shin-1さんの日記

○長野県南牧村からレタスとブロッコリーが届く

荷札を見て連想するくらい、毎年色々な物を届けてくれる南牧野村の元村長さんと役場職員さんから、今年も珍しい野菜が届きました。元村長さんや役場職員さんと知り合ったのはもう4~5年前でした。平成15年7月1日、国土交通省の観光カリスマ100選に選ばれたのを機に山梨県清里の舩木上次さんと知り合い、そのことがご縁で村長さんに出会い職員さんに出会ったのです。以来交流が始まり私は南牧村へ講演に行きました。その後村議会議員さんの視察研修、群馬県町村議員研修、山梨学院大学講演などの度に村長さんには出会ったものです。私のカレンダーによると2005年5月31日には商工会青年部の皆さんが村営バスで夜を徹して走り、早朝午前5時にふたみシーサイド公園に到着して、私と一緒に海岸清掃を1時間に渡ってやったと記されています。

 まあそんな深い関係の村長さんでしたが、選挙で苦汁をなめ今は別の世界で生きていますが、退職後も交流を続けていて、本当本物の友人として私の心に残っているのです。

 先日元村長さんからは高原野菜の王様であるレタスがダンボール一箱送られてきました。また役場職員さんからは茎太なブロッコリーが氷詰めにされ送られてきました。レタスもブロッコリーも冬の野菜です。だのに高原野菜として真夏に届くのですから驚きなのです。私はレタスとブロッコリーを幾つかのナイロン袋に小分けして、親類縁者におすそ分けしてあげました。差し上げた皆さんは一応に「まあ珍しい今頃?」と感嘆の声を上げました。すかさず南牧村の紹介と元村長さん、役場職員さんの話しを得意げになってお話しました。

 私たちの町は合併して少し大きな市になりましたが、南牧村は東京に近いとはいえ村ながら合併もせず生き延びています。なぜこのようなことが起こるのか解明もされぬまま、村という自治体はは益々珍しくなって脚光を浴びているのですから不思議な話です。

 レタスはそのまま食べる野菜なので冷蔵庫に保管しながら大事に2週間余りしっかりと食べました。またブロッコリーはさっと茹でて翠の美しさを味わいながらマヨネーズで今も美味しくいただいています。野菜の好きな私たち夫婦にとっては至福の食卓が当分続くのです。

 昨日はシーサイド公園でエイズを考えるイベントが開催され、漁協女性部の人が心のこもった弁当を作ってくれましたが、そのお弁当にもおすそ分けしたブロッコリーが少しずつ入れられ、私は皆さんの前で南牧村の話しをしながら昼食をとったのです。

 政変で村長さんはその役職を離れました。私も今は合併によってその頃の役職から離れています。人間の値打ちとは一体何なのかをいつも思っていますが、まさに南牧村の人とのこうしたふれあいは、人間味溢れていてこれからも大事にしたい関係なのです。人はいつまでもその役職に留まることは出来ません。特に選挙で選ばれる首長さんや議員さんは自分の意思だけではどうすることもできないのです。まあ人間は役職取ったらただの人ですから、ただの人になった時に光り輝くような人間になりたいものです。

 私ももう一度そのことを深く認識し、光り輝くような人間になるよう努力したいし、そんな本当に値打ちのある人探しをしたいと思っています。

  「役職で 人の値打ちを 決めたがる 俺など無官 何の値打ちも」

  「海渡り 珍し野菜 どっさりと おすそ分けして 村の宣伝」

  「嬉しいね 辞めてからでも 俺のこと 覚えてくれて いてくれるとは」

  「食卓に 南牧村 並べられ 口にする度 村人語る」

 

 

 

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shin-1さんの日記

○エイズを考えるイベント

 今日はことの他暑い一日でした。というのもこの炎天下の、しかも暑い最中の13時から15時まで、さらにその場所がふたみシーサイド公園というのですから、押して図るべきまるで地獄のようなイベントをやりました。というのも約1ヶ月余り前にララナカヤさんとお笑い人気芸人友近さんのお母さんの二人が私を訪ねて双海町へ来られました。聞けばエイズを考えるイベントをシーサイド公園でやりたいというのです。8月3日は夏祭りのイベントが入っているため、次の日曜日だったらと日程調整に入りましたが、夏休みの毎週日曜日は夕やけステーションというディスクジョッキー風の企画が入っていて中々難しいというのです。所長さんや関係者と相談の結果この日を譲ってもらう事になり、トントン拍子ではないにしてもスポンサーの目鼻もついて、具体的なプログラムになりました。フラフープ体操あり、講演あり、コンサートありと中々多彩な内容でした。打ち合わせの途中でララナカヤさんから、「若松さんも是非落伍をやって下さい」と勧められましたが、シーサイド公園の真夏の状況を知り尽くしている私はその気にならず一応お断りをしましたが、強い勧めもあってシブシブ何とかなるだろうと軽い気持ちで引き受けてしまったのです。

(友近さんの司会で始まったイベントの最初はフラフープでした)

 プログラムや出演者が決まって驚きました。皆さんそうそうたるメンバーなのです。どう見ても私が一番見劣りするのです。再考を促しましたが聞き入れられず今日を迎えてしまいました。まあいいかと軽い気持ちで思いつつ今朝早く人間牧場へ捲りと小道具を取りに行き、清水さんに作ってもらった出囃子と入り囃子のCDを持って会場へ11時頃に駐車場もないだろうと予想し単車で出かけて行きました。

(恋人岬で始めて野外ライブ形式の落伍をやる私)

 えひめ地域政策研究センターの松本さんが来ていて、少しお手伝いをしてもらうよう頼みいよいよぶっつけ本番の落伍が始まりました。恋人岬の突端の踊り場に持参の座布団を敷き、松本さんの拍子木の呼び込みでスタートしました。出囃子も快調でした。聞き入る観客は50メートルも向こうの木陰やテントです。雄郡公民館の館長さんがわざわざ差し入れのお酒まで持って来てくれました。また県庁の顔見知りの方々はサイクリングの途中に立ち寄ったそうで、近くのテントの中で聞いてくれました。何せ観客が遠いことと暑いことで汗が目いっぱい噴出しました。それでも楽しく話しをさせてもらいました。こうしたイベントのコツは話よりも小道具とばかり赤とんぼの実演を一番目に座っている人をご指名してやりましたが、少しトンチンカンで通じなかったようです。


(鳴り物入りといえば格好いいのですが、鳴り物として角笛を用意し、ホラも吹く、ハーモニカも吹くなどとジョーク交じりにお話をしました)

 私の落伍の期間中ずっと前に座って聞き入ってくれた女性が二人いました。終わって直ぐお礼に伺い、記念写真を撮らせてもらいました。近くで聞いてくれた方からもお世辞でしょうけど、「いいお話だったし、ハーモニカの音色に心が動かされました」と感想を述べていただきました。「ちょっと照れるなあ」です。

(シーサイドに咲いた花のような素敵なお二人でした)

(イベントの期間中エイズキャンペーンの一環として、みんなで色を塗り込んで一つの絵を作る作業がありました。私も黄色い色で花弁の一つを塗りました)

 かくして楽しいイベントは終りました。また一つ私の暮しに新しい伝説が加わりました。今晩は皆さんで打ち上げをやるそうでお誘いを受けましたが、残念かなやぶ用があってどうしても出席できません。私の悪口などを肴に楽しい交流をして下さい。

  「座布団を 敷いて真夏の 炎天下 落伍一席 お笑い話」

  「汗をかき 演じる私 聞く人は 涼しげテント 割に合わぬわ」

  「上手いなあ お世辞の言葉 信じたい 一芸演じ ホッと一息」

  「エイズとは 直接関係 ないものの 一役買って 社会のお役に」 

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shin-1さんの日記

○遠い花火のほろ苦い思い出

 夏になるとあちらこちらで夏祭りと称するイベントが行われています。愛媛県内では合併しても久万高原町のように海を持たない町もありますが、殆どの市や町では合併によって海を有するようになりました。夏といえば海と連想するように、私たちの町でも海沿いは海水浴の人たちで連日賑わっているようですが、やはり夏祭りとなると想像を超える人たちでごった返すのです。そのピークは7月20日(日)、27日(日)、8月3日(日)、10日(日)、17日(日)のようですが、合併しても旧市町村の夏祭りイベントは旧態依然として行われていて、どうやら8月3日と10日がピークのようです。

 夏祭りといえば何といってもそのメインは花火ですが、行政の財政的台所事情が悪いため、花火はもっぱら寄付に頼っていて、その寄付も最近景気が思わしくなく集まりにくいという話を聞きました。私もかつては観光協会の事務局長として花火の運営に深く関わり、寄付を集めた当事者であるだけに、人毎とは思えないのです。

 昨日孫とある店に立ち寄ったら、記念にと花火のセットをいただきました。私たちが子どもの頃、花火は高価なもので小遣い銭で買うことは中々出来ませんでした。雑貨屋の店先で線香花火や小さな花火を買うのがやっとだったようでした。最近は100円ショップやスーパーなどに行くと、子どものおもちゃコーナーにはセットにした様々な花火が安く買い求めることが出来るのです。昨日孫が貰った花火もそんなものでしたが、孫にとっては飛び切り上等なプレゼントに思ったらしく、夜になるのが楽しみで、寝る前にそのことを思い出して花火をしようと強請るのです。仏壇からローソクを一本取り出し、暗くなった庭の隅に立てました。暗闇に小さなローソクの光が明るく照らし幻想的な雰囲気です。花火の燃えカスを入れるブリキのバケツを用意してさあ花火の開始です。

 わが家には昨年の夏やり残した花火もあって、湿気ているかも知れないと思いつつ、貰った花火を後回しにして、古いのから始めましたが、火の点きは少々悪いものの十分使えるようでした。孫も早5歳です。昨年までは恐る恐るでしたが、今はすっかり大胆になって、危ないと注意をしても花火をぐるぐる回したりして大はしゃぎのようでした。青白くも強烈な光と煙が出る花火の魅力は幾つになってもいいもので、私も妻も帰省中の三男も童心に帰ったような心境ででした。

 しかし庭先でやるこの程度の花火ならば何ら問題ではないのですが、住宅事情の悪い現代では、マンションなどでの花火が禁じられているため、ついつい公園などでの花火となって様々なトラブルの原因となるのです。

 花火のトラブルと聞いて思い出すのはシーサイド公園が出来た当初のころのトラブルです。ある晩わが家へ近所の人から電話で苦情が寄せられました。花火で寝れないというのです。行って見ると深夜にもかかわらず数人の若者が花火に講じていました。私はその若者たちにことの仔細を説明し、自分たちの楽しみのために人の安眠を妨害してはならないと諭したのです。若者たちにとって公園で花火をすることは、人への迷惑など何の疑いも持っていないもです。このトラブルは一年間後を立たず私と近所の人の不信感は益々募りました。結果的には深夜のパトロールをガードマンを雇って強化して収まりましたが、難儀な解決への努力でした。

 県内海水浴場のあちこちではこうしたトラブルが後を絶たず、その都度行政と住民の対立へと発展するケースがあって、今も夏になるとそのことで悩んでいる地域は多いようです。

 「おじいちゃん明日も花火をしよう」と孫と約束しましたが、孫たちは今晩は家へ帰って行きます。次に来た時も隣近所に迷惑をかけない程度の花火を楽しませてやりたいと思いました。

  


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shin-1さんの日記

○暑中見舞いから残暑見舞いへ

 人に会えば「暑いですねえ」という言葉で始まるあいさつを聞く度に、今年の夏の暑さが尋常ではないことを感じさせます。愛媛県内の市町では連日愛媛県一とか全国一とかいう記録を誇らしく報道しており、私の親父も「今までで最も暑い」とか、「この暑さは死にそうだ」と、おっこうな表現言葉を発しています。昔は「暑さで死んだ人はいない」と言っていましたが、どうして近頃は熱中症で死ぬ人も出て、親父の表現言葉もまんざら嘘ではないようです。

 一昨日の8月7日は盛夏なのに何故か暦の上では立秋だそうです。気の早いマスコミは早くも秋の話題と称してススキやナシ狩り、稲刈りの話題をスクープしていたし、早くも秋物洋服の売り出しなんて言葉が新聞チラシにちらほら見えるようになっています。

 私の元へ届くハガキは今のところまだ暑中見舞いですが、週明けの来週辺りから残暑見舞いに変わることでしょう。このように日本人の暮しと季節は密接に関係しているのに、人々の暮らしは新暦、時候は旧暦で動くので、「あれ?」と思うように微妙なズレが生じています。例えば夏の暑い盛りを示すお盆もまだ来ないのに立秋です。多分本当の秋とは、残暑も収まった9月23日の秋分の日くらいが丁度いいのではないかと思ったりするのです。

かくいう私も毎日3枚書く葉書には昨日から「残暑お見舞い申し上げます」と書きました。

 それでも季節はよくしたもので、先日までは7時半頃まで明るかった日暮れも、今は7時過ぎくらいには薄暗くなり始めたし、朝晩入る窓からの外気も軽めの布団を一枚羽織らねば寒いくらいになってきました、また毎日晴天だった天気も、最近は夕立が降ったりして「ああ季節が変わりつつある」と実感するのです。

 今日今年になって始めて警察官になっている三男が赴任地から夏休みをいただいて帰って来ました。昨年生まれた甥子にはまだ誕生間もない一回しか顔を見ていないようですが、今では5~6歩歩くまでに成長した姿にビックリして目を細めていました。時の流れの早さを感じたようです。久しぶりに帰った息子は、毎回の事ながら今回は親父に饅頭を土産に買ってきたようです。玉川の饅頭が美味しいとかで、わが家にも沢山買ってきました。親父は何時もの事ながら孫の土産にことの他喜び、孫の縁談を勧めて欲しいと私に懇願しました。親父に言われるまでもなくまだわが家には次男と三男がまだ未婚です。何とかと親が思ってもこればっかりは本人がその気にならないとどうすることも出来ないのです。看護師をしている次男は女性主流の職場なのに何故と思い、警察官をしている三男は出会いが少ないのだから仕方がないと都合のいい理由をつけて出来ない理由にしているのです。

 昨日お寺から明日の朝8時半、棚業に行くと連絡がありました。わが家には備え付けの仏壇がありますが。お盆には祖父母が亡くなった折買い求めた簡易組み立て式仏壇があり、春と秋の2回押入れにしまっているのを取り出して組み立て、お料具やお供え物をします。また歴版の入った位牌を仏壇から移し、送り火で先祖の霊があの世帰る時まで、この仏壇に置いて朝な夕な拝むのです。

 今日は松前の叔母の家へ初盆の仏事に夫婦揃って出かけました。仏事も宗派やお寺によってそれぞれやることが違って、焼香や念仏の唱え方も戸惑うことが多く、右往左往の有様です。叔母の家は親父の弟であるため新宅で、仏事には慣れておらず、叔母の長男夫婦もかなり戸惑っている様子でした。

 こうして色々な行事や歳時記の中で、知らず知らずのうちに季節は巡って、人間は歳をとってゆくのです。

  「暑中から 残暑に変わる 暦かな ハガキは敏感 立秋境に」

  「マスコミは どうして早く 映したがる 早くも稲刈り テレビが伝え」

  「夏盛り セミも賑やか なぜ立秋 まだまだ秋は 名ばかりににて」

  「初盆の 仏事夫婦で 列席す 坊主頭に 汗の光が」

 

 

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shin-1さんの日記

○おもしろ教室みんなでキャンプ②

 昨日は珍しく朝から曇り時々小雨でした。県内のあちこちでは短い時間ながら、かなり激しい雨に見舞われた所もあったようですが、残念ながらお湿りにもならないじかじか雨で、雨を期待していた人たちをガッカリさせました。やはり夏の雨は昔から「馬の背を分ける」といわれる意味がよく分りました。

 キャンプ二日目の中心プログラムは、ふるさとの主峰の一つである秋葉山への登山ですが、天気の具合で決行をためらいましたが、夏の前ゆえそんなにずぶ濡れになるほどの雨は降るまいと予測し決行することにしました。水筒とタオルと帽子を持たせ午前8時半にマイクロバスで出発しました。

 この日のコースは犬寄から林道を通って秋葉山の中腹まで車で行くのですが、この林道がかなり荒れていて、普通だと通行できないほど夏草が生い茂っているのです。私はこの林道が開設された頃役場の職員として勤務していたので現地測量に駆り出され、予定地をポールと巻尺を持って踏査したことがあります。急峻な山肌を縫うように林道はつけられましたが、その後予算の都合で延伸がストップされどちらかというと放置されたままのじょうたいになって、残念ながら経済的に投資効果はなかったようです。特に難工事だった各所は山をむき出しにするほどので度々その手法が乱開発や環境破壊として新聞投書のネタになったこともありました。

 教育委員会の面々は今度のプログラムを計画するに当って、マイクロバスの乗り入れを考えましたが、残念ながら行く手を草が阻んでいるため、何と4キロもの道の草刈りを一日がかりで敢行したのです。夏のことゆえ草刈機で4キロの道沿いの草を刈るなんて無謀とも思える作業なのですが、3人の若いスタッフは敢えてこの事に挑戦し、見事に成し遂げました。その道をマイクロバスに乗ってノロノロ走りましたが、感激の極みでした。

 心配された雨は上がり、秋葉山の麓まで到着しました。昨晩遅くまでおきていた子どもたちは完全に寝不足で、あのガタガタ道の道中にもかかわらず子どもたちの中にはスヤスヤトお休みタイムに講じて、可笑しいやら呆れるやらでした。やがて車は秋葉山登山道入口まで到着です。

 そこから杉や檜の森を通って頂上を目指しました。森の中はひんやりとして汗もかかず気持ちがいいほどで

した。子どもたちに山椒など生えている草木の話しをしてやりながらの散策登山です。

 そんなに険しいこともなく、苦しいこともなく頂上に到達しました。秋葉山の頂上には山の会が設置した看板があるのみで、視界が木々に遮られてまったく見えませんでした。そこからさらに少し下った所に石造りの祠が奉っていました。山岳信仰の証でしょうが、昔の人の祈りの深さに驚きながらみんなで手を合わせてお祈りをしました。

 祠の辺りは断崖絶壁で、雨上がりのためか何処の風景も目の覚めるようなパノラマで、西には双海町下灘運動公園や長浜の工業地帯が手に取るように見えました。また南に転じれば翠小学校を中心とした双海町翠校下が、手に取るように美しく見えました。みんなで「ヤッホー」と大声で叫び、こだまする声の余韻を楽しみました。



 元来た道を引き返し、途中東峰のスイカ屋さんに立ち寄り美味しい旬のスイカを食べさせてもらいました。さすが県下屈指の山スイカです。その美味しいことは言葉では言い表せないくらいでした。この辺りでは昔から国道沿いに個々人がスイカの店を出しています。これまでは掘っ立て小屋のようでしたが、最近は店をきちんと構えた農家が多く、何台もの車が止まってスイカを買い求めていました。どの店も顔馴染みで、一軒のみに入ると他の店に恨まれそうで気が引けるし、もし入っても負けてくれるので入りづらいところがあります。

 一行はおきよの池を見学しました。大洲藩主の命を受け乳母として退任を果たしたおきよさんは、ふるさとの水難儀を救うためこの池を造ってもらうよう城主に願い出たという美談が残っていて、この池のお陰で田畑が潤っているのです。


 通りかかった顔見知りの武田さんが車の荷台にいっぱい積んだスイカの中から気前よく6個も美味しそうなスイカを6個もくれました。子どもたちはあっけにとられて大喜びで丸かかえして車に乗り込みましたが、途中2個も割ってしまいました。

 翠小学校へ帰った頃には夏の厳しい暑さが戻り、子どもたちは、タライうどんに舌鼓を打ち、テントを撤収し二日間の楽しいキャンプを締めくくりました。今年のキャンプも昨年にはない新鮮なメニューが盛り込まれ、いい思い出をリュックいっぱいに詰め込んでそれぞれ帰って行きました。

  「汗の後 スイカの味の 美味しさに 思わず笑みが こぼれてはじけ」

  「この夏も 子どもと過ごす 二日間 童心帰り 元気いただく」

  「気前よく スイカを六個 置いて去る 懐かし人の 有難きかな」

  「四キロも よくぞ刈たる 道の草 子どものために 骨身惜しまず」 

 

 

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shin-1さんの日記

○おもしろ教室みんなでキャンプ①

 昨日と今日の二日間、町内の翠小学校でおもしろ教室みんなでキャンプが行われました。実行委員長を務めているので、全日程参加しなければならないのですが、残念ながら昨日は夕方予定が入っていて昼間だけの参加となりました。午後1時半からの開会式では、実行委員長のあいさつから始まりました。翠小学校が愛媛県で一番古い現役木造校舎だということ、校庭にあるギンモクセイは126年も生き続けている天然記念物であるということ、同じ校庭に建っている二宮金次郎の銅像は色々な教えを示しているということなどを話してやりました。これもふるさと教育なのです。

 今回のキャンプには東雲大学の学生が10人ほどリーダーとして応援に駆けつけてくれました。昔は子どものリーダーといえばホイッスルを首にぶら下げてゲームなどレクの指導をしたものですが、今の学生はそのような指導をしないようで、どこか感じが違いました。

 開会式の後は早速運動場にテントを張りました。子どもの数が30人ほどなので大きめのテントを5つ張り
ました。子どもたちにとってテントを張る作業は曇っているとはいえ汗だくの重労働で、熱中症にならないように水分補給を注意しているため、お茶を飲むという口実は都合のいい休憩になるようでした。乾いた運動場の土に鉄のペグを打ち込むのは容易なことではなく、補助的に手伝う本部の人間が中心になって、何とかテント村が出来上がりました。

 この写真は校長室の窓から撮った写真ですが、手前の二宮金次郎さんの銅像はこの様子をどのように感じているのでしょうか。

 テント村も無事出来、子どもたちは川遊びに出かけました。傍を流れる上灘川は海の町ゆえにどちらかというと縁遠く、川は見るものでした。しかし前回の源流を探るというプログラム以来、子どもたちにとっては大好きな遊び場になったようで、みんなで楽しく川を散策しました。

 川から帰った子どもたちはいよいよ夕食の準備です。この学校は木造校舎のため火の取り扱いには細心の注意を払わなければなりません。外に火が出ないよう缶で造った釜戸で火を焚き、その上で飯盒炊飯するのです。火力が強いためご飯はあっという間に吹き上がりましたが、火を止める加減がまた難しくおこげも出来たようです。

 調理場では夕食のメニューであるシーフードと野菜のカレーに挑戦です。私はカレーを食べることは出来ませんでしたが、とても美味しいカレーが出来何度もお代わりして食べたそうです。


 夜は大きな移動式樽型の露天風呂に入ったり、花火や肝試しをしたりと、楽しい夜を過ごしたようです。夜少しだけ雨が降ってテントをぬらしたようですが、子どもたちにとっては気にならないほどの雨でした。




  「いつの世も 子どもにとって キャンプとは 楽しいものだ 親元離れ」

  「熱中症 理由にサボる 子どもたち ペグを打つのは 大人とばかり」

  「学校の 校庭突如 露天風呂 子ども歓声 谷間に響く」

  「進ちゃんと 愛称呼ばれ 顔馴染み 私の愛称で 子どもの名呼ぶ」   

 

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shin-1さんの日記

○夫婦仲よくウォーキング

 夫婦といいながら一緒に過ごすのは夕食から朝食までの夜くらいなもので、その夜も殆どの時間を寝ているのですから、夫婦とは時間的には意外とすれ違いが多いものです。一昨日の夜テレビを見ていると妻が、「お父さん一緒に歩かない」というものですから、その気になって「よし歩こう」と、近くの県道を片道1キロ、往復2キロ程度歩きました。下腹のふくらみや体力の衰えを気にしている妻は毎日の出勤はもっぱら歩いています。歩くといっても近所の歯医者さんに勤めているので、片道500メートルの短い距離で、片道ものの5分程度なのです。しかしこの5分でも毎日歩いていると、四国遍路八十八ヵ所のお参り歩きの際は、私が驚くほど健脚になって、むしろ私よりも速い足取りに驚くのです。

 そんなこんなで、最近夕食の後片付けをした後、このところこっそり一人で歩いていたようですが、8月に入り日没がや日暮れが少し早くなって歩く道が暗くなったため私を誘ったのです。二人揃って歩くなんて久しぶりです。ウオーキングシューズに履き替え、午後9時に家を出ました。田舎の夜道は暗く、何時もは明るい中学校前ももさすがこの時間になると真っ暗です。上灘川を渡る橋は黄色味を帯びた外灯が沢山ついてここだけが別世界のような感じです。特別養護老人ホームは24時間明かりのともっている場所で、人の気配は感じないもののどこか懐かしい感じがしました。途中にある高村電器屋さんの入口には自動販売機があって、暗闇の中に一際明るくその存在を示していました。遠くには簡易水道の機械部屋の機械の明かりが見えました。

 妻は普通独りで歩くときは高村電器屋さんまでだそうですが、私と歩くときは長岡さんのお家まで歩きます。暗闇で余り周囲の様子が分りませんでしたが、昨日翠小学校まで単車で走る時見た光景では、もうそこら辺の田んぼの稲穂も出揃い、早いものは頭を垂れて少し色づく気配です。スズメのおどしとして金銀のテープが張られ、中には手づくりの風車が風を受けて勢いよく回っている田んぼもありました。闇夜とはこれらの風景を全て消しているのです。

 暗闇の中で懐中電灯を持って歩いている人に出会いました。女性ですが通りすがりに「こんばんわ」と声を掛け合ったものの、その人が誰なのかは分らず通り過ぎて行きました。多分相手も私たち夫婦が誰であるかは知らないと思いました。暗闇の天空には星が眩いほど輝き、頬を撫でる風も心地よく、上灘川の瀬音が鈍く低く聞こえていました。

 最初の一日目はそこここを通る度に世間話をしながら歩きましたが、二日目の昨日は余り話さず歩きました。妻の健脚は相当なもので、男足の私にもしっかりとついて歩くのです。やっぱり続けることだと思いつつわが家へゴールインです。

 往復2キロだけなのに夫婦とも汗びっしょりです。早速風呂に入り汗を流し、妻の差し出す冷たいお茶を飲みながら、相変わらずチャンネル権を持つ妻の選んだ番組を無造作に見ながら時を過ごしました。その間の話は今週末に迫った伯父の初盆仏事の話と、子どもたちの話です。週末には警察官になっている末っ子が今年になって始めて帰って来るようで、妻はかかってきた電話で「何時に帰るのか。いつまで居るのか。何が食べたい」などと細々したことを聞いていたようです。

 そのうち肩がこったというので、馴れない手つきで肩や足を揉んでやりました。妻は先週末にやって来た孫二人を抱っこし過ぎて腰の具合が思わしくないと理由をつけて腰や足や背中まで揉まされました。まあこれも夫婦円満のコツとばかりのサービスです。ブログに書くようなことではありませんが、まあ夫婦仲良くやっています。

  「夫婦でも 一緒に過ごす 時間など しれたものだと 歩いて思う」

  「暗闇を 二人仲良く 手を振って ウォーク楽しむ 健康のため」

  「今晩わ 通りすがりの 声聞けど 何処の誰だか 分りもせずに」

  「マッサージ 妻の柔肌 揉むものの ムラムラもせず 視線はテレビ」

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shin-1さんの日記

○日程のすき間

私は30年にわたって愛媛県貯蓄推進委員会発行の卓上カレンダーを使っていました。手元に残る一番古いのは昭和49年(1974年)ですから、もう34年も前のものです。2000年からは愛媛県貯蓄推進委員会が愛媛県貯蓄広報委員会、2002年からは愛媛県金融広報委員会とそれぞれ改称されていますが、2004年からはこの卓上カレンダー発行が廃止され、私はそれによく似た愛媛県商工会連合会が発行しているWritinng Calendarを手に入れて、今も自分の人生リレーのバトンを引き継いでいるのです。

 手がすいた時々に30冊を越えるそれらのカレンダーを開けて見るのですが、懐かしい当時の予定がびっしりと書かれていて、その当時の匂いまでもが浮かび上がってくるのです。あんな時こんな時、あの場所この場所、あの人この人と思い出せば切りがないほどの思い出がまるでビックリ箱のように飛び出し、自分ワールドへ誘ってくれます。多分これは私だけのオンリーワンでしょうから、これからも大切にしまっておきたいと思っています。

 さてリタイアしたらもうこんなカレンダーも必要ないだろうと鷹を食っていましたら、ご存知のとおり辞めてからの方が忙しいのではないかと見まがう程にカレンダーの空欄が埋まり始め、今では秘書でも用意しなければスケジュール管理ができないほど藪用が入って、日程調整も一苦労です。

 私の大まかは大学授業活動、講演活動、人間牧場活動、ボランティア活動、個人活動に分けられますが、講演活動も年々歳々活発で、遠くは北海道や沖縄などへも進出して県外へも出かけています。内容も多岐で青少年・女性・高齢者問題からコミュニティ、地域づくり、特産品開発、社員・職員研修、教育文化と幅が広くて、多芸?を披露しています。大学授業は週に一回程度なのですが、今年度から昼間主となって楽しく授業をしています。問題は人間牧場活動ボランティア活動で、特に人間牧場は沢山の方々から問い合わせや訪問希望が相次ぎ、それを日程のすき間に入れるものですから少しオーバーワークになりつつあるようです。

 人間牧場はわが家から約10キロ離れています。普通だとシーサイド公園で待ち合わせをしてスタートしても山道ゆえ人間牧場までは15分かかります。牧場に着いてから戸を開け窓を開けて中へ迎え入れ、色々な話をして見学すると四半日はかかってしまうのです。ましてや公共交通機関でやって来る人などは送迎にも手間がかかり何とももどかしい感じがするのです。

 日程のすき間はいつしか日程の主要な部分を占めるようになりました。でもかつて私設公民館煙会所が自分お主要部分を占めたように、手を抜くことなく人を迎え入れなければと肝に命じているのです。この1ヶ月で3回も人間牧場での宿泊研修をしましたが、「私を巻き込まないで」といっていた妻は相変わらず料理などに気配りをしてくれ、大助かりです。

 日程のすき間といえば、教育関係のボランティア活動も増えてきました。学校評議員や少年少女おもしろ教室など、数えれば切りがないほどの行事や会合が隙間を埋めています。これも行きがかり上背を向ける訳にもいかず、今日と明日は少年少女おもしろ教室のキャンプが翠小学校で行われるため、実行委員長とし?!A6は参加しなければなりません。また明日は上中の学校評議委員会も夜計画されています。

 声がかかる間が花と人はいいますが、そんな言葉を私に言う人は、冷房の効いた部屋で涼しい夏を満喫しているのです。

  「一冊の スケジュール表 八月を めくりてすき間 矢印埋める」

  「八月は 休む予定で スケジュール 開けていたのに 休むどころか」

  「牧場を 作った時に 予感した 通りになって 超々多忙」

  「もう限界 いいつつ笑顔 絶やさずに 人を迎える 俺の宿命」

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○宇和島市長を表敬訪問

 宇和島市長さんを表敬訪問するため、伊予インター近くのJA伊予駐車場で午前11時に落ち合い、伊予インターから高速道路を宇和インターまで走り、56号線を通って宇和島を目指しました。昨日の宇和島は天気予報が的中し、蒸し暑いものの少し曇っていて少しでしたがかなり強い雨に見舞われました。同行したのはえひめ地域政策研究センターの栗田所長さんと小方主任さん、それに担当の谷本さんでした。谷本さんは宇和島市役所からの出向職員のため昨日の根回しはさすがで、到着時間まで数分の狂いもなく予定通り12時に到着しました。かどやというレストランで昼食を取りました。魚どころといわれる宇和島らしい日替わりランチを注文しましたが、鯛のカブト煮もついて千円以下ですからかなりお得で、ボリューム・味ともに満足のいく昼食となりました。

 表敬訪問まではまだ間があるため、前夜祭の会場として検討している農協会館リジェールのホールを見学に行きました。何年か前講演で招かれたことがある見覚えの記憶をたどりながら2階へ案内されました。ステージ付きの600人収容の大きなホールで、少し古くなったような感じはしましたが、申し分のない会場とお見受けしました。この会場だと宇和島駅からのアクセスも一本道で近く、遠方のお客さんをお迎えするのにはぴったりのようです。

 市役所の窓口は総務課で、渡辺総務課長さんが対応していただき総務課の控え室で戸外の雨を見ながら時を過ごしました。かつて愛青連の会長だった松広さんも総務課の補佐に昇格されていて、久しぶりに短い時間ながら談笑させてもらいました。宇和島市役所は県下の市町でも飛び切り縁の深いところで、沢山の知人友人がいるため、顔を合わせる度に会釈や立ち話に話が弾みました。

 やがて、北村愛媛県市町振興課長さんたちと合流し市長室へ通されました。広い市長室からは宇和島のシンボルである宇和島城と背後に鬼ヶ城という山が聳えていました。残念ながら雨のため鬼ヶ城は小雨に煙っていましたが、中々見応えのある風景でした。


 石橋市長さんには何度もお会いをしているので市長さんも私をご存知のようで、早速表敬訪問の目的である地域づくり団体交流全国大会の冊子を開け概略を説明しました。主会場となる宇和島市には準備や運営、それに人的支援をお願いしなければならず、市長さんもそのことはよく理解されていて、全面的に協力するとのお約束をいただき、安堵の胸を撫でました。

 その後私たちは渡部南予地方局長さんを訪ねました。大森地域政策課長さんや旧友八十島さん、宮川さたちとも出会い、表敬訪問の日程を全て終って、元来た道を引き返して帰って来ました。前日の記者会見、県庁表敬、昨日の現地表敬と慌しい2日間でしたが、それなりの感触を得てホッとしています。

 今回の全国大会が県政の重要課題である南予振興にいささかなりとも役割を果たさなければなりません。表敬訪問で出会った人々の口からも、そのことは異口同音に発せられたメーッセージでした。底抜けに明るいといわれる南予に、本当の笑顔を取り戻したいものです。

 追伸

   一昨日の記者発表の内容が今朝の愛媛新聞に取り上げられていました。

  「二日間 表敬訪問 するうちに 南予振興 奥の深さを」

  「食べ物も 人情さえも 一級品 全国仲間 きっと満足」

  「懐かしき 第二ふるさと 宇和島を 久々訪ね 言葉を交わす」

  「俺などは 金魚の糞の 値打ちにて 付いて歩いて 名刺手渡す」

 

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shin-1さんの日記

○占拠せられたテレビ

 「よくも毎日行く所があるわねえ」と妻が感心するほど最近は出歩くことが多く、滅多に家にいないため、朝の新聞以外はテレビのニュースなども見る機会が少なく、僅かに車の移動時間にカーラジオでニュースを聞く程度なのです。そのため「昨日テレビで見たけど、あんた知っている」などといわれるともうお手上げの状態なのです。そのためでしょうか、家にいる時のテレビのチャンネル権はいつの間にか完全に妻に移行してしまっているのです。私が「こんな番組を見たい」と言い出そうものなら、「二階のテレビで見てよ」と冷たくあしらわれ、ついにはすごすごと書斎に入ってパソコンを打つのです。こうなったら妻と夫の関係は冷めた味噌汁のようで、温め直しても余り美味しくないのです。

 妻は最近サスペンス番組が大好きです。特に右京さんと亀山さんが登場する「相棒」は欠かさず見るし、DVDにダビングして、よく飽きないなあと思うほど何度でも繰り返し見ているのですから、その気持ちが私には分らないのです。

 息子と相談してビデオを買った頃ビデオの録画はテープでした。安売りのようなビデオテープを何本も買ってダビングしていたため、テレビの横の書棚には無数のビデオテープが並んでいました。しかしこれは故障が多く、画質も悪いことから、2年前に新しいDVD用のビデオを買ったのです。最初は操作が面倒なため息子に教えてもらっていましたが、そのうち慣れて今ではリモコンを使って予約入力するなど相当な進化をしているのです。

 妻は読書家で暇さえあれば小説を読んでいました。しかし最近は老眼になったことや、仕事に加え孫の世話、親父の世話など、余りにも仕事が多いため気の休まる時間がなく、そのはけ口としてテレビを見ているようなのです。まあ妻の唯一の趣味として認めてやらねばなるまいと思ったりしますが、それでも時々はまるで子どものようにチャンネル争いをするのです。

 最近は時々やって来る孫のためにマンガや自然、動物といった孫が興味を示しそうな番組の録画もしていて、その番組が元で孫と妻は映画鑑賞にも出かけているようです。

 私は余りテレビを見ない方です。間もなく北京オリンピックが始まりますが、日本と中国北京の時差がそんなにないことから、前回のように妻が夜更ししてテレビを見ることもないようです。

 さてこのテレビ、購入してもう十年が過ぎようとしていますが調子がよく、このままだとデジタル放送が始まるまでは使えるかも知れないと思っています。松山に住む二人の息子の家では既にデジタル放送が入っていて、行く度にわが家のテレビのみすぼらしさを感じています。まあ古いものは新しくなる訳ですから、今に息子たちが売る疚しがるようなテレビを買いたいと、今から目的貯金を始めています。

  「チャンネルを 奪われ俺の 地位いずこ 濡れた落ち葉か テレビも見えず」

  「DVD いとも簡単 操作する 俺より上だ テレビに限って」

  「この画面 何度見たやら 飽きもせず 妻は必死に 相棒見てる」

  「二の次は 私でなくて 孫らしい 落ちたものだな 亭主の地位も」

 

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