shin-1さんの日記

○青年の船班長会の案内状

 昭和51年に第10回総理府派遣青年の船に班長として乗船してから、早いもので34年が経とうとしています。私が30歳の時の出来事です。私は建国二百年のアメリカやメキシコ、ハワイなどを歴訪するこの大きな旅で人生観が変わるほどの体験をし、以後の自分の生き方に大きな影響を与えてくれたのです。もしもあの船に乗らなかったら自分の人生はこれほど充実していなかっただろうと思うのですから、青年の船は私の大恩人なのです。

 青年の船には私と同じように班長と呼ばれる指導者が30人選ばれて乗船し、班員の指導に当りましたが、それぞれ立派な方で私を基準にすれば既にリタイアした人、そろそろリタイアする人など、人生の転機を迎えていることだと思うのですが、下船後も班長会を組織して毎年一回持ち回りで交友を温めているようです。私は下船した時自分に言い聞かせていました。というのも、青年の船に班長として乗船したある先輩から、「班長で乗船したからといって、青年の船の仲間と付き合うことを重視する必要はない。そんな暇があったら、自分のふるさとの若者を育て、ふるさとのためになることをやりなさい。それこそが大事な事後活動である」というのです。同感した私は34年間の間にたった1回しか班長会に出席していないのですから、班長の仲間からは当然ブーイングが起こるのは当たり前なのです。私はそんな信念を持っていましたが、毎年案内状を貰う日時が多忙で行けなかったというのが正直な話です。

 昨年の班長会も東京で外国とのテレビ会議が重なり出席が叶いませんでしたが、どうも昨年の班長会で、「次回は愛媛県松山で開催し不義理をし続けている若松に担当させよう。そうすれば嫌でも若松は参加する」と欠席裁判に合い、私に前回の責任者本田さんからその旨電話が架かってきたのです。

 あの時の青年の船には愛媛県出身で今は横浜に住んでいる八幡浜出身の林富佐子班長さんがいます。彼女と二人で今回の班長会はやらねばと、相談しながら準備を進め、第一回目の予備連絡に続いて一昨日正式な案内状を全国に向けて発送しました。もとより、自分の時だけは来て欲しいなんて虫のよい話は全然考えていません。また日頃不義理をしているためそれ程の参加期待もできないものですから、まあ誠心誠意粛々と受け入れ準備をしたいと思っています。先日林さんから電話が架かってきました。お盆の帰省で実家に帰っているとのことでしたが、私は残念ながら広島と岡山へ出張中で、出会うことが出来ませんでした。心配して電話をかけてくれた事に感謝しながら案内状を出しました。

 最近はハガキや封筒の印刷もパソコンで出来るような便利な世の中になっていますが、私はそれ程能力が高いわけでもなく、四苦八苦しながら本田さんからいただいた班長さんの住所氏名を打ち込み、案内文と返信用ハガキを作成しました。文房具屋さんに行って四角い封筒を買い求め住所氏名をプリントして発送する作業は一人でするため結構時間がかかりましたが、やっと発送にこぎつけました。後は締切日を待って対応すればいいのです。気になっていた作業だけに無事終ってホッと一息といったところです。

 今日早くも嬉しい出席通知第一号返信用ハガキが舞い戻ってきました。広島県の松永さんからです。



[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○しまなみ海道から瀬戸大橋を巡る旅②

 瀬戸田を出発したのは午後9時半でした。満月にも似た月を追うようにしまなみ海道から山陽道に出て、福山、倉敷を経て岡山に着いた頃はもう11時を過ぎていました。カーナビに入力した岡山駅前の予約ビジネスホテルにチェックインして、友人たちが集まるホテルの近くの居酒屋に顔を出しました。私が岡山に来るというニュースをかぎつけて5人ほどが集まって歓迎会をしてくれたのです。夜も遅いのでと誘いをお断りしましたが、聞き入れてもらえず、深夜の出会いとなりました。皆さんはもう出来上がっていて、随分と酒の肴にされてしまいました。前もって仲間に話しをしていたので12時杉には無罪放免となりました。ホテルへ帰ってシャワーを浴び、テレビを見ながら本を読み、いつの間にか夢の世界へと旅立っていました。私は自宅にいると通常は12時頃に寝て午前4時頃に目を覚ますのが何時ものパターンですが、この日は旅の疲れかぐっすり寝込み、気がついたら朝6時になっていました。やることもないので早速起きて顔を洗い早朝読書をした後ホテルを出ました。旅先では出来るだけ界隈を歩くようにしていますので、のんびりゆっくり岡山駅前辺りを歩きました。岡山駅は大阪や山陰に向う中継点としてよく利用しますが、駅舎を出ることは殆どなく、歩いてみると駅のイメージが随分と変わったような気がしました。朝の散歩で携帯に付いた万歩計を見るとと6千歩も歩いていました。ホテルに帰ってシャワーを浴び身支度を整えてチェックアウトし、この日の目的地であるテクノサポート岡山へ向かいました。

 テクノサポート岡山は岡山空港に近く、また岡山インターにも近い市内からは少し離れた郊外にありましたが、車だとスイスイ行けて9時にはもう到着です。車の中でカーテレビを見ながら過ごしていると、高田事務局長さんが見えられ中に用意した控え室へ案内されました。岡山県が威信を掛けて作ったのでしょうが、まあそれは立派な建物で、森を切り開いて作った広大な敷地には幾つかの企業も進出していましたが、空き地もまだ多く、手入れの行き届かない空き地周辺や道端には夏の雑草が生い茂り美観を損ねているようでした。

(広場に設置さいたモニュメントが岡山の威信を物語っていましたが、どこか繁栄の遺物のようにも見えました。

 さて、この日の研修会は農業団体である岡山県経営構造対策協議会の主催で開かれ、その研修会の講師に招かれました。農業の振興のための指導助言や調査、情報提供、組織人材育成などを主な任務にしているようで、参会者も県内各地から認定農業者、集落営農団体、農協、市町進担当者、県民局、普及指導センターなどから100人近くの人が集まっていました。いわゆる農家を取り巻く支援者たちの集まりなのです。

 私の演題は「まちづくり・人づくり・拠点づくり」でしたが、90分の短い時間なので用意したDVDもついには利用することなく終ってしまい、セットして1時間半もその操作を今か今かと待ち続けた担当の方にブログ画面を通じ衷心よりお詫びいたします。

 農業の体力が落ちているのは誰もが認めるところです。そしてその中心となる集落の体力減退は農業不振、過疎と高齢化によって限界集落への道を突き進んでいるのです。これは最早国家的な支援をもっても再生不可能だとさえ思える凋落ぶりです。自給率は40パーセントまで落ち込み、農業への期待は大きい反面、農業、集落、農業者の今の体力では持ち堪えられなくなっています。このような集会に行く度に、どこか重く垂れ込めた暗雲のようなものを感じますが、へこたれたり諦めたりすr余裕はなく、もしこの日集まった人たちが本当にやる気になって農家を指導すれば再生は不可能ではないと力説しました。

 講演が終わって経営構造対策協議会の高田事務局長さんや、農業会議の中力事務局長さん、愛媛県今治市と縁の深い県農林振興課大内課長さんの三人と昼食をともにしながら様々な話をした後会場を後にして、岡山インターから高速道路に乗り、瀬戸大橋を渡って帰って来ました。

 思えば僅か2日間の近くで身近な小さな旅でしたが、車のメーターは557キロも走っていました。途中トイレ休憩のために立ち寄った豊浜サービスエリアで早めの補給をし、長旅の疲れを心配した妻からの携帯電話に返信をしました。また途中電話のあった山口県からの講演依頼も車を安全な場所に止めてお話をしました。

  「行き帰り 別の大きな 橋渡り 周遊の旅 いつものように」

  「対岸と いえど広島 岡山も 知らない場所が 幾つもありて」

  「出先まで まるでで追いかけ られるよに 次々架かる 電話にもしもし」

  「農業の 厳しい姿 これからも 益々悩み 深くなりつつ」  

 


 

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○しまなみ海道から瀬戸大橋を巡る旅①

 民俗学者宮本常一のように自分の足で歩き記した足跡ではないにしても、私の訪ねた全国の市町村の数も相当な数と距離になってきました。、ましてや僅か二日間で広島と岡山をひた走りに走れるのですから、全国を歩いた宮本常一や奥の細道を歩いた松尾芭蕉、それに全国を地図を作るために歩いた伊能忠敬がもし生きていたら驚くような便利な世の中になったものです。

 今回の旅は往路しまなみ海道を走りました。一旦しまない海道を全て走り抜けて尾道の奥座敷のような御調町まで行き、移動落伍寄席を終って同じしまなみ海道を引き返して夕闇迫る頃、井口島北インターで下りて瀬戸田町に向かいました。予定より1時間も早く着いたので島内を歩いて散策しました。

(耕三寺の山門)

 西日光といわれる耕三寺の前の道路を歩きましたが、寺の山門は既に閉門されていました。寺の裏側にある細い路地道を歩いて裏側に出ました。そこにはどの家も立派なみかん農家が沢山あって、このところの雨が降らない水不足のため特産品であるレモンやかんきつ類に潅水する姿があちこちで見受けられました。私はこれまで何度かこの島に来ていて、今では年に一度訪れるような頻繁さですが、これまで島の表の部分しか見ていませんでした。裏側に回ると人々の暮しが息づいていて、何とも温かい風情なのです。一軒のこじんまりした庭が目に留まりました。古さを感じさせる老松を見ていると、そこのご夫婦が散歩から帰ったところでした。不審者と見間違えられても困るので、自分の素性を明らかにして庭を見せてもらいました。ご主人は庭を褒められ余程嬉しかったのでしょうが、「まあお入りなさい。お茶でも」と案内されましたが、急ぎの旅の途中なのでと断り、立ち話をして分かれました。なだらかな路地道は海峡が一望できる海まで続いていて目の前に海と島が広がりました。

 対岸は上浦辺りで、遠くに大三島、近くには小さくひょっこりひょうたん島が見えました。

(大三島とひょっこりひょうたん島が遠望できました)
(海の玄関口に架かった黄色い橋の見える風情は何とも味があります)

 目を転じれば見慣れた海峡に見慣れた黄色い橋が見えました。ここが瀬戸田の海の玄関口で、対岸の尾道と三原への連絡船が発着する場所なのです。公共交通機関で瀬戸田へ来るのはこの船が一番便利なようですが、夕方のため人影もまばらで、尾道へ向う午後6時40分発の最終便に乗るであろう2~3人の若い女性がアナウンス放送に促されるように足早に桟橋へ向っていました。

(マリンオアシス瀬戸田)

(船着場の前にある案内看板を見ましたが、瀬戸田は魅力ある島なので、今度ゆっくりサイクリングでも楽しもうと思いました)

 夕闇迫る耕三寺に至る商店街を歩きました。子どもの頃や若い頃にこの商店街を歩いた時は軒を連ねた土産物屋さんで賑やかだったことを思い出しますが、今は閑散として子どもの姿さえも見えませんでした。

(夕闇迫る商店街にはボンボリの鈍い光が灯されていましたが、何処か侘しい島の夕暮れでした)

 約束の午後7時が近付いたのではーとふる講座の開かれる瀬戸田市民会館2階多目的ホールへ移動落伍寄席の道具を持って上がりました。受講生の中には顔見知りも多く、懐かしい話に花が咲きました。「一週間前に生まれたという孫悠真君が可愛くって」と目尻を緩める人、「先日はお世話になりました」と人間牧場にやって来た人、「夫婦だけで会話が単調で、今日の落伍を楽しみにして来ました」という人たちと和やかな会話を交わしました。世話役の皆さんは既に高座の準備に余念がなく、引っ張り出した机を二つ並べてにわか作りの高座がまたたく間に出来上がりいよいよ座布団を敷いて出来上がりです。金本さんの紹介で高座に上がりましたが、会場いっぱいの人を相手に楽しく話し、楽しく聞いていただきました。


(女性大半、男性ちらほら出下が、いつも思うのですが瀬戸田の人は楽しい人が多いので助かりました。顔見知りの平山郁夫美術館の館長さんも見えられるなど嬉しい出会いもありました)

 

私の「話の落ちはどうやらハーモニカの余韻だ」と、金本さんが落伍の始まる前に耳打ちされたことを思い出して、ストーリーのない四方山夜話で終りましたが、この日のダブルヘッター第一試合は御調町、第二試合は瀬戸田町、それぞれ楽しい観客に助けられ無事終えることが出来ました。普通だとこの会場を後にしてしまなみ海道を四国方面へ向うのですが、この夜は全く逆の方向へ走り岡山方面へと向かいました。

  「昼の部と 夜の部こなす 移動寄席 笑いの渦に 巻き込みながら」

  「島の裏 歩いてみると あちこちに 人の温もり 声かけくれる」

  「久しぶり そんな馴染みの 客がいて 私の落伍 聞きに来てくれ」

  「青々と 実るレモンの 木の根元 丁寧水やる 農家忙しげ」 

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○旅先トイレでの学び

 昨日は尾道市中央公民館の金本さんに招かれて昼間は尾道市御調町夜は瀬戸田町と、ダブルヘッターの仕事をしました。平成の大合併で海の町・島の町瀬戸田と尾道市を挟んだ山あいの町御調町が合併して(他に向島町と因島市も)、新生尾道が誕生したため、尾道と一口でいっても中々広い地域になったのです。瀬戸田や御調町へ行くのにはやはり今治からしまなみ海道を通って行きます。いつもながらの見慣れた光景ですが、多島美を誇る沿線の風景は島と島とを結ぶ現代的橋の造形美も重なって口では言い表せないくらい美しく、独り占めして見るのが勿体ないような気持ちになるのです。

 御調町は旧尾道の奥手にある町で、金本さんから聞いた河内公民館の電話番号をカーナビに入力して走ったため迷うことなく到着することが出来ました。馴れない道なので少し早めに出たため1時間も前に到着です。公民館のホールには既に夕日寄席の高座舞台が出来ていて、凄いことになっていると直感しました。

 そのうちやって来た金本さんと中央公民館長さんと別室で雑談していると、急に雨が降ってきました。カーラジオで聞いた天気予報によると前線の通過で雨が降るかもしれないということでしたが、よく当る天気予報に驚きながら、今日の参加者は出鼻を挫かれたのだろうと心配しました。しかしその心配をよそに会場は満員の盛況でした。わざわざ持ってきた捲りも、公民館が用意してくれた座布団もそろいいよいよ出番のようです。


 間もなく夕日寄席が始まるというので、長旅で忘れていた用を足すべくトイレに入りました。何気なく小便器を見てみると、三つある便器になにやら貼り紙がしてあるのです。一番手前には「もう少し前へ」、次の便器には「もっ一歩前へ」、最後の便器には「思い切って前へ」と書かれていました。公民館のトイレは不特定多数の人が使うため、下品なはなしですがおこぼしで土間が汚れるのを見て、公民館のどなたかの発案で書いたのでしょう。しかいこれが中々のヒントだと直感しました。やはり公民館とは生涯学習の拠点だとも感心しました。

 公民館の学習活動やボランティア活動は役割や機会がないと中々参加するきっかけがつかめないものです。もしこの言葉が便器のおこぼしのためでなく、そういう人たちのために書かれたとしたら、まさにホップ・ステップ・ジャンプになるだろうと思ったのです。しり込みする人たちに「もう少し前へ進みなさい」と手をとってあげるに違いありません。恐る恐る参加した人に、次は「もう一歩前に進みなさいと後押ししてあげるのです。そして少し自信が付いたら自立を促し「思い切って前へ」とい誘ってあげるのです。

 公民館の便所は人生の学びの宝庫です。私が勤めていたころの公民館の便所も色々な言葉が書かれていました。当時の教育次長さんが頓智の効いた方で「西や東にたれかけな南(皆)見る人が北(汚)ながるらん」などと墨字で書いて貼っていたのを思い出しました。

 旅先で出会った色々な教えは中々忘れられないものです。縁あって私は公民館を去った今もこうして公民館に話に行く機会が多いのですが、たとえトイレであっても学ぶ気概があれば学べるものなのです。

 「陰徳」という禅語に出会ったのトイレでした。ある時今はもう亡くなった教育長さんが毎日乱雑になっているトイレの下駄を揃えていました。教育長さんにそんなことまでさせてはいけないと、それ以来気が付けばトイレの下駄やスリッパを揃えるようになりましたが、その姿を見て私に「陰徳」という話しをトイレでしてくれました。人間は人が見ていない時は平気で悪いことをします。勿論トイレの下駄やスリッパも誰かが見ていれば綺麗に揃えれるのに、見ていない揃えないのです。隠徳とは人に見ていないところで積む徳のことですが、私は随分その教えを人にも伝えてきました。

 今の世の中はマナーの悪い人が目立ちます。タバコの吸殻も、ガムをかんだ跡も平気で道端に捨てます。また飲み干したジュースの空き缶も同じです。日本人の日本人たるゆえんはやはり陰徳の生き方だと思うのです。

 この日の落伍寄席は創作落伍ですから、気が付いたことを気が付いたときに話すのが特長です。お陰様でいい一話が出来ました。

 御調町の落伍寄席は盛況のうちに終り、皆さんが帰る頃には激しく降っていた雨もいつの間にかあがり、薄日が射していました。

  「小便を ただ何となく するは駄目 便所も学習 する場所だから」

  「少し前 もう一歩前の その次は 思い切って前 感心しきり」

  「えー毎度 馬鹿馬鹿しいと へり下り 落伍の腕も 未だ上がらず」

  「出囃子の 音もないから 拍子木の 音でごまかす 落伍始まる」 

  

 

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○どうやら私は文系

 近頃になって思うのですが、親父は手仕事が上手く、なんでも器用にこなすどちらかというと理系なのに、私は親父の爪の垢でも飲みたいくらい不器用で、親子でありながら似て似つかぬ性格をしているのです。8年前に亡くなった母親は小学校しか出ていないのに文字は何でも読め、文章を書いたり発表したりするのが得意で、若い頃は東京まで発表に行くほどでした。今にして思えば多分文系ではなかったかと思うのです。理系の父と文系の母から生まれた5人の子どもは、親父似が二人、母親似が三人でバランスはとれているようです。

 文系の私はパソコンなどの操作が苦手です。しかし文章を書いたり人前で発表したりすることはさして苦にならず、若い頃からその文系的特性を生かした仕事をしてきました。その結果が今の私の存在になっているのですから、母親譲りの文系的遺伝子に感謝しない訳にはいかないのです。

 先日母の法事に集まった私を含めた5人の兄弟がそのことについて触れ、姉は「私は女なのに父ちゃんに似ていて、余り得をしたことがない」というのです。直ぐ下の弟は「俺は母ちゃんに似ていたから苦労した」などといえば、下の弟と妹は「どっちもの悪い所ばっかりが似て、ええことは一つもない。良かったのは進兄ちゃんで、母ちゃんのいいとこと、父ちゃんのいいとこを全部独り占めしている」と、私の人生を羨ましがるのです。そういえばそうかも知れないと思いながら、私だって親父の器用さを受け継いでいないと、五分五分の遺伝子によって生きてる自分を振り返るのです。しかしその話の後に、それじゃあお前らは「父ちゃんと母ちゃんの子どもに生まれたことを悔やんでいるのか」と尋ねると、「いやいや、色々あるけどやっぱり父ちゃんと母ちゃんの子どもに生まれて良かったと思う」と言ってくれました。

 子どもは親の体内から様々な遺伝子を持って生まれてきます。時には顔形や声までも瓜二つという親子を見かけますがそれは外見上だけで、子どもは親から受け継いだ遺伝子を持って生まれてきても、全く違った環境で育てば別人のような特性が生まれるものなのです。したがって自分の出来が悪いのは親のせいではなく自分のせいだと自覚しなければ自律して生きることは出来ないのです。

 よく子どもが過ちを犯すと、「何故こんな自分に育てたのか。生んでくれといった覚えはない」などと、親のせいにして言い逃れをする子どもをよく見かけますが、それはお門違いもはなはだしいとしかいいようがありません。学校や職場を途中で止めたりする理由が、「親が決めたから」「親が行けといったから」という言い訳など世間では通用しないのです。

 どうやら私は文系だと悟るようになって、随分気が楽になりました。これまで自分は人に出来て何故自分に出来ないのか随分悩みましたが、人間は向き向きがあって不得意を是正するよりも得意を肯定して生きる方がらくだと思うようになりました。オール5の人間なんてありえないのですから、何処かに5の特長を見出せば、オンリーワンの人生が歩めるのです。しかし理系でないからとパソコンを諦めて使わない訳にはいきません。学校でパソコンを習っていないことを理由にしてパソコンに触らない人が多いのですが、私は敢えて失敗ありきでパソコンに触っています。少しずつパソコンに触って失敗すれば、そこに智恵が生まれどうにか使えるようになるのものです。お陰様で文系ながら理系に近付きつつあるようです。いわれて見ればパソコンはボタンを間違わないように押しさえすればいい道具なのですから、これからも苦手な物にも挑戦して行きたいと思っています。

  「文系に 生まれたことを 生かしつつ 生きてきたから ここまで来れた」

  「理系無理 それもそのはず 文系と 嘆いて見ても 替わる訳なし」

  「不器用は 誰に似たのと 結局は 逃げ道探し 親に当てつけ」

  「何時の世も 親にならねば 分らない 親は私に どんな期待を」

 

 

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

 わが家の庭の隅に小さな鉄棒があります。わが家がこの地に引っ越して来た時、今年の春亡くなった鉄工所を営む伯父に頼んで作ったものです。あれからも35年が経ちましたが、子どもが小さい頃はこの大人サイズにあわせた鉄棒で、尻上がりの練習をさせたものです。大人の身長に合わせているので、子どもにとっては踏み台を用意しなければならず、少々高過ぎるため怖さが先にたって中々上手く出来ませんでした。特に長女にとっては今にして思えば出来ないはずだと悔やみながら述懐するのです。

 3人の男の子は最初は怖がっていましたが、年齢を重ねるにつれてこの鉄棒が筋力トレーニングマシーンのように思うのか、あるいは男として逞しくなりたい願望があったのか、折に触れてこの鉄棒で懸垂の回数を競い合っていました。お陰で息子3人は健康にしてたくましく育ったように思うのです。最近は帰省の度にこの鉄棒にすがって懐かしがっているようですが、今はこの鉄棒が私の背筋を伸ばす道具となっていて、朝な夕な鉄棒にすがることで少しは健康を維持していると信じているのです。

 私が公民館に勤めていた頃、農山漁村のわが町では腰痛に悩まされる人が沢山いました。多分急峻な地形での農作業や、狭い漁船での重い重労働に加えた戸外での労働が長年蓄積されてのことだと思うのですが、徳島県のある保健婦が、やはりその地域でも多い腰痛を減らそうと、腰痛体操を考案したりあの手この手の対策をした挙句、行き着くところ鉄棒がいいという結論に達し、各家々に鉄棒を作る運動を広め腰痛が半減したという話しを、視察に来た時聞いたものですから、早速わが町でも鉄棒にすがる運動や鉄棒を作ることを推進しました。

 私はその後公民館から産業課に異動してしまいましたが、ここでも腰痛に悩む人たちを何人も見て、その度に鉄棒の効用を説いたものでした。ところがその私がこともあろうか年に一度程度ぎっくり腰で悩まされる事になったのです。私はその都度忙しさの余りに鉄棒にしがることを思い出すのですが、結局はこれまた忙しさの悪循環で忘れていまい、ぎっくり腰をくり返してきました。

 最近はさすがに体力の衰えが目立ち始めたので、少々忙しくても鉄棒だけにはすがりたいと、毎朝な夕なすがったり懸垂したりをくり返しているため、今は腰の調子もすこぶる良く、先日は人間牧場の草刈り後のリハビリにも使っているのです。最近では年老いた親父も子どもが昔やったように踏み台を持ってきてすがっています。親父は数年前に自転車で交通事故に会いました。その時の後遺症で腰を痛め未だにコルセットが放せませんが、親子で同じ腰の悩み解決のために鉄棒にすがって暮らしているのです。

 わが家の鉄棒はすがる鉄の部分がいくらか曲がっています。何年か前池に飼っていた鯉のために庭に井戸を掘りました。打ち抜きでは中々でないため、今度はバックホーで掘り進んだのです。僅か目と鼻の先なのに、今度は水路に当り、その井戸は今も絶えることなく菜園の水として使い続けているのです。井戸掘りの折業者さんがこの鉄棒にワイヤーを掛けて作業をした折重圧がかかって曲がってしまいました。業者さんは弁償するといったのですが、そのままでいいと断り、今もそのままの状態になっているのです。でも鉄棒にすがるのにはなんら問題はなく、このままこれからも使ってゆくことでしょう。

 昔子どもが小さい頃は庭にブランコがあり、私の趣味だった盆栽が棚に無数並べられていました。それらは子ども成長や私の趣味変化によって姿を消して昔の片鱗は何処にも見当たりませんが、鉄棒だけが昔を懐かしむように立っているのです。

 これからも、この鉄棒にすがって健康でありたいと願って、今朝も鉄棒にすがりました。

  「鉄棒に 毎日すがる 効果あり ギックリ腰も 当分病まず」

  「懐かしき 思い出つまる 鉄棒に 帰省の息子 すがりしみじみ」

  「踏み台に 上がってすがる 背の低さ 親父縮んで それでも背伸び」

  「近頃は 懸垂挑戦 してみるが 五回限界 俺も歳だな」



[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○百姓(漁師)じゃあ飯が喰えない

 第一産業しかこれといった仕事のないわが町では、「百姓(漁師)じゃあ飯が喰えない」という言葉をよく耳にします。耕して天に至ると形容され百姓の汗の結晶といわれたみかん畑も最近は放任園が目立つようになり、カズラの勢いで夏の間は緑に見えるものの、晩秋から冬にカズラが葉を落す頃になると何処か寂しい山里の光景となるのです。双海町ではこれまで宮内や大谷伊予柑、宮川早生、極早生みかん、はるみやせとかといったポンカン類など様々な柑橘品種が導入され、園芸組合や普及所の指導のもと、農家はその度に母樹の枝を切って高接ぎして品種を更新してきました。しかし度重なる品種更新で母樹の樹勢は衰え次第に生産高や生産額が落ち込んで、ついには「百姓じゃあ飯が喰えない」ため放任、離農と下り坂を転げ落ちるように衰退しているのです。

 最後の切り札と思って始めた農家直接支払い制度も結果的には地域再生どころか焼け石に水となっているのです。農林水産省と文部科学省のいうことの反対をすれば必ず上手く行く」とは、猫の目農政と揶揄される減反政策などの後ろ向き農政で、何の成果も上げられなかった国や県、それに市町村への痛烈な批判でしょうが、ある意味その言葉が当っているだけに、自給率40パーセントの落ち込みも当然のことかも知れないのです。

 双海町では、急峻な地形がゆえに水平農業には適わないと思っていましたが、その急峻を逆手にとってここ20年ほど良質なハウス蜜柑が全盛を極めていました。Uターンして息子が跡を継ぐハウス蜜柑農家まで出来て、専業農家も一定数確保されていたように見えました。ところが思わぬ落とし穴が待っていました。イラクとアメリカの湾岸戦争に端を発した原油高はうなぎ上りとなってこんな田舎のハウス蜜柑農家が国際化の波に飲み込まれたのです。特に最近の原油高は異常なほどで、ハウス蜜柑を作っても赤字ではどうすることも出来ないようで、あちらこちらで冬から春になってもビニールをかけずフレームむき出しのハウスが目だって増えているのです。その中には油の値段を見て再会したいと肥培管理を怠らず樹勢の回復をしてる所もありますが、概して高齢化や後継者不足を理由に廃園へと追い込まれる所もあるようです。

 一方双海町の漁師も同じで、漁船漁業しか出来ない漁業形態は、漁獲の減少と魚価の低迷に加え、原油の高騰で出漁すれば赤字が膨らむ状態で、全国を騒がせた前代未聞といえる漁師さんのストライキが全てを物語っているのです。

 「百姓(漁師)じゃあ飯が喰えない」という悲痛な叫びは、届く当ても無く地方再生どころか田舎沈没の様相を呈してきました。

 ところがこんな厳しい時代なのに、そんなに多くはないものの脱都会や脱サラした人が田舎に憧れ、田舎を目指しているのですから、不思議といえば不思議な話です。そ人たちは都会の暮しに疲れ、都会の暮しを捨てた人たちです。その人たちの生き方が珍しくも生き生きしているとテレビで放映されるものですから、余計それがブームとなって「今に自分も」とかいう人たちを対象に説明会まで持たれる人気ぶりです。

 漁業も農業も多少ながら経験のある私の感想は、「儲けなくてもいい農業や漁業は楽しいが、食べて行かなければならない農業は漁業は厳しい」の一言です。定年退職し年金と退職金を持っている人はいわば儲けなくてもいい農業や漁業です。ところが子どもを抱え農業や漁業で飯を食わなければならない若い世代の人となると話は別で、遊びや一種田舎憧れのような甘い考えでは挫折し、一家離散のような悲しい現実もそこにあるのです。

 土木建築業はどこも不振で、その切り札としてこれらの業態が農業に手を出すケースも増えてきました。いわゆる農業工場です。土木建築の技術を生かしハウスを作り土木建築の合間労働をこの仕事に当てようとするものですが、これも中々思惑通りには行かないようで、成功失敗の話が飛び交っています。

 農業や漁業の魅力は何といっても自然とともに歩めることです。ぬ業者も漁業者も人間性回復のその辺を考えてもう一度農業・漁業を見直しては如何でしょう。

  「農業じゃ 飯が喰えぬと いいながら 米を作って いるのですから」

  「不自然の 中で暮らして いるゆえに 自然恋しく 見えてくるもの」

  「金儲け しない農業 楽しいが 飯を食うには 少々難儀」

  「農業は 草虫病気 それに金 戦う相手 余りに多く」 

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○スイカが美味い

 お盆の頃が夏の盛りで、高校野球、オリンピックのようなスポーツから帰省、夏休み、盆踊り、海水浴、夏祭り花火、お墓参り、水不足冷房、扇風機、ウチワ、打ち水、かき氷などなど、夏の季語となるイベントや風物が思い出されるこの頃です。私にとって夏といえば何といってもスイカです。「お父さんは夏はスイカで生きているようなものだね」と妻がいうように、毎朝昼晩の食事時だけでなくおやつもスイカですから、文字通りスイカで生きているようなものなのです。妻は私のスイカ好きを知っていて、毎年この頃になるとスイカの名産地へスイカを買いに行くのです。

 スイカの名産地は別に遠い所でなく同じ双海町内にあるのです。普通の人は国道56号線沿いの中山町との町境付近にあるため中山町だと思っている人が多いようですが、れっきとした双海町分なのです。多分双海町という地名から連想するのは海ですから、こんな山沿いに双海町があるはずがないと思うのは無理からぬことなのです。松山から国道56号線を走り伊予市の市街を抜けると急な山道に差し掛かります。犬寄トンネルの次の短いトンネルを抜けるとため池が見えてきます。通称おきよの池です。その昔大洲藩主加藤公のご子息の乳母として大任を果たした五郎兵衛の妻おきよの願いを適えて造ったと伝えられています。その池の周辺には畑にゴロゴロ無数のスイカが転がっています。そして国道沿いにはスイカを売る店が幟を立てて沢山並んでいるのです。お盆を挟んだ1ヶ月間は猫の手も借りたいような忙しさだそうで、対面で売るスイカ販売はどことなく田舎の風情を感じるのです。竹で掘っ立て小屋を作ったような簡易なものから最近は駐車場完備、トイレ付きという設備の整ったものまで千差万別ですが、それぞれの店にお客さんがついて、結構繁盛しているようなのです。

 妻はここに店を出している赤尾さんという女性の店でもう10数年スイカを仕入れているのです。赤尾さんは妻と一緒に民生委員をしていたこともあってすっかり知り合いとなり、私がスイカが大好きなのを知っているため、大負けで分けてくれるのです。

 山スイカと呼んでいる東峰のスイカは確かに他所の産地のスイカに比べると味は抜群で、食感もシャキシャキしていて幾らでも食べれます。どのスイカを食べても不味かったというのがないというのは、信用第一といってもいいでしょう。体の都合でお酒を辞めた10年前からは、「お酒代だと思うとスイカは安いもの」と、大奮発をして大量に仕入れてくるので、お盆を挟んだ一ヶ月間は、東峰の赤尾さんのスイカで元気に生かされているのです。

 先日親類からお魚を貰ったので、おすそ分けのつもりでお魚を届けたお礼に、見たこともないような大きなスイカをいただきました。食べるには家族の人数が増えるお盆あたり、しかも冷蔵庫が空いた時と勇気がいる決断が必要なため、ダイニングルームの隅に転がしていました。

 ところが帰省した息子の息子、つまり私の孫希心が何を思ったのか知らぬ間に、居間からダイニングルームへハイハイしてやって来て、スイカを転がして遊んでいるのです。これを目敏く見つけた息子は、「父さん、デジカメで写真を撮って」とせがまれました。早速2枚の写真を撮りました。一枚目はお父さんの介添え付きの写真です。残念ながらお父さんの顔は没でした。


 この写真は「孫とスイカ」でなく「スイカと孫」の方が正しいのかも知れません。孫は少し肥え気味なためか伝い歩きはするのにハイハイが苦手なようでしたが、間もなく8月31日に誕生日を迎えるようになったこの頃、ハイハイができるようになって、そこここと這い回っているようです。

 間もなく娘の家族も大阪から帰省します。その時はこのスイカを切って思う存分食べたいと思っているこの頃です。

  「夏来れば スイカを思う そのくらい 三度の食事 スイカを食べる」

  「酒止めて 私のために 妻毎年 スイカを買いに 山里通う」

  「顔よりも 大きなスイカ もて遊ぶ 孫は間もなく 一歳となり」

  「このスイカ 味はどんなと 皆叩く 早く食べてね ポンポンポンと」  



[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○水平線の家のウッドデッキに防腐剤塗る

 昨日からお盆の休暇になった長男家族が夕方帰って来ました。長女の家族は旦那の実家である大阪へ帰省しているので、賑やか家族がいない分静かなのですが、それでも孫が一人いるだけで何かと賑やかで、楽しいお盆となりました。息子は帰省する前電話で防腐剤塗布の話をして防腐剤を買ってきました。日中は暑いので夕方になった午後4時頃急な思いつきで夕食前に塗ろうということになって二人で出かけました。

 太陽は幾分西に傾いてはいましたがまだまだ暑く、水平線の家のウッドデッキは真夏の太陽の熱を十分吸い込んで手で触っても熱が伝わってくるほどでした。長男が防腐剤の蓋を開け、小さな容器二つに小分けして刷毛で片方から丁寧に縫ってゆくのです。二人が両端から塗り分けましたが、手の届く1.5メートルくらいの長さしか塗れないため4回も行ったり来たりです。木地の温もりのため、防腐剤は面白いように吸い込まれて、小分けしたプラスチックの容器は直ぐに空っぽになりましたが、極力丁寧に塗ろうとしっかりと吸い込ませて塗りました。防腐剤の異臭は外気にかき消され防臭マスクをするほどではなかったものの、長時間やっていると少し幻覚症状が起こるほどでした。それでも二人で1時間半余りで塗り終え、最後は靴を履いて下に降り、ウッドデッキの下周りにも塗って作業を終りました。作業が終る頃になると縞模様の藪蚊が出始め、処構わず洋服の上からも容赦なく攻撃してくるのです。左手に容器、右手に刷毛を持っているため、藪蚊を追い払うことも出来ず、あちらこちらを刺されてしまいました。半ズボンで作業していた息子はそれは大変で藪蚊に幾つも刺されてもう限界とばかりに作業を終えました。予定では2回塗りなので、明日も塗ろうと考えていましたが、一度に二回塗るよりは秋頃にもう一度塗った方が効果的ではないかと相談がまとまり、とりあえず今回の防腐剤塗りはこれで終了する事にしました。

 最近、ウッドデッキが大流行で、土地に余裕のある家ではウッドデッキを作っていますが、どこのウッドデッキも真新しい時は椅子を置いたり焼肉パーティをしたりと、それなりの使い方をしているようですが意外と長続きせず、結果的には防腐剤も塗らぬまま腐って朽ち果てて撤去若しくは外観を損なうように放置されていることが多いのです。雨ざらし日ざらしのウッドデッキは元々外国で発達したものであり、高温多湿の日本では日持ちがしないのは当然なのです。そんな高温多湿な日本で持たせる方法はこまめに防腐剤を塗る以外ないような気がするのです。毎年一度は防腐剤を塗ろうと決意して始めたメンテナンスですから、設置後3年半が経過しましたが未だにびくともしていません。昨日防腐剤を塗りながら息子と色々話をしました。外壁もそろそろ塗りたいし、施設を持っているがゆえの臨時的出費も馬鹿にはなりません。それでもころからも手入れを行って大切に使いたいと思っています。

 人間牧場を作って最大のメリットは家族の人間関係がすこぶるよくなったことです。建築関係の仕事をしている

長男とは随分共通の話題が持てるようになりました。そして二人で密約して出費を伴うことを次々するものですから、妻は嬉しくも期限が悪いのです。

 さて次の目標であるお釜部屋の建築について、防腐剤を塗りながら親子で色々と話し合いました。釜戸を作る最初の計画はまだ生きていて、そろそろ実行に移したいと思っています。設計は勿論息子がするのですが、その資金も貯えなければなりません。そんなに金をかけず手作りでと考えていますが、多少の出費はやむを得ないのです。釜戸部屋が出来れば色々な食に関するメニューが実行できるのです。

 また親子の夢が広がってきました。今日は息子と私の考えを話しながらお墓参りに出かけました。妻曰く、「またよからぬことを相談してる」と・・・・・・。

  「防腐剤 親子で並び 塗って行く 早くも三年 あっという間に」

  「十年は 持たせるつもり 防腐剤 夜来の雨で ちょっと心配」

  「さて次は 釜戸を造る 予定だが どんな姿に すべきか迷う」

  「牧場の ウッドデッキは 目玉です これが無ければ タダの山小屋」


 

[ この記事をシェアする ]