shin-1さんの日記

○人間牧場ただ今忙中忙有

 忙中閑有という言葉がありますが、人間牧場を開設してからは忙中閑有どころか、忙中忙有の毎日です。人間牧場はわが家から9キロばかり離れているため、人間牧場へ来たいという人とは通常三つの待ち合わせ場所を指示します。一ヶ所目は自宅です。かつて知ったる人にはわが家へ来てもらいそこから一緒に出発する方が時間的リスが少ないのです。しかし我が家を知らない人には、役場に着いたら携帯電話で誘導し、挙句の果ては県道まで迎えに出なければならず、かえって面倒な場合もあるのです。2ヶ所目はシーサイド公園での待ち合わせです。お陰様で県内外の方々に道の駅ふたみシーサイド公園といえば、殆どの人が間違わずにやって来るのです。人待ちのための時間潰しも漁協女性部のジャこ天での語らいや、特産品センターふたみんCでの客足など幾らでも待てるのです。三ヶ所目は下灘コミュニティセンター前の駐車場です。この場所は県内の人に有効だし、人間牧場に複数の団体や個人が来た場合は、いちいちわが家やシーサイド公園へ帰る暇がないので、人間牧場最前線の待ち合わせ場所として使っています。これ以外にもう一つ四つ目の待ち合わせ場所があります。それは一度来た人には人間牧場へ直接来てもらうようにしているのです。

 一昨日はこの第三、第四の待ち合わせ場所を指定したためとんだハプニングを巻き起こしてしまいました。人間牧場へ来る人には送ったり迎えたりの時間を含めるとどうしても2時間が必要になります。一昨日は国立大洲青少年交流の家の職員さんを9時から、今治の村上さんを11時からと時間設定しました。ところが二人の職員の思い違いで別々に出発したため、一人は9時かっきりに下灘コミュニティセンターに到着したものの、もう一人は道を間違えたのか1時間40分も遅れての到着です。村上さんとの約束もあるので私は正直イライラしました。約束の時間を守らない人は余り相手にしない方なのですが、相手が女性だし身重の体とあって怒るに怒れず、結局その人が来るまで、ロビーで研修会の打ち合わせを全て終らせました。余りにも長い打ち合わせをしていたので、気遣ったコミセンの顔見知りの職員さんがお茶とコーヒーを入れてくれました。結局は私が携帯電話を忘れて出かけたため連絡の取りようがなかったそうで、私の落ち度もあったようです。

 今治の村上さんとの待ち時間は違わすことが出来ないと急いで三人で人間牧場へ行きました。村上さんたちは既に到着していましたが、聞けば一度来ただけなので迷ったそうですが、時間に遅れないよう30分も前に到着するよう出発したそうで、さすがと感心しました。結局は二つのグループ一緒での話し合いになってしまいましたが、楽しい語らいをして帰って行きました。

 この日は午前中2グループ、午後2団体とまあ忙しい一日でした。そして夕方、突然東京の人から電話が入りました。何でも家族と一緒に旅行中とかで、たまたま新聞やインターネットのサイトで私の記事を読んでいたことを思い出し、人間牧場を探し当てて既に到着しているので、是非会いたいというのです。大洲青少年交流の家の職員さんや村上さんに聞かせたいような話です。村上さんのように知っている人でも迷う道をよくもまあ探し当てたものだと感心しながら、4度目の人間牧場へ馳せ参じました。旅の途中とかで案内して欲しいという飛び込みの人もいますが、まず探し当てて会いたいという人は余りいませんので、気に入り今回のご案内となったのです。聞けば夫婦に同行していた中学生の息子さんが登校拒否のようでした。私と小1時間話しましたが、とても素直ないい子どものように思えました。ご両親は私との話しの様子を傍で見ながら、私の生き方や私の話に感心していました。ここに泊めて欲しいと言われましたが、残念ながら私には夜の予定が入っていて丁重にお断りしました。明日の朝再びという話も、明日は岡山県からのお客さんが入っているため出会いが叶いませんでした。今後の指導をお願いしたいとの約束だけをして、夕闇迫る道を帰って行きました。考えさせられた一日でした。

  「二時間も 遅れて到着 するなどと 怒っていたが 笑顔幕切れ」

  「二度目来て 路に迷って しまう人 迷うからこそ ここに来るのだ」

「牧場に いるから会いに 来てくれと 迷える親子 迷わず来てる」

  「同じ道 四度も通う 姿見て 何かあったの? 地元人聞く」 


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shin-1さんの日記

○思い出の品々

 昨日は私が代表を務める21世紀えひめニューフロンティアグループの大野哲治事務局長から電話が入り、トラックに乗って松山市御幸町にある、愛媛県中央児童相談所へ出かけました。この建物はかなり古い年代物で、老朽化と近代化を理由に近々移転するそうです。大野さんは児童相談所に長く務めた職員ですが、今年を最後に定年退職の予定だそうで、ここにも大野さんにも一つの時代が終りつつあることを感じました。

 大野さんとのご縁は深く、私と二人が中心になってグループ立ち上げた時私はまだ30歳そこそこでした。大野さんは私より4歳も年下ですから26歳だったのでしょう。青年の船のアメリカ行きがきっかけだったと思うのですが、もう30年も前のことなので詳しくは覚えていませんが、大野さんほど私に影響を与えた人はないくらい、時には切磋琢磨し、時には本気で言い合う喧嘩もしました。また大野さんと私の絶妙なコンビぶりは、無人島キャンプなどのボランティア活動を花開かせ、楽しい人生を謳歌したものでした。

 大野さんからの電話では、児童相談所の庭に設置しているプレハブ倉庫が、児童相談所の移転で取り壊されるので、中に入れているキャンプ道具などを処分しなければならないので手伝って欲しいとのことでした。実はこのキャンプ道具は元々社会参加会議という青年団体が所有していましたが、私たちは20年間も無人島キャンプなどの度に借用し続けていました。ところが前々知事の肝いりで立ち上げ活発に活動していた社会参加会議が、県のご都合主義で消滅し、その備品は宙に浮いたまま倉庫に残ってしまい、廃棄処分もできないまま今日を迎えていたのです。使わなくなった古いキャンプ用具などもうゴミ同然で、特にテント類は布地も今のような軽くて丈夫なものではなく、重くてどうしようもないほど古く、下取りさえ出来ないネズミの住み家になっているのです。

 それでも赤茶けて錆びた鎌やナタ、鋸などの中にはまだ手入れをすれば使えそうなものもあって、捨てるのは惜しいと思いその中から少し選んでトラックに積みました。これらの品々はかつて無人島で子どもたちが使い、竹で食器などを作った思い出の品々なのです。引き取り手のない品々をゴミにするのは勿体ないと思い積み込み始めるとトラックの荷台はかなりの量になりました。

 そしてもう一つ、この倉庫に眠っていたものに私たちのグループが結成20周年記念事業として出版した「今やれる青春」という本があるのです。私が執筆した本ですが、メンバーそれぞれが役割分担して販売するよう決めていたため、ここに残っているとは予想もしていなかったのです。私は私の持分を全て販売し、その収益金は全てグループの会計に戻していますが、他のメンバーは一人何冊かのノルマを達成することもなく、出版会社から引き取ったまま倉庫の隅に置かれていたようです。500冊を越える書籍はかなりの量で、トラックの荷台に大汗をかきながら大野さんと二人で積み込みました。結局は私が尻拭いする結果となりそうですが、私設公民館の倉庫に保管して、また講演の徒然に売り歩かなければならない羽目になったようです。

 積み込み終わる頃夕立が降り始めました。書籍を濡らしてはならないと思い慌てて用意したシートを被せ、相談所を後にしました。

 わが家へ帰った頃、帰りは止んでた夕立が一層激しくなり、荷物を濡らさないようにするため車庫の乗用車を外に出してトラックを入れ、荷物の片付けを始めました。この膨大な荷物を入れるにはまず収納場所を確保しなければなりません。はてさて思い悩んだ挙句私設公民館煙会所の小さな倉庫へ書籍類を、その他はわが家の倉庫と人間牧場の倉庫へ分けて収納する事にしました。

 雨に濡れながら一人その荷物を片付けましたが、午後3時から午後6時までかかってしまいました。思う存分汗をかき思う存分疲れました。最後は親父に手伝ってもらう情けなさです。思い出の品々を片付けながら一つの時代の終わりを感じ、寂しくもいい一日でした。

  「鎌や鋸、鍋釜ひとつ 手にとって いにしえ思う 青春の日々」

  「トラックの 荷台いっぱい 荷物積み まるでキャンプに 旅立つようだ」

  「今やれる 青春という本 倉庫から 引き取り蔵は 足の踏み場も」

  「この際と ばかりに囲炉裏 部屋掃除 汗が滴り 外は夕立」 


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