなく1歳の誕生日を迎える孫の目に、沈み行く夕日に向かってたなびく送り火の煙や家族で祈るこの光景はどのように映ったことでしょう。

 長男である息子は長男教育をしているため、盆と正月、春と秋の彼岸には必ずお墓にお参りをしてくれています。長男の嫁の実家のお墓も欠かさずお参りしているようで、私以上に先祖祀りの心はあるようで安心していますが、長男の嫁に仏事の伝承をする日がそろそろ来たようだと、妻は思っているようです。

  「迎え火を 焚いて帰省の 先祖たち ようこそゆるり お過ごしなされ」

  「来年は俺も 送り火帰るかも 弱気の親父 間もなく九十」

  「長男に 生まれて損と 思ってた 今はこの地で 死ねる幸せ」

  「長男の 嫁という名の レッテルを 貼られた妻が お料具供え」

 

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shin-1さんの日記

○キジの逆襲

 昨日からお盆休みとなって、民族の大移動により田舎といわれる私の町も、見知らぬ人や見覚えのある人が歩き、何となく活気が出たような錯覚にとらわれています。シーサイド公園は相変わらずの人で、海岸国道もひっきりなしに車が走り、街の中の唯一の信号はまるで都会並みの長い列ができているようです。

 昨日は迎え火を焚いたり、ハモ調理など何かと忙しい午前中でしたが、昼ご飯を食べてから急な思いつきで人間牧場へ草刈りに出かけました。「お百姓さんでも真夏の午後は暑さを逃れ仕事をしないのに、ましてやお盆なのに少し休んだら」と、私の体を気遣う妻の言葉を打ち消して、作業着に着替えトラックで人間牧場へ出かけました。真夏の人間牧場は標高130メートルといいながら、熱射の温度は30度を越えていて、草刈機を持つ背中にジリジリトと太陽が照り付けるのです。汗が滝のようにとは少々オーバーですがそのような表現がぴったりで、またたくまにシャツは汗でびっしょりでした。それでも草刈機の油がなくなるまで1時間余り刈って、休憩はウッドデッキの木陰の部分に身を置きながら冷蔵庫から取り出した水を一気に飲み干しました。ここでの草刈りは便利で、お茶を忘れてもちゃんと冷蔵庫に冷え切った水やお茶がちゃんと揃っているのです。ウッドデッキに大の字になって寝そべり休憩が出来るのも人間牧場の魅力です。大空をゆっくりと流れる白い雲を目で追いながら、様々な想いにふけるのも一興です。

 3時になったのでもう人踏ん張りと草刈機に混合油を満タンに入れ芋畑周辺の草刈りをしました。突然私の足元でメスのキジが私に襲いかかるように現れました。私はとっさのことなので何が起きたのか驚きましたが、キジは草刈機のエンジン音に逃げるどころか、尻尾を扇子のように立てて、いかにも威嚇ているように見えるのです。無視して草刈機で刈り払うと今度は足をつついてきました。仕方がないのでエンジンを止めましたが、多分草刈機の向こうの草むら辺りにキジの巣でもあるのだろうと、高く伸びた草を分けてみましたが見つかりませんでした。ひょっとしてもう草とともに壊してしまったのかも知れません。それにしても、もし草むらに巣があって子育てでもしているとしたら、子どもを守ったり巣を守るえらい本能だと思いました。私が草刈りを続行している間、キジは私について歩き、危ないから立ち去るよう追い払うのですが、また足元へやって来て私の行動を見守っていました。草刈機の燃料が少なくなり、一応の目安がついたのは午後4時半でしたが、私の草刈りが終るとキジはゆっくり歩いて下の草むらに姿を消したのです。

 人間牧場ではキジの鳴き声を時々聞きます。春先は特に顕著で、羽根の美しいオスキジの姿は目と鼻の先で何度も見ました。捕まえてやろうなんて野暮な気持ちがないことを見越し、私を友人だと思ってのお近づきならこれ以上の幸せはありませんが、今回のように巣を壊す不届き者ととらえられたら私の土地だけに心外です。

 身の回りから自然が段々失われてゆく一方で、田舎のみかん畑などは過疎と高齢化で一度畑にした土地が再び自然に戻り始めています。いいのか悪いのか分らぬまま、放任園は急速な勢いで増えているようです。

 昨日草刈りをして驚いたのですが、僅か2週間でカラス瓜のツルがウッドデッキやロケ風呂の外壁に絡まっていました。放っておいたら家の中まで新入する勢いです。人間の不自然をあざ笑うが如き自然植物の侵入をどう見ればいいのでしょう。「自然を回復するためには、人間がいなくなることだ」とあらためて思いました。多分私が草刈りなどの歩みを止めたら、この人間牧場はたちまち草に覆われ、5年もすると朽ち果てて自然に帰るのかも知れません。

 草刈機のけたたましいエンジン音が止み、空も海も元の静けさに戻りました。港の船も長いお盆休みです。ふと我に帰るとセミの声が賑やかに聞こえてきました。

  「縄張りを 侵されたのか メスキジが 扇子広げて 無言抵抗」

  「カラス瓜 ウッドデッキに 巻きついて 自然に帰る 準備できたと」

  「草だけは 植えもしないに 伸び伸びと 刈っても直ぐに 次の新芽が」

  「あた何年 続くか草を 刈る作業 果して息子 やってくれるか」


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shin-1さんの日記

○ハモの骨切り調理

 昨日は朝から忙しい一日でした。前日親類の漁師さんから沢山魚を貰いました。こちらの地域には下灘という漁村があって、私はそこで生まれているのです。ゆえに「若松」という名前はその漁村に多く、元をたどればわが家が本家なので、盆や正月になると親類から本家へお魚が届くのです。親父が漁師を辞めてからもう20年、私が漁師を辞めてからはさらに長く、もう40年近くが経っているというのに、漁師さんは律儀なもので、その風習を今もきっちり守っていて、時折魚を取りに来るよう連絡があるのです。漁村では「魚獲り」といって、盆や正月、結婚式や出産祝い、進水式などの門日になると、親類縁者が休みの日に漁協から出漁の許可を得て市場に出さない自家用の魚を取りに行くのです。一昨日はその日だったらしく、一隻の船がアマギという魚を大漁したようです。魚獲りで売れないため親類のわが家へ電話が入りトラックで取りに行きました。

 今水揚げされたばかりのアマギ(普通のスーパーではシズという魚名で売っている)は少々小ぶりでしたが、近所におすそ分けせよと3箱もいただきました。またそれとは別に腕首ほどのころあいなハモを1箱、鯛を2匹いただいて帰りました。さあそれからが大変です。近所へ配ったり友人の家に持って行ったり、また長男の職場の人に差し上げるべく息子と途中で出会ったりと、トラックの荷台の魚をまるで行商のように配り歩きました。本当はその夕方わが家用に残ったハモの料理をしなければならなかったのですが、午後4時過ぎから肱川町の夜神楽を見に行く予定があったため、氷をしっかり詰めて発泡スチロール保存していたのです。

 昨日の朝は迎え火を焚きお料具御膳を作る妻と、ハモ料理を担当する私が早朝から全開です。包丁を3本砥石で研ぎすまし長いまな板と千枚通しを用意して、外の流し台で格闘しました。発泡スチロールは偉いもので昨日の氷はまだ残っていて完全な形でした。ハモは夏の魚です。京都の夏を彩る魚のため今が旬のハモは高値で取引されているようですが、10本ものハモを気前よくくれるのですから嬉しい限りです。ハモは普通の家でいただいても料理が出来ないと食べれないのです。背開きにおろして内臓と背骨を取り、綺麗に水洗いしてから氷水に漬けます。そして順番に2~3ミリ間隔で小骨を切って行くのです。この作業がハモ料理の醍醐味で、切り過ぎても切り足らなくてもいけないのです。よく切れる包丁だと小骨は面白いように綺麗に切れるのですが、包丁が切れないとぐじゃぐじゃになってしまうのです。私はまだ未熟で、調理師の資格を持つ従兄弟などはまるで花が咲いたように等間隔で綺麗に切りそろえるのです。

 妻が途中で仕事に出かけたため私が一人調理を続行しました。大きい目の背骨を小切りにしハモの内蔵から白子を取り出しボールに入れ、骨切りの終ったハモはパレットに並べ2時間近くもかかってやっと終了です。ラップをかけ冷蔵庫に収納してやっとハモ料理は終了です。朝からえらい働いたような気持ちになりました。

 夕食はハモ料理でした。暑いのに食卓にガスコンロと土鍋を置いて、ハモのしゃぶしゃぶです。小切りしたハモは沸騰したお湯の中に入れるとまるで白い花が咲いたようになり、用意したポン酢や酢味噌、醤油につけて食べますが絶品でした。本当は梅酢で食べるのですが昨日は忙しくて間に合いませんでした。今日あたりはスーパーで梅肉を買って来て食べたいと思っています。

 食事の締めはしゃぶしゃぶで出来た汁にご飯を入れ溶き卵とネギを散らして雑炊の完成です。暑いのにフーフーいいながら妻と二人で汗をかき、ハモ尽くしの料理を堪能しました。いやあ久しぶりに美味しいご馳走でした。既に半分以上は冷凍庫に収まりましたので、ハモの天ぷらや湯晒しが当分は食卓を賑わかせてくれることでしょう。未熟な私の料理ながら骨も十分に切れていて、妻は私を褒め殺しです。天狗になった私はまたいやいやながら次の機会を狙っているようです。

  「ハモ料理 見よう見まねで やってみる 妻が上手と 褒める嬉や」

  「白雪の ようになりたる ハモしゃぶを 美味い美味いと いいつ二人で」

  「梅肉の 替わりにポン酢 酢味噌つけ 夏旬ハモを 夫婦楽しむ」

  「質素だが 妻の料理の 有難さ 健康維持は 妻のお陰か」 

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shin-1さんの日記

○山鳥坂夜神楽を見に行きました

 「長浜のJA辺りで午後5時に待ち合わせをして一緒に出かけましょう」と約束をしていた、えひめ地域政策研究センターの清水研究員さんとわが妻の三人で、山鳥坂の夜神楽を見に行きました。昨年は案内をいただきながら所用で出かけることが出来なかったし、今年の3月18日には冨永自治会長さん以下沢山の方々が人間牧場へ勉強に来られたこともあって、今年は早いうちから予定表に書き込んで空けていました。肱川沿いを大洲を経由して上ること約小1時間で鹿野川ダムの下流に出ます。そこから左折して旧河辺村に通じる道を7キロほど入ると、突如として大きな看板や幟、それに岩にしがみつくように大蛇の作り物がノスタルジックに置かれています。夕暮れ時の寂しげな山村の佇まいがより一層効果を引き立たせていました。


 会場に着くなり、夕食をご馳走になりました。タライうどんと野菜の天ぷら、それにサラダと握り飯をいただきましたが、うどんの味は格別で、三人が美味しくいただきました。妻はこうした会場へ行く場合の礼儀を心得ていて、地元のお酒屋さんでお供えのお酒を用意して持参していたため事なきを得ました。

 夜神楽の会場は少し高台にある元岩谷小学校の運動場です。学校の校舎も残っていて、雰囲気が次第に盛り上がってくるのを感じました。


 会場の隅では地元の皆さんの出店も出て、スイートコーン万能な時代に焼きトウモロコシが売られていて、妻は早速買い求め三人で香ばしくも昔懐かしいトウキビを食べました。

 いよいよ開始の午後6時半が来ましたが、神楽の前にステージ横の春日神社で市会議員や県会議員、それに国会議員までもが参加しておごそかに神事が行われ、開会式も自治会長富永さんの開会あいさつに続いて祝辞が述べられました。この人たちは選挙で選ばれる人たちですから、仕方のないことでしょうが、神楽を見に来た人たちにとってはのっけから少々肩透かしを食ったようでした。まあこれも田舎流だと思い吹き渡る心地よい夕暮れの風として流しておきましょう。

 その間私たちは会場の後手の山空中に設えた大蛇の頭を仰ぎ見たり、裏山にこの土地がダム工事によって何処まで水没するのか示した赤いラインを興味深く眺めたりして時を過ごしました。市会議員も県会議員も、国会議員も馴染みの人が多く、「なぜ若松さんはここへ来ているの?」と不思議がりました。いちいちこの神楽が県のアシスト事業の助成を得てたことや、その女性団体を決める審査委員だったことを説明することも出来ず、政治家のパフォーマンスである握手攻めに潔く応じました。ただ県政発足記念表彰をいただいた時、祝電をいただいた帽子県会議員さんがこの地域の出身であることには驚きました。

(議員さんが出席して神事が行われました)
(特設舞台も見事なものでした)
(冨永さんのあいさつ)
(かがり火がたかれ、幽玄の世界が広がり、延々と2時間余り、色々な演目の神楽が演じられました。その都度説明を受けるのですが、勧請(手草の舞)、清祓い、神請、白蓋、御前(盆の舞)、将軍(弓の舞)、鯛釣り、妙剣、長刀の舞、四殿(鬼神の舞)、山王の舞、大蛇退治の舞、庭火、老翁、天細女命の舞、岩戸開き、王子だちなどの意味いわれは結局理解しがたいものでした。

(山から出てきた大蛇が空中を走る仕掛けは凄い手の込んだもので、みんな大口を開けて夜空を見上げました。

(いつの間にか山陰から綺麗なお月さんも顔をのぞかせていました。

(フィナーレは餅撒きです。私も拾うつもりでしたが司会の方に名前を呼ば、ステージの上から餅投げをさせてもらいました。滅多にない体験だけに少し興奮をして勢いよく投げさせてもらいました。餅拾いの苦手な妻はそれでも20個ほど拾って、上機嫌でした。

 山里の夏を彩る夜神楽は、愛媛県指定でロンドン公演も行った歴史的にも文化的にも価値の高いものですが、滅多に見ることが出来ないものなので、とても感動しました。この山里も分水問題に翻弄され、また10数年後にはダムができてこの場所も水没する運命にあるそうです。人間の暮しをよくするためにダムは必要でしょうが、この地域やそこに住む人たちの犠牲の上に成り立つことを、都会の人はもっと知るべきではないかと、話をしながら元来た夜道を引き返しました。

  「政治家の 先生たちも 異口同音 文化は大事と 熱弁振るう」

  「延々と 夜神楽舞いし 出演者 毎夜の練習 苦労も多し」

  「餅撒きを しろと突然 呼び出され ステージ上がり 妻に餅撒く」

  「気配りの できる妻です お供えを 持参していて 恥もかかずに」

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shin-1さんの日記

○鬼ヤンマとんぼが私の指に止まった

 連日30度を越す暑い日が続いているものの、8月7日の立秋が過ぎた頃から、一日に一度夕立のような雨が降り始め、「えっ、何でこの暑いのに立秋?」と思った考えを、「やはり暦はよくしたものだ」と感心させられるこの頃です。三日三晩の夜露を取った梅干しの本漬け込みも、地下室への収納も、梅干しを造るために用意した樽やサナも納屋に片付け、すっきりして秋を迎えようとしています。

 秋といえばとんぼと代名詞のように言われている季語小動物ですが、いつの間にか田んぼの稲が頭を垂れつつあり、その上を無数の秋アカネというとんぼが自由奔放に飛んでいて、「ああ、間もなく秋が近付きつつあるなあ」と季節の移ろいを感じています。

 昨日書斎の掃除をするため吐き出し窓の戸を開け網戸も開けていると、何処からともなくそれは見事な大きい鬼ヤンマというトンボが部屋の中に入ってきました。驚くやら興奮するやらで直ちに網戸を閉め、久しぶりに背もたれ椅子に座って空中を飛ぶ鬼ヤンマの遊飛ぶりを楽しみました。数分して私が何気なく利き腕の右手を差し出したところ、鬼ヤンマは何を勘違いしたのか私の手の先に止まってしまいました。とんぼは私の手を「止っているよ竿の先」と勘違いし羽根を休めたに違いないのでしょうが、一瞬の出来事に思わず傍に置いているデジカメを左手で取り出し、馴れぬ手つきでまず一枚撮りました。利き腕でないため最初の一枚は失敗したので慎重にストロボを消し、何とか撮影に成功しました。「おいとんぼ、もう一度左手に止まり変えてくれないか」と心で念じ、左手を出し変えると、とんぼはまるで私のいう言葉が分ったのか少し飛んでまた私の左手に止まり変えました。こうなれば占めたもので、何枚か写真を撮り鬼ヤンマとんぼの特徴である黄色と黒の縞模様をバッチリ撮りました。

(偶然にも私の右手小指に止まった鬼ヤンマとんぼ)

(撮影に協力するように左手の薬指に止り変えてくれた鬼ヤンマとんぼは、その特長である黒と黄色の縞模様がくっきりと見えました)

 鬼ヤンマが家の中に入ってくることは、田舎がゆえに珍しいことではありません。これまでにも人知れず何度か家の中を飛び回る鬼ヤンマを網を持って追いかけ、捕まえようとした事はありました。また知らない間に鬼ヤンマが家の中に入り込んで出れなくなり網戸の下で死んでいる姿も発見したこともあります。それにしても鬼ヤンマが私の手に自然に止ったというのは驚きです。私は生きる屍なのかと苦笑したりもしましたが、私を自然の一部と勘違いしたとんぼを褒めてやりたい心境になりました。

 昔竿の先に止っているとんぼを目を回らせて捕まえようと試みましたがとっさに逃げられて失敗した経験があるので、早速実験してみました。右手をとんぼの目の前でグルグル回してみましたが、とんぼは涼しげな顔をして動かないのです。余程私の手の指先の以後ことが良かったのでしょう。撮影会も無事終わり手の先から離そうと尻尾を持ったら、あの鋭い歯でガブリと噛まれてしまいました。やがて網戸を開け放してやると鬼ヤンマは勢いよく羽根を動かせ青空に向って飛んで行きました。

 「若松進一君、今日は暇か?、じゃあ少し遊び相手になってあげよう」といわんばかりの数分間のとんぼとの不思議な出会いは、一服の清涼剤のような清々しい気分となりました。「ああ、自然豊かな田舎に住んでいて良かった」と思ったものです。

 残暑はまだまだ当分は続くでしょうが、とんぼが指先からくれた小さなエネルギーを、噛まれた傷跡に感じながら窓越しに空を見上げました。モクモクと湧き上がる夏の積乱雲が真っ青な空に浮かんでいました。遠くで雷の音がして、小雨がパラパラ降ってきました。外で親父の所へ顔見世に来ていた弟勝彦が、「進兄ちゃん、干した布団が濡れよる」と大声で叫んでいて、その声でふと我に帰り「しまった、妻に布団の取入れを頼まれていた」と思い出し、急いで二階のベランダに駆け上がりました。殆ど濡れなかったのですが、何と布団の上に先ほどとんぼかどうか定かではありませんが、とんぼが止っているのです。「指先の次は布団とは」と感心しながら、布団を取り込み、とんぼも何処かへ飛んでいってしまいました。

  「網戸開け いきなり入る 鬼ヤンマ 黒黄まだらで 指先止る」

  「左手で デジカメ操作 とんぼ顔 バッチリ写真 収め嬉や」

  「長閑なり 田舎の夏の 昼下がり とんぼ指先 羽根を休める」

  「指先に とんぼが噛んだ 傷の跡 元気注入 エネルギー感じ」 

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shin-1さんの日記

○人間牧場ただ今忙中忙有

 忙中閑有という言葉がありますが、人間牧場を開設してからは忙中閑有どころか、忙中忙有の毎日です。人間牧場はわが家から9キロばかり離れているため、人間牧場へ来たいという人とは通常三つの待ち合わせ場所を指示します。一ヶ所目は自宅です。かつて知ったる人にはわが家へ来てもらいそこから一緒に出発する方が時間的リスが少ないのです。しかし我が家を知らない人には、役場に着いたら携帯電話で誘導し、挙句の果ては県道まで迎えに出なければならず、かえって面倒な場合もあるのです。2ヶ所目はシーサイド公園での待ち合わせです。お陰様で県内外の方々に道の駅ふたみシーサイド公園といえば、殆どの人が間違わずにやって来るのです。人待ちのための時間潰しも漁協女性部のジャこ天での語らいや、特産品センターふたみんCでの客足など幾らでも待てるのです。三ヶ所目は下灘コミュニティセンター前の駐車場です。この場所は県内の人に有効だし、人間牧場に複数の団体や個人が来た場合は、いちいちわが家やシーサイド公園へ帰る暇がないので、人間牧場最前線の待ち合わせ場所として使っています。これ以外にもう一つ四つ目の待ち合わせ場所があります。それは一度来た人には人間牧場へ直接来てもらうようにしているのです。

 一昨日はこの第三、第四の待ち合わせ場所を指定したためとんだハプニングを巻き起こしてしまいました。人間牧場へ来る人には送ったり迎えたりの時間を含めるとどうしても2時間が必要になります。一昨日は国立大洲青少年交流の家の職員さんを9時から、今治の村上さんを11時からと時間設定しました。ところが二人の職員の思い違いで別々に出発したため、一人は9時かっきりに下灘コミュニティセンターに到着したものの、もう一人は道を間違えたのか1時間40分も遅れての到着です。村上さんとの約束もあるので私は正直イライラしました。約束の時間を守らない人は余り相手にしない方なのですが、相手が女性だし身重の体とあって怒るに怒れず、結局その人が来るまで、ロビーで研修会の打ち合わせを全て終らせました。余りにも長い打ち合わせをしていたので、気遣ったコミセンの顔見知りの職員さんがお茶とコーヒーを入れてくれました。結局は私が携帯電話を忘れて出かけたため連絡の取りようがなかったそうで、私の落ち度もあったようです。

 今治の村上さんとの待ち時間は違わすことが出来ないと急いで三人で人間牧場へ行きました。村上さんたちは既に到着していましたが、聞けば一度来ただけなので迷ったそうですが、時間に遅れないよう30分も前に到着するよう出発したそうで、さすがと感心しました。結局は二つのグループ一緒での話し合いになってしまいましたが、楽しい語らいをして帰って行きました。

 この日は午前中2グループ、午後2団体とまあ忙しい一日でした。そして夕方、突然東京の人から電話が入りました。何でも家族と一緒に旅行中とかで、たまたま新聞やインターネットのサイトで私の記事を読んでいたことを思い出し、人間牧場を探し当てて既に到着しているので、是非会いたいというのです。大洲青少年交流の家の職員さんや村上さんに聞かせたいような話です。村上さんのように知っている人でも迷う道をよくもまあ探し当てたものだと感心しながら、4度目の人間牧場へ馳せ参じました。旅の途中とかで案内して欲しいという飛び込みの人もいますが、まず探し当てて会いたいという人は余りいませんので、気に入り今回のご案内となったのです。聞けば夫婦に同行していた中学生の息子さんが登校拒否のようでした。私と小1時間話しましたが、とても素直ないい子どものように思えました。ご両親は私との話しの様子を傍で見ながら、私の生き方や私の話に感心していました。ここに泊めて欲しいと言われましたが、残念ながら私には夜の予定が入っていて丁重にお断りしました。明日の朝再びという話も、明日は岡山県からのお客さんが入っているため出会いが叶いませんでした。今後の指導をお願いしたいとの約束だけをして、夕闇迫る道を帰って行きました。考えさせられた一日でした。

  「二時間も 遅れて到着 するなどと 怒っていたが 笑顔幕切れ」

  「二度目来て 路に迷って しまう人 迷うからこそ ここに来るのだ」

「牧場に いるから会いに 来てくれと 迷える親子 迷わず来てる」

  「同じ道 四度も通う 姿見て 何かあったの? 地元人聞く」 


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shin-1さんの日記

○思い出の品々

 昨日は私が代表を務める21世紀えひめニューフロンティアグループの大野哲治事務局長から電話が入り、トラックに乗って松山市御幸町にある、愛媛県中央児童相談所へ出かけました。この建物はかなり古い年代物で、老朽化と近代化を理由に近々移転するそうです。大野さんは児童相談所に長く務めた職員ですが、今年を最後に定年退職の予定だそうで、ここにも大野さんにも一つの時代が終りつつあることを感じました。

 大野さんとのご縁は深く、私と二人が中心になってグループ立ち上げた時私はまだ30歳そこそこでした。大野さんは私より4歳も年下ですから26歳だったのでしょう。青年の船のアメリカ行きがきっかけだったと思うのですが、もう30年も前のことなので詳しくは覚えていませんが、大野さんほど私に影響を与えた人はないくらい、時には切磋琢磨し、時には本気で言い合う喧嘩もしました。また大野さんと私の絶妙なコンビぶりは、無人島キャンプなどのボランティア活動を花開かせ、楽しい人生を謳歌したものでした。

 大野さんからの電話では、児童相談所の庭に設置しているプレハブ倉庫が、児童相談所の移転で取り壊されるので、中に入れているキャンプ道具などを処分しなければならないので手伝って欲しいとのことでした。実はこのキャンプ道具は元々社会参加会議という青年団体が所有していましたが、私たちは20年間も無人島キャンプなどの度に借用し続けていました。ところが前々知事の肝いりで立ち上げ活発に活動していた社会参加会議が、県のご都合主義で消滅し、その備品は宙に浮いたまま倉庫に残ってしまい、廃棄処分もできないまま今日を迎えていたのです。使わなくなった古いキャンプ用具などもうゴミ同然で、特にテント類は布地も今のような軽くて丈夫なものではなく、重くてどうしようもないほど古く、下取りさえ出来ないネズミの住み家になっているのです。

 それでも赤茶けて錆びた鎌やナタ、鋸などの中にはまだ手入れをすれば使えそうなものもあって、捨てるのは惜しいと思いその中から少し選んでトラックに積みました。これらの品々はかつて無人島で子どもたちが使い、竹で食器などを作った思い出の品々なのです。引き取り手のない品々をゴミにするのは勿体ないと思い積み込み始めるとトラックの荷台はかなりの量になりました。

 そしてもう一つ、この倉庫に眠っていたものに私たちのグループが結成20周年記念事業として出版した「今やれる青春」という本があるのです。私が執筆した本ですが、メンバーそれぞれが役割分担して販売するよう決めていたため、ここに残っているとは予想もしていなかったのです。私は私の持分を全て販売し、その収益金は全てグループの会計に戻していますが、他のメンバーは一人何冊かのノルマを達成することもなく、出版会社から引き取ったまま倉庫の隅に置かれていたようです。500冊を越える書籍はかなりの量で、トラックの荷台に大汗をかきながら大野さんと二人で積み込みました。結局は私が尻拭いする結果となりそうですが、私設公民館の倉庫に保管して、また講演の徒然に売り歩かなければならない羽目になったようです。

 積み込み終わる頃夕立が降り始めました。書籍を濡らしてはならないと思い慌てて用意したシートを被せ、相談所を後にしました。

 わが家へ帰った頃、帰りは止んでた夕立が一層激しくなり、荷物を濡らさないようにするため車庫の乗用車を外に出してトラックを入れ、荷物の片付けを始めました。この膨大な荷物を入れるにはまず収納場所を確保しなければなりません。はてさて思い悩んだ挙句私設公民館煙会所の小さな倉庫へ書籍類を、その他はわが家の倉庫と人間牧場の倉庫へ分けて収納する事にしました。

 雨に濡れながら一人その荷物を片付けましたが、午後3時から午後6時までかかってしまいました。思う存分汗をかき思う存分疲れました。最後は親父に手伝ってもらう情けなさです。思い出の品々を片付けながら一つの時代の終わりを感じ、寂しくもいい一日でした。

  「鎌や鋸、鍋釜ひとつ 手にとって いにしえ思う 青春の日々」

  「トラックの 荷台いっぱい 荷物積み まるでキャンプに 旅立つようだ」

  「今やれる 青春という本 倉庫から 引き取り蔵は 足の踏み場も」

  「この際と ばかりに囲炉裏 部屋掃除 汗が滴り 外は夕立」 


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shin-1さんの日記

○お盆の大売出し

 今朝妻と二人で食卓を囲んで朝食を食べました。私も妻もご存知のとおり毎朝リンキャベを食べる食事ですが、私は食卓の上に新聞を広げて読みながら食べる癖があって、いつも妻からは不評をかっているのです。それでも妻の話は耳で聞こえるので、目は新聞に行って、時折「私の話しを聞いていない」とぼやかれたりするのです。今朝は北島康介選手が金メダルを取った話に花が咲きましたが、もうひとつ面白い話にも花が咲きました。

 私の友人に玉井恭介さんという人がいます。私の母校である宇和島水産高校の大先輩で、広告会社を定年退職してから様々なボランティア活動をしていますが、この春から文化面の四季録という欄にコラムを執筆しているのです。正直言って他の執筆の人たちは真面目な方ばかりで、ハイレベルな文章が多く私のような凡人には理解し難いところがあります。そこへ行くと玉井さんの文章は庶民的で少し脱線し過ぎたところもありますが、それこそ人間的だと手前味噌的なエールを送って毎回楽しみに読んでいます。

 私は玉井さんの文章が掲載される度に食卓で、玉井さんの文章を妻に読んで聞かせるのです。何時もの事ながら妻は腹を抱えてゲラゲラ笑うのです。そのくらい玉井さんの文章には何処か可笑しく、何処か考えさせられるものがあるのです。さすが玉井さんと思うのですが、玉井さんの固有名詞には「考える村代表」とあります。電話で「考える村って何ですか」と訪ねたことがありますが、自分で勝手に名乗っているだけで村長である玉井さん以外村民もいなく、奥さんさえもこの滑稽さに愛想をつかしているのだと笑っていました。

 今日のテーマは「ボケない小唄」でした。

  ボケない小唄

 1、風邪を引かずに/転ばずに/笑い忘れず/聞く話す/頭と足腰/使う人/元気ある人/ボケません

 2、スポーツ/カラオケ/囲碁/俳句/趣味のある人/味もある/異性に関心/持ちながら/色気ある人/ボケません

 3、歳をとっても/白髪でも/しわがふえても/気が若い/演歌唄って/アンコール/生きがいある人/ボケません

  ボケます小唄

 1、何もしないで/ぼんやりと/テレビばかり/見ていると/呑気なようでも/歳をとる/いつか知らずに/ボケますよ

 2、仲間がいないで/一人だけ/いつもすること/無い人は/夢も希望も/逃げていく/歳をとらずに/ボケますよ

 3、お酒も旅行も/きらいです/歌も踊りも/大きらい/お金とストレス/ためる人/人の二倍は/ボケますよ

 これをお座敷小唄の替え歌で唄えばいいそうですが、お座敷小唄という歌を知らない世代には到底唄えない歌なのです。私はかろうじてお座敷小唄を知っている世代ですから、いきなり手持ちの木になるカバンからハーモニカを取り出して、Aマイナーのハーモニカで吹いてみました。いやあ驚きです。吹けるのです。これは使えると思いました。私は時々高齢者教室や老人大学で講演するのですが、次回は是非この歌をみんなで唄ったら面白いと思いました。

 やがて妻と二人の会話も和やかになったところで、新聞広告が目に留まりました。今日から始まるお盆の大売出し広告です。期せずして近隣のスーパーが同じような広告を出しているのを見ると、どうやらこの4日間はスーパー間の暑いお盆商戦の火花が散っているようにも思えました。

 最近の新聞広告を見て変ったと思うのは産地表示です。肉も魚も野菜も、加工品まで「○○産」と産地表示が義務付けられるようになって、私たち消費者は随分安心して買い物が出来るようになりました。しかしその裏に隠された熾烈な戦いや産地偽証などを思うと、全てを信じることが出来ないのも紛れもない事実なのです。

 スーパーの商品価格はアメリカの影響でしょうか、9・8・7・0などの数字が大好きで、特に8という数字は殆どの商品についていて、これが消費者には「安い」というイメージを植えつけるテクニックなのです。千円と980円とでは20円しか違わないのに、千円は高く、980円は安いと感じるのはやはり数字のマジック・トリックなのです。

 多分多くの消費者は新聞を開けるとまず重要な紙面の見出しを拾い読みし、注目の記事を詳しく読みます。その後飽きたらチラシ広告を見るのです。多分文化面の四季録などは埋め草として、紙面の空いた場所に持っていかれるので、余程注意をしないと見落としてしまうのです。

 今日は四季録と広告に目がいった朝でした。

  「新聞を 見ながら食事 止めてねと いわれるままに 今日も記事読む」

  「耳は妻 目は新聞の 朝食を 終りはてさて 何を食ったか」

  「四季録の 記事に納得 読み聞かせ 妻は腹から 笑う朝食」

  「九と八 意外と多い チラシ見て 安いと感じ 買ったが高い」

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shin-1さんの日記

○北京オリンピック

 スポーツに余り関心のない人でも、四年に一回開かれるオリンピックは別で、日本の国旗を胸に掲げて競技する姿には深い感動を覚えるもののです。特にそれが激しい戦いの後の金メダル獲得となると、受賞する選手も観戦する私たちも、国歌君が代が流れる中で表彰台に立つ人の晴れやかで清々しい姿に、時には涙が出てきます。数日前に開会した北京オリンピックは、いつものことながら黄生臭いテロの話題が連日のように報道され、主義主張の違いをあらためて認識させられていますが、人類の平和を願うオリンピック精神には勝てるはずもなく、むしろ批判されるべき行為であると強い憤りを感じるのです。

 北京オリンピックはお隣の国で行われているので時差も殆ど無く、前回のように深夜のテレビ放送を見過ぎて眠いという人は殆どいないようで大助かりです。マスコミは中々成績の上がらない日本選手の様子を見て、相変わらず手厳しい報道を繰り返しています。日本選手今大会初のメダリストとなった女史柔道谷亮子さんの銅メダルには、金メダルを信じて疑わなかっただけに、落胆は隠せないようでした。しかし5大会連続メダルの快挙だし、ママさん選手として多くの雑事に追われながらの銅メダルはむしろ金に値する立派な成績で、夫の野球選手谷さんのねぎらいの言葉に救われた感じがしました。

 内柴選手の金メダルの余韻も冷めぬ昨日、水泳の北島康介選手(25)がこれまたど派手な金メダルの快挙を成し遂げ、日本中が興奮の坩堝に入ってしまいました。水泳平泳ぎ100メートル決勝で、北島選手はオーエンやハンセンといった世界の強豪と戦い、夢の晴れ舞台で58.91秒の世界新記録を樹立して優勝したのです。しかも2大会連続の金メダルですから凄いとしかいいようがなく、心臓に毛でも生えているのではないかと思うほどの集中力に、同性である男の私でさえオーラを感じました。2位にはダレーオーエン(ノルウェー)、3位にはデュボス(フランス)、4位には本命と目されていたハンセン(アメリカ)が入り、ハンセンがメダルを逸するほどの激しい戦いであったことを物語っています。

 水泳については、オリンピック選考会を相前後して水着の話題が沸騰しました。国内最大手のスポーツ用品メーカーであるミズノの水着が日本水連の公式水着ですが、世界ではスピード社の水着を着用した選手が相次いで世界記録を樹立したため、直前になってスピード社の水着も認めると異例の発表をしました。コマーシャル料を支払っているミズノと、コマーシャル料で運営する水連にしてみれば、降って湧いたような話題でしたが、日本選手の活躍や記録を最優先し、それに世論の風当たりを意識してスピード社の水着使用を潔く認めたのです。北島選手もスピード社の水着を着用して望んだ結果の記録だけに、いい選択だったと言わざるを得ないのです。

 しかし、私たち凡人には水着くらいで記録が変わるものかどうかは未だに分らない点ですが、0.01秒を争う世界ですから、微妙に違うようです。

 競技には勝者と敗者が必ずあります。夢かなってメダルを胸に帰国する人もあるかと思えば夢破れ悔し涙で帰国する人もいるでしょう。でも全力を出し切って戦った後の結果ですから勝者も敗者も分け隔てなく、温かく迎えてあげたいものですが、マスコミは相変わらず勝者の理論で動くものと思われます。

 オリンピックに出ることは容易なことではありません。これまでどれ程の人がオリンピックを目指し、どれ程の人が落伍したことでしょう。そんな四年間の厳しい戦いは既に水面下で始まっているのです。そして健常者のオリンピックが終ると、障害者のパラリンピックが待っています。今回も障害者たちの心温まる爽やかなドラマに期待したいと密かに思っています。

  「日の丸と 君が代ともに 映し出す 何故か涙が 込み上げてくる」

  「金メダル 記録は凄い 世界新 やっぱり実力 水着じゃないよ」

  「破れたる 選手の目にも 涙あり 悔しさバネに 次も頑張れ」

  「わが家では 高校野球 だけでなく オリンピックと 二元中継」   

 

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shin-1さんの日記

○使わない筆記用具

 わが家には机の上、電話台の上、居間のペン立てなど3ヶ所余りに何本かのボルーペンや鉛筆、マーカー、万年筆などが置かれてます。でもその殆どは使えるのに使わず、これからも使われることもないであろうに、千日持って一日の用をもなさぬまま無造作に放置されて、外観上は見苦しく見えるのです。私たちが子どもの頃は貧乏な時代でもあったので、鉛筆はおろかボールペンや万年筆は飛び切り上等な筆記用具でしたから、大事に使ったものでした。ところがボールペンやシャープペンシルが出回るようになると、それらの殆どが使い捨ての部類になって、今ではボールペンなど道端に転がっていても、だれも見向きもしないものになってしまったのです。

 ボールペンは便利なもので、インクが外にこぼれることもなく、また蓋をしなくても乾燥することもなく直ぐに書けるのです。普通ボールペンはインクがなくなるまで使うことは珍しく、途中で何処かへ無くしたり、インクが出なくなって別のものに変えるですが、このところ机の上で日常的に使っていた2本のボールペンがインク切れ、つまり最後の寿命まで使い切り、久しぶりに「やったー」って感じになりました。外から見えるインクゲージはまったくインクの色が見えませんでした。寿命が消えたボールペンは何処か可哀想で、捨てるのが惜しい感じがしましたが、再利用する当ても無く勿体ないと思いつつゴミ箱へ捨ててしまいました。

 今日は午前中2小グループ、午後小2グループを人間牧場に案内して夕方からはスケジュールが空いているので久しぶりに机の上の筆記用具とペン立ての中の掃除をしました。既に使えなくなったもの、紙にためし書きをしてインクの出の悪いものなどに分けて、要らなくなったものは金具を危険物にし、他のものはプラスチックゴミに分類しましたが、分類といいながら結局「勿体ない世代に育った私ですので、捨て切れずもとの鞘に納まっているのです。

 筆記用具の中に珍しい万年筆を見つけました。私がアメリカへ行った折買って帰ったパーカーの万年筆です。もう長い間使っていないため、使用不可能と思いきや、熱湯で中やペン先を洗って、机の引き出しにあったカートリッジインクを差し込むと、それは綺麗な文字が書けるのです。さして字が上手くない私ですが、弘法筆を選ばずではなく、弘法筆を選んでハガキを3通書いてみましたが、ボールペンにはない味のある文字が書けました。

 ペン立ての中には何本もの筆ペンがありました。多分香典返しで祝儀袋や不祝儀袋とともにいただいたものでしょうが、今月も幾つかの葬儀やお見舞いの度にこの筆ペンで名前を書いたに違いないのですが、毎日書くわけでもないので、どれも全て使えるようで、これも捨てることは出来ませんでした。

 最近この筆ペンが役に立つようになってきました。というのも私の自著本にサインをして送って欲しいというリクエストが何件かあるのです。先日は岡山県笠岡市で講演の後のサイン会があったし、長崎県諌早市の松本さんからは自著本にサインを入れて送って欲しいと20冊もの注文がありました。字の下手糞な私としては躊躇するか辞退するところですが、勇気を持って迷わず書きました。今頃はこの本を手にとって「何て下手糞な字なんだろう」と噂しているに違いないと思うのです。

 それでも筆記用具は随分整理整頓ができました。孫が来る度に使う鉛筆類は木のペンケースに入れました。これで迷わず必要な筆記用具が使えそうです。

  「使えるに 捨てなきゃならぬ ボールペン 役に立てたい 気持ちはあるに」

  「自著本に サイン頼まれ 書いてみる 今頃みんな 何じゃあこれわと」

  「最後まで 使いきったる ボールペン 捨てるの惜しい 勿体ないな」

  「役所辞め ペンなど要らぬと 思いきや 毎日ハガキ 三枚書くペン」

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