shin-1さんの日記

○近くて遠い所

 「若松さんですか。今在家という地区でふれあいいきいきサロンのお世話をしている者です。誠に小さな集会で済みませんが講演に来て下さいませんか」と電話が入りました。それより少し前、金融広報委員会の山下さんから講師派遣依頼が来ていて、了解しての対応だったので、一も二もなく引き受けました。それにしても毎日のように県庁所在地の松山市へ出かけ、松山市を活動のフィールドにしている私ですが、今在家という地名は余り聞くことが少なく、「はてどこら辺だったかな?」と思いました。「まあ電話番号を聞いてカーナビに入力すれば何とかなるだろう」と簡単に考えていました。やがてその日がやって来て今日は10時からの時間に間に合わすべく、少し早めに出かけました。家を出る時集会所の電話番号を入力してはたと困りました。その電話番号では検索不可能」と出たのです。古いカーナビなので電話番号を読み取れないのかも知れないと思い、とりあえず感を頼りに伊予市、砥部町と進み松山市郊外の道を走りました。杖の淵公園の近くだと思い、少し早い時間調節のために杖の淵公園に車を止めて公園内を散策しました。



 この公園は湧水を利用した公園で、渇水のこの時期だというのに池の底まで見えるような澄んだ水を満々とたたえていました。湧水池の周辺の水路には合鴨が沢山飼われていて、池を泳ぐ鯉やフナなどとともに何とも賑やかで、訪れた人の目を楽しませていました。水路の中ほどには水畑があって寒冷遮で覆った水面の下には何やら植えているようでした。傍で作業をしていた人に聞くとテイレギだそうで、移植して増やしているのだそうです。本当はもっと成長するはずなのですが、松山市は折からの渇水で取水制限をしている市内に向けてここの地下水を汲み上げて送っているので、その影響のようでした。

 松山市の伊予節という古い民謡に「高井の里のテイレギやチョイト~」なんて下りがあったり、杖の淵とは弘法大師が杖で叩くと水が湧き出したという逸話があることは、おぼろげながら知っていましたが、松山の郊外といいながらこんな場所に素敵な湧水のオアシスがあるのですから凄いことです。杖の淵に来るまでに重信川という一級河川に架かる久谷橋を通ってきましたが、渇水の影響で広い川には見渡せど水の流れている部分はなく、多分沿線での過度な伏流水汲み上げが原因ではないかと思ったりしました。

 杖の淵公園では秋の訪れを示すように、庭師さんが公園内の庭木や藤のパーゴラの剪定作業に汗を流していました。何日かすると散髪したような綺麗な庭になることでしょう。

 さて今在家という地名がカーナビに見え隠れし始めました。「うん私の直感も大したものだ」と思いながら家々の隅に張っている地名看板に書いている2丁目、3丁目と追いながらゆっくり走りました。集会所は3丁目8ー10と書いていたのでおおよその見当をつけて走ると、看板に今在家集会所と書いたこじんまりとした施設が見えてきました。既に何人かの人が準備をしていて、30分も早い到着に驚いた様子で駐車場に車を誘導してくれました。

 今日の参加者は殆どが高齢者でしたが、地区内に呼びかけたらしくまあまあ若い人もいて出席者は予定より多い30人を超えていました。早い人は30分も前から来ていたので四方山話をしながら過ごし、いい雰囲気でお話しに入ることが出来ました。打てば響くような素敵な参加者に助けられて「くらしと生活設計」の話は1時間30分にも及びましたが、私の最も得意とする話だけに皆さんにもかなり受け入れられたような感じでした。

 冷房のよく効いた部屋で、まるで落伍のような話をする私も、落伍のような話を聞く人も、日頃の悩みを忘れ一体となって考えるいい企画でした。「また来てね」と全員の拍手で送ってもらい会場を後にしました。私にとって今在家という地名は一生忘れられない思い出となることでしょう。

  「今在家 知ってはいたが 知らぬ土地 探し訪ねて やっと見つける」

  「退化した わが記憶だが 忘れない 今在家という名は ずっと忘れじ」

  「全員が 大きな拍手で さようなら また来てくれと 嬉し言葉を」

  「小さいが 笑い大きい 集会所 束の間だけど 悩み忘れる」 

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shin-1さんの日記

○うら盆の盆踊り

 世の中には新と旧、前と後、上と下、左と右、陰と陽、男と女、プラスとマイナス、明と暗、強と弱、高と低、西と東、北と南など対比対立する言葉が沢山あります。表と裏もその一つで、華やかな表通りに比べ裏通りは人の息遣いが聞こえるようなどこかじめじめしたものを感じますが。表盆というのは余り聞いたことがないけど、うら盆という言葉はよく使う言葉です。お盆は様々な仏事が全国各地で開かれます。その締めくくりがうら盆なのです。

 私たちの町では、新仏(その年に亡くなった人)の出た家では灯篭祀り(水祀りともいう)の一環として灯篭に灯りをともして(今はローソクではなく電球で代用)供養しますが、その終わりの行事として灯篭上げという行事をします。真っ白い和紙で作った灯篭にほの暗い明かりがともる姿は何とも侘しく、子どもの頃には灯篭の向こうから死んだ人の霊が出てくるような怖さを感じたものでした。

 昔は8月24日のうら盆になるとその灯篭を各家から持ち寄り、海辺の砂浜に飾って鉦を叩いて念仏を唱え燃やしていました。多分盆踊りの起こりはその念仏踊りだったようです。しかしいつの間にか灯篭送りの行事は廃れ、盆踊りのみが華やかな社交の場となって残ったのです。私たちが青年団に入っていた時代が最も盆踊りが盛大に行われた時期で、満野、本村、池久保、下浜、上浜、奥東、日喰、石久保、唐崎、本郷、灘町、岡、杭野、城ノ下、小網、高野川と町内の16もの集落で盆踊りが行われていました。私たち青年にとって微妙に違う盆踊りの風習を感じながら毎晩浴衣に着替えて踊り子となって各地の盆踊りの応援に駆けつけたものでした。踊り子も見る群集も沢山いて、夏の夜の一大イベントとなっていたのです。その後は盆踊りを主催する若者の数が激減し、次第に盆踊りは各地から姿を消して、今では下灘地区2ヶ所、上灘地区3ヶ所となり、長年慣れ親しんだ杭野の盆踊りも昨年で幕引きとなったようです。


 昨晩はうら盆に盆踊りを行う風習のある池久保と私たちの住む灘町が盆踊りを行いました。一昨年まで灘町の自治会長として2年間盆踊りを主催してきたいきさつもあって協力するつもりで妻と二人が出かけて行きました。昨日の朝から自治会役員が準備した盆踊り櫓が朱会所横広場に設置されていて、笹飾りや四方に提灯の灯りが灯され、いい雰囲気の設えが出来ていました。集会所の玄関には裁断が祀られ、戦没者の遺影や新盆を迎えた人の遺影が慎ましやかに飾られ、午後6時には近所のお寺の住職さんを招いてしめやかな慰霊祭も行われました。

 灘町には300戸近くもあるのですが、参加者も年々少なくなって時代の流れを感じさせますが、それでも心ある人は集まり、飲んだり話し込んだり、踊ったり見たりと楽しいひと時を過ごしました。それにしても盆踊りはこうも長い間同じ踊りを踊るのかと呆れるほどに感心をしました。炭坑節などは三橋美智也が歌った歌ですからもう40年も経っているのに、未だに踊っているし、私が役場に勤めていた頃ふるさと音頭として製作に携わった双海音頭も皆さん器用に踊っていました。私たち夫婦もそれなりに前の人に合わせて踊りましたが、まさに踊る阿呆に見る阿呆で、踊らにゃ損とばかりに5曲ほど踊らせてもらいました

 今ではすっかり途絶えてしまっている手踊りも何人かの人によって復活していて、最後はその手踊りで締めましたが今年も元気で過ごせたことの感謝の気持ちを込めて踊り、盆踊り会場を後にしました

 町内のあちこちではうら盆だというのに既に稲刈りが始まり、日中は暑いものの朝晩はすっかり涼しくなって虫の鳴き声も聞こえるようになって来ました。親父も何だかんだといいながら何とか夏を乗り切ったようです。今朝は隠居へ行くと、「今日は下灘の診療所へ自転車で行く」のだと張り切っています。90歳になっても7キロ離れた診療所へ自転車で行くのですから大したものです。「気をつけて行くように」と注意を促しました。

 昨日親父の同級生で伊予市に住んでいる井上サカエさんから親父にラブレターが届きました。目の薄くなった親父にはそれがラブレターであることなど知る由もなく、私に読んでくれとせがまれました。適当に注釈をつけて耳元で大きな声で読んでやりました。親父は嬉しかったのか私にラブレターの返信代筆を頼まれました。早速今朝は親父に成り代わりラブレターの返信を書きました。親父の同級生もいよいよ残り少なくなりましたが、何時までも元気でいて欲しいと願っています。

  「この歳に なった親父に ラブレター 代筆頼む 参った参った」

  「うら盆の 来たを知ってか 赤とんぼ 稲穂の上を 行きつ戻りつ」

  「消え残る わがふるさとの 盆踊り 懐かし顔が 懐かし訛りで」

  「暑かった 今年の夏を 乗り切って 卒寿迎える 親父矍鑠」  

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