shin-1さんの日記

○卒寿を迎える親父への恋文

 一昨日、親父の元へ一通の手紙が舞い込みました。裏書を見ると何やら見覚えのある名前です。親父の同級生の女性からの手紙のようです。私は直ぐに親父の隠居へ持って行きました。丁度食事をしていた親父は飯を食べたら読むから机の上に置いておくようにいうのです。しばらくすると親父が私の書斎へやって来て、「目は遠いし達筆過ぎて読みにくいから読んでくれ」というのです。確かにその文字は90歳の女性とは思えないほど達筆で文章もしっかりしているのです。親父の耳元で大きな声で読んでやりましたが、中身はどうも恋文調のようでした。読みながら読む私が恥かしくなるような「好きだった」などの言葉があって、「おい親父、お前も中々持てるじゃないか」と言いたげでした。親父は安心してその手紙を持って隠居へ帰って行きました。

 しばらくすると親父は再び私の所へやって来て、「手紙の返事を書いてくれ」というのです。何が何でも親父への恋文の代筆までするとは?と思いましたが、私はいつも書くハガキを取り出してハガキで返事を書きました。

 親父は9月1日が誕生日ですから間もなく90歳の卒寿を迎えます。最近は自分の同級生や自分より年齢の下の人が先に逝くので少し寂しい思いをしているようです。先日は近くの特別養護老人ホームに入所している同級生の女性から会いたいという電話が入りました。運良く私が在宅で電話をとったものですから親父に替わりましたが言葉の力が弱く、寂しいとか会って話がしたいという言葉しか聞き取れませんでした。

 私は早速親父を老人ホームへ会いに連れて行きました。相手の同級生の女性は涙を浮かべて喜びましたが、歳を重ねて老人ホームで暮すこの女性を見てから、親父は何かにつけて「この家の畳で死にたい」というようになりました。多分病院から葬祭センターへ直行する今の葬式の在り方にも不安を持っているようで、先日も近所の老人が親父の元へやって来てその話をしていました。「今はつまらん世の中になったものだ。病院で死んだら総裁センターで通夜をして葬式もそこで済ませ、焼き場にいって帰る時は骨になって骨壷だから、オチオチ病院にも行けない」とぼやいていました。確かに最近は殆どの人が葬祭センターでお葬式をするようになりました。暑さ寒さもなく至れり尽くせりの便利さで、少々の出費は一生に一度だからと諦めることも出来るでしょう。でもどこかする方もされる方も割り切れない思いがあるようです。最もされる方は死んだ後ですから何のことはないと思うのですが、せめて通夜ぐらいは住み慣れた家でと、死んでも居ないのに死んだことを考える親と子どもなのです。

 親父の恋文に対する返事は、親父の代筆を断った上で、あえて私の名前で出しました。その方は私もよく知っている方なので、親父が「お前の名前でお礼状として出しておいてくれ」というものですから、気が済むようにと私の名前で出しました。親父の名前は「進」、私の名前は「進一」でよく似ているので迷うことがないよう注意を払って書きました。さて相手はどんな気持ちで受け取ったでしょう。90歳の高齢女性ゆえ、さほどお便りが沢山来るとは思えませんが、親父への頼りに胸をときめかせて返事を待っていたかも知れないと思うと多少悔いは残りますが、どうかこれからも親父と同じようにお元気でお過ごしください。

  「この手紙 読んでくれよと せがむ父 恋文なのに 読んでいいのか」

  「恋文の 返事代筆 する息子 卒寿に替わり したためました」

  「この家の 畳で死にたい いう親父 心配するな 孝行息子」

  「好きだった 今更言われ 困る父 親父ももてた 時もあったか」

 



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shin-1さんの日記

○夕暮れ時のカメラスケッチ

 夕暮れ時を言葉や文字で表現しようとすると、浅学な私には言葉や文字が心に浮かばず、中々上手く表現できないのです。でもその点カメラは感じた一瞬を、まるで切取るように表現できるのですから道具は使い方だと感心しました。昨夕海沿いの由並小学校で学校評価委員会があるので、早めに家を出てシーサイド公園辺りを散策しました。運良く夕暮れ時だったため自慢の夕日夕やけをカメラに収めました。

 海に沈む夕日は天候に左右されるため一日とて同じ夕景ではなく、また見ている間にも様々に変化して、いつも飽きずに見えるのです。この日はまだ夏の余韻が残っているのか夕日が真ん丸くくっきりとは見えませんでしたが、それでも西の空を赤くした夕やけが美しく、かなりの人が階段式護岸のあちこちに座ってうっとりと見学していました。

 同じ夕日でも、撮影するポイントを変えると、ほらこんなに素敵に写ります。後一ヶ月すると恋人岬のモニュメントの穴の中にスッポリ夕日が入るのですが、昨日はあえて右横の半円に夕日を入れて撮影してみました。これも絵になる光景です。穴の中へ入った夕日を撮影する人たちが何組か陣取っていて残念ながら後発の私は中へ入れませんでした。

 ふとふり返ると恋人の聖地選定を記念して6月に造られた新しいモニュメントのプレートに夕日が反射して凄い輝きです。まるでスポットを当てたように素敵に見えました。夕暮れ時なので訪れるカップルもなくひっそりとしていましたが、これもいい光景でした。

 モニュメントの裏側に入って夕日を見ると、これがまた生かすシチュエーションで、モニュメントのハート型のくり抜きに綺麗な夕やけが写りました。多分夕日の見方を知っている人はこんな社損も撮影するのかも知れませんが、これはただ今私だけの穴場(笑い)のようです。

(シーサイド公園のあちこちに童謡の歌詞が刻まれた石板が置かれています。今頃の人はこの石板を見ても余り感じないようですが、設置した私は時々この場所に立ってハーモニカなどを吹くのです。どこか懐かしくどこか郷愁を覚えます)
(モアイ像のある中庭には大きなデイゴの木があります。夏を象徴する名残の真赤な花が足元まで垂れ下がって咲いていました。私が植えた木だけに感慨も一入です)
(別名夕日花と私が名付けた酔芙蓉の花が咲き始めました。朝白く、昼は淡いピンク、夕方濃いピンク、夜は真赤になって萎むこの花も捨て難い何ともいえないロマン漂う花です)

 この日の日没時間は私が作った夕日の時刻表によると18時44分です。昨日は水平線近くに雲が出て残念ながら18時30分辺りで夕日は雲間に沈んでしまいましたが、それでも最後は雲が焼けて小焼けとなりました。小焼けも見方によれば捨て難い趣きがあるのです。

 私たちは自然とともに日々暮らしています。多分他の人は仕事に明け暮れたり雑事に追われて、こうした自然の営みを目にしたり感じることもなく暮らしているのです。それはまさに自然の反対語である不自然なのかも知れません。多分昨日の夕日や夕やけ、刻々と変わる海の色などはもう過去という言葉に凝縮されて二度と見れない運命にあるのです。カメラを使ってスケッチするだけで、こうも暮らしがエンジョイできるものなのかと改めて思った次第です。

  「何となく 夕日夕やけ 見慣れてる 思っているが 見れば見るほど」

  「カメラとは 偉いもんだね 忘れ行く 記憶とどめて 人にも伝え」

  「デジカメが 今は大事な 必需品 殆どいつも 肌身離さず」

  「あっしもた 自分を撮るの 忘れてる 後の祭りか 一日老けた」

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shin-1さんの日記

○近くて遠い所

 「若松さんですか。今在家という地区でふれあいいきいきサロンのお世話をしている者です。誠に小さな集会で済みませんが講演に来て下さいませんか」と電話が入りました。それより少し前、金融広報委員会の山下さんから講師派遣依頼が来ていて、了解しての対応だったので、一も二もなく引き受けました。それにしても毎日のように県庁所在地の松山市へ出かけ、松山市を活動のフィールドにしている私ですが、今在家という地名は余り聞くことが少なく、「はてどこら辺だったかな?」と思いました。「まあ電話番号を聞いてカーナビに入力すれば何とかなるだろう」と簡単に考えていました。やがてその日がやって来て今日は10時からの時間に間に合わすべく、少し早めに出かけました。家を出る時集会所の電話番号を入力してはたと困りました。その電話番号では検索不可能」と出たのです。古いカーナビなので電話番号を読み取れないのかも知れないと思い、とりあえず感を頼りに伊予市、砥部町と進み松山市郊外の道を走りました。杖の淵公園の近くだと思い、少し早い時間調節のために杖の淵公園に車を止めて公園内を散策しました。



 この公園は湧水を利用した公園で、渇水のこの時期だというのに池の底まで見えるような澄んだ水を満々とたたえていました。湧水池の周辺の水路には合鴨が沢山飼われていて、池を泳ぐ鯉やフナなどとともに何とも賑やかで、訪れた人の目を楽しませていました。水路の中ほどには水畑があって寒冷遮で覆った水面の下には何やら植えているようでした。傍で作業をしていた人に聞くとテイレギだそうで、移植して増やしているのだそうです。本当はもっと成長するはずなのですが、松山市は折からの渇水で取水制限をしている市内に向けてここの地下水を汲み上げて送っているので、その影響のようでした。

 松山市の伊予節という古い民謡に「高井の里のテイレギやチョイト~」なんて下りがあったり、杖の淵とは弘法大師が杖で叩くと水が湧き出したという逸話があることは、おぼろげながら知っていましたが、松山の郊外といいながらこんな場所に素敵な湧水のオアシスがあるのですから凄いことです。杖の淵に来るまでに重信川という一級河川に架かる久谷橋を通ってきましたが、渇水の影響で広い川には見渡せど水の流れている部分はなく、多分沿線での過度な伏流水汲み上げが原因ではないかと思ったりしました。

 杖の淵公園では秋の訪れを示すように、庭師さんが公園内の庭木や藤のパーゴラの剪定作業に汗を流していました。何日かすると散髪したような綺麗な庭になることでしょう。

 さて今在家という地名がカーナビに見え隠れし始めました。「うん私の直感も大したものだ」と思いながら家々の隅に張っている地名看板に書いている2丁目、3丁目と追いながらゆっくり走りました。集会所は3丁目8ー10と書いていたのでおおよその見当をつけて走ると、看板に今在家集会所と書いたこじんまりとした施設が見えてきました。既に何人かの人が準備をしていて、30分も早い到着に驚いた様子で駐車場に車を誘導してくれました。

 今日の参加者は殆どが高齢者でしたが、地区内に呼びかけたらしくまあまあ若い人もいて出席者は予定より多い30人を超えていました。早い人は30分も前から来ていたので四方山話をしながら過ごし、いい雰囲気でお話しに入ることが出来ました。打てば響くような素敵な参加者に助けられて「くらしと生活設計」の話は1時間30分にも及びましたが、私の最も得意とする話だけに皆さんにもかなり受け入れられたような感じでした。

 冷房のよく効いた部屋で、まるで落伍のような話をする私も、落伍のような話を聞く人も、日頃の悩みを忘れ一体となって考えるいい企画でした。「また来てね」と全員の拍手で送ってもらい会場を後にしました。私にとって今在家という地名は一生忘れられない思い出となることでしょう。

  「今在家 知ってはいたが 知らぬ土地 探し訪ねて やっと見つける」

  「退化した わが記憶だが 忘れない 今在家という名は ずっと忘れじ」

  「全員が 大きな拍手で さようなら また来てくれと 嬉し言葉を」

  「小さいが 笑い大きい 集会所 束の間だけど 悩み忘れる」 

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shin-1さんの日記

○うら盆の盆踊り

 世の中には新と旧、前と後、上と下、左と右、陰と陽、男と女、プラスとマイナス、明と暗、強と弱、高と低、西と東、北と南など対比対立する言葉が沢山あります。表と裏もその一つで、華やかな表通りに比べ裏通りは人の息遣いが聞こえるようなどこかじめじめしたものを感じますが。表盆というのは余り聞いたことがないけど、うら盆という言葉はよく使う言葉です。お盆は様々な仏事が全国各地で開かれます。その締めくくりがうら盆なのです。

 私たちの町では、新仏(その年に亡くなった人)の出た家では灯篭祀り(水祀りともいう)の一環として灯篭に灯りをともして(今はローソクではなく電球で代用)供養しますが、その終わりの行事として灯篭上げという行事をします。真っ白い和紙で作った灯篭にほの暗い明かりがともる姿は何とも侘しく、子どもの頃には灯篭の向こうから死んだ人の霊が出てくるような怖さを感じたものでした。

 昔は8月24日のうら盆になるとその灯篭を各家から持ち寄り、海辺の砂浜に飾って鉦を叩いて念仏を唱え燃やしていました。多分盆踊りの起こりはその念仏踊りだったようです。しかしいつの間にか灯篭送りの行事は廃れ、盆踊りのみが華やかな社交の場となって残ったのです。私たちが青年団に入っていた時代が最も盆踊りが盛大に行われた時期で、満野、本村、池久保、下浜、上浜、奥東、日喰、石久保、唐崎、本郷、灘町、岡、杭野、城ノ下、小網、高野川と町内の16もの集落で盆踊りが行われていました。私たち青年にとって微妙に違う盆踊りの風習を感じながら毎晩浴衣に着替えて踊り子となって各地の盆踊りの応援に駆けつけたものでした。踊り子も見る群集も沢山いて、夏の夜の一大イベントとなっていたのです。その後は盆踊りを主催する若者の数が激減し、次第に盆踊りは各地から姿を消して、今では下灘地区2ヶ所、上灘地区3ヶ所となり、長年慣れ親しんだ杭野の盆踊りも昨年で幕引きとなったようです。


 昨晩はうら盆に盆踊りを行う風習のある池久保と私たちの住む灘町が盆踊りを行いました。一昨年まで灘町の自治会長として2年間盆踊りを主催してきたいきさつもあって協力するつもりで妻と二人が出かけて行きました。昨日の朝から自治会役員が準備した盆踊り櫓が朱会所横広場に設置されていて、笹飾りや四方に提灯の灯りが灯され、いい雰囲気の設えが出来ていました。集会所の玄関には裁断が祀られ、戦没者の遺影や新盆を迎えた人の遺影が慎ましやかに飾られ、午後6時には近所のお寺の住職さんを招いてしめやかな慰霊祭も行われました。

 灘町には300戸近くもあるのですが、参加者も年々少なくなって時代の流れを感じさせますが、それでも心ある人は集まり、飲んだり話し込んだり、踊ったり見たりと楽しいひと時を過ごしました。それにしても盆踊りはこうも長い間同じ踊りを踊るのかと呆れるほどに感心をしました。炭坑節などは三橋美智也が歌った歌ですからもう40年も経っているのに、未だに踊っているし、私が役場に勤めていた頃ふるさと音頭として製作に携わった双海音頭も皆さん器用に踊っていました。私たち夫婦もそれなりに前の人に合わせて踊りましたが、まさに踊る阿呆に見る阿呆で、踊らにゃ損とばかりに5曲ほど踊らせてもらいました

 今ではすっかり途絶えてしまっている手踊りも何人かの人によって復活していて、最後はその手踊りで締めましたが今年も元気で過ごせたことの感謝の気持ちを込めて踊り、盆踊り会場を後にしました

 町内のあちこちではうら盆だというのに既に稲刈りが始まり、日中は暑いものの朝晩はすっかり涼しくなって虫の鳴き声も聞こえるようになって来ました。親父も何だかんだといいながら何とか夏を乗り切ったようです。今朝は隠居へ行くと、「今日は下灘の診療所へ自転車で行く」のだと張り切っています。90歳になっても7キロ離れた診療所へ自転車で行くのですから大したものです。「気をつけて行くように」と注意を促しました。

 昨日親父の同級生で伊予市に住んでいる井上サカエさんから親父にラブレターが届きました。目の薄くなった親父にはそれがラブレターであることなど知る由もなく、私に読んでくれとせがまれました。適当に注釈をつけて耳元で大きな声で読んでやりました。親父は嬉しかったのか私にラブレターの返信代筆を頼まれました。早速今朝は親父に成り代わりラブレターの返信を書きました。親父の同級生もいよいよ残り少なくなりましたが、何時までも元気でいて欲しいと願っています。

  「この歳に なった親父に ラブレター 代筆頼む 参った参った」

  「うら盆の 来たを知ってか 赤とんぼ 稲穂の上を 行きつ戻りつ」

  「消え残る わがふるさとの 盆踊り 懐かし顔が 懐かし訛りで」

  「暑かった 今年の夏を 乗り切って 卒寿迎える 親父矍鑠」  

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shin-1さんの日記

○わが家の紙ごみ

 私の元へは毎日のように文書が送られてきます。リタイアした私にとって何でこんなに来るのかと疑うほどの量なのですが、中には無用なダイレクトメールのようなものもあって、ちょっと油断すると書斎の隅や机の上にうず高く積まれ美観をそこねる結果となってしまうのです。その都度重要書類、必要書類、不必要書類に分け、不必要書類はゴミ箱に入れて処分するようにしているのですが、個人宛の紙ごみは紙ごみにも出せず、シュレッダーにかけて処分する設備もなく、結局はダンボールにまとめておいて、家庭菜園の隅にドラム缶で作っている焼却場で焼却処分しているのです。

 しかし重要書類や必要書類も自分の感覚で分類しているので、捨て切れずいつの間にか書斎の隅で埃を被ってしまうのです。私への必要書類は講演依頼の文章が圧倒的に多いのですが、講演が終わると必要書類から不必要書類に格下げされるため、これまたその都度処分しなければならないのに、お礼状を出したり、ブログに書き込むため机の上に置いて片付け損ねたものが増えてくるのです。

 パソコンが普及して随分片づけが楽になりました。というのもかつてはスライドや写真、それにビデオテープ、参考図書の類が書斎の大部分を占めていましたが、それらは殆どデジタル化されて書斎から消えました。勿論参考図書は人間牧場の本棚にそっくり移転しただけのことなのですが、それでも昔に比べたら整理整頓の出来た部屋になっているのです。

 私に来る紙類の中で捨て切れないのはやはりハガキや手紙といったものと名刺です。今は置き場所を決めて書棚の中に置いていますが、これもあっという間に一杯になります。特にハガキ類は年賀状まで入れると相当数にのぼり、これが中々捨て切れず30年前のものまであるのです。

 紙類はかつては貴重品でした。しかしデジタル時代になって今はごみとなり処分されるものが多いようです。ダンボールは資源ごみなのでまとめて紐で縛り車庫の隅に置いていて、資源ゴミ回収の日に出すようにしていますが、これを一度雨に当てるともうお手上げの状態になります。私が子どもの頃みかんやリンゴは木箱でした。それが発泡スチロールや段ボールになったのですから世の中も変わったものです。紙の箱にあれほどの強度があってみかんやリンゴを入れれるなんて昔の人なら誰が信じるでしょうか。

 今日も久しぶりに書斎の紙類を掃除しました。うず高く積まれていた紙類の約80パーセントがゴミ袋の中に消えて行きました。今日は少し風が強いので焼却は出来ないようですが、明日にでもまた自宅の焼却炉で灰にしたいと思っています。

 「一年経っても使わないものは捨てなさい」とは整理整頓を地で行く人の言葉ですが、私の場合はそんなに捨てることが出来ずついつい残しています。特に新聞のスクラップはもう30年もやっていて、ダンボールにかなりの量があり、片付けれないまま段ボールに入れられ倉庫に眠っています。「いずれ整理を」という安易な気持ちが整理整頓を阻んでいるのかも知れません。

 新聞やチラシは妻の役目で毎日読み終わったら新しくても古新聞といわれるダンボールの箱に無造作に入れられ、一杯になるとビニール紐で縛られて資源ごみへ出すのですが、新聞は約1かk月くらいは置いておかないと、出張の多い私には読み忘れ見忘れが多く、時折困ることもあるのです。

 整理整頓を終えた日には必ず思います。「次から綺麗にしよう」と、しかしいつの間にか処理が遅れてまた元の木阿弥です。今度こそ、今度こそ、今日もそう思い掃除をし終わりました。

  「勿体ない 紙ごみにする その度に 心痛めて 焼却処分」 

  「焼却し 灰となりたる 紙を見て 悪いことする 後ろめたさに」

  「ゴミは増え 金は増えない 同じ紙 貧乏人ゆえ 余計に思う」

  「今日からは いつも同じ こと思う 何時の間にやら 紙に埋もれて」

 

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shin-1さんの日記

○孫の著しい成長

わが家の都合と娘の家族の大阪帰省が原因でこの二週間、娘の家族はわが家から遠ざかっていました。これまでわんぱく盛りの五歳になる孫朋樹に全員の目が向きがちでしたが、間もなく満1歳の誕生日を迎える孫希心と、6月に誕生日を終えた孫尚樹の成長が著しくなって会うことが俄然楽しみになってきました。希心は少し肥え気味のせいか中々這々が出来ませんでしたが、ここに来て這々が出来るようになり忙しくそこらじゅうを這い回っています。一方尚樹はこのところの成長が著しく二週間前にはまだ伝い歩き程度でしたが、二週間ぶりに昨日わが家に来たら何と歩けるようになっているのです。まだまだヨチヨチ歩きですがそででも盛んに歩き回り、這う回数よりも歩く回数の方が多くなっているのです。みんながその事に関心を持つため、希心も朋樹も少し見放された感じがするのか少しお冠のようで、おもちゃの取り合いや食べ物の取り合いで自己主張を繰り返しているようです。尚樹は一年と2ヶ月になりますが、やっと歩けるようになりました。考えてみれば朋樹は元気であれば今から死ぬまで歩き通すのですから、人間の歩くという他の動物にはない行為は凄いことだと思うのです。這々から歩くへと変化した朋樹の行動範囲はこれからも広がっていくと思われますが、これからも健やかに成長して欲しいと願っています。

 今日は娘が友人と会う約束があるとかで二人の子どもをわが家に預けて出かけて行きました。長男夫婦と孫希心、それに孫朋樹は人間牧場へ遊びに出かけました。私も誘われたのですが妻の家事が忙しいこともあって残りました。一昨日から電話の調子が悪くワンギリのようになって、友人や親類から「電話が架からない」と苦情が沢山入っていましたので、昨晩NTTの電話故障係に修理の依頼をしていました。早速10時過ぎに担当者がやって来てあちらこちらを調べていましたが、どうやらファックス兼用の電話機が故障らしいというのです。わが家のファックスは三年前に新しい機種に変えましたが、どういう訳か最初からこのファックスは不具合が目立ち、判読が出来にくいばかりか用紙を巻き込んだりして使い物になりませんでした。今は殆どの連絡がメール対応なのですが、それでも時折はファックスが届くので失くすわけにはいかないのです。妻はとっさに電話機を買い換えるとまた臨時出費がいるだろうと、頭を抱えていました。結局は治らないまま受信だけが出来る受話器を置いてその係の人は帰って行きました。日曜日ということもあるのでしょうが、少々不満の残る対応でした。

 電話の半紙が終る頃になると希心は早くもお昼寝です。尚樹も目がトロンとして眠気をもよおしぐずり始めました。私に外に連れ出して欲しいとせがむので、隣近所の犬を見に出かけました。しっかりとした口調ではありませんが、「ワンワン」という言葉も私の口に合わせて言えるようになりました。手を叩いて「お願い」という表現や、「首に顔を引っ付けて「好き好き」という仕草もしてまあ可愛いものです。「モタモタ」という言葉を言えば「私の胸に頭を寄せてスヤスヤ眠ってしまいました。部屋に布団を敷いて扇風機を回して寝かせると母親留守の寂しさか、指を口に加えて今も眠っています。その寝姿を見ながら孫とはいいものだとしみじみ思いました。今日は娘が帰るまで私が朋樹のお守りの担当です。いつの間にか重くなった体重はもう腰や腕に堪えるほどになりました。私は腰にぎっくり腰の持病を抱えているので、妻の勧めもあって孫を抱く時は腰にコルセットをしています。孫が原因でぎっくり腰になるのは様になりませんから・・・・・。

 孫の成長と私たち夫婦の老化は反比例します。次第に体力が加わる孫に比べ私たちの体力はこれから落ちるばかりですが、孫の著しい成長に負けぬよう体力づくりをしたいものです。

  「二週間 ぶりに出会った 孫何と ヨチヨチ歩き ながらも上手く」

  「体力の 増える孫見て 俺たちは 体力下がる これから先も」

  「電話機が 故障してると 修理人 臨時出費が 頭を過ぎる」

  「わが胸に 顔をうずめて スヤスヤと 眠る孫顔 幸せそうだ」

 

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shin-1さんの日記

○二つの研修会

 今日は忙しい一日でした。まず午前7時半に家を出て、新田青雲中等教育学校へ向かいました。国道を通って衣山の道を通ったため、途中にあるかつて私がお世話になった龍華堂という印刷屋さんに、ちょいと立ち寄り社長ご夫妻のご機嫌を伺いました。私が町工場にも似たこの店に出入りしていた頃はもう30年も前でしたから、ご主人や奥さんも今はかなり高齢化して難聴のようでしたが、大変喜んでいただき旧交を温めました。講演の予定もあるからと早々においとまし、目と鼻の先にある学校を目指しました。

 新田高校の敷地内にある青雲中等教育学校は中高一貫教育の6年制の学校です。県下に先駆けて作った学校なので教育理念もしっかりしていて、親友野本千寿子さんの紹介を受けて先日石丸校長先生がわざわざわが家まで足を運ばれ、講演の依頼と同時に学校の概要について説明をして帰られたのです。日頃ご厚誼をいただいている野本さんの頼みを断ることも出来ず、今日の講演となったのです。

 「インスパイアリングレクチャー」と題した今日の講演会は生徒全員が講堂に集まっていました。「インスパイアリングレクチャー」とは、元気をもらい、刺激をもらい、生きがいをみつけるためのヒントを得る講座だそうで、毎月一回私のような外部の講師を招いて色々な経験や携わっている仕事について、あるいは人生観や生き方について話しを聞いているようです。そのためでしょうか、聞く態度もしっかりしていて、私の話にも熱心に耳を傾けてくれました。

 私は僅か50分の短い時間なので、青春時代に手に入れたい四つの道具や、水産高校の実習船愛媛丸に乗船した時経験した、大時化の海での生死のさまよいなどや氷山の一角についての話しをしました。さて50歳近くも離れている私の話が理解できたかどうかは疑問の残るところです。

(ミニフォーラムがあった講堂)
(小学区を移築した米博物館の中には長い廊下がありました)

(中々味があった森田さんの事例発表)

 新田青雲中等教育学校を出た私は、一路西予市を目指しました。「町並み保存と地域づくりIN宇和」という地域ミニフォーラムに参加するためです。今年は西予市を中心にして10月、全国町並みゼミ卯之町大会が開かれる予定で、今日はその前哨戦なのです。宇和町に入って間もなく三崎の塩崎さんから携帯が入り、うどん屋で一緒に食事をしながら久しぶりび積もる話しをしました。会場となる宇和米博物館は旧宇和町小学校を移築した施設で、小高い丘の上にありました。近くを通ったり近くまで所用で来ながら一度も中を覗いたことがないだけに楽しみにしていました。会場へ着いたのが早かったため、米博物館の近くの三好さんのお家を訪ねました。シーサイド公園で不慮の事故に会い亡くなった息子ささんの仏壇に線香を手向けるためです。あれ以来ご厚誼をいただいていますが、三好さんは闘病生活をされていてかなり体力が落ちていました。短い時間でしたが様々な話をして人間牧場での再会を誓い合いました。

 会場の予定された席は満席で、椅子を追加する盛況ぶりでした。岩松の町並み保存について宇和島市教育委員会の森田浩二さんが30分ばかり事例発表をしました。森田さんはまちセンに出向して研究員をしていたこともあって、内容も要を得て分りやすく中々の論客です。馴染みの顔も多くNPO法人全国町並み保存連盟常任理事の八木先生、宇和中町休憩所三好さん、それに私の三人がパネラーとなり、えひめ地域づくり研究会議事務局長の岡崎さんがコーディネーターを務めました。それぞれの思いが交錯して絡みのいい討論が2時間ばかり続きました。

 外はにわか雨が降ったり陽が射したりと安定しない天気で、講堂の中はかなり蒸し暑く感じました。でも議論の深まりが熱気を作ったようにも見えました。城川から参加していた西岡先生は私が中学校時代の恩師で、久しぶりに旧交を温めました。また先生にはお土産までいただき恐縮してしまいましたが、何時になっても教え子のことを心配していただく恩師とはいいものです。

 朝から夕方まで休む間もなく話し、人と出会い、まちむらや人を訪ねて今日も充実した一日でした。こうして長くも短い一日が毎日のように終るのですが、明日も幸せな一日は続くことでしょう。

 わが家へ帰ると3人の孫がやって来ていてとても賑やかでした。これもまた幸せというのでしょう。

  「朝は北 昼は西へと 移動して お座敷かかり 幸せ語る」

  「早十年 命亡くせし 人は今 線香手向け 冥福祈る」

  「元気かと 握手求める 恩師あり 老いてかくしゃく 私も元気」

  「こんなこと 話せとメール 届いてた 言われるとおり 話さず無骨」


 

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shin-1さんの日記

○面白い形のミニトマト

 お盆が過ぎても暑くてかなわなかったのに、さすがにこの頃になると朝夕涼しくなって、昨日の朝妻は薄手の布団に包まって寝ていました。傍で寝ている私はいたって平気で、何時ものようにタオルケットを布団の隅に追いやる寝相の悪さです。妻と私は同じ人間なのに鈍感な私と敏感な私とではこうも季節の感じ方が違うのです。

 夜が明けるのも随分遅くなってきて、私が毎朝起きる午前4時はまだ真っ暗で、曇っている今朝などは午前5時半になってやっと夜明けです。私は起きると書斎へ入りまずパソコンの電源を入れてトイレへ行くのが日課です。最近はパソコンも少しくたびれたのか、あるいは容量がオーバー気味なのか立ち上がりが遅く、時々言うことを効かなくて仕事がはかどらなくなりました。そのため新しいパソコンに変えようと準備を進めて購入したのですが、使い方が今一しっくり来ないし、ソフトの入力を頼んでいる息子が忙しくて間に合わないため、こうして古いパソコンに文句を言いつつ、朝のお勤めのようにブログを書いているのです。でももう時間の問題で、間もなく新しいパソコンに移動するべく机の上に並べて置いているのです。

 今日は午前中松山市で、午後は西予市でそれぞれ会議が予定されていて、早い朝食を終えると出発しなければならないためブログを書く時間が少なく、こうして思いつくままに指先を動かしているのです。6時に起きた妻が隣の居間から、「お父さんトマトを取って来て」と声をかけました。早速私は台所から金網篭を持って来て家の横の家庭菜園へトマトを取りに出かけました。「わあ凄い」と思わず声が出るほどトマトは沢山赤く熟れていました。ミニトマトはヘタの部分が弱く手で触っただけで簡単にもぎ取ることが出来ますが、注意をしないと青い実まで落果する恐れがあるのです。トマトの木も随分大きくなって木の中へ手を突っ込んで採取するのには中腰にならなければならず、腰を痛めないように取って行きました。ほんの10分ほどで金網篭いっぱい取れました。これを収穫の喜びというのでしょうか、さも自分が作ったような顔をして、「おい取ってきたぞ」と台所の食卓上に置きました。何時もの事ながら妻は「まあ嬉しい」と、早速何個かを手に持って水洗いして食べていました。私も洗ってもらって食べましたが、木の上で完熟したトマトの味は格別で二人で沢山食べました。

 取る時に気が付いていたのですが、今日収穫したトマトの中に双子の変わった形をしたものがありました。一卵性双生児とでもいうべきそのトマトは根元がくっついていて、見方によってはハート型をしているのです。今年はシーサイド公園の恋人岬が恋人の聖地百選に選ばれたばかりで、そのモニュメントの製作に関わってハート型にしたり、漁協女性部の皆さんがハート型のラブジャコ天を作るなど、何かとハートに縁があったのでこのトマトはジャコ天のお店にでも持っていってあげようかと思いました。普通はこうした奇形物は縁起が悪いと捨てましたが、今はそれなりの話題になって、時には新聞のホットな話題として紙上を賑わせているようです。

 今治へ講演に行った折貰ったミニスイカの苗も畑の隅に植えていましたが、ソフトボール大からハンドボール大までの大きさのスイカが10個くらいなりました。今朝は最後の2個を収穫しました。ほおっておいたのにしたたかに生きて実をつけてくれたのです。今日は孫がやって来るので、一緒に植えたことを話しながら食べてみたいと思っています。

  「一卵性 双子のトマト 発見し 何処かハートに 似てて楽し」

  「ミニスイカ これで十個目 なるものだ 味もまあまあ 来年こそは」

  「パソコンの 更新間近 データーを 移す作業が 終り次第に」

  「また一つ 悩みの種が 増えました パソコン変わり 自身喪失」

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shin-1さんの日記

○田舎のバス

 今日は大洲へ講演を頼まれて出かけました。余裕を持って1時間半も前に家を出たため、ゆっくりと車を走らせました。そのうち私の車の後に車が何台も並んで走るようになりました。気になって前を見ると私の前にも6~7台並んでいてその前を一台のバスが制限速度で走っていました。やがて追い越し禁止区間が解除されると私の前の車は一斉にスピードを上げてバスを追い越し、私の後の車も全て私の車とバスを追い越して行きました。よく見るとこのバスは海岸線を走る路線バスなのです。バスの後ろについて走りながらバスの中をうかがいましたが、バスの中には乗客らしい人の姿は見つけることが出来ませんでした。乗客が一人もいなくても走らさなければならないのが路線バスの宿命です。普通の人だとこの光景を見て「何と無駄なことか」と思うのですが、路線バスは各地にある停留所に乗客のいないことを確かめるように速度を落としながら走っていました。

 田舎の人、特に車の運転が出来ず交通手段を持たないお年寄りにとっては、バスや列車は唯一の交通手段なのです。そのため乗客が乗らなくて赤字だからとバス運行廃止をバス会社は提案をします。すると地元民からは唯一の交通手段をなくさないようにと行政に陳情し、行政もそれではと何がしかの予算を組んでバス会社に補助金を出し運行できるよう働きかけて、減便に減便を重ねながらもどうにか走らせているのです。

 乗客が殆どいないのにバスを走らせている光景は田舎ではよく見かけます。しかし実態と合わない部分も多く、最近では市町村が独自で周回ルートをつくり、手を挙げれば乗れる過疎バスを走らせて効果を挙げている地域もあるようです。こんな住民のためのバスは過疎地だけかと思えば、松前町のような公共交通機関が発達している地域でもバス会社と提携してバスを走らせていて、面白い試みだと感心しました。

 「♭田舎のバスはおんぼろ車 タイヤはキズだらけ~」なんて歌が昔あって面白おかしく唄ったような記憶があります。ボンネットバスが田舎の砂利道を砂塵を巻き上げて走る長閑な姿はもう昔の出来事、まさに宮崎峻の世界なのかも知れません。このままだと田舎のバスは遅かれ早かれ地方の街や村から姿を消すでしょうし、それもやむを得ない出来事として受け入れなければなりません。バス会社の赤字経営に対する苦悩と行政の財政事情による経費節減とを一気に解消する妙案は中々見つかりそうもないのです。

 先日北海道伊達市のまちづくりへの挑戦をテーマにしたビデオを、限界集落の勉強会で見ました。市町村合併によってまちづくりの方向を見失っている市町村が多い中で、伊達市は定住人口の増加を目指して地道な取り組みがされていました。また2地域居住という全く新しい発想で地域づくりをしている事例もとても参考になりました。手をこまねくだけでなく、合併して3年余りが経ったのですから、もうそろそろ新しい独自の色を出さないと、後ろ向き行政だけでは地域住民に合併のメリットを説明できないのです。

 先日、何の用もないのにバスではなかったのですが思い切って上灘から長浜まで列車に乗ってみました。列車の車窓から見える海辺の景色は子どもの頃の原風景を蘇えらせてくれました。しかしその列車の行き着いた長浜では長い時間待ちがあって、そこから先への旅は残念ながら諦め、再び折り返しの列車に乗って帰って来ました。顔見知りの人が何人か乗っていて、「久しぶりだが元気ですか」「何処へ行ったの」「何しに行ったの」と矢継ぎ早の質問です。「はい別に用はないのですが気分転換に乗ってみました」といったら、「あんたも退職したので相当暇なのですね」と呆れた言葉が帰って来ました。

 別名「病院列車」「爺婆列車」と揶揄されるだけのことはあるなあと自分自身を納得させました。折角廃線の憂目から救った予讃線海岸周りの列車ですから、そろそろ廃線?という言葉が出る前に、行政も住民もことの重大さに気付いて守る運動を始めて欲しいと、「気づかないふりをしている人たち」に物申したいと思いこの記事を書いてみました。

  「乗客の 姿も見えぬ 路線バス ノロノロ車 従え走る」

  「バス廃止 絶対反対 言うけれど 乗らぬバスなど 必要でなし」

  「存続を するため駅で コンサート 残った残った 今に残らず」

  「また一つ 田舎の不便 増えるかも 赤字経営 財政難で」

 

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shin-1さんの日記

○小さな贅沢

 午前中から午後にかけて人間牧場の今夏最後の草刈りにいどみました。一昨日あたりから天気が秋に転じたのか、炎天下は暑いものの木陰を吹く風は涼しく、草刈機の給油の度に水平線の家のウッドデッキに、大の字になって寝そべり空を見上げると真っ白い雲が真っ青な空をゆっくりと流れ、ついウトウトしました。それでも夏の水不足のせいか草は柔らかく草刈機の刃にまとわり付いて切れが悪く、かなり苦労しましたが、やっと綺麗に全てを刈り終わり、秋を迎える準備が出来ました。

 昨夕は広島・岡山と650キロも走った旅の疲れもあるし、久しぶりに風呂に行こうと妻が誘うものですから、大洲の嵯峨野の湯へ行きました。妻は友人たち数人と高校野球の優勝予想の当てやいこをしたそうですが、素人で高校野球も分らないのに見事的中したそうで、その景品として風呂券を二枚貰ったらしくご機嫌に、「お父さん今日は私のおごりよ」と風呂券は500円以下だというのに何と気前のいいことでしょう。「じゃあ行くか」と妻は仕事から帰って直ぐに親父の夕食を作って持って行き、「直ぐに帰るがちょっと出かけてくる」と言い残し午後5時に家を出ました。

 普通松山へ行く上りの道は見慣れた光景ですが、大洲や八幡浜へ向って走るとダントツに車の数も少なく、何処か田舎の風情を感じ少し落ち着いた気持ちになります。それは妻も同じで、一緒の屋根の下で毎日毎日暮らしながら、会話の少なくなりつつある年齢に達すると、こうでもしないと中々会話の機会が少ないことにも気付きました。今は昔のように会話で喧嘩することや衝突することも殆どなくなりましたが、久しぶりに会話が弾んだドライブでした。

 嵯峨野の温泉で約1時間余りを過ごしました。これほど離れている場所の温泉なのに知り人は結構いるもので、「若松さんではありませんか?」「今日は何しに来られました?」「あなたは退職されたそうですが今は何をしていますか?」「この間伊予銀の雑誌であなた人間牧場の紹介記事を読みました。人間牧場へ行くのにはどうすればいいですか?」と質問攻めにあう始末で、オチオチ温泉にもこれないなあと苦笑してしまいました。

 温泉を出た所に嵯峨野というレストランがあります。ここで食事をすると温泉の割引券がもらえることを妻は知っていて、ここで夕食を食べようという話になりました。最近私たち夫婦は別々の物を頼みます。そして二人で半分ずつ食べ合いするのです。食べる量の少なくなった私たちの苦肉の策で、こうすれば少量他品目を楽しめるのです。私は蕎麦とうな重のセット、妻は蕎麦とお鮨のセットを注文し、海草サラダを一品加えました。やがて料理が運ばれ贅沢にも豪華な料理に舌鼓を打ちました。毎日三度の料理を作り、毎日三度の片づけをしなければならない妻にとっての外食の魅力は上げ膳下げ膳なのです。私も妻も外食が嫌いで余程のことがない限り余り出かけませんが、それでもささやかで小さな贅沢に満足、満腹の夕食でした。

 私たちの食事は子どもがそれぞれ独立したため、栄養過多となるような肉類が陰を潜め、海の町らしく魚と野菜中心の食事に変化しました。私の胆のう摘出手術の影響もあって脂肪分の少ない食事に切り替わったのです。お陰で少し痩せ気味の私も、少し肥え気味の妻も体重的にはベストコンディションに近付きつつあるようです。この上は健康によいものを食べることは勿論ですが、たまには妻の労働軽減も考えて外食も悪くはないと思いました。

 昨日は聞こえは悪いのですが、結局妻の当てやいこで貰った風呂券が元手の散財となりました。妻が「お父さん今度はお父さんの番よ」と、暗に私の小遣いからのおごりを期待しているようです。私の財布はいつも妻が管理をして入れてくれているので、私のお金ではないので、「ああいつでもいいよ」とやり返しました。まあ犬も食わない夫婦の話をしてしまいましたが、こんなささやかな幸せをこれからも追い求めて行くことが、本当の幸せなのかも知れません。

  「儲けたと 得意げになる 妻の弁 風呂券二枚で 鬼の首取る」

  「ささやかな 食事を二人 分け合って 食べる幸せ これも幸せ」

  「湯に浸かる 壁の向こうの 妻思う トドの入浴 似ているような」

  「温泉と 食事セットの むつまじさ 久しぶりだな こんなのんびり」 

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